第4話
いよいよ土曜日が来た。朝、出支度をしていると女房があたふたと起きてきて、
「今日はお休みではないのですか」
といった。先だっての日曜日の息子との話を脇で聞いて以来女房の態度に変化が出てきた。
「パソコンのパーツを買い集め勉強のために自作することにした」
と説明し、
「そのショップで指導を受けながら組み立てるのに学校の講義が無い土、日曜日もしばらく通うことになった」
と出かける理由を言った。さすが、に吉田さんの家へ行くとは言わなかった。
朝食は途中で食べるから作らないでいい。だからゆっくりするように言った。女房は申し訳ないような顔をして、
「行っていらっしゃい」
と言った。そして、
「夕食はどうするの?」
と聞いた。最近では珍しいことである。俺は遅くなるから駅前のいつもの飲み屋にでも寄ってくると言って雨は降っていなかったが傘を持って出かけた。
途中、W駅前の喫茶店へ寄りトーストとコーヒーで朝食の代わりにした。
吉田さんの家へ行くのは、午前十時と約束していた。まだ一時間ほどある。コーヒーを飲みながら新聞を読んだ。
朝、ゆっくりと喫茶店で新聞を読むのは久しぶりである。新聞は、連日金融機関とゼネコンの財政危機を書き立てていいた。
この類の記事を読むにつけ自分の勤めている会社の経営が健全なのはありがたかった。俺の歳で、会社が倒産したらどうなるのか。家のローン、子供の学費、物いりの年代に救いはないと思った。
その会社の健全性も俺も含めた営業スタッフや社員一人一人の頑張りで作り上げたものだと思いたい。が実際は、支社や工場の閉鎖を含めた業務縮小、不採算部門の切り捨てを強力に実施し、結果として多数発生している余剰人員のため、退職金割増などと美しい名前を付けたり退職勧告などの制度を作って希望退職者募集を含めた解雇や関連会社への出向などいわゆるリストラを進めた上での健全性の確保に寄ることが大きい。
新卒採用後、業務拡張の部門へたまたま配置され、事業が上手く進まずに不良採算部門となった事業所に勤務した人達はたまったものではない。同期で、健全部門に配置された社員とは大変な差になってしまうのである。
当然、しわ寄せは個人の仕事量に反映され、ICT化やスリム化等という名の合理化により、増大する。
いまや、自分がそのリストラの対象になるかもしれない立場になっている。自分が処理可能な業務の量や種類を増やし会社に貢献可能であることを示すためにもコンピュータ化に対応しなければならない。
だが、よく考えてみれば、合理化の話は当然のような気がする。
怠けていた創業者一族さえもが、現社長からリストラを突きつけられているわけだから。
一方で、無能な創業者一族の経営方針で無茶な事業拡張計画で採用されて、リストラの対象になった社員も大勢いるのだから最後は、サラリーマンとしての運なのかもしれない等と思ったりもする。
電車は、土曜日で空いていた。K駅は15分で着いた。
吉田さんが住んでいる駅前のマンションは、茶色の煉瓦を張り付けた洒落たマンションであった。彼女の部屋は一番上の九階だといっていた。
入り口でポストを見ると904室であった。
インターホンで904号室のボタンを押して呼ぶと吉田さんが出た。
「後藤ですが」
というと、
「どうぞと」
いってリモートで扉が開いた。エレーベータに乗り九階で降りた。一寸胸が高まった。入り口の前でもう一度インターホンを押して後藤だと告げた。扉が開き、
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください。お待ちいたしておりました」
といって、吉田さんが顔を出した。
「失礼します」
と言いながら少し緊張して中に入った。中は、いわゆる3LDKであるが天井が高くゆったりとした感じで、上質のマンションであった。
部屋は、綺麗に整頓されていた。吉田さんの好みが調度品にも現れているようだ。リビングのソファーは、真っ白な皮製である。テーブル等他の家具は、全て黒で統一されていた。
壁は真っ白で、カーテンも白であった。リビングの隣の部屋は、和室の八畳くらいある部屋で花が生けてあり華やかでいて、その上、落ち着いた感じがした。
「どうぞお掛けください。今、お茶を入れますが、後藤さんは何を召し上がりますか。コーヒーでは如何ですか?」
「アイスコーヒーがあればありがたい」
と言った。緊張で咽が渇いたとも言った。吉田さんは何時もの様にクスリと笑いながら
