第3話
約束の時間までには大分ある。周りを見回してから、総武線に沿ってお茶の水の方へ相生坂を上っていった。昌平坂の辺でレストランがあったので、昼食をとることにした。
そこの店の窓から神田川が見える。以前はこの川も悪臭がしていたものだが、最近ではきれいになり鯉が泳いでいるのが見える。岸の緑が川面に移り未だ風情が残っており、湯島聖堂のうっそうとした緑も見える。軽めの食事をゆっくりと時間をかけて食べた。
この四月に、専門学校へ通いだして以来の事を思い出してみると、何故か、それまでの生きてきた自分の人生と違った人生を歩み始めたような気がした。
そして、昨夜、酒を飲みながら自分の中で何かが弾けたような気がした。
あんな気持ちになったのは生まれて始めてであった。何か、上手く言葉で言い表せなかった。しかし、俺の中で何かが変わりつつあるのは、明らかであった。
この歳になって、と思うが、鈴木さんの話だと人間は幾つになっても変わることが出来るのだという。出来れば、よい方向で変わって欲しいともいっていた。
俺は、どっちなのかは未だ解らない。でも、毎日が今までと違う。仕事も周囲も町も電車も家も何も変わっていないが、明らかに俺は変わりつつある。先は解らない。ともかく行くしかない。何処だか解らないが。ふと緑色の風を嗅いだような気がした。
金を払い店を出た。そこから聖橋の袂まで行き、湯島聖堂の角を曲がり、明神通りへ出た。時計を見ながら通りを横切り、神田明神の参道を入った。
真っ赤な鳥居を見るのは久しぶりだった。この辺はもっぱら夜だけで、昼間は学生時代以来だったような気がする。二部の大学は駿河台下にあったので、土日の休みの時はよくお茶の水界隈を、友人とほっつき歩いたものだった。
あのころは、いなかった外国人がやたらといる。
境内は結構人が出ていた。賽銭箱に金を放りこみ、手を合わせた。こんな事さえも遠くなっていたような気がする。
これからの自分の漠然とした不安を払うようにもう一度手を合わせ、境内を後にした。子供達のはしゃぐ声が聞こえた。境内を出て男坂の階段を下り、昌平橋通りに出た。もう一度神田明神通りに出て、中央通りを秋葉原の駅まで戻り、電波ビルに出た。途中、郵便局へより金をおろした。
俺は、出張が多いので日本全国どこへ行ってもある郵便局のカードを利用している。特定郵便局はどんな地方へ行っても必ずあるので便利である。
街は、すごい店の数と人出である。日本人と同じくらいの数の外国人がいるようである。
不景気、リストラ、倒産どこ吹く風である。慣れない俺なんぞは、何処でパソコンを買っていいのか解ったものではない。
秋葉原デパートと一体に見える電波ビルを一回りすると、ビルの電気街側に階段があり、そこを上った二階に待ち合わせの喫茶店があった。
「古炉奈」と漢字で書かれてあった。外から見るのと違って、中は、なかなか洒落た店であった。吉田さんの行くところは何処もこんな上品な感じである。
コーヒーを注文し、時計を見た。約束の十分前であった。途中で買ったパソコンの雑誌を読みながら吉田さんが来るのを待った。その喫茶店は外見と中が全く異なっていた。
床が今時、木張りである。柱、梁、格子天井も木である。当然テーブル、椅子、カウンターも木製である。それが全てダークブラウンで仕上げられている。従業員の女性は黒のワンピースを着てきびきびしており、カウンター内にいる男性従業員も黒のズボンに真っ白なワイシャツ、黒の蝶ネクタイと言った具合に洗練された様相である。最近では見かけたことがないような洒落た店である。コーヒーもなかなかのものであった。俺は非常に気に入った。
気が付くと時計は約束の三時をとっくに過ぎていた。ふと不安になった。やはり今日の講義の後、無理にでも確認しておけばよかったと思った。更に十分程経った。三時半であった。俺は窓の外の雑踏を見ながら、吉田さんが来なかった場合のことを考えた。夜までどうやって一人で時間をつぶそうか、と思い始めていた。
突然、耳元で
「御免なさい」
という声がした。
