第4話 思い出

 イングリットは先祖代々、騎士団長を輩出はいしゅつしている名門・ブラッドリー家。


 父・アイゼンも騎士団をつとめる、エリートで、母・アヴィーは同じように軍人としていくつもの戦歴を重ね、今は副団長をつとめる男爵家の三女。


 しかし二人の間にはイングリットしか生まれず、母は生来、病弱だったこともあってそれ以上の妊娠をすることができない身だった。


 そうかといってアイゼンに、側室をもつようなことは出来なかった。


 貴族としては嫡子がいなければ家が潰れる。


 他の貴族は別段、それを隠すようなこともせずにやっていることだったが、アイゼンの性格もあっただろうが、妻であるアヴィーのことをおもんぱかってのことでもあった。


 もしどこぞの女が嫡男をあげれば、正妻の面目を失うと思ったし、たとえ口ではそれを薦めながらも、実際、その通りになれば病弱な彼女の心が壊れてしまうと思ったのだろう。


 それもあって幼い頃からイングリットは男として育てられた。


 髪は短く刈かられ、幼少時、ある程度、自分で立って歩けるようになる年頃から剣をもって、それを振るうことを日課にした。


 男のような格好をさせられ、男口調でしゃべるよう強制された。


 母は父がいない時、何かと気にかけてくれたが、それでも父に意見を言うことはなかった。

 嫡男を上げられなかったことを悔やんでいたからだった。


 イングリットは父の期待に応えようとした。


 同年の少女たちがお姫様のような格好をしているのを羨ましい気持ちで眺めながらも、自分は男だから……と必死に言い聞かせ、日々を過ごした。


 それに、剣の振り方がよく出来ると父が喜び、「お前は我がブラッドリー家の立派な跡継ぎだ!」と言ってくれるのが誇らしくあった。


 そんな生活だから、イングリットの部屋には女性らしさは何もない。


 ベッドも家具も質素なデザインで、カーテンは白いレース、小物類なんてどこにもない。


 あるのは、アイゼンが一本の木から手ずから削った、荒い木刀くらいなもの。


 しかし、それでもやっぱりイングリットは女性らしいものを好んでもいた。


 父には内緒、母との秘密。


 それは犬のぬいぐるみだった。

 イングリットがはじめて一人で自分の部屋で眠る時に、こっそり母がプレゼントしてくれたものだった。


 無骨で殺風景な部屋に、唯一といってもいい女の子らしいものだった。


 イングリットはそれに“ファミール”と名前をつけた。


 ファミールは当時、イングリットの友人たちが呼んでいた童話のキャラクターで、ぬいぐるみが命をもって、冒険をするというストーリーだった。


 眠る時、その決して自分の読むことができない童話のつづきを考えるのが、好きだった。


 お人形さんごっこをしない代わり、そのぬいぐるみを本物のようにかわいがった。


「もふもふーっ!」

 その柔らかな感触を腕いっぱいに感じると、すぐに眠ることができた。


 本物の犬も欲しかったけれど、父は「あんな愛玩物は我が家にはいらん、惰弱だじゃくになる」と言っていたから、とても飼うことはできなかった。


 だから、ぬいぐるみを本物の犬のようにかわいがった。


 ブラッシングをしたり、父と稽古するときもこっそりバッグにしまって一緒に連れて行ったり。


 汚れてしまったら母に教えてもらって手洗いしたり。

 その時の、イングリットは“女の子”に戻ることができた。


 しかし、ある時、父にファミールが見つかってしまう。


「お前は、ブラッドリー家の跡継ぎだぞ、それを……こんな……っ!」


 激怒した父にファミールは没収されてしまった。


 それからイングリッドは自分の弱さをすべて捨て、男としてみずからを律しながら生き、そして帝国初の女性騎士として叙任じょにんされ、部隊を任される地位にまで至った。


 もふもふとした感触が大好きな自分の一面を心の底に沈めて。


                        ■■

 ――イングリッドは柔らかなものに包まれている夢を見ていた。

  もふもふとした毛玉だ。


「ファミール……」


 それは昔、大切にしたぬいぐるみよりもずっと柔らかく、温かかく、イングリットの全身を包みこんでくれる。

 指通りなめらかな感触のなかに手をうずめるように伸ばし、五本の指いっぱいに撫でさする。


 気持ちよかった。

 このまま手がとろけてしまいそうなくらい。


「……っ」


 目を開ける。

 そこにあるのは、薄暗いごつごつとした天井だった。


 少し間をあけて、自分がマクヴェスの元を逃げ出し、雨に打たれ、洞窟に逃げこんだことを思い出す。


 あの時より、気分は良かった。


(洞窟に、こんな柔らかなものがあったなんて)


 まだ頭はぼんやりしていたが、心の赴くがままふさふさとした毛布に顔を埋める。

 かすかに雨の、湿ったにおいがした。


(すごい、夢みたいだ。こんな……もふもふ)


 目の前で揺れる、太い毛玉に思わずほおずりしてしまう。


(こんな天国だったら、いいな……ずっといてもいい……)