「何をそんなに緊張なさっているのですか」
といった。
「随分と出来の良いマンションだし、おまけに女性の部屋へ入るのは初めてだから」
というとびっくりしたような顔で
「本当ですか?」
と言った。 彼女は、自分で作ったのだというアイスコーヒーの入ったボトルからコーヒーをグラスに注ぎながら、
「後藤さんのような方がそんなことは御座いませんでしょう。社内の女性の間では、後藤さんはかなりの人気ですよ。いつも外へ出ているので皆さんなかなかお近づきになれない、とおっしゃっていますよ」
「たまに誘われるが、それは俺が出張から帰ってお土産を持ってきた時ぐらいでしょう」
「仕事はお出来になるし、優しいし、そういう風に気を使っていらっしゃるのは後藤さんぐらいですのよ。ですから人気があるのでしょう」
何だか妙な話になってきた。
「恥ずかしいからこの話は止めましょう」
と言うと、例の悪戯っぽい目をして、
「おやおや、照れていらっしゃる」
と言って微笑んだ。そこで話を切るべく頂きますと言ってアイスコーヒーに口を付けた。
今日の吉田さんは、白のスラックスに白のYシャツを着ていた。
「何を着ても似合いますね」
と言ったら、
「おや、今度は反撃ですか」
と言って笑った。俺も、つられて笑った。それでこの話は終わった。
アイスコーヒーを飲みながら今日の手順について話し合った。
「部品は、全て、私の仕事部屋にあります。品物は確認済みです。間違いなく揃っております。そこで、私が部品を一つ一つ後藤さんに説明をいたしますから、私の指示に従って後藤さんがご自分で組み立ててください」
と、仕事の時と同じように、キリリとした口調で言った。
「いきなり作るんですか」
と一寸尻込みをした。
「そういうお約束でしょう。大丈夫ですよ。私が付いておりますから。それでは始めましょう」
と言われ、ともかく不安なまま、部品がおいてある部屋へ付いていった。
吉田さんは、中廊下を玄関の方に戻り、右手の部屋の扉を開けた。
そこは、六畳程度の洋室であった。やはり天井が高くマンション特有の頭上の煩わしさはない。
部屋の中はよく整頓されていた。黒の机と椅子が置いてあり、その上には吉田さんのコンピューターが乗っていた。大きな液晶ディスプレーが乗っていた。本棚がありその中は専門書で一杯であった。
「随分勉強家ですね」
というと彼女は、
「今はあまり読みませんの。大学に居たときのものですから」
と、事も無げに言って
「先ず部品を確認します」
部屋のフローリングの床に積み上げられた部品を見ながら言った。
「先ず、液晶ディスプレーは通称モニターと呼ばれています。講義で説明いたしましたから既にご存知ですわね。
それと、キーボード、マウス、ジョイスティックとあります。それにプリンターです。これらは、コンピューター本体が組み上がってから接続し試験します。
それまでは、箱から出して頂いたら、その机の上にでも置いてください」
俺は、云われた通りに一つ一つ箱から出していった。
「箱は畳んで廊下に出してください。発泡スチロールは、モニターを包んであった、大きなビニール袋に集めてください。小さなゴミは別なビニールの袋に入れてまとめてください。後で私が処分いたします」
と、指示も全く手際がよい。
「次ぎに本体のケースを出してください」
それはクリーム色とグレーのツートンカラーの洒落た箱であった。ショップで見たときとは随分と印象が異なる。やはり、自分のものだと思うと良く見えるものである。
「そのケースの蓋を外してください。後ろのつまみの付いたボルトを二本外して、それから脇のパネルを外すのです。もう片側のパネルは、後ろ側のボデイビスをドライバーで外してください。
そして上蓋と一体型になったL字のパネルを後ろへ引き抜いてください」
よくまあ知っていることと何でもがびっくりする。その通りにすると、パネルが外れて中が現れた。
中は配線が何本も垂れていた。何だか訳が分からない。
吉田さんは、
「それでは、内部を説明いたします。先ずその説明書がありますでしょう。
それを見てください。私が、一つ一つ説明をいたしますから、その説明書と付き合わせて覚えてください。先ず、全体がケースでこれはタワー型と呼ばれている物のうちの一つです。
ケースには、もう一つ、会社で机の上に乗っている横置き形の物で、スリム型と呼ばれるものがあります。その違いは拡張性に差があります。
