第8話 恋愛参観(自習編)

「――というわけなんだ」


 イングリットは館に帰った翌日、いつものように台所で朝食の準備にかかっているロシェルにこれまで起こったことをかいつまんで話した。


 思わぬ幕切れをした決闘。


 しかし思わぬ形で現れる次なる難題。


「そうだったんですか。一難去ってまた一難というやつですね」


 ロシェルは得心とくしん顔をする。


 もっと早く相談したかったのだが、身勝手に試験官気取りで押しかけたフォルスの登場によってどたばたして相談もままならなかったのだ。


 実際、あれからまともにマクヴェスと会えていない。


「ですが、相談するのは私ではない、と思うのですが」


「……なかなか、フォルス《あいつ》がマクヴェスから離れてくれないものだから……。チャンスもへったくれもないんだ」


 はぁ、と溜息がついついでてしまう。


「フォルス様はお兄さん子ですから」


「ま、何となく分かるけど」


 傍から見ると、ガタイの大きなフォルスがマクヴェスを襲っているようにしか見えない。


「どうしたらいいと思う?」


「どうしたら……というのは?」


「だからさー、フォルスを納得させて帰す方法だよ」


「それは……恋人であると認めさせることしかないと思われますけれど」


「だよなー……」


 イングリットは腕を組んだまま天を仰ぐ。


(恋人……か)


 これまでイングリットは父の期待を一身に背負い、男として育ってきた。


 学校時代には男装して通っていたほどで、女性の琴線に触れても、男性との縁はなかったし、イングリット自身、色恋にうつつをぬかしていることなど頭には一切、なかったくらいだ。


 それらしい体験といえば、


 昨夜の……。


“イングリットは俺の女だ”


 抱き寄せられたことの記憶が脳裏をめぐる。


(マクヴェスの手、ごつごつして、大きかった……)


 見ただけでは男にしては綺麗な手をしていると思った。


 指が長くて、艶々、していて、


 それでも強い力で抱き寄せたその指先はたくましく。


 思わず脇腹に手を添えてしまう。


 なんだか、今もまだここに彼の手があるかのように思えてならない。


「…………」


 思い出しただけで、心臓がうるさくなってくるし、頬がウズウズしてくる。


(ど、どうしたんだよ……なんだよ、これ……っ)


「――……」


(運動なんてしてないのに……きゅ、急に……)


「イングリット様」


「ヘッ!?」


 我に返ると、ロシェルが顔をのぞき込んできた。


「な、何……っ?」


「大丈夫ですか? なんだか、ぼーっとされていたようですが……」


「ぜんぜん、ぜんっ、ぜん、問題ないからっ!」


 手をばたばたさせると、ますますロシェルの頭には疑問符がプカプカ浮かんだ。


「はあ、そうですか」


「そうだよ、そうそう!」


「……申し訳ございません。できれば、イングリット様にご協力したいのは山々なのですが、いかんせん私は色恋とはこれまで縁がなかったもので……、参考になることを申し上げることはできそうにありません」


「いや、謝らなくてもいいよ。やっぱり、マクヴェスと話をしたほうがいいよね」


「それしかないと思います」


 そうなると、今度はフォルスとマクヴェスを引き離す必要が出てくる……。


 それはそれで厄介そうだ。第一、あいつが自主的に二人きりにしてくれるとは思えない。


「な、なあ」


「はい?」


「マクヴェスは、恋人って……いるの」


「いらっしゃいません」


「そう……」


 なぜか、安心してしまう。


 いや、よくよく考えれば、恋人がいて、イングリットを一つ屋根の下においておくはずもないか。


「あ、そうです」


 ロシェルの声がかすかに明るみを帯びた。


「何か思いついたのっ」


「図書室にある恋愛小説などをお読みになれば、何かしらヒントがあるかもしれません」


「ここ、図書室もあるの?」


「ええ。かなり蔵書数はございますから。二階の北側に」


「でも、獣人族の本なんて人間が読めるの?」


「大丈夫ですよ、翻訳物もございますし、それに人間の著書もたくさんあるはずし」


「そっか、じゃあ、行ってみるよ。――ごめん、仕事てつだえなくって」


「いえいえ。イングリット様、がんばってくださいね。陰ひなたに応援しております」


「ありがとうっ」


 台所を辞して、早速駆け足で階段を上がって図書室へ。


「本当だ」


 プレートをしげしげと見て、扉を開ける。


 だいたい室内は二つの空間にわけられている。


 入り口側の近い場所に机と椅子の読書スペース、その奥にいくつもの棚が並び、本がぎっしりと積まれている。


 さらに螺旋階段を挟んで吹き抜けになっている二階にも。


 本の日焼けを防ぐためか、しっかりと閉められた遮光しゃこうカーテンを開ける。


 日差しのまぶしさに思わず、目を細める。


(それにしても、まさかこうして勉強することになるなんて)


 これまで実技は得意でも勉強面ではなかなか苦労した経験しかないイングリットである。


 図書室とは無縁な生活を送ってきた。


 棚には大まかにだが、分類が分けられてる。


 歴史、文学、哲学、法律、経済……。


(ちゃんと読める言葉で書かれてる。本も……そうみたいだ……)


 むしろ、読めない本の方が少ないような印象を受ける。


(恋愛は……心理学ってのは……うーん……)


 分厚い本の背表紙の複雑な専門用語を見ているだけで回れ右をしたくなる。


(仕方がないか……文学……ラブストーリーを……)


 これまで恋愛なんてしたことも、しようと思ったこともないイングリット。


 しかし矛盾するようだが、恋愛の話に興味がないことも、なくはなかった。


 同級生たちがする恋人の打ち明け話や、面白いラブストーリーの小説について熱く語り合っているのを小耳に挟むと、ちょっと興味が湧きそうになった自分を必死に押し殺していた。


 ――そんなことをふと思い出す。


(あ、これ……)


 手を伸ばした本は、学生時代、確か同級生たちが話題にしていた本と同じ題名だった。


 砂漠の剣。


 それは、ここではないどこかの……という冒頭句ぼうとうくではじまる、砂漠の国の王と、そこに迷いこんだ女性の物語。


 男の名は、シャッルータ。


 女の名前は、アイリス。


 アイリスは王族でありながら婚約者のもとを逃げだし、他国へと逃げ込んだ。


 無限の荒野をいくアイリスはやがて力尽き、倒れてしまう。


 それを救ったのがシャッルータ。


 異国の女として周囲からさげすまれるアイリスを、しかしシャッルータは一人、守る。


 やがて恋に落ちる二人。


(まさか、そんな簡単に恋になるはずがないよー……。まだちょっと話し合っただけじゃん)


 そんなツッコミを内心しつつ、読み続ける。


 アイリスを狙う盗賊を倒し、二人の距離はじょじょに近づいていく。


 月夜の綺麗な晩、オアシスで二人はひそかに会う。


 昼間の肌の焼けるような熱が消え、凍えるような寒さが、人肌を求める心地にさせる。


 二人の姿を見つめるのは、天上で煌々ときらめく、磨かれた針のような三日月だけ……。


(ホント、都合良く書かれてるなぁ。

第一、王がこんな自由に動き回れるはずがないだろう。そもそも護衛は一体、何をやってるんだよ。我が国だったらそんなやつ、クビだ、クビ……!)


 互いの体温を感じ会あいたいように、二人は距離を縮める。


 惹ひかれるのではなく、導かれるように。


 シャッルータの指先がアイリスの美しいブロンドをかきあげ、形の良い耳の縁をそっとなぞる。


「ん……」


 アイリスがかすかな吐息を漏らす。


 互いの吐息を、深く、はっきり感じる。


 二人はそっと唇を重ねる。


 唇を……、


(くちびる……キスは、恋愛……?)


 イングリットの目は文字をすべり、そっと自分の唇に触れる。


 しなやかに見える指先、でも、それは本当は……男らしく、たくましく……。


 “イングリットは俺の女だ”


「…………っ!」


 はっとして立ち上がった。その勢いに椅子がばたんと倒れる。


「こんな小説じゃ、ぜんぜん、意味ないよ……そうさ、い、意味ない……っ!」


 勢いよく本を閉じる。


 まるでその場にいる誰かに言い訳をするかのように大声をあげる。


 そのあと、言葉を吸い込んでしまう沈黙がやけに耳に痛かった。


(も、もう、なんだよ)


 なんだか訳がわからないまま、息が上がってしまう――。


 イングリットは逃げるように図書室を飛び出した。


                         ■■


「――で、お前はいつまでここにいるつもりなんだ?」


 書斎で、マクヴェスとフォルスはテーブルを隔てて向き合っていた。


「言っただろう、女狐に囚われた兄貴の心を助けるまで、だ」


 フォルスは兄から視線をずらし、うそぶく。


「イングリットは人間だ、狐じゃない」


「そうだ、あいつは狐じゃない。木っ端民族と、崇高な獣人族とは決してまみえることは……」


 言葉が途切れ、すまない、とややトーンが落ちる。


「別に」


「……ともかく、同じ民族同士なら俺もこんな口うるさくは言ってない」


 絶対嘘だ、とマクヴェスは心の中で思う。


「兄貴の立場を俺は誰よりも考えてる。兄貴が王ならばともかく……」


 それにしても、とフォルスはふんぞりかえる。


「昨日は自分の女だと言っておきながら、あいつは現れないな」


「当たり前だろう、恋愛なんて忍んでやるもんだ。人にみせびらかすためにするもんじゃない」


「んなこと、知るか」


 いじけた子どもみたいにフォルスはそっぽを向いた。


「とにかく、もうすぐ朝食だから出て行け。いいか、俺とイングリットのことが知りたきゃこんなところでふんぞりかえってるな。少しは気をきかせて、二人きりにしろ」


 昨日、突然あんなことを言ってしまい、イングリットは今頃、どう思っているのか。


 それを早く彼女の口から聞いて欲しい。


 怒っているのなら弁解し、戸惑っているのならば説明し、何とも思っていないようならば……。


(それは、嫌だな)


 勢いであんなことを口走ったわけじゃない。


 そんなことを言えるほど、マクヴェスは女を求めてはいない。


 マクヴェスは本当に、イングリットのことを……。


「兄貴、どうした、急に黙って……」


「……何でもない」


 マクヴェスは背を向けた。

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