びっくりして見ると、目の前に吉田さんの顔があった。彼女は俺の前にかしこまって立ち、チロッとその可愛らしい舌を出して、上目遣いに俺を見た。俺は声が出なかった。いつもの彼女とは雰囲気が全く違っていた。
一寸濃いめの赤い紅をさし、黒いロングのキュロットに、真っ赤なカチッとしたYシャツを着て、同じ色の真っ赤な丸い大きめのイヤリングをつけていた。そして、長い柄の黒い傘と、やはり黒の大きめのバッグを持っていた。
「大分お待ちになったでしょう。怒っていらっしゃるでしょう」
といいながら、俺の横に座った。
俺は、どぎまぎしながら、怒ってはいないが、来ないのかと思って、これからどうやって過ごそうかと考え始めていたところだと言った。
ウエイトレスにコーヒーを注文しながら
「実は職員会議が早く終わったので、着替えに一度家に戻ったのですの。そうしましたら、今日、マンション居住者の集まりがあったのを忘れておりまして、そちらへ顔を出していたので遅くなってしまいましたの。本当に御免なさい。決して今日のことを忘れていたわけではありませんのよ。むしろ、楽しみにしていたのですから」
俺としては、来て貰えたのだから、もう何でもいい。ほっとした、と正直に言った。それから、今日は、いつものスーツ姿より素敵ですね、と言った。
「嬉しい。よかったわ」
と本当によかったという顔をした。運ばれてきたコーヒーを飲みながら、
「あぁおいしい」
といって俺の方を見た。俺もつられて、ここのコーヒーはおいしいですね。吉田さんはいい店ばかりご存知ですねといった。
「ここは、秋葉原へ来ると何時も寄りますの。駅に近いし、感じのよいお店でしょう。業界の方が多く利用するみたいですのよ。大学時代は、時々教授のお使いで利用いたしましたの」
そういえば、吉田さんは大学の研究室で、コンピュータに関する研究では国内で第一人者である教授の弟子であったことを思いだした。専門学校の教官の仕事も、その教授から行ってくれと頼まれたと云っていた。
彼女は、一息ついたところで、
「後藤さん、パソコンですが、ブランド品、ショップ物と自作とありますが、どれになさいます?」
と俺に問いかけた。ブランド品はいわゆる有名メーカー製で、こちらの要望に近い物をを買うということ。ショップ物とは、専門店のオリジナルでありながらハーフメードで、こちらの要求機能をだし、その店でオーダー品として作って貰うこと。自作とは、まさに自分で作ることである。俺の気持ちとしては勉強のためにも自作としたいが、自信が無いというと、彼女が
「では、やる気があのでしたら私がお教えいたしますが、いかがでしょう」
でも、どうやって、と口ごもっていると、
「ショップで、自作というのもあります。ですが、沢山の人が一緒に指導を受けるものですから、細かいところまでは教えてくれません。私の腕前を信じていただけますか。信じていただけますようでしたらこういたしませんか」
と悪戯っ子みたいな目で俺を見た。
俺は、吉田さんが、優秀であることは信じて疑わないどころか、神様みたいなものですからといった。彼女は一寸胸を張って、
「よろしい。それではこういたしましょう。先ずこれから、パーツを売っている店を回ります。なるべく安くてよいものを購入いたします。そして、それを買い集めてからまとめて私のマンション宛に送っていただきます。大きな物はその購入したお店から直接送っていただきます。 そして、私の家で御指導申し上げます。勿論、後藤さんのご自宅でもよろしいのですけど、道具も含めて、何かと大変で御座いましょう?」
と、一寸からかう様な口調でいった。俺もそう思ったが、吉田さんにご迷惑ではないかといった。何と言っても独身で、これだけの美人であるからして、周りの目もあるでしょうともいった。
「私に関して言わせていただければ、全く問題は御座いません。ご心配の無いように。尤も、後藤さん自体がご迷惑かもしれませんね」
といって、クスッとこの前のように笑った。
「後藤さんは、私のお部屋へ来ていただく方としては、そんなに見栄えの悪い方だと思っておりませんのよ」
