第6話 似てない兄弟
「はーっ……」
イングリットは息を吹きかけ、廊下に置かれている壺を磨いていた。
時刻は午後一時。
いつものようにロシェルの手伝いで、掃除の真っ最中だ。
それと並行へいこうして身体も少しずつ絞っている。
朝のメニューはだいたい領内のマラソンを半刻(1時間)ほど。休むことなくそれから腕立て、森の木々に脚をひっかけて腹筋に懸垂……等々。
それらのメニューをこなし、身体を洗って、それから朝食。
そのあとはこうしてお手伝いだ。
さすがに細かい作業は出来ないが、こういうざっくりとした窓磨きや塵ちり取り、薪割りなんかの力仕事であれば出来る。
「――ロシェル、廊下、終わったよ」
ロシェルのいる部屋に入る。
「ご苦労様です。こちらももうすぐ終わりです」
入った部屋は他の客間よりもかなり広々として、おかれている調度品も客間よりも――審美眼のないイングリットですら高級品と一目みて分かる――さらに高級で、日当たりも申し分なかった。
ロシェルは今、壺に花を生けているところだった。
「この部屋って使わないのに、花を生けるの?」
他の客間には花は生けられていなかった。
「奥様の部屋でございますから」
「奥様?」
ロシェルの目線を追いかけると、全体の壁の三分の一を埋めるようなかなり大きな肖像画が額に入れられ、飾られていた。
白いブラウスに青いロングスカート。
頭の上でゆるく巻き上げた金髪に、赤みの強い茶褐色の眼差しの婦人が、肘掛け椅子にポーズをしている。
顔立ちは整い、口元はうっすらと微笑をたたえていた。
「マクヴェス様の母君様……キャルロット様です」
(この人が……)
たしかこの屋敷はこの人のために与えられたはずだ。
「目元が、マクヴェスにそっくりね」
それがきっとマクヴェスの印象をより柔らかくしているのかもしれない。
「ええ、お二人で並ぶとうり二つで……。そう言うと、マクヴェス様はとても恥ずかしがられて。
こちらの花は毎朝、マクヴェス様が手ずから摘まれているんですよ」
少し離れたところに食材に使う野菜や香り付けにつかう植物が植えられているという。そこに一緒に、栽培されているとロシェルは言った。
「その花は?」
小さくかわいらしい白い花びらをつけている。他にもほんのりとピンク色のつぼみがある。
「ジャスミンです。奥様が、花をお酒につけられるからと。それに鎮静剤にもできると仰られて」
「変わった人ね」
「今では、一部を野菜作りの場所にしていますが、以前はそこは、薬用の花でいっぱいだったんです。綺麗だし、薬にもたつと仰られて」
「そうなの」
合理的ではある、とイングリットは相づちを打ち、肖像がを見る。
(それにしても……)
きっとこの人が変身したら美しい金色の毛並みになることだろう。
さすがにこの人をモフモフすることはためらわれるけれど、金色の狼、というのも想像するのは楽しい。
「では、私は夕飯の準備をしてまいります。イングリット様は自由時間です」
「分かった。繊細な料理の手伝いはさすがに出来ないからね」
ロシェルを見送り、
(どうしようかな)
と考える。
イングリットは今日も今日とて、書斎に閉じこもっている。
(ここ数日、あんまり話してない気が……)
それより前が話しすぎていたのだろうか。
いや、これまではイングリットが病人だから様子を尋ねてくれたが、そうする必要もなくなっただけ、なのかもしれない。
(もしそうだったら、寂しいけど)
食卓でもご挨拶程度の話ばかり。
(時々、目を合わせてはくれるけど……。って、助けられた身の上で、これ以上何かを望むのはやっぱり贅沢、よね)
よし、昼飯分を贅肉にしないためにもジョギングをしようと、イングリットは着替えをしに部屋に戻った。
マクヴェスの領地には建物は、マクヴェスの館だけであとはだだっ広い野山が広がっている。
帝都では珍しい未開拓の自然がありのままに残されている。
他の領地へ向かうための街道は整備されているが、まったく通行人や馬車などは見かけない。
(みんな、動物の姿で移動してるのかな? でもそうしたら街道を利用する意味なんてないし……)
少し速いペースでジョギングをしながらあれやこれやを考える。
こうしてジョギングしながら頭の中を整理したりするのが騎士に叙任した頃からの習慣だった。
たとえ騎士に叙任したからといって、たとえ自分の親が騎士団の団長だからといって、誰もが優しくしてくれるはずもない。
男連中からは男女(おとこおんな)とからかわれたり、差出人不明の脅迫状まがいのものを受け取ったりした。
一般的に女の嫉妬はひどいというが、男の嫉妬もそれに勝るとも劣らない。
たとえ男として育てられたからといって、周囲からしてみればイングリットはやっぱりどこまでも女性なのだ。
政治や軍事は男のものと考える連中からの風当たりは強い。
時々、胸のうちでかかえていたものが溢れそうになることがあった。
イングリットは心の澱(おり)をはき出すためにもこうして駆けることを日課にしていた。
夏らしい強い日差しの中、一刻も走り続ければ全身、濡れねずみのように汗をかく。
息を切らし、全身で心地よい疲労感を味わいながら、木立の向こうから館が見えてくる。
と、その玄関前には、牢屋のような重厚感をもつ車両の馬車が停まっていた。
(お客さん……?)
