第7話 血に濡れる手

 イングリットは屋敷の裏手で剣を鞘から抜く。


 騎士に叙任した日、父・アイゼンから渡されたブラッドリー家に代々伝わる宝剣だ。


 これを自由に扱うようになることは騎士になるよりも大変だったかもしれない。


 最初は、父は鍛冶に言って女性でも持てるよう剣刃を軽くしようかと言ってきたが、断った。

 これを自由に使えてこそ、これまで女を捨てた努力の日々を終わらせられると思ったからだ。


 それに、父が子どもの頃こそイングリットを男として見てきたが、日々、女性的な丸みを帯びていくイングリットを前に、その心情が揺らいでいるのがはっきりと分かったからでもあった。


 父を失望させたくない。


 だからこそ、努力を続け、今では自分の身体の延長線上のように遣える自負がある。


 今までこれを血で煙らせたことはなかったが――。


(今日はそうはいかないよな)


 先ほど、フォルスの使者から日時を告げられた。


 時刻は今日の夕方、五時。あと、一刻(2時間)ほどのち。


「はぁっ!」


 気合い一閃、剣を振るった。


 空気を裂く音が静かに響く。


(体力はまだ復調したとは全然言えない……)


 つまり、迅速に勝負を決しなければいけない。


(できるか、あいつ相手に……?)


 フォルスの姿を思い浮かべる。


 ああ言うくらいだから、剣の腕前には自信があるはずだ。


 つまり、あいつの土俵である力勝負や持久戦の勝負にならないようにして、できうるかぎり、自分の土俵で……。


 イングリットが得意とするのはスピードを生かした攪乱戦で、勝負は一瞬。相手の不意をつく一撃でつけてきた。


 それが体力・筋力、供に男に劣る女の自分にできる戦い方だ。


(やるしかない)


 あれだけ騎士を侮辱されて引き下がるなどありえないのだから。


「――イングリット様」


「ロシェル」


 ロシェルは不安と心配のないまぜになった瞳で、見つめてくる。


「勝負は一刻のちに決まった」


「……勝負をやめることはできないんですか」


「できない。私だってやりたくてやる勝負じゃない……。でも、あれだけ挑発されたんだ。黙っているなんてできない」


「そう、ですか」


「マクヴェスにはうまく言い訳をしておいて。疲れて寝込んでる……は、心配させるだけか。ま、そのあたりは任せるよ」


「……はい」


「主人に嘘をつかせるような真似をさせて申し訳ないと思ってる。でも、何とかお願い」


 剣を鞘に収め、イングリットはにっこりと笑って近づいた。


「……分かりました」


「ありがとう。

――大丈夫。帰ったら私からマクヴェスに事情は話すから」


「いえ、そのことはどうでも良いんす。そんなことより決闘のことのほうが私は苦しいんです……。フォルス殿下は、人間に対して情け容赦を知らない方ですから」


「そうか……。相当、私のことが気に入らないみたいだからね。

それじゃ、いってきます」


「いってらっしゃいませ」


 ロシェルは顔を曇らせたままこうべを垂れた。


(少し早いけど……)


 フォルスのことだ。


 少しでも時間に遅れるようなことがあれば、またネチネチ言ってくるだろうことは想像に難くない。


 街道を歩いてしばらくすると路傍ろぼうにフォルスが乗ってきたやけに重厚感のある馬車があった。


 御者がイングリットに礼をする。


「道に不慣れなあたな様へ……と殿下が」


「……優しいな、決闘にお出迎えだなんて」


 皮肉を口の中で呟きつつ、屋敷を振り返った。


 マクヴェスは今日も大切な書類仕事だといって昼食以来、顔を合わせていない。


 決闘を控えているからそれは良かったのだけれど。


(やっぱり避けられてるのかな……)


 そんな不安がかすかに兆した。


                       ■■

 空が綺麗な茜色に染まる。


 マクベスは書き物机に頬杖をついたまま、ぼーっとそれを眺めていた。


(フォルスのやつ、案外、簡単に引き下がったな)


 もう少し粘りそうだったが、引き際はあっさりとしたものだったからかえって拍子抜けだった。


 あいつはとにかく、自分の意見を相手に呑ませるために、しつこく食い下がるのは昔からだった。


 子ども時代のことだが、小さい頃からフォルスは素直で、何でも信じてしまうようなことがあった。


 そのうち意地の悪い悪ガキが、空を飛ぶブタがいると告げ、フォルスはそれを探しに夜中、屋敷を抜け出し、ちょっとした騒ぎになった。


 フォルスはようやく騙されたことを知って謝るよう求めたが、悪ガキはいっこうに首を縦にはふらない。

 それからというものの顔を合わせては謝罪を要求し、それでも相手が頑として拒否すれば、やがて決闘をしろを言い出したのだ。

 相手はもノリで「いいぜ!」と承諾した。


 決闘に真剣を持ちだし、相手に斬りかかり――そこを大人たちが偶然、見つけて危うく大事にならずにすんだのだ。

 大人がとめてもフォルスは謝れと食ってかかりつづけたが、やがて相手が泣きべそをかいて謝ると、ようやく許した。

 それからというもの、フォルスには死んでも冗談を言うなという噂が流れたという。


 三つ子の魂百まで。


 今更、大人になったなんてことは正直、信じない。


 つまり、フォルスは何か考えがあるからこそあっさり引き下がったのだ。


(まあいい。あいつがこれ以上、突っかかってきてもはねのければすむことだ)