とも言った。俺は、即承諾した。
「それからもう一つ。今日はご馳走して頂けますわよね。?お約束ですから」
とも言った。もう何でもいいという感じであった。全く不思議な女性であった。全てが嫌味にならないのである。まさか俺みたいな者に・・。有る訳がない。ともかく買い出しに出かけることとした。
俺は、店の支払いを済ませ彼女の後を追った。
中央通りを渡り裏道へ入ると、今時こんなビルと思われるような古いビルの店を次から次と渡り歩き、この前の打ち合わせメモに従って買い集めていく。
殆どの店は彼女の馴染みで、「先生」と呼ばれていた。
液晶モニタとケースとプリンタは同じ店でまとめて買い、彼女が交渉してかなり割り引いて貰った。店員が、
「先生は、相変わらずきついねぇ」
と苦笑いをしていた。
彼女と歩いていると、みんなが振り向く。特に、若い女性が振り向くのである。確かに彼女は目立つのである。
二時間ほどで全てが終わった。最後に、まとめた小物を宅急便で送って終了した。 俺は外回りだから丈夫だと思っていたが、こういう場所を歩くのはさすがに疲れる。
彼女は慣れているせいか元気である。ともかく、また、待ち合わせの喫茶店に戻った。
「今度はソーダ水が戴きたいわ。」
と彼女が言った。さすがにのどが渇いたらしい。俺も同じ物を頼んだ。
一気に半分ほど飲んでから、二人で顔を見合わせて笑った。
「あぁ楽しかった。こんなの久しぶりですわ。」
と本当に楽しそうであった。そこで、領収書を元に計算してみた。なんと、配送費を含め、約三十万円であった。びっくりした。俺は彼女に、予算以下で終わったというと、
「予定通りでしたわ。その領収書類は後で不良品だったときにクレーム用に使いますから、まとめて置いてくださいましね」
と満足そうに言った。俺は、女房に五十万はかかると言っておいたのに大分安くなった。
「後藤さん、品物は多分二~三日中に全て私のところへ届きますわ。後は、組立てるのに私の指導と後藤さんの勉強も兼ねて二日くらいと、調整、ソフトウエアのインストールとその説明で半日必要ですわね。来週は講義が御座いませんから、土、日と二日間で組立て、次の週は講義が終わってから調整してそのままヒートランニングて一晩置き、後は何時でも車で引き取りに来ていただく、ということでいかがでしょう?」
全くてきぱき考えることと感心しながら、一も二もなく同意した。
こういう話の時の彼女は、顔が引き締まり、別人のようである。何時も仕事をお願いしている時と同じである。俺は、こういう感じの彼女に好感を持っていた。だから、俺と二人だけの時の雰囲気との落差に振り回される感じなのである。
しかし、それにしても上質の女性だとあらためて思った。そんなことを考えながら、彼女の顔をじっと見つめた。彼女は、
「あらどうかいたしまして?。何か顔についていまして?」
といつもの顔にもどり、からかうように俺に言葉を投げた。俺はびくっとしながら、あまり素敵なので見とれていたというと
「まっ、お上手ね」
といって微笑んだ。
「でも女性って誉められていやな方はいなくてよ。私も嬉しい」
と素直に言った。俺の心の中で何かが動き出した。
三十分ほどして店を出ることにした。ようやく疲れから回復した。何処で食事をしますかと聞くと
「後藤さん、決めていただいてよろしいのよ」
しかし、俺としては、貴女みたいな方をつれて行くところを知らないから、
「吉田さんの知っているころへ行きましょう」
と言った。彼女は、俺の顔をじっと見ながら、
「それでは、銀座へ行きませんこと?」
ともかく言いなりである。喫茶店の支払いを済ませて外へ出た。
通りで車を拾い数寄屋橋までいき、西銀座デパートの前で車を降りた。晴海通りを渡り、外堀通りをいき、みゆき通りを左へ曲がった。彼女は慣れた足運びで俺を案内した。中央通りへ出る手前の大きな和食の店に入った。そんなに混んでいない様であった。俺も接待で随分と銀座に来たがここは初めてであった。
玄関を入ると、打ち水がしてあった。黒竹と笹の植え込みと獅子脅しとが飾りでおいてあり、水が流れ、こぎれいになっていた。床は、那智石のはめ込みの洒落たものであった。
「いらっしゃいまし」
と、年増の和服を着た女将風の女性が出迎えた。彼女は、
「お世話になります」
と、答えて俺の腕を掴むようにして組み二階へ上がった。そして窓際に座った。そこは、丁度、下にみゆき通りが見下ろせるよい場所だった。
いい店ですねというと、彼女は、
「大学時代に、大きなイベントがあると、その打ち上げで何度か来たことありますの。確か、学生の一人の親戚だとか言ってました。そのおかげで当時は安く面倒見ていただいたようですの。会社へ入ってからは母が、上京したときに何回か寄っただけですわ」
それにしても、いい店を知ってますねと感心した。
和服をまとった女店員がお品書きとおしぼりと水を持ってそばに来た。
「いらっしゃいませ」
と言いながら丁寧に腰を折った。それから水とおしぼりを置き、お品書きを差し出しながら、
「何をお召し上がりでしょうか」
とゆっくりとした口調で、それも控えめに注文を促した。俺は、何を頼んでいいかわからず彼女にお品書きを渡した。彼女は微笑みながら
「私が決めてよろしいかしら。後藤さんは好き嫌いが無いとこの前おっしゃっていましたわね」
と言いながら、刺身や、焼き魚、煮物など手際よく頼み、それから、上目遣いに下から俺の顔を悪戯っぽく見上げて、
「冷酒を1本」
と言った。
「ご飯は、後でお茶漬けを戴きますから」
若い店員もそれを見て、口に手を軽く当てクスッと笑いながら、
「かしこまりました」
と言って下がった。俺は、ただ苦笑するしかなかった。彼女もこの店はずいぶんと久しぶりだと言った。
酒が来た。冷酒はいわゆる二合ビンで、よく冷えていた。大きめの猪口に注ぎあって
「では後藤さんの頑張りと、私たちの幸せのために乾杯」
この前と同じであった。俺も乾杯と言って一気に飲んだ。ビール党と言ってはいるが、俺は、本当は日本酒が好きなのである。好きなだけに飲み過ぎるのである。そこでビール党ということにしているのである。要するにどちらでもよいのである。実に美味い。彼女も
「あぁ美味しい」
といって俺が注いだ酒を続けて飲んだ。
「お酒が好きな女って、後藤さん嫌でしょう」
俺は、本当はいい飲相手が欲しいがなかなかいないといった。
「奥様は召し上がらないのですか?」
家の女房はいっさい飲まないし、俺が、酔って帰るのを嫌悪しているくらいだといった。彼女は、一寸眉をひそめた。しかし、すぐいつもの顔に戻り、
「それでは、私は如何ですか。一寸癖が悪う御座いましてよ」
と言って笑った。俺は、願ってもないことだといった。そして、もしよろしければたまに飲みませんかと誘った。彼女は顔を輝かせ、
「本当ですか。嬉しい。私、何時もお部屋で一人で飲むの。社内の若い女性と飲むのはどうも話が合わなくて疲れますの。私からもお誘いしてよろしいですか?」
俺は、いつでもどうぞと言った。
それからはいつもの取り留めの無い疲れない話に終始した。酒を追加してしばらく飲んでからお茶漬けを貰い店を出た。
外は一寸蒸し暑かった。もうすぐ又暑い夏がくる。
「後藤さん、酔い冷ましに少し歩きませんか」
依存はなく、並んで歩き始めた。彼女は傘を俺に渡し俺の腕に掴まるようにして歩いた。中央通りへ出てから右に曲がり、途中時々彼女がウインドウを覗き雑談をしながら新橋方面へ歩いた。
花椿通りを右折しさらに外堀通りを右折し有楽町へ向かった。
久しぶりの銀ブラだった。女性と最後に歩いたのは何時だったか。女房とだったら二十五年ぶりぐらいだ。そんなことも覚えていないぐらいだった。吉田さんは楽しそうだった。時々、その端整で豊かな表情を持つ顔を俺に向けてくれた。九時を回っていた。
「そろそろ帰りましょう」
というと、一寸ふくれて見せて、
「えぇー、もう帰るんですか」
といいながらも駅へ向かった。別に怒っているわけではない。彼女は、
「私、酔っちゃいました。駄目ですね」