今し方、従者によって扉が開けられるところだった。
現れたのは襟足を伸ばしたクセのある黒髪に、やたらと目つきの悪い野性味のある男だった。
まとっている黒い外套がいとうともあいまって、イメージしてしまうのは吸血鬼。
館からはロシェルが進み出て、その男性を出迎える。
と、ロシェルがいちはやくイングリットに気づくと、彼女は目を見開き、客の男に分からないように手を振ってくる。
「おーいっ、どうしたのお客さん……?」
イングリットは手を振りながらかけ出す。
なぜだか、ロシェルはがっくりとうなだれる。
男が振り返り、金色の鋭い視線を送ってきた。
「……い、いらっしゃいませ……」
全身汗みずくという情けない格好ながら、頭こうべを垂れた。
「私、こちらでお世話になっています、イングリットと……」
「汗臭い。近寄るなっ」
眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言われた。
「…………それは、す、すみません」
確かに言うとおりだと、後ろに引き下がる。
「フォルス殿下。どうぞ、こちらへ。殿下は書斎に」
「場所は分かる」
「はい」
イングリットなど存在しないものと言うかのようにすぐに前を向き直り、ロシェルの脇を通り過ぎる。
イングリットは勝手口から屋敷に入り、身体を洗い、服を着替えた上で、台所へ向かう。
すると、ロシェルがお茶の用意をしていた。
「イングリット様」
「……ねえ、あの態度とガタイが無駄にでかい奴、何なの? マクヴェスと知り合いみたいだけど……」
「マクヴェス様の弟君です」
「えっ!? 嘘! ぜんぜん、似てないわよ!?」
「お母上様が違いますから……」
「そういう問題にも思えない……けど?」
あれはもう、なんと言えばいいのだろう、外見だけで決めつければ、何もかも違うとしかか思えない。
少しはマクヴェスの柔らかな振る舞いを真似すればいいものを。
「仲は大変よくていらっしゃるんです」
「そうなの?」
まったく正反対の性格のほうが、仲は良くなりやすいということだろうか。
■■
「急に来たからびっくりしたよ。僕が寄越して欲しかったのはメイドだったんだが。メイドは?」
「いない」
「そうか」
ロシェルの淹れてくれたお茶にレモンを浮かべながら、マクヴェスは相づちを打った。
「来ちゃ悪いか? 俺は弟だ。いつこようが、俺の勝手だろう」
向かいの席に座っているフォルスはあいかわらず、今にものど笛を食いちぎりそうな目で見てきて、しゃべれば、ドスが利いている。
マクヴェスは当然馴れているが、これでは初対面の相手は面食らうこと間違いなしだろう。
「ま、そうだね。でも急に来たら、食事とか……いろいろ準備がいる。弟だからってお茶だけ飲ませてさようならといううわけにはいかないから」
「俺は兄貴に会いに来たんだ。メシなんざ、うちで食う」
「あいかわらず目つきが悪いね。また一段と磨きがかかってないかい? それも悪い方に」
マクヴェスは苦笑いしつつ言った。
「うるせえ」
言葉遣いは耶蘇だが、お茶を飲む仕草はマナーに沿っている。
その落差がおかしい。
「マルゲーテ様はあんなにもニコニコしていらっしゃるのに」
「ほっとけ、生まれつきだ」
「そう? 小さい頃はそんな世界を呪うような目つきじゃなくて、どんぐりみたいにくりくりして、すごく可愛かったけど」
「知るか、戦争をやってると笑うことなんざ忘れちまう」
「そうか」
「馬鹿な兄を持つと余計にな」
「それはすまない。ところで王都のほうはどうだ。最近、ちょっと忙しくて……」
「兄貴っ!」
ダン、とテーブルに手をつき、椅子を倒してフォルスは立ち上がった。
「自分が何をしているのか分かっているのか?
