消える人

 瑞貴が帰って、夕飯までの束の間に時間。

 ボクの部屋にはボクと桜華がいるのに、しんと静まりかえっている。


「ねえ、桜華」

「どうしたの?」


 ボクの決断を聞いて、二人とも納得してくれた。

 でも言葉にした途端に、また不思議と不安がわき上がってきた。

 本当にそれでいいのか、そうしていいのか。そんな不安だ。


「ちょっといーい?」


 ボクはベッドに深く腰掛けて、はしたなくも足を広げて、その間に座って貰おうと空いてるスペースを手で叩いた。


「いつもと逆?」

「なんとなくそんな気分」

「コアラの親子みたいになると思うけど」

「昔はだいたいこうだったじゃん!」


 珍しく素直に乗ってこない桜華に、ちょっと声を荒げてしまった。

 きょとんと首を傾げて暫く考えて結論がでたのか、這い寄ってよいしょっとボクの間