やはり、タワー型は大きいだけあって色々な種類の仕事に対応した部品を装着できます。タワー型も、その大きさによってフルタワー、ミドルタワー、ミニタワーと三種類に分けられます。
後藤さんのものは、中間のミドルタワーです。ちなみに私のは、フルタワーです。高さが違いますでしょう」
なるほど、見るからに違う大きさである。
「今、外して頂いたのはサイドパネルです。後ろに付いているのはバックパネルで色々接続する口が出ます。
前面のフロントパネルを見てください。筋が入っていて蓋のように見えますでしょう。小さい方が3.5インチ、大きい方が5インチのドライブベイと云います。
それぞれ蓋が取れます。マイナスのドライバーを取ってその隙間へ差し込んで3.5インチの上の一枚を外してみたください。」
ドライバを持って躊躇していると、彼女は、俺の手を取って外し方を教えてくれた。そして、一枚の蓋を外した。
「その外した、短冊状の薄い板をブランクパネルといいます。左の上の角にある四角い箱、そうリード線がたくさん出ているものです。それは、電源ユニットです。容量は550W程度です。右側のフロントパネルの後ろにあるラックがドライブベイで、いろいろのドライブユニットのホルダーになります。このケースの形式は、ATX対応型といいます。ATXというのはパソコンの規格です。」
構造は良く出来ている。俺は機械技術者だからよく分かる。
しかし、それについても吉田さんは詳しい。俺は、懸命に聞いて理解しようとした。用語の内容はともかく、講義で聴いたり、雑誌で読んだりしてお目にかかった用語であった。部屋は冷房が利いているのにもう汗だくであった。
「あら、後藤さん大変な汗ですね。そんなに緊張しなくてもいいのですよ。一寸お待ちください」
といって立ち上がり、濡れたタオルと乾いたタオルを持ってきて俺に渡した。おかしそうに笑いながら
「もう少し気楽やってください。少し休憩しましょう」
俺たちは、リビングに戻った。もう既に十二時を回っていた。
「私は、お腹が空いたわ。後藤さん、後藤さんはいかがですか?」
そういえば、俺も腹が空いた。こんなに自分を忘れて話に聞き入ったのは入社した時の新人研修の初日以来である。俺は、正直に空いていると答えた。このマンションの周囲は飲食街である。
「近所のレストランで昼食にしませんか」
というと、吉田さんは一寸考えて、
「昼食は、たいしたものでありませんが、私が作りますからここでご一緒しませんか。夕食は、外でごちそうしていただけません?」
俺は了承した。ただ申し訳ないと云った。吉田さんは、すぐに支度に取りかかった。入れてくれたアイスコーヒーを飲みながら待った。
彼女は昼食を作りながら、今まで終わった作業の内容を復習し、足らない部分についての技術的な話をしてくれた。
程なく、チャーハンと中華スープ、キムチが添えられて出てきた。食卓に向かい食べ始めた。俺は、正直に美味いといった。
「ビールを召し上がりませんか?」
というのを、俺は、酔っては作れませんからと断り食事だけにした。
「後藤さんのそういう真剣になるところが私は好きですのよ。いつも仕事の時にお話ししていますと感じますわ」
俺は、照れくさかったが、正直に、そういってもらって嬉しいと云った。
「後藤さんは素直ですわ」
と鈴木さんと同じ事を言ってくれた。しばらく雑談してから再び作業にかかった。
「それでは、5インチのブランクパネルを二枚外してください。次にDVD/ROMドライブ、SDカードのユニットを取り出してください。SDカードのユニットは3.5インチのドライブベイ、他のものは、5インチのドライブベイに差し込んでください。上から順に取り付けてください」
俺は、5インチベイにDVD/ROMドライブを取り付けた。ハードディスクは、フロントパネルには現れない隠しベイに同じ要領で取り付けた。
「DVD/ROMドライブは、通常の音楽CDも聞けます。ハードデスクは1TBです。それでは、付け終わったらマザーボード、メモリー、CPU、CPU冷却フアンセットを出してください。あっ、一寸お待ちください。よく汗を拭いて落ち着いてから、先ず、パーツの入った箱をケースのそばに持ってきてください。それから、このベルトを腕に付けてください」
といいながら、吉田さんは、俺にひもの付いたベルトを手渡した。
「そのベルトはアース用のベルトで、先ず、片方の手首にベルトを巻き付けてください。それから、その先に付いているひも状のものは電線です。その先のクリップをコンセントのアース端子に挟んでください。
