第3話 逃走

イングリットは目覚めると、そこはベッドだった。


 マクヴェスに迫られたあと――突然、頭の中が真っ暗になった……あれは夢、なのか。


 そう思ったが、格好は着替えた服のままだ。


 イングリットはベッドを抜け出し、居間に通じる扉に耳を押し当てると、誰かが動く気配がする。


 ゆっくりと扉を開け、隙間からのぞく。


 メイドの少女……ロシェルが片付けをしているところだった。


 自分が倒れてからそれほど時間が経っていないようだ。


 彼女が背中を見せた隙に扉から入り、その背に近づく。


 その口を塞ぐ。


「ひゃっ……」


 突然のことに混乱したのか、ロシェルの抱えていた食器が床に落ちて砕けた。


「お願い抵抗しないで」


「イングリット様……」


「大人しくして。……分かった?」


「…………っ」

 ロシェルは小さくうなずいた。


 ロシェルを椅子に座らせると、棚を漁って見つけ出したロープを、椅子の背とロシェルの身体を縛り付ける。さらに引き裂いた布を噛ませ、猿ぐつわにする。


 捕虜を拘束する手段だけに、手早くおこなえた。


「……恩を仇で返し、すまない」


 ロシェルは「んっ、んっ」と呻き声に罪悪感を覚えながらも部屋を出た。

 

 廊下は左右に伸び、いくつも部屋が連なっていた。


 廊下に面した窓の景色は、たれこめた分厚い雲によって霞んでいる。


 窓から見渡せる限り、屋敷はかなり大きいらしいことが窺えた。


 奥歯を噛みしめ、動くたびに身体の軋むような痛みをこらえながら身を低くして駆け出す。


 屋敷の中は不気味なほど静かだった。


 これくらい大きな屋敷なのだから、使用人は二、三十人ばかりいてもいいはずなのに。


 イングリットの実家はこれよりも二回りは小さい屋敷だったが、それでも使用人は十人いた。


 足音を殺し、階段を下りて階下へ。それでもやっぱり、誰にも行き当たらない。


(まさか、使用人はロシェルだけ?)


 そんな疑念を抱きつつも警戒心を鈍らせず、移動を繰り返す。


 そして何の障害に当たることもなく、玄関ホールにたどり着いた。


 扉の鍵を開け、館を出る。


 拍子抜けだったが、問題はこれからだ。


 ここは獣人族の支配地域――ここから出会うものはすべて敵だと思わなければ。


 あらためてイングリットは屋敷を見上げる。


 白い外壁に蔦のからまった、年代を感じさせる館で、その造りは帝都でもよく見かける、ロココ様式のものだ。

 その証拠に、方形の土台にドームがのっかった形状の館のところどころにほどこされている装飾は波を表現したもので、窓はどれも円をかたどった曲線窓。

 屋根は破風造り《ペディメント》。そしてところどろにつかわれている色彩はどれも淡く、柔らかい。


 主に上流階級の屋敷や、皇帝の住まう離宮に主にこういう様式が使われている。


(どうして、獣人族がこの建築様式を知っているんだ……?)

 そんな疑問が頭をよぎったが、すぐに切り替える。


 今は一刻も、帝都へ――人間の住まう場所へ戻ることが先決だ。


 マクヴェスにも、ロシェルにも大恩がある。

 それでもイングリットの矜持きょうじは敵対してきた相手に守られることを良しとするわけにはいかなかった。


 人間として、それに、これまでイングリットは何人もの獣人族を戦場で殺してきたのだ。

 どんな顔をして、彼らの慈恩を受ければいいというのか。


 好都合なことに館の周囲は深い森だった。

 ここに逃げ込めば、すぐに追っ手に捕まることはないはずだ。


 数歩歩くだけでも汗が滲み、息切れしながらも、イングリットは身体の痛みに呻きをこらえきれないながらも、森へと駆け出す。


 ゴロゴロと遠雷が聞こえた。


(雨が降る前に少しでも距離を……)


                       ■■


 マクヴェスは書斎で書き物をしていた。

 弟に頼んで使用人を貸してもらおうと言うのだ。

 もちろん、イングリットのために。


(理由は……)

 

 本当のところを書いても騒ぎになるだけだ。


(部屋の掃除に荷物整理……でいいか)


 この屋敷で働いているのはロシェルだけだ。

 マクヴェスが一人で構わないと言ったのだ。


 廊下に出ると、パチンと窓に雨粒が打ち付けてきた。

 

 一粒、二粒……


 やがて数え切れないほどの雨だれが窓をかすませる。


 ザァァァァァァ……と雨脚はあっという間に強くなり、窓のすぐ向こうの景色はたちまち煙る。


 ロシェルは今、イングリットの部屋の片付けをしているはずだ。


 あの時、壁に背中をつけた彼女は突然、意識を失い、倒れたのだ。


 ロシェルが言うには、貧血らしい。


 まだ食事をしたばかりで血が回りきれていないのに、感情的になったせいだろう。


(もっと、折を見てから話すべきだった)


 しかし黙っているのは彼女を騙しているようで心苦しかったのだ。


「ロシェル」


 イングリットの部屋の扉をノックして、声をかける。

 すると、かすかに室内からガタガタ……という音がたつ。


「ロシェル!?」


 するとそこには椅子に縛り付けられた使用人の姿。


 そして寝室の扉はあけられ、そこから見えるベッドは乱れ、イングリットの姿はなかった。


「何があったっ!」


 ロシェルを解放し、事情を聞く。


「い、イングリット様が……抜け出したんです……、恩を仇で返しすまない、と……言われて……」


 ロシェルは涙目になりながら語った。


 マクヴェスは窓を睨んだ。

 大雨だ。

 ただでさえ今のイングリットは深い傷を負っている上に、こんな豪雨にみまわれてはただではすまない。


「ロシェル、少し出てくる」


「ですが、この雨では……!」


「言われた通りにするんだ。このままではイングリットは死んでしまう」


「……かしこまりました」


「すまないな、わがままな主人で」

 マクヴェスがかすかに笑いかけると、ロシェルは首を横に振った。


「それは前々から存じております」


 そうか、とマクヴェスはうなずくと、走り出した。


                       ■■


 身体に雨が打ち付けられるたび、まるでつぶてでも投げられているような激痛に、イングリットは悶絶しながらも腰だけの草をかきわける。


 すっかり濡れねずみの情けない有り様だった。


 頭がぼうっとするが、精神力だけで歩き続けた。


 雨が森の木々を揺らし、やかましい。


 森の中は道なき道を行く――という言葉そのままだった。


 大木に寄りかかりたい気持ちに駆られたが、そうするわけにはいかない。


 ひとたび休んでしまえばもう、歩き出すことができないことを何となく感じていた。


 最低限、せめて休むのであれば雨をしのげる場所でなければならない。


 大粒の雨に打たれ、全身から体温が奪われていく。身体が震え、視界が揺れる。


 荒い気遣いを繰り返し、しかしそれでも倒れまいと歩き続ける。


「っ」


 水たまりに足を取られ、転ぶ。

 口にじゃりのはいった泥水がはいるのを、むせかえりながらはき出す。


(こんなところで……。私は、騎士っ……のたれ死ぬものか……っ、無事に戻って見せる……っ)


 今のイングリットには精神力しかなかったが、それだけが今の原動力でもあった。


 やがて道の脇に洞穴がぽっかりと開いているのを見つけた。


 泥だらけの格好で、転げるように横穴に入る。


 サァァァァァ……と降りしきる雨が、かすかに洞窟内に反響する。


 壁に背中を押しつけ、自分の身体を抱きしめ、その場にうずくまった。


                       ■■

 傘も役に立たないような土砂降りの中、マクヴェスはイングリットの名前を叫んだ。


 しかしまるで滝壺の中にいるような耳をろうする豪雨とあって、声は届かない。


(そう遠くにはいっていないはずだとは思うけど)


 あの状態では馬に乗ることもできないだろう。案の定、館の裏手にある廐の馬は一頭も減ってはいない。


 しかしにおいをたどろうにも、この雨では無理だ。


(もし、俺が同じ状況なら……)


 どこをたどって逃げるのか。

 街道は追っ手を振り切るに難儀するだろう。

 追っ手が来たとしても、すぐに身を隠せる場所――。


(森、か)


 そうはいっても、ここは人間の領する場所ではない。獣道こそあれ、まともな道などない。


 しかし考えてる暇はなかった。


 マクヴェスは傘を放り出し、藪をかきわけ、森の中へ入る。


 何度もイングリットの名を呼んだ。

 しかし木々の葉を打つ雨のやかましい音以外、それに答えてくれるものはなかった。


(無事でいてくれっ)


「イングリット! イングリットーっ!」

 答えがないのも構わず、名前を呼び続ける。


 このあたりはマクヴェスに与えられた領地だから他の獣人が姿をみせることはない。

 

 だから、危ぶむべきはこの雨で体調が悪化していることくらいだ。


 地面に目をやると、かすかにだが、地面の窪みとは違う、規則的な穴がポツポツと開いて、森の奥まで続いている。


(間違いない。……足跡だ)


 この近くにはたしか、洞窟があったはずだ。


 マクヴェスは駆けだした。

 服に泥がはねるのも気にせず、自分の記憶を必死に探す。


「イングリットっ!」

 

 洞窟をのぞき込み、声をあげた。しかし返答はなく、ただむなしくマクヴェスの声が反響するばり。


 鼻を動かせば、たしかにイングリットのかおりがした。


 入り口は外から吹き付ける風で寒い。


 奥へ奥へと慎重に足を運ぶ――と。


「イングリットっ!」


 壁に身をもたれ、ぐったりと手足を投げ出しているのを見つけた。

 

「…………っ」


 イングリットは意識を失っているようだった。それでも自分の身体を抱きしめながら小刻みに震えつづけている。


 額に手を当てると、ひどい熱だった。


「緊急事態だ、許せよ」


 マクヴェスはぐっしょりと雨にまみれ、身体に張り付いてしまっている衣服を引き裂き、脱がす。上衣も下裳かもも残らず。


 マクヴェスは一糸纏わぬ彼女を見ないようにし、みずからも服を脱ぎ捨てる。


 そして獣化をはじめた。


 何ら人間と変わらない腕がたちまち鉄塊でも引き裂かんばかりの爪をもった獣の脚となり、すべすべした肌がたちまち青い体毛に包み込まれる。


 大人の男よりも一回りは大きい、一頭の獣となったマクヴェスは、震えるイングリットの身体を自分の身体に抱き込むように包み込んだ。  

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