 すりすり。


 ほむほむ。


 やりたい放題・好き放題にじゃれる。


 まるでイングリット自身が、毛玉の動物にでもなったみたいに。


「――イングリット、くすぐったい」


 と、声がした。


「すまない、でももうすこー……し……?」


 呼びかける声に、はっと我に返る


「誰……?」

 つぶやきながら、その声の主を知っている。


「マクヴェス……?」


「ああ」


 そうして影が差した方を見てみれば、そこには犬の鼻面はなづらがあった。


「え……?」


「顔色が良いな。熱が下がったようで良かった」


 犬が、はっきりと言った。

 それも。マクヴェスの声で。

 たしかに彼と話した時間は短かったが、そういうものの記憶力の良さは折り紙付きだった。


「本当に、マクヴェス……あなた、なの?」


「ああ、そうだ」


 おっかなびっくり鼻面を撫でると、目の前の犬――いや、マクヴェスは気持ちよさそうに目を細める。


 確かに、それはあの戦場で出会った犬だった。


 海原を思わせる透明感のある、毛量の多い、青い毛並み。


「……すごい、綺麗な毛並みね」


「ありがとう」


 もっとして欲しいとねだるように顔をすりよせてくるマクヴェスを、この際だからとイングリットはたっぷりとかわいがった。


(やっぱりぬいぐるみと違う、この体温は本物なのね)


「……あー、イングリット」


「なに? 次はどこを撫でて欲しい?」


 夢心地でどんだけ、ふにゃふにゃした顔になっているか分からなかったが、もう最高だった。


「……尻尾」


「了解」


 それからさんざん、触りまくり、ようやく解放した。


「気は済んだ?」


「まあ、ぼちぼち」


 本当は、まだ足りない。というより、こうして息をしている間はずっと顔を埋めたり、なんだかんだいろいろして楽しみたかった。


「……そうか」


 犬顔なのに、苦笑しているのが何となく分かった。


「どうして逃げた」


 その話か、とイングリットうなずいた。


「……あなたと、ロシェルの二人にはとても感謝してもしきれない。でも、私は騎士で、これまであなたたちの同胞を何人も殺あやめてきた。

……それなのに、どういう顔であなたたちの親切を受け止めれば良いのか、分からなかったんだ。だから」


「そんなことを気にする必要はない。俺が勝手にきみを助けた。きみに恩を着せるつもりは毛頭ないし、きみもそんな重みを感じる必要もない」


 マクヴェスはきっぱりと言った。


 自分の考えの狭さが恥かしくなり、イングリットは目を伏せる。


「さあ、戻ろう。屋敷へ。傷が完全に癒えたら、その時は、帝国領との境界線まで送ろう。それまでは、ゆっくり養生したほうがいい。

最悪を脱したとはいえ、きみがまだ大変な状況であることは変わらないんだから」


 そこまで優しい言葉をかけてくれたものの、やっぱり目は逸らしたまま。


(まあ、それはそういうクセなのかもしれないしな)


 ここまで身をていしてくれたのだ。今さら、目線がどうのというのもおかしい。


「……ありがとう」


「動けるか」


「たぶん」


 立ち上がろうとした瞬間、自分の格好に気づいてはっとなり、身体を抱く。


「な、なんで……っ!?」


 すると、マクヴェスが気まずそうに目を伏せる。


「すまない……。その……服が濡れていたので……あのままではもっと体調が悪化すると……思った」


「み、見たの……」


「いや、見ないようにした。大丈夫だ」


「そ、そう……。ううん、たとえ見えたところで私のためを思ってやってくれたんだから……。こっちこそ、こんな粗末なものを見せて」


「いや、そんなことはっ」


「…………」


「…………」


「き、着替えるから」


「ああ」


 イングリッドが後ろを向いて服を着替えて振り返ると、すでにマクヴェスは人の形に戻っている。


「あ……」


「ん、どうかしたか」


 ボタンを留めながらマクヴェスが尋ねてくる。


「ううん、何でも……」


(そうよね、ずっと動物の形をしているのは不便だものね、しょうがいのよね。人の形の報が便利だって言ってたし……こんなの、何の問題もないのよ)


 洞窟を抜けると、あの嵐のような雨が嘘のように、木漏れ日が差し、森全体を明るくしていた。

 朝露が光るさまは、まるで森一面に真珠をばらまいたかのよう。


 先導をするマクヴェスに従って、足下に気をつけながら慎重に歩く。


「それにしても、獣人っていうから迫力のある動物ばかりかと思ったわ。

熊に猪、バイソン……。

でもマクヴェスみたいに犬もいるんだ」


 少し前を歩いていたマクヴェスがいきなり立ち止まった。


「犬……?」


「うん、犬。だってあれ、犬でしょ?」


「狼」


「え?」


「俺は狼だ」


 くるりと回れ右したかと思えば、こればかりは譲れないとばかりに言った。


「あ、そ、そうだったの。ごめん……ずっと、犬かと……」


「狼と犬はぜんぜん似てないぞ。

顔つきから首の太さ、足腰から、尻尾まで、何からなにまで犬のようが頼りない。

だいたい、狼はワンと鳴かない。それに、犬のほうが一度に生む子どもの数が多いし、とにかく、俺と犬は全然似てない……っ」


「分かったわ。うん、ごめんなさい。もう、見間違えたりとかは絶対しないから」


「……分かってくれればいい」


 そう言って、マクヴェスが再び歩き出した。心なし、少し落ち込んでいるように見えた。

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