これは、電子機器を体の静電気から保護するための行為です。この状態で、マザーボードを取り出してください。そう、ASUS/H81と書かれた大きな箱です。その中に、ボードと、ケーブル、バックパネル、ビスが入っています。それから、CPU冷却用フアンセットも開けてください。」
なるほど、云われてみれば冬などは、車の取っ手やドアのノブなどに触るとバチッと音がして静電気が飛ぶことがある。それで電子機器が壊れてしまうわけだ。そこで、云われた通りにしてからマザーボードを取り出した。
話で聞いたり、雑誌で見たことはあるが、こうやってしみじみと間近で見るのは初めてだ。電子技術はすごいと思った。俺の若い頃の仕事だった精密機械の設計では、こんなものは当時無かった。が、今では電子機器で制御されているのである。俺は、思わずため息をついた。マザーボードは、コンピューターそのものなのが、感覚としてよく分かる。
マザーボードを見ながら吉田さんはその回路の主要な部分の説明をしてくれた。マザーボードが、ATXフォームであること、CPUソケットはスロット1150、メモリーソケットは168ピンのSDRAM、PCIとISAバスソケット、SATAやコントロール用のサウスブリッジ、ノウスブリッジ等のチップセット、各種のポートの位置と機能、コンピューターを動作させるための基本周波数であるFSBが100MHzである事等々盛りだくさんであった。俺は、とても全部は覚えられないと云った。吉田さんは、
「そのうち全部理解できますよ。理解できなかった部分は後で聞いてください」
と、学校と同様に親切である。
次に、マザーボードにCPUホルダーを取り付けた後、一度、マザーボードを置いて、同梱されていたバックパネルをケースのバックパネルの一部と交換した。そして、アース用のリストベルトのクリップを今度はケースの一部に取り付けた。そうした上でいよいよマザーボードをケースの内部に取り付けた。CPUと冷却フアンセットを組み合わせ、マザーボードに装着し、さらに冷却フアンの電源リードをマザーボードのソケットに挿した。メモリを挿したところで各ドライブユニットとマザーボードの接続をした。この接続が、又、ややこしい。ケーブルの種類とデータをやりとりするプロトコルの規格がそれぞれ異なるのである。SCSI 、IDE、SATA等の言葉が、吉田さんの口から流れ出てくる。ともかく、云われた通りに電源も含めて接続した。普段は何でも冷静に対処できる俺だが、今度ばかりは違っていた。
それが終わると、各種インターフエィスボードを取り付けることとなった。
今度は、プラスドライバーでバックパネルの増設ボード取り付け用で1cm幅程度のブランクパネルを外した。それから、先ず、グラフィックボードをPCIソケットに挿した。
次にPCIバスソケットに、モデム、サウンドの各種カードを順番に挿してビスで止めた。その上で、未接続のドライブユニットDVD/ROMとサウンドボード、ハードデスクをケーブルでつなぐのである。俺はもう夢中であった。ふと時計を見ると、既に五時を回っていた。
俺は、大きくため息をついて、タオルで汗を拭った。
吉田さんは、微笑みながら、
「本日は、ここまでにいたしましょう」
と云った。同感である。
「明日、又、内部の復習をいたしますので、パネルは取り付けないでおきます。それでは不用になった箱やゴミ袋をまとめて下さい。今日の作業は終わりにしましょう」
そういわれて、俺は周りを片づけ立ち上がった。
リビングルームへ戻ると、吉田さんは、麦茶を出してくれた。これが実感として美味かった。何となく今までとは違った経験したことのない充実感があった。
しかしながら、吉田さんは大した人である。プライベートの場所で吉田さんの素顔を見るのはもちろん始めてでその立ち居振る舞いがゆったりとしてはいるが無駄のない手際の良さが感じられる。仕事が良くできる彼女の資質があらゆるところに現れているように思えた。
俺は、空腹感を覚えていた。この時間帯では珍しいことである。ソファーから立ち上がり吉田さんに対して、今日、俺が、訪問することで吉田さんの休日を無くしたことと、パソコンの製作のための指導に関し煩わせた事に対して丁重に礼を述べた。
彼女は
「そんな大したことではありません。私の方も楽しんでおりますから」