といった。俺は、そんな彼女を見て思わず抱きしめたくなり、彼女の二の腕を強く握って・・・しかし自制した。その時、彼女は真っ直ぐに俺を見つめた。
「どうかなさって?」
と言いながらその目が光った。だが、すぐに元に戻った。
この前、初めて食事をした時と同じ光だった。
駅に着き、切符を買い、電車に乗った。電車は相変わらず混雑していた。彼女は、並んで立つと、小さい声で
「ご馳走様でした」
と言って微笑んだ。そして又、この前と同じように俺の肩にもたれかかり目をつむった。俺は、あまり酔ってはいなかった。彼女もそんなに酔っていたわけではない。この前と同じようにきちんと立っていられたのだから。
やがて、彼女の駅が近づいてきた。
「もう降りるんですよ」
と告げると、薄目を開け、
「御免なさい」
と言って、俺から手渡された傘を持って降りていった。彼女のマンションはこの電車からも見える駅前マンションだそうであるから安全である。
W駅につき、電車を降り家路についた。家へ着くと誰もいなかった。そういえば車庫に車がなかった。未だ、帰っていないようである。食事の後、何処かカラオケにでも行ったのだろう。俺は、シャワーを浴びた後着替えて自分の部屋へ入り横になった。
今まで経験したことのない一日であった。頭の中が少し熱い。何だか解らないが今までと違った俺が歩き出している。ともかく歩くしかない。明日も又講義がある。少し眠くなってきた。そこへどやどやと賑やかに家族が帰ってきた。
「楽しかったねぇ」
「美味しかったよ」
「また行きましょうね」
などと口々に声高にしゃべりながらリビングに入ってきたようである。この家の中でついぞ聞いたことのない明るさである。しかし、俺の脱ぎ捨てた洋服を見たようで、
「しぃー」
という声と共に急にひそひそ声になった。そんな家族をよそに俺は眠りに落ちた。
明くる日は雨であった。傘をさし学校に出かけた。いつものように講義が始まり終わった。今日の教官は代理であった。吉田さんが来られないときは補助の一人が代理を務める事になっていた。どうしたのか気にはなったが、まさか聞くのも変である。
今日はまっすぐ家へ帰った。こういうときは家で勉強だ。学校へ行くようになってから家にいることが多くなった。暇さへあれば教科書を読み、買ってきた雑誌や参考書を読んで勉強している俺を見るのは、おそらく、家族は初めて見る光景であろう。
家内中が俺を持て余し始めているのが雰囲気で解る。子供達はろくに勉強の仕方も知らずに、又、せずに学校へ通っているのだろう。勉強はコツコツやるしかない。
日曜日の午後で雨のせいか、家族が皆家にいた。今年大学へ入った息子が、珍しく俺のそばへ来た。
「父さん、一寸いい?」
俺は、いいよといって顔を上げた。
「父さんの勉強しているのを初めて見た。最近、随分と頑張っているね。どうしたの。」
といった。見ると、女房も娘も部屋にいる。最近では珍しい事だ。俺は、この際だから子供達にも全て話した方がよいと思った。どうせ女房の口から俺の実体とは違った話が子供達に伝わっていると解ってはいたが。
「あぁ、聞いていると思うけど、今の俺の状況はJリーグでいえば来年の契約はして貰えず二部リーグにトレードに出されるか、場合によってはピッチに立てなくなるかもしれないからね。普段から練習をして監督に印象づけるプレーをしなければ、放り出されるんだよ」
と高校時代までサッカーやっていた息子にわかりやすくいった。
「でも父さんは、大きくて有名な会社に勤めて、いわば、Jリーグのレギュラーだよね。それが今はいい活躍が出来なくてベンチだという事かな」
そこへ女房が神妙な顔をしてコーヒーを入れて持ってきた。息子とコーヒーをすすりながら俺は続けた。
「そうではないな。俺は、今でもレギュラーだよ。得点を上げている。長い間エースストライカーだと自分は思っていた。体力もスピードもまだある。
だがな、監督も替わり、最近のプレーの仕方が変わってきたのに気づかずに古い自分のサッカーをやっていたんだよ。
つまりチーム全体で役目をきちんと決め、それでいて連係プレーを保ち、場合によってはデフェンダにボールをまわして得点を上げる、といった様なものだ。
時として、違うポジションもこなさなければならない。そこのところの手法を身に付けないままピッチに立っていたわけだ。
そこで、チームをもっと強くしようとしている監督としては、俺を切って、多少一時的には能力落ちるが、総合的な力を持った近代的な俺と違う選手と契約したいといっているようなものだ」
「あぁ、それで新しい戦法を身に付け、もっと得点能力を上げようとして学校へ行き始めたのか」
どうやら息子は俺の今の状況を理解したようである。女房何かよりよっぽどましであ
る。
「そうだとするとね、父さん、僕も父さんのいうような選手にならなければ、卒業するときにいいチームと契約できないね」
といった。
「そういうことだ。だから勉強して人に負けないようになって希望の職場へ就職することだね」
と諭した。息子は一寸考えてから、
「父さんパソコン買うんだってね。今度、家で僕にも教えてくれないかな。大学でも、一年の後期からはパソコンを使った授業になり、レポートもフロッピーディスクで提出かEメールで送るかに変わるそうで、出来れば自宅でもパソコンを用意するように言われていたところなんだ。やはり、スマホだけでは、足りないみたい。
勿論、学校のパソコンは自習室で開放してくれるそうなので自分のものが無くても何とかなると言うことだけどね。僕はどうしたらいいのかと思っていたところなんだ。」
「勿論、お前も使って良いんだよ。当然だよ。父さんの使い終わった教科書も渡すから一緒に勉強してみよう」
といった。息子は今まで見たこともないようないい顔で、
「じゃ僕も使わせて貰えるんだ。よかった。父さん有り難う。失礼します」
と言って、自分の部屋へ引きあげた。俺は、半分呆気にとられていたがうれしさがこみ上げてきた。
来年、大学卒業で社会人になる予定であるがまだ就職先の見つからない娘は、女房と、そばで聞き終わって何ともばつの悪そうな、それでいて神妙な顔をしていた。
今時の学生は、全てスマホで済ませている。我が家でも同様である。
大学のレポートなんかも、ひな形と、先輩や、友人、ネットでの資料をスマホで編集し、大学へへ提出するなんぞは、簡単に出来てしまうようである。
そのため、キーボードなんか使わないのである。しかし、企業では、端末があり、社内のイントラネットで仕事をする必要があり、キーボードを主体とした作業は必要で慣れておかなければならない。息子は、それに気づき、やる気を起こしたのである。我が社内でも、実は、新入社員のキーボード不慣れが問題になり、講習口座を設ける騒ぎとなっているようである。
会社では、七月の役員人事が社員の口に乗り始めていた。
株主総会で提案予定の役員の大幅若返りを巡り、現社長と旧創業者経営陣との対立が噂された。吉田さんの言っていたことはどうやら本当らしい。
この手の噂は社内の勢力争いであるからして数頼みのところがある。政治家と同じである。その為、裏工作が激しくなり、結果として、事実が止めどもなく流されてしまうのである。
噂が噂でなく密かにささやかれる事実なのである。そんな話が例年と比べものにならないくらい出回っているのを聞くにつけ時代に乗り遅れているのは俺だけではなく、会社そのものが乗り遅れているのではないかと思えた。
噂を要約すると、社長を抜擢した会長派と、現役ではないが個人大株主である創業者一族の元社長派が、主導権争いをしているようである。
会長は、創業者一族でも末席であるがやり手なために石油ショックとニクソンショックで疲弊した会社の建て直しを押しつけられた経緯があった。見事に会社再生果たした実績の上で押しも押されぬ実力者にのし上がったのである。
そのくらいであるから、バブル経済の後始末の末ようやく一息ついた会社が生き残るためには同族経営では駄目だと判断し、一族ではないが、優秀で且つ、財界をバックに持つ、社長を抜擢したのである。
