九 凧

 仁(ひとし)のスマートフォンから呼び出しのメロディーが流れた。

 石川祥馬(しょうま)からだ。

 通話前に仁は見当がついた。

 迷子だ。


 狩宿(かりやど)市の中央商店街は、名ばかり商店街だ。

 中央を冠するが市内で一番賑わっているのは駅東商店街で、駅西の再開発が終われば駅西商店街が新たに誕生する。

 かつて、狩宿駅近傍で最も活気に溢れた中央商店街は、大企業の従業員の動線から完全にはずれた。

 バブル期までは、駅への帰路で多少の遠回りだが、労働者は中央商店街で疲れを癒やした。

 バブルが弾けて駅前の土地が次々と手放されるに伴い、地主救済という裏事情とグローバルカンパニーを三社も抱える狩宿市の玄関、世界に対する狩宿市の顔として、駅東地区の再開発が十年がかりで進められた。

 結果、全国展開する話題の飲食店が揃う商店街となり、魅力度が一気にアップした。

 流行を取り入れて進化する駅前の商店街に対して、戦前からの老舗も残る中央商店街は時代の変化に置き去りにされた。

 歩道の拡幅、アーケード化などインフラ整備しているが、店主の高齢化による廃業で空き店舗も目立ってきた。

 四十年前に整備した駐車場は、当時としては広々としたが、その後の車のサイズアップで手狭になった。特に出入り口は慣れた人でないと分かりにくい。

 仁だって最初は駐車場が分からなかった。


 普段は日本人が開発したSNS、アークで連絡する翔馬が、電話するほどの緊急事態といったら、約束の時刻が迫った今なら迷子だ。

「駐車場を越えてしまったので脇道に入ったら迷子になってしまって」

「目の前に何が見える?」

 仁は小走りに四分、駐車場を越えた二つ目の曲がり角を右に曲がり、車一台分の道幅の裏通りを三十秒走って、祥馬の車を見つけた。

「ナビだと大丈夫そうな道だったので」

「ナビの限界だな。

 走っていい道と走るべきじゃない道の区別をつけられないから。

 久しぶり、石川」

「こちらこそ、先輩。

 狩宿市下町キャンパスの発足、おめでとうございます」

 仁の誘導で車を走らせながら、祥馬は仁を祝福した。

「ここまで落ちたかって、か?」

「まさか。この下町キャンパス、僕を入れてくれませんか?」

 祥馬のせっかちさが気になった。

「まあ、ゆっくり話し合おうや」

 コンビニ居抜きの事務所に入ると、祥馬はゆっくりと頭を上下左右にゆっくりを回した。

 がっかりしたかな、と仁は思った。


「これがキャンパスの実体だ。驚いただろ」

「いえ、僕はもっと古い店屋を想像していたんで、コンビニ跡で驚いていたんです。

 結構きれいじゃないか、って」

「ここは下町キャンパスの管理棟ってところかな。

 大学でいえば事務局のようなものだ。

 研究室となると、いよいよ古い店屋になる」

「例えば?」

「向かいのシャッターが降りている店は廃業したんだけど、時計屋だった。

 第一号はあそこになると思う」

「僕はどこになりますか?」

「本気か?」

「はい」

「もし、今日決めたなら、石川のラボはあの時計屋になる」

「僕が、1号ですか?」


「だから、よく考えろって。

 当事者の僕がいうのも何だが、石川のような学位を持った人材がいる場所じゃないと思う」

 博士号を持つ前途ある若者がこんな場末にいていいはずがない。

 それが自分の後輩となれば尚更だ。

「決めました。当分、ここにいます」

 石川って即断即決タイプだっけ?

 こんなに決断の早い祥馬を見たことがない。

「石川のことだ。

 十分考えてのことだろうけど、当分なら、いいか」


 祥馬はここにいるべきでないと仁は思うが、入居第一号の実績をつくりたい。

 仁は祥馬をここに誘うのに躊躇していたが、祥馬の強い意志とあれば断るのも憚られる。

 入居第一号は仁の手柄になった。

 飯島も祥馬の入居を喜んだ。

 安堵したというのが正直なところだろうと仁は想像する。


 飯島はこれはと思う商工会議所の会員企業に声を掛けたが、色よい返事がないことに焦っていたからだ。

 国や県との連携事業である。入居者が集まりませんでした、では済まない。

 いざとなれば書類を誤魔化して目的外の入居も覚悟していただけに、開所式前の入居第一号の誕生は会員企業に再考を促す材料になる。

 入居希望者を待っているだけでは埋まらない。

 会員企業に拘らず、また、狩宿市に拘らず、広く入居者を募集する必要がある。

 開拓営業の担当者が必要になった。


 飯島は、このような経緯を彩智(さち)に説明した。

「あの、名古屋の企業を勧誘してもいいのですか?

 私、そんなリストを持っていますので」

 意表を突く質問に飯島の反応は五秒の間が空いた。

「もちろんです。

 県のお金、つまり税金も使われているのです。

 名古屋といわず、愛知県内の企業、いえ、これから起業する人も歓迎です」

 飯島は、内心ほくそ笑んだ。

 案外、彼女は掘り出しものかもしれない。


 臨時職員に応募してきたのは五人だ。

 更に、商工会議所との取引が長いテレマーケティング会社からは、指定された圏内全ての企業に電話で勧誘するという提案を出してきた。

 数打てば当たるのだろうが、見積額は正規の職員五人月の人件費に相当する。

 大幅値引きした商工会議所価格との触れ込みだ。

 この事業では入居者募集費用も計上できる。

 それを見透かしての提案なのだが、テレマーケティングが有効な方法なのか疑わしい。

 ダイレクトメールの方が有効だとか、他所の諸高校会議所の会報や近隣市の広報でアピールした方が有効だとか、聞く。

 そんな声もあって、答を保留していたが、彼女が働いてくれるなら、他の応募者やテレマーケティング会社に断りの連絡を入れよう。

 こうして彩智が採用された。


 祥馬は、入居者第一号として飯島だけでなく、商工会議所の事務長や会頭からも期待していると祝福され、意気揚々としていた。

 そんな祥馬が作った中部局に提出する研究開発予算申請書を見て、仁は驚いた。

「凧?」

「はい。ローテクだと笑ってるでしょ?」

「笑ってないよ。面白いと思ったんだ」

 下町キャンパスと凧の組み合わせ、そのギャップが面白かった。

 一方で、凧ののどかなイメージと中心街から少し走れば田畑の残る地方都市との組み合わせは、案外、相性がいいという見方もできた。

「空力?姿勢制御?力学系の理論は(専攻じゃないから)わからんけど、いわんとしてることは何となく分かる」

「ありがとうございます。

 凧はモーターやエンジンといった動力源を必要としないんですよ。

 風がある限り宙に浮くんです。

 そして、気流が止まる完全な無風状態ってないんです。

 下降気流以外なら常に空に浮かんでいられるんですよ」


「アドバルーンみないな話だな」

「アドバルーンは気体を使うでしょ。

 ヘリウムとか、水素とか。

 凧は使わないから安上がりなんです」

「凧って風に流されるだろ?

 そもそも風に乗って浮かぶものだ。」

「それを制御するんです」

「ふーん。楽しみだな」


 理系の仁がよく分からないというので飯島も理解しようとは思わないが、それでも凧が研究テーマということに落胆した。

 世間体が良くないからだ。

「キャド(CAD)とか、マシニングセンター(MC)とかのテーマの方がいいんじゃないですか?」

 飯島の認識では、自動車産業城下町としてCADやMCの、より高度な技術の方が地場産業への貢献度が高い。

「飯島さん、石川君の専門は流体力学、特に気体、なんですよ。

 いわゆる空力。

 自動車ではボディー設計に深く関係するんですが」

「ああ、テレビで見たことあるね。

 煙で気流の流れを調べるやつだろ?」

「それです。煙を使ったりして目に見えるようにすることを可視化というんですけどね」

「可視化ね。

 文系人間にとっては理系の人の常識が最先端の科学技術に聞こえてしまう」

「お互い様ですよ。

 僕は経理を知らないし、営業の人達のような人心掌握もできないし」


 まんざら謙遜という訳でもないと飯島は受け止めた。

 仁は人当たりは悪くないが、人あしらいが下手だ。

 だからこそ、この話はグッドニュースだ。

「そうそう、その話をしに来たんだ。

 営業の助っ人が来てくれることになったので。

 相原彩智さんという若い女性が入居企業を開拓してくれるんだ」

「それは助かります。下町キャンパスっていいながら石川君だけでは体裁が悪いので」

「ちなみに彼女、独身だよ」

「へぇ、期待できますね」


 玉に瑕と飯島は思う。こういう場面では、仁は中途半端な反応をするからだ。

 へぇ、は冷めた反応。

 それでは場を崩すと悟って、取り繕うように、期待できますね、と付け加えたのだが、言い方が棒読みだ。感情がこもってない。

「平野さん、ノリが悪いね!」

 こう言いつつも、飯島は仁の性格を把握してきた。

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