と、にこやかに云った。
俺は、時間も大分遅くなったのでお疲れでしょうが食事にいたしませんかと聞いた。
吉田さんは、にっこりして、
「嬉しいわ。一人での食事はおいしくありませんから。今日は、何を食べようかしら。後藤さんは何を召し上がりたいのかしら?」
俺は、彼女に対して初めて、今日は疲れたので、少しこってりとした中華料理が食べたいが、吉田さんはどうですかと聞くと、
「私、実は大好きなのです。でも、すぐ食べ過ぎて太りそうで控えていたのですよ」
と、例の上目遣いに俺の顔を見ながら云って微笑んだ。
「このマンションの裏手においしい中華料理のお店がありますの。そこでよろしいかしら?」
俺は、頷きながら手荷物を持ち、玄関へ向かった。少し間をおいて吉田さんも一緒に玄関を出た。
彼女は、玄関の鍵を閉めてから一緒にエレベーターに乗った。エレベーターの中で小さな白いバック抱えた彼女は、
「着替えている時間がなかったので、このままの格好で出てきてしまいましたの。ごめんなさい」
俺は、何をおっしゃいます。よくお似合いですよ。というと
「後藤さんは女性の扱いがお上手ですね」
と云って、クスッといつものように笑った。
外へ出ると、少し開放的な気分になった。結構、緊張していたためだろう。外はまだ明るかった。駅に近いせいか梅雨の日曜日の割には人出は多いようである。その中華料理の店は、かなり立派で上品な感じのする大きな店であった。吉田さんは、
「上の方が落ち着きますから三階に行きましょう」
と言って階段を先に上っていった。
三階は小さな個室が幾つもあるようで、彼女は、何かマネージャーらしき男性と話をしていた。どうやら、この階の部屋は予約制らしい。
部屋は殆どが空いているようで、二部屋をのぞくと、皆扉が開いていた。そのせいか、すぐに話が付いたようで小さい部屋に案内された。
部屋の中は、当然ながら、中国風で赤い色で装飾されており、例の丸い回転テーブルが置かれ、五~六人は食事ができる様であった。二人は並んで腰をかけた。ウエイトレスが水とおしぼり、メニューを持って入ってきた。それらをテーブルに置きながら
「飲み物を先に伺いますが何になさいますか?」
と注文を促した。二人で顔を見合わせ同時に
「老酒」
と言って、声を出して笑った。店の女性もあまりのタイミングに一緒になって笑った。それから、俺は、前酒に生ビールの小さいのを貰うことを提案した。吉田さんもすぐに頷いた。
ウエイトレスが下がり、扉が閉められた。二人で何となく顔を見合わせ微笑んだ。 今日の吉田さんはいつもより薄く化粧をしていたがとても綺麗だった。そのことを云うと彼女は、
「後藤さんに言われると、お世辞と解っていてもとても嬉しい」
と素直に云ってくれた。俺は本当にそう思った。いつもの通り料理は彼女に任せ、俺は、黙って座っていた。酒が運ばれてきた。彼女は、手慣れた様子で数点の料理を頼んだ。そして、二人で乾杯した。いつものように吉田さんの、
「では、後藤さんの頑張りと私たちの幸せのために」
の声と共に。
しばらくして料理が運ばれてきた。二人でそれを食べ、酒を飲みながら話をした。当然話題はパソコンである。俺は、いくつか理解の出来なかったことをたずねた。彼女は親切にそれは親切に教えてくれた。それを俺はメモに取った。真剣であった。
二時間ほど過ごし、明日もあるので終わりにした。俺は金を払い、彼女に丁寧に礼を言い別れた。彼女もそれにきちんとした挨拶を返してくれた。彼女をマンションの入り口まで送り、俺は電車に乗った。非常に充実した気分であった。
W駅で降り、そのまま帰るには惜しい気分であった。いつもの飲み屋の暖簾をくぐった。「いらっしゃい。」と照沼さんの声で、迎えられた。土曜日なのに結構客が居た。おれは、この前の醜態に詫びを云いながらビールを頼んだ。照沼さんは、
「後藤さん、言いっこ無しだよ」
と云って片目をつむった。酒を飲みながらノートを開き今日の復習をした。少しずつではあるが理解は進んだように思える。
次の日も、吉田さんのところへ出かけた。昨日と同じに、吉田さんは涼しげな顔で迎えてくれた。俺は、玄関で頭を下げ昨日の礼を述べてから部屋へ入った。ソファに座ると吉田さんがコーヒーを入れてくれた。
今日の吉田さんは、ベージュのパンツスーツを着ていた。全く何を着ても様になっている。
「何でこんな素敵な人をほっておくんでしょうかね、」と言うと
「お世辞ばっかりね」
と殆ど聞き流しながら、吉田さんも一緒にコーヒーを飲んだ。その様子を見て、俺は、これからはこの手の話はしないようにしようと思った。彼女は飲みながら
「昨日の作業が大分進んだので、今日はゆっくりしましょう」
と言って、昨日の復習から始めた。雑談風に、時には、パソコンの雑誌の記事や本も取りだしいろいろ関連する話も絡めて話をしてくれた。大分話の内容を理解できるようになった自分がよく解った。
やがて、成り行きで社内の話になった。俺としては気になっていた事なので、注意深く経営陣の動向とそれに伴う経営方針の変化予測を訊ねた。吉田さんは、全てを知っているわけではありませんが、と前置きして、
「旧体制派は、必死になって現社長を追い出そうと工作をしたようですが、大株主の金融グループは、先週、前社長の会長と現社長、元社長を呼び、何処かで会談をしたようです。
その席で、元社長の経営上の不手際と、今回のゴタゴタを起こした責任を追及したそうです。
さらに、一族が株を高値で市場売却し、知らん顔をして元社長と共に現社長を追い出そうと画策している実体を叱責した上で、現会長、社長への支持と旧体制派の重役の総退陣を求めたようです。
その上、現在、一族が所有している株式権利の執行を現会長に任せることも要求したようです。
つまり、勝負あったわけです。大株主の金融グループは、自分たちの金融会社を持ち株会社として中心に据え、必要外の株を市場に出し、その価値を高めていこうとしています。その為には、利益の上がる会社が必要なのです」
吉田さんは、表情を殆ど変えることなく、淀みなく話した。
俺は、話の内容に背筋がヒヤッとするのを覚えながら、彼女の冷静な話し方に舌を巻いた。
「株主総会は今週ですが、それを受けて役員人事が新体制に移行することとなります。それから、社長の腹案の人事・労務部長人事が発表になるでしょう。機構改革と人事異動はそれからでしょうから九月になるでしょうね」
つまり、彼女の見通しでは、九月一日付で機構改革と人事異動が実施されるだろう、ということだ。その時、俺の社内における近未来もわかるだろう。
俺は、最も知りたいことを訊ねた。それは、社長が、今後、会社をどういう方向に持っていこうとしているかだ。そのもって行き方によっては俺は会社で生き残れないかもしれないし、又、場合によっては仕事のやり方を変えていかなければならないのだから。
吉田さんは、俺の目をじっと見つめた。そして、そのまま言葉を継いだ。
「会社の投資を最小にして最大の利益を得ることです。間接部門は全てアウトソーシングとして人員整理を実施し、先ず合理化を図ります。つまり、利益を直接あげない部門は会社から外します。
それから、生産はキーテクノロジーと研究開発部門をのぞいて外注化します。
さらに、全国に散らばっている技術部門を統合し一カ所に集中するそうです。
当然、重複している部門は整理し余った施設と人員は整理すると言うことです。
ただし、営業部門は強化するそうです。技術部門から出た余剰人員のうち、優秀な人を営業に回すそうです。
それから、その営業担当者にはマルチ人間としての能力を要求するそうです。ということは、これは出来る、あれは出来ない、というのは駄目と言うことです」
そこまで一気に話すと、彼女は俺から目をそらし、コーヒーを飲んだ。結論であった。俺は、声が出なかった。
そして、俺の欠陥を補修しろ、と吉田さんが言ってくれているのがよく解った。それと同時に、俺は、頑張れば生き残れるかもしれない、とわずかな希望も見えたような気がして、良く聞かせてくれたと礼を言った。
そして、あらためて俺の足らない部分を教えてくれるように頼んだ。
彼女はいつもの表情に戻り、ニッコリとして、
「後藤さんならそうおっしゃる思っておりました。ぜひ、高いところを目指して欲しいと思います。私、前を見ずにリスクを避け、保身を図る方は嫌いですの。後藤さんには、絶対そういう生き方をして欲しくありません」
と言った。俺は何故か元気が出てきた。力が湧いてくるような感じであった。
吉田さんは、
「昼食にいたしましょう。今日はおしゃべりをしていたので時間が経ってしまいました。ラーメンを作りますが、よろしいかしら」
時計を見ると十二時半であった。俺は、お手数かけますと言った。二人でラーメンを食べてから作業を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます