第2話 マクヴェス

「……っ」

 イングリットが目覚めると、そこはどこかの一室のようで、彼女自身は寝台に横たわっていた。


「ここ……は……?」

 天国かと思ったが、それにしてはあまりにも現実感がある。

 寝台の側には火の消えた燭台が置かれている。


 上体を起こす。

 全身がきしみを上げ、かすかに身体に鈍い痛みと、倦怠感があったが、それでも動けないというわけではない。

 窓にかかった花柄模様の、厚いビロードのカーテンを引けば、まばゆい日差しに目を細めた。


 だんだんと目が慣れていけば、小さな窓の向こうに青々とした緑の大地が広がり、地平線の向こうには山脈が連なっている。

 かなり距離が離れているらしく、裾野がやっと見える程度だった。


(ここ、は……?)

 その風景に覚えはなかった。


 記憶にあるのは、目と鼻の距離にまで近づいてきた美しい青い毛皮をもった犬。

 あの時、感覚がまともであれば、一撫でしたいような柔らかそうな毛並みだった。


 身体を動かすと、まるで意思でも持っているみたいに痛みが体中を駆け巡る。

 最悪よりはマシだが、それでもまだまだ自由に動くことはできそうにない。


 自分の格好を確かめると、衣服は剥かれ、肌に包帯が巻かれている。

 下半身はグレイの下着を辛うじて穿はいているだけ。

 イングリットはとりあえず、タオルケットを身体に羽織ることにした。


 ベッドから降りると右足を引きずりながら扉をあけた。

 すると、そこには人がいて、イングリットに背中を見せている。


 何か作業をしているであろうその女性は黒い征服にフリルの飾りのついた白いエプロン、それと同じ白くフリルのついたカチューシャをつけている。

 メイドのようだ。


「あの……」

「ひゃっ」

 女性はびっくりしたみたいに素っ頓狂な声をあげて、振り返る。


 丸い眼鏡をかけ、三つ編みにした黒髪を二房たらしている女性だった。

 彼女は、黄色い花を生けた青灰色の花瓶を腕に抱えている。


「ごめんなさい、驚かせて」


「あ……あなた……起きたのね

「今しがた。どうやら助けてもらったみたいね。礼を言うわ」

「いえ、私で……。殿下が……」

「殿下?」

「目が覚めたことを伝えて参ります」

「ちょっと待って」

「はい?」

「服はない?」

「寝室にあるチェストに、簡単なものですが……」

「ありがとう」

 礼を言えば、女性はぺこりと頭を下げると、足早に部屋を出て行く。


 あのメイドが言った、その殿下という人が恩人ならば、こんな格好で会うわけにはいかない。 


 早速、寝室に戻り、チェストの引き出しを開けた。

 白いシャツと、長脚衣をはく。

 そばのテーブルにあったゴムをつかみ、今は腰まで流れている赤みがかった髪を乱暴に束ねる。

 髪にまざるのは砂粒で、髪全体がごわごわしている。


 髪が傷むのは女心としては辛いが、仕方がない。


 ベッドの縁にすわり、あらためて身体の各所の点検に入る。


 指先の末端までしっかりと感覚がある。


(私は、アゼルタス帝国近衛騎士団所属、イングリッド・ブラッドリー。父は騎士団長のアイゼン。母は男爵家の三女、アヴィー。私は陛下と供に、獣人族との戦いのために赴き、崩れかかった前線部隊を支えるために向かって……そこで……)


 脇腹に触れてみると、思わずくぐもった呻きを漏らす。


(ちゃんと、現実、ね)


 そこに弓を受け、愛馬に無茶苦茶に蹴りつけられたのだ。


 苦い記憶ではあるが、頭にはどうやら問題はないらしい。


(ともかく、ここがどこかを聞き、それから、軍との連絡を……。私が生きていることを伝えなければ……)


 ギッ、と扉の軋む音に反射的に身構え、全身に走る痛みに悶絶する。


「平気かっ!?」


 心配げな声がとんでくる。


「え……ええ……」

 呻きながら、何とかうなずいた。


 顔をあげると、そこには青年が立っていた。


 どうやらいきなり苦しみはじめたイングリットを前に、どうすればいいのか分からないようで、目を伏せている。


 夏の蒼穹そらを思わせる澄んだ色をした指通りのなめらかそうな髪に、つやつやとした白い肌をもち(きっと女のイングリットよりもずっとすべすべしているはず)、強い光を封じ目込めた、切れ長の茶褐色の虹彩こうさいの瞳をもつ。


 姿形からして、貴族のようだった。


「医者を呼ぼうか」


「いえ……。まだ少しでも動くと身体に痛みがはしるようで。――あなたが、殿下……? 私を助けてくださった方、でしょうか」


「元気そうで良かった」


「ええ、何とか」


「医者の見立てでは治療を施しても、あとはあなたの精神力次第だと言われた」


「精神力には自信があります」


「生きていて良かった」

 その人は椅子を引っ張ると、座った。


「今、食事の準備をしている。目覚めたのなら少しでも食べたほうがいい」


「ありがとうございます、何から何まで」


「いや、傷ついている人を放ってはおけない」

 青年が笑うと、イングリットも思わずそれにつられるように口元をほころばせる。


「私はイングリットと申します」


「マクヴェスだ」


「殿下、お食事をお持ちいたしました」

 扉の向こうからあのメイドの声がした。


「歩けるか?」

 差し出される手を、イングリットはやんわりと断り、壁に手をつけながら寝室を出る。


 居間のテーブルには、パンをのせた器と、それを圧倒するくらいの大きさの大皿がでんとテーブルのほとんどを覆い尽くしている。

 そこには、甘いソースのかおりをした肉の塊があった。


「すまない。今は少し騒がしくてな、野菜はないから肉で我慢してくれ。肉ならばいくらでもあるから足りなければ言ってくれ」


「い。いえ……」


 これを果たして病人が食べていいのかとも思ったが、血肉を回復させるにはこれが一番なのだろうと、フォークとナイフを手に取ると、


(よしっ!)