 決闘でも何でも受けてやる。


 マクヴェスはつぶやくと、扉がノックされた。


「夕飯の支度が調いました」


「分かった」


 マクヴェスは白紙の紙を残し、立ち上がった。

                        ■■

(綺麗な空だな……)


 馬車の窓からじっと空を見つめる。


 まるで群れを成している魚のような鱗雲が可愛らしかった。


(こんな日に決闘、か)


 ぼーっとしていると、馬車が停まった。


 そこはのっぱらで、すでに先客が待っていた。


 黒い上衣、脚衣。


 フォルスがじっとそこで静かにたたずんでいた。


「待たせたか?」


「いいや。……得物は?」


 イングリットは剣を見せる。


 フォルスもまた黒い配色に紅い蔦をイメージした文様の刻まれた剣を抜き出した。


「人間。

今からなら、許して欲しいと言えばやめてやってもいいし、望むなら、あの馬車で国境まで送り出してもいい」


「帰る時は自分の意思で帰る。

マクヴェスが言うならともかく、お前なんかに言われてすごすご逃げ帰るものかっ」


 攻撃的な視線をぶつけても、フォルスの表情はぴくりとも動かない。


「せっかく傷が癒えたというのに腕や脚の一本、なくなることになるかもしれないぞ」


「脅してやめさせるために決闘なんてものを持ち込んだのか。騎士は二言はないが、獣人は、そういうことをするのか?」


 フォルスは剣を抜く。

 剣の幅が広く、重厚感が見ていても分かる両刃。斬るよりも、叩き付けることに重点が置かれている。


 イングリットのは片刃の剣だ。フォルスの剣とくらべれば、細身でおもちゃのように非力に見える。


「いざっ」


 イングリットが構えるや、


「らああっ!」


 フォルスが雄叫びと供に、突っ込んできた。


                          ■■

 食堂へ行くと、長テーブルには自分の分しか食事がなかった。


「イングリットは?」


「イングリット様は少し具合が悪いと……」


「本当か!?」


 立ち上がると、ロシェルは慌てたようにやってきた。


「ま、マクヴェス様。ご心配には及びません。いえ、最近少し動きすぎたせいで疲れが残った、ということでして。少しお休みになられているだけですから」


「先生に連絡は?」


「それには及ばないとの仰せでしたので。あまり大事にされたくはないと思われたのかもしれません」


「そういえば、最近は体調を元に戻すといって走ったりしてたみたいだからな……」


「ええ。イングリット様は薪割りがとても鮮やかで。助かっています。

……イングリット様には消化の良い食事を届けましたので、ご安心を」


「そうか……」


「何か?」


「フォルスは帰ったんだったな」


「……はい」


 茶褐色の眼差しにじっと見つめられ、ロシェルは目を伏せる。


「やはり様子を」


「大丈夫ですので、本当に……」


「ロシェル、何を隠してる?」


「マクヴェス様に、隠し事だなんてそんなことは」


「ロシェル」


 少し強い力で、彼女の手を取り、じっと見つめる。


「言うんだ、イングリットは本当はどこだ。……いや、イングリットがいなくなったことと、フォルスは関係があるのか」


「……それは」


「言うんだ」


(イングリット様、申し訳ございません……)


 マクヴェスの気迫にもはや黙ってはいられなかった。


                       ■■

 日が落ち、薄墨を流したような夜空にはぽつぽつと星が輝きはじめている。


 二つの影が交錯しては離れ、また急激に肉薄する――。


 そのたびに剣同士のぶつかりあう甲高い音が響き、火花が散った。


「うぉぉぉっ!」


「……!?」


 フォルスの力強い一撃が空を引き裂き、前髪をかすめる。


 風圧を顔にあたりながら、イングリットは飛び退いた。


「どうした、さっきから逃げてばかりか。さっきの威勢はどこへいったっ」


 イングリットはかすかに息を切らしながら、再び対峙たいじする。


(こいつ、やっぱり強い……)


 かなりの手練れで、踏み込む隙を見つけられないでいた。


 その間にも、こうして動きつづけることで体力がどんどん削られている。


 しかしフォルス相手に、一か八かの手に打ってでることは危険だ。確実に狙える間合いを。


「はあああああああっ!」


 地面を蹴り、フォルスが斬りかかる。


 数瞬、動きが遅れ、剣先を回避できたが、脇腹に蹴りが飛んだ。


 それを回避できることなどできず、イングリットは地面を転がった。


 身体をくの字に折る。


 呼吸が乱れ、むせいだ。


「俺は決闘をといったんだ、人間。誰がおいかけっこをしたいと言った?」


 イングリットが顔をあげると、剣先が突きつけられる。


「所詮、この程度が騎士というのは……口ばかりの惰弱な人間だから仕方がないが」


(一矢を……報いなければ……)


 ギリッと奥歯を噛みしめる。


「おい。

人間ごときが獣人に逆らって申し訳ありません、私は愚かで憐れで、どうしようもないほど救いようがない恥知らずです、命だけは助けてください

……そう言えば、命だけは助けてやる」


「そんなことを言うくらいなら、死んだ方がましだっ!」。


(まだ動ける)


 先ほどの蹴りがかなり利いているが、なんとかまだ大丈夫だ。


(たとえ、腕一本と引き替えにしても)


 名誉のためなら死ねる。それが騎士だ。


 それを目の前の獣人に身をもって教える。


「りゃあああああああ!」


 声をあげ、地を蹴る。


 剣先は、フォルスの胸元。


 フォルスも同じタイミングで飛び出し、剣を大上段から一息に、イングリットの右の肩口めがけ振り下ろす。


 …………。


「…………」


「…………」


 イングリットの、いや、二人の目は驚きに見開かれる。


 互いが、相手を殺すつもりで繰り出した必殺の剣技は、どちらも相手に届かない。


「マクヴェス……?」


「兄貴……?」


 二人の剣は、割って入ったマクヴェスを止めていた。刃先を掴むことで。


「マクヴェス、血!」


 イングリットは剣を放り出すと、彼の手を握った。


 二人の必殺の剣技をそれぞれの手で受け止めたせいだろう、鮮血が腕を流れ、服の袖口を赤黒く色を変えている。


「どうして、こんな馬鹿なことをするんだっ!」


 フォルスがひどい剣幕をだしながら、その顔は今にも泣き出しそうだった。


 イングリットを左手を、フォルスが右手をつかんだ。


「平気だ、これくらい」


「良くないっ」


 夢中だった。イングリットは自分の服を引き裂き、巻き付けた。


 奇跡的に傷が浅かったのか、それともこれが獣人族の治癒力なのか、血の量にくらべて傷はそれほど深くはなかった。


「大丈夫……?」


「ありがとう」


 優しい笑顔を見せてくれる。


「……兄貴、どうしてこんな……」


 フォルスを、マクヴェスはにらみつけた。


「馬鹿をやめさせるためだ。――フォルス、イングリットは私の客人だ。勝手なことは許さない」


「人間に身の程を教えてやっただけだっ」


「――イングリットは俺の女だ」


(マクヴェス!? え、な、何言って……)


「え……?」


 腰を抱かれ、あっという間に抱き寄せられる。


 あまりにびっくりしたせいで、言葉が出てこない。


「兄貴……」


「これ以上、俺たちの邪魔をするならば、俺と決闘しろ。貴様の首を掻ききる……ッ」


(フォルスが、怯えてる……?)


 上背もガタイもフォルスのほうが上回っているというのに、マクヴェスに睨まれ、顔が青ざめているようだった。


 いや、兄にはっきり敵意を向けられ、動揺しているのだろうか……。


「……嘘だ」


「本当だ」


 マクヴェスがかき消すように言葉を重ねる。


 悔しそうにフォルスの顔が歪んだ。


「本当に……?」


「しつこいぞ」


「……分かった、それならお前たちの愛が本物か確かめてやるっ!

 駄目だと言っても無駄だぞ、俺は自分の目で見たものしか信じないからなっ!

どうせ、兄貴のことだ。世捨て人すぎて、そのクソ人間に惑わされているだけだっ!! その目を、俺が覚まさせてやる!!!」


 イングリットを睨み、


 いいな!と念を入れ、フォルスは馬車のほうへ駆けだしていった。


「やっぱりしつこいな」


「へ?」


「いや、こっちのことだ」


 やっぱりマクヴェスはイングリットの視線を受け止めてはくれない。


 それでも……。


「また、助けてもらっちゃった……。ありがとう……」


 マクヴェスは静かに首を横に振った。


「怪我は?」


「大丈夫」


「そうか。……良かった」


 心臓がとくんと鳴る。


 その無防備な笑顔に目が吸い寄せられる。


 さっきフォルスに脇腹を蹴られた時とは異なる、胸のつかえるような息苦しさに襲われてしまう。


「すまない、変なことを言ってしまって。――俺の女だなんて、身勝手なことを」


「……ううん、あれは、しょうがない……と思うから……。引き下がってくれたし。でも、見に来るって言ってたけど……」


「まあ、それはあとで考えよう。

もうじきここにロシェルが馬車を運んでくれる」


「でもどうしてここが分かったの? 場所まではロシェルは知らなかったはずなのに」


「ずいぶん前に、決闘があって、それもここで行われたから」


「マクヴェス。ロシェルのこと、怒らないで。私が黙っているよう無理にお願いをしたから」


「分かっている」


 自然な所作で、頭をそっと撫でられる。


(マクヴェス……)


 と、風にざわめく森のシルエットの中、ランタンの明かりと牧歌的な馬の蹄の音が聞こえてきた。


「ろ、ロシェルーっ!」


 どうしていいか分からない空気を逃れられると、イングリットは必要以上に大げさに手をブンブン!と力強く振った。

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