陛下は良くても、宮廷のいけすかねえ連中はそうは思ってねえ。この好機を逃さず、兄貴を完全に追い落とすつもりでいるぞ。今度こそ陛下もかばいきれない」
「追い落とす? 俺はもうとっくに落ちてるさ。何の問題があるんだ、皇太子殿下」
「……やめろ」
本気で怒る気配に、マクヴェスは肩をすくめた。
「あの女を追い出せ、今すぐだ。あいつ、汗だらけで運動してた。人間ってだけでも腹立たしいってのに、不愉快なにおいをまとってな……。もういいだろう、あいつは治った、万全だ」
「そんなことをお前に指示されるいわれはない」
マクヴェスの瞳のなかで閃いた硬質な光に、フォルスは気圧けおされてしまう。
しかしここで引き下がるわけにはいかない。
「兄貴っ」
「そのあたりのことは先生と話して決める」
「……手放す気はあるんだな」
「手放すも何も、彼女を俺のものにした覚えはない」
「ばかげてる、人間を助けるなんざ、それも相手は騎士だろうが。俺たちの同胞を何百人も殺した連中だぞ!?」
「戦争だ、仕方がない。俺だってこれまで何人も人間を殺してる」
マクヴェスはそう言って、お茶を飲む。
「兄貴……」
これ以上は何を言っても無駄だと、長いつきあいだから分かる。
「帰る、見送りはいらん」
大股でずんずんと歩いて、これみよがしに扉を強く閉めた。
(クソっ)
舌打ちをする。
馬車の中で接し方の練習を何度もくりかえししたはずなのに、あっという間に、いつもの自分に戻ってしまった。
廊下に出ると、カンッと気持ちの良い音が聞こえて、窓辺に寄ると、あの女が薪を割っているのが見えた。
■■
(やっぱりマクヴェスは獣人族の中でも特別なんだ……って、当然か)
ここにいると、獣人族ともうまくやっていける、そんなことを思えてしまう。
マクヴェスもロシェルも、ちゃんと言葉が通じる相手だ。
違うことは獣になるということだが、それだけといえば、それだけ。
少なくともここでの生活は帝国における上流階級のものにひけを取らない。
しかしここから遠く離れた戦地では、今も両者は争い続けている。
仲間や同胞が次々と命を落としている。
(私は……)
戻れるのだろうか、戦地に戻って、獣人族を殺せるのか。これまで通り、戦争だ、仕方がないと思い、硝煙しょうえんをくぐっていけるのか。
「――あ」
手元が狂い、芯を捕らえられなかった木が転がってしまう。
それを追いかけると、黒い革靴がそれを踏みつけた。
顔をあげると、フォルスがたっていた。
(やっぱりでかい)
身の丈は七尺(210センチ)はあろうか。
それで愛想もよければ優しい力持ちでも通じるだろうが、その凶悪犯の眼差しはただただ圧迫感を感じるばかりだ。
「……どうかされましたか?」
できるかぎり、愛想よくと自分に言い聞かせにっこりと笑顔を浮かべる。
「おい、人間」
「イングリットと言います。先ほどは失礼いたしました。あんな汗まみれで……」
「おい、離れろ。今でもにおいがきつすぎる。人間というやつは……。今にも鼻が曲がって腐ってもげそうになる」
自分から近づいてきたくせに……。
イングリットはそれでもぐっと煮え立つ感情に必死に蓋ふたをする。
「……申し訳ございません」
恩人の身内と揉めるわけにはいかない。
ぐっと怒りを我慢して、どうにかこうにか笑顔での応対を心がける。
「お前、騎士なんだろ」
「それが、何か?」
「決闘しろ。お前が負けたら、ここを出て行け」
「は?」
藪から棒にもほどがある要求だった。
「……あなたと決闘する理由がありません」
「お前が人間で、俺は獣人。それで十分だろう」
「……できません」
「怖じ気づいたか」
「そういう問題では……」
「――なるほど、国を売り、
「なにっ」
売り言葉に買い言葉で、にらみ返す。
「騎士というのも名前ばかりの存在のようだな。何の尊厳も矜持も持ち合わさない、臆病者」
「訂正しろ」
「本当のことを言っている。訂正など……」
「なら、私が決闘で勝てば、今の言葉、訂正しろっ」
「受けるんだな」
「ああ、やってやる」
「決闘の時刻と場所はあとで従者に伝えさせる。逃げるなよ。それから、このことは他言無用だ」
外套をひるがえし、フォルスは去って行った。
(しまった)
それから我に変えても遅い。まさか、恩人の身内と決闘だなんて。
しかし今から取り消すことは騎士の矜持が許さない。あれだけ侮辱された。何が何でも非を正さなければ我慢ならなかった。
「イングリット様」
フォルスが去ったのを見計らったように勝手口からロシェルが飛び出してくる。
どうやら話を聞いていたようだ。
「……マクヴェスには黙っていて」
「で、ですが」
お願いだから、と頭を下げる。
「あれだけ侮辱されて何もしないんじゃ、騎士としては耐えがたい……。大丈夫。マクヴェスのためにもひどいことにはならないようするから」
言いつつ、手加減をして勝てる相手とは思えなかった。
「お願いね、ロシェル」
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