 気合いを入れて、豪快に食らう。


 肉は脂あぶら分が少なく、それにどういう製法なのか、とびっきり柔らかく、口にほおばった途端、肉汁が溢れて一緒にとろける。

 それでいて、食い出のほうも申し分ない。

 ソースは果実をベースにしているらしく、その甘酸っぱさが食欲を刺激してくれる。


 最初は無理だと思ったが、食べてみると身体がいかにからっぽであったかが分かった。

 肉が入るそばから身体に吸収されて、“満ちていく”ようだった。

 確かにこれなら、お代わりもあり……とも思った。


「ごちそうさま。すごくおいしかったです」


 本当に、ぺろりと食べてしまえた。


「お、お粗末様でした……」

 メイドはびっくりしたような顔をする。


「お代わりは?」

 マクヴェスは促すが、


「いえ。まあ、もう少し食べたいところですが……」

 と言いつつ、イングリットは断った。

 今は病気の身だ。いくら血肉が足りてないとはいえ、急に食べ過ぎればかえって危なそうだ。

(やっぱり腹八分目、よね)


 どうやら、本当に、二人は善意の人のようだ。さっきから、イングリットといっこうに目を合わせようとはしないけれど……。


 食事をしただけなのに、倦怠感がやや薄れた気がした。


「何から何までお世話になって心苦しいのですが」


「いや、構わない。生かすために助けたんだから」


「ここはどのあたりですか。もし可能であれば、帝都アーレンゲーストに使いを送って、私が無事だということを知らせたいのですが……」


 瞬間、メイドの女性の表情が変わる。


「何か、不都合があるなら構いません」


「いや、そんなことはない。あなたの頼みはもっともだ。――だが、向こうは受け付けないだろう」


「そんなことはありません。私の所持品の一つでも持っていけば。無事であることは分かるはずです」


「ロシェル」

 マクヴェスが言うと、メイドは頭を下げ、部屋を出て行った。


「……?」

 いくら、鈍感だと騎士団内で、ゴリラのような男から言われるイングリットだが、場の空気が変わったことはわかる。

 それでも決して、攻撃的はないけれど。


「可能なら、そうしてあげたい。しかし我々は今、戦争状態にある」


「戦争……? どういうことですか、私は……」


「イングリット、ここは人間の言う、獣人族の治める領地だ」


「…………???」

 マクヴェスが何を言っているのか分からなく、馬鹿みたいな声を漏らしてしまう。


 それでもゆっくりと思考がしみこんでくる。

(獣人……)


「そんなっ……でも、あなたは……!」

 獣人族というのは二足歩行する獣で人語を操り、器用に道具を扱う、異形のはずだ。並外れた剛力によって死んでいった仲間たちは数知れない。


 イングリットもそんな連中と干戈かんかを交えてきた。


「驚くのも無理はない。

 我々は普段からこうして衣服をまとい、文明的な生活を営んでいる。

 あのような姿になるのは闘争が求められる時だけだ。こうして人の形を成しているほうが、便利だからね。証拠はみせたいが、みだりにきみを恐れさせたくはない。できれば、僕の言葉を信じて欲しい」


「…………つまり、私は捕虜?」


「いいや。

もう一つ付け足すと、さっきの食事に毒なんて入っていないよ」


「ならば、なぜ、助けたっ」

 イングリットは椅子を倒す勢いで立ち上がった。


 胸のうちに、複雑な感情が芽生える。

 それは怒りのような気持ちでありながら、まったく同じではない。近い感情は……そう、戸惑いだ。


 大陸全土の宿敵。

 北に広がる広大な領地をもつ、異形の存在。

 それがイングリットの知る、いや、人の知る獣人属。


 しかし目の前に居る人物は、礼儀正しく、理知的だ。

 今こうして感情的に声をあげるイングリットを前にしながら、努めて冷静にふるまおうとしている。

 だからこそ、ますます戸惑いは大きくなる。


「目の前で今にも死の淵にゆこうとする人を助けるのは当然だ。

 しかし、きみが女性だからということもある。

男ならば、殺す。また傷が癒えれば、私の同胞を殺すことになる」


「見くびるなっ!

私は近衛騎士団に所属する人間だ! 女などと……そんな弱い者じゃないっ!!」


 マクヴェスがそんな意味で言ったのではないと分かっていながら、琴線に触れられ、子どものように感情を爆発させてしまう。


「いいや、きみは女性だ。イングリット。か弱い女性だ」

 マクヴェスは立ち上がると、近づいてくる。


 イングリットは後じさり、壁際に追い詰められてしまう。

 しかしそんな時ですら、マクヴェスは目を伏せ、イングリットの眼差しを受けとめようとはしない。

 何かやましいことがあるはずだ。

 こうして、説得をしようとしても、胸の内では何を考えているのか分からない。


(それなら、どうして……。どうして、そんな優しい言葉をかけるの……)


 それならば、利用してやるぐらいのことを言われたほうが、よっぽど楽なのに。


「イングリット……?」


「わ、私は――」


 頭がぐるぐると回る。

 言葉を吐こうとするが、ろれつが回らない。そのうえ、視界がぐらぐらと揺れる。


「イングリット!?」


 マクヴェスが驚い顔が二転・三点する。

 そのまま目の前が真っ暗になり、意識が溶けた。 

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