社長は、この激動する世界経済の中で存続をかけて旧態然とした組織を見直し、能力主義、合理主義による欧米流の経営を導入しつつあった。それは、俺でさえ急ぎすぎる感じを受けるほどであった。
が、しかし、業績は大きく伸びつつあった。株式市場の評判もよく、株価は上昇に転じた。 当然、創業者一族派は冷や飯を食わせられおもしろくない。ぬるま湯の昔が懐かしく、社内の幹部職員を味方にして社長を放り出そうとしているようである。
社長と会長は、その一族ぬるま湯派を今回一掃しようとしているわけである。
結果として、その経営体制によっては組織のあり方と社員の処遇には大きな開きが出てくる。
合理化の対象になるか、残れるか、境目の社員も多いわけで、それらの社員は旧体制派を支援し、今まで実力と実績がありながらごますりが下手で昇進昇級が芳しくなかった連中は、社長を支援することとなった。俺も、そんな社長は嫌いではない。むしろ、望ましいくらいである。俺としては、その社長が必要とする社員として俺自身、十分ではないところが問題なのである。
会社の法人大株主である金融関係の会社は、送り込んである専務を通じて社内の状況をつかみながらどちらを支援するかを決定しようとしている。個人株主の株数より法人株主の株数の方が圧倒的に多いわけであるからして、法人株主を味方に付けた派が勝ちである。
今のところの情勢は、噂では五分々だということの様である。しかし、バブル崩壊後、金融機関も変わってきていて、発展性のない企業は相手にしなくなってきている。
噂としては、旧経営陣と社員の多くのだらだら社員がつるんでいるために五分々だと云うことだが、俺の見たところでは、社長派の圧勝だろう、と思っている。
金融機関は、旧経営陣で創業者一族の一部が値上がりした会社の株を市場で売って多額の現金を手にした連中が存在することも掴んでいるらしい。そんな創業者一族に、会社の経営を任せるとは思えない。
金融機関は、会社を安定させたところで持ち株の一部を市場に放出するつもりのようである。そこで得るであろう膨大な資金で自社の財政を強化したいと考えているのである。
それはまた、会社の経営者が個人ではなく、不特定多数の株主に曝されると云う欧米スタイルの、経営者と資本家の分離という姿が見えてくる。それは、現社長の目指すところでもある。
これで会社は、大きく変わるだろう、と俺は思っている。その上、もっと伸びて行くであろう。その変革の中で生き残るためにもっと力を付けなければならないと自分を戒めた。
そんな話が飛び交うであろうafter5に参加しない俺は最も評判が悪い。行けばどうせ、
「おまえは、どちら派だ」
と責め立てられるに決まっている。現に昼飯を食堂で食べるときなんぞは煩わしいと云ったらありはしない。適当にフンフンと聞いているしかない。
どうせ、うちの女房の方が詳しいに決まっている。俺の立場がよくないと見ているせいか、ここのところ、何回か、実家へ帰って相談しているらしい。息子が卒業したら、実家に戻る気持ちを固めているようである。俺も、それはそれでいいだろう、と最近では諦めている。
二~三日して学校の帰りがけに吉田さんが、
「後藤さん、マシンのパーツが全部届きましたわ。確認の意味で梱包を全部解きますが、よろしいかしら」
「詳しいのは見ても解らないから、むしろお願いいたします」
と伝えた。
「本当は最初から自分で開けるのが楽しみなのです。その楽しみを後藤さんから奪うようで御免なさいね」
俺は、この人の優しさを感じた。言葉一つ一つが相手を傷つけないように、自然に流れ出ているようであった。それは、鈴木さんと同質のものであった。人柄であろうとも思った。
「それではお約束通り、今週の土曜日にお待ちいたしております。楽しみですわ」と声が弾んで、そして微笑んだ。
社内で出回っている噂の真偽の程を聞いてみようと思ったが、野暮な話は止めた。そんなことより力を付けることが先だと思いながら、気にはなるが家へ帰ってから、又、勉強だと自分に言い聞かせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます