第41話 恋と愛の距離 そして彼が来る

ようやく帰り着いた、マクヴェスの屋敷。


 旅の疲れか(ただ馬車に揺られていただけだが)、帰り着いてすぐに食事をすることもなく眠ってしまった。


 翌日は朝早く目覚めて、それから頭をぼんやりさせながらもようやく帰ってきたのだ、としみじみ思った。

 見回しても、王宮の調度と比べると地味な印象ではあるけれど、ほっと出来る。

 いつの間にか、イングリットの居場所はこの屋敷の自分の部屋、ということになっていた。


 それから窓を開け、澄んだ空気を取り入れる。

 こうして窓から見える景色が見渡す限り、森というのもとても久しぶりだし、嬉しい。


 もちろん宮廷の手入れの行き届いた庭も素晴らしいとは思うけれど、

 自分のような粗忽者そこつものには、原生林というのか、自然のあるがままに枝を伸ばし、葉を茂らせたこの森こそ、しっくりくるし、ぴったりくるのだと思った。

 この場所を離れて、初めてその素晴らしさに気づく、と言えば良いのだろうか。


 マクヴェスはいつものように柔軟をしてから、ジョギングに出た。


 木漏れ日を通した差し込む、日射しや、枝をせかせかと行きつ戻りつするリス、木々の向こうで跳ねる鹿――。


 この森ではありふれた光景の一つ一つに喜びを覚える。


 たっぷり一時間は走っただろうか。

 時間を忘れて、自然の風や日射し、緑の青々とした匂いを楽しめば、その程度の時間はあっという間に経ってしまう。


 水浴びをし、衣服を整えて、階下へ下りる。

 そして美味しい香りにつられるように食堂へ下りれば、テーブルには出来立ての朝食が並んでいた。


 目玉焼きにロールパン、野菜サラダに肉のスープ。


 シンプルだが、


 そして食堂には、マクヴェスがいて、料理を作ったロシェルがいる。


「マクヴェス、ロシェル。おはよう」


 ロシェルが恭しく頭を下げる。

「おはようございます、奥様」


 奥様。

 覚えのない単語の意味に気づき、イングリットはたちまち顔を真っ赤にしてしまう。

「ちょっ……!

ろ、ロシェル、何よそれ。

からかっているの?」


 席に着いていたマクヴェスが微笑む。

「からかい?

間違ってはいないだろう。

また婚姻の儀式を上げてはいないが、お前は俺の告白を受け容れた。

俺の妻だ。

そうだろう」


「そ、そうだろうって……」


「違うのか?」


「……いや、そういうことじゃ、な、ないけど……」


「だって、その……急に……違和感っていうか……。

そんな言葉一つで、全てが変われなんて、無理っていうか」

 イングリットはもごもごと呟く。


 何せ、これまで色恋とは全く無塩の生活を送り続けてきたのだ。

 周りが恋愛をする時期に剣を振り、逢瀬に使う時間を泥にまみれたのだ。

 突然、王族の妻にと言われて、はいそうですかとうなずけない。


「まあいい。座れ。

食事が冷める」


「そ、そうね」


 イングリットは席に着き、食事がはじまる。

 スープを飲むと、やっぱりこれ、なんていうことを思う。


「宮廷で食べる食事も良いけど、私はロシェルの料理が最高だと思うわ」


「御粗末様でございます」


「マクヴェスはどう?

久しぶりにロシェルの料理は食べるでしょ?」


 厚い肉を食らうマクヴェスはうなずく。

「そうだな。

ロシェルは俺達の好みを知り尽くしているからな。

その時々の気分や体調によって味を変えるからな」


「お疲れと思いまして今日は全体的に味を濃いめにしておきました」


「そっか。

調度良いわ。ありがとう」


「いいえ、奥方様」


 食事を取る手がぎこちなくなる。

「……だ、だから、その呼び方は」


 マクヴェスが微笑ましそうに言う。

「今から馴れておけ。

これからは嫌というほどそう呼ばれることになるのだからな」


「それは……うん」


 ロシェルが言う。

「イングリット様」


「うん、それで良いわ。

何?」


「長旅の疲れは取れましたか?

到着した頃は、そのまま部屋に入ったまま出てこられませんで、大変心配をいたしましたので」


「あ、ごめんなさい。

あの後、ベッドの上で」


「知っている。

俺が入ったら大イビキをかいて、だらしなく大口を開けて眠っていて、」


「嘘!?

っていうか、入ったの!

れ、レディーの部屋に!?」


「良いだろう。心配だったんだぞ。

それに、俺が入ってはいけないのか?」


「……う。

だ、だけど、そんな恥ずかしい姿を見るのは、色々駄目だっ!」

 耳まで真っ赤にする。


「冗談だ」


「じょっ……!?」


 マクヴェスはまた笑う。

「お前は本当に良いな。表情をクルクルと変える。

お前ほど見ていて飽きない奴はいないぞ」


「……私は、元々硬派なんだ」


「そうかそうか。

まあ、それは良いがな。

本当は、子どものように幸せそうな顔をして、無防備に眠っていたぞ。

いつまでも見ていたいほどにな」


「……そ、そう」


 自分の顔を穴が空くほど覗き込むマクヴェスのことを考えると、それはそれで羞恥心がとんでもない。


「マクヴェスたちは疲れなかったの?」


「まあな。あの程度、別にどうということはない」


「すごい。

その体力を私にも分けて欲しいよ」


「お前がもっと体力があったら、体力がありすぎるぞ」


「失礼ね」


 イングリットがいじけて唇を尖らせれば、再び朝食の席は笑いに包まれた。


 朝食が終わると、マクヴェスに呼ばれた。

「来てくれ」


「どうしたの?」


 イングリットが廊下を進みながら言う。

「……ロシェルには重たい、と言われたのだがな」


「重たい?

荷物運び? 手伝うけど」


 マクヴェスは苦笑する。

「違う。

ここだ」


「ここ?

あ……」


 マクヴェスが扉を開ける。

 その部屋には、マクヴェスの母、キャルロットの肖像画、そしてマクヴェス自身が今も欠かさず生けているジャスミンがある。

 ここはキャルロットの部屋だ。


「ここが、どうしたの?」


「お前の部屋にしたい」


「え」


「このまま誰も住まぬより、ここを、お前に、な。

もちろん肖像画や他の調度品は他の部屋に移す。

お前の色に変えてくれて構わない。どうだろうか」


「ど、どうって……そんな、私なんかの為に」


「お前の為だからこそ……だ。

俺はお前という共に生きていく伴侶を見つけられた。

母も、いつまでもこんな図体のでかい息子につきまとわれても、天国で苦笑いしているだろうと思ったんだ。

それからこの案が駄目ならもう一つ」


「他の案?」


「俺と同衾どうきんだ」


「同衾って……

一緒に寝るっていうこと!」


「そうだ」


(その二択何!?)


 すごい二択だ。

 どちらも、今のイングリットからすれば過酷だ。


「何て言う顔をしているんだ。

俺たちは夫婦になるんだ。何もおかしいことはないだろう。

子どものこともある。

いつまでも別々の部屋というのはおかしいだろう。

それともあれか。お前は男にかしづかれたいか?

それならそれで構わない。

俺がお前の部屋へ通おう――」


「ちょっと」


「嫌か?

だったら、睦み合う為の部屋で毎晩……」


(毎晩!?

っていうか、そこじゃなくって)


「待って!

マクヴェス! 待ってっ!!」


 マクヴェスが怪訝そうな顔をした。

「何だ?」


「何だ、じゃない!

お前、進みすぎた!」

 今、自分はどれほど赤面しているのだろうか。

 今だけは鏡を見たくないと強く思った。


 マクヴェスは不可解な顔をする。

「進みすぎ?

どういうことだ。意味がわからないぞ」


「分からないのはこっちだ!

わ、私は確かにお前の気持ちに……答えた!

でも、それはいきなり結婚とか、ど、同衾であるとか、そういう意味じゃない!

その、少しずつ、愛を育んでいくとか……そういうこと、だろっ!?

その段階を何段もいきなりすっ飛ばしすぎだっ!

キャルロット様からそういうことは聞いていないのだ」


 難しい顔をしていたと思ったら、マクヴェスははっとした顔をする。

「母上は、あの男が自分の流儀を押しつけてこようとしたので、殴りつけた。拳で……と言ったことがあったな」


(拳? それはやり過ぎだ……けど)

「そ、そういうものよ。

人間の世界では無礼な恋人に、鉄拳を振るう風習があるの。

そういう細かい流儀が、人間煮はあるのっ」

(キャルロット様! 利用するような形ですみません!)

 心の中で手を合わせる。


 それともかく、このマクヴェスの扱いは獣人はみんなそうなのか。

 それとも王族だからなのか。

 その両方なのか……。


「良い?

恋愛は少しずつ。焦るなよ。私は消えたりしない。

あなたとずっといるんだから」

(あれ? 私、今?)


 さらりとすごいことを言ってしまったような気がしないでもないが。


「そうか、焦っていたのかもな

……まあ、少し考える。人間流、というのも面白そうだ。

何せ、お前はずっといるんだからな」

 マクヴェスは言質げんちを握りしめて話さないとばかりに言う。


 そこに、ロシェルが「失礼いたします」と声をかけてくる。


 イングリットは逃げ場を見つけたと言わんばかりに「どうしたの?」と聞けば。


「お客様でございます」


 マクヴェスとイングリットは顔を見合わせ、ロシェルに続いて玄関へ赴けば。


「マクヴェス殿下、イングリット。

お久しぶりでございます」


 そこにいたのは。


「アスコット……?

ど、どうして?」


 アスコットは爽やかな微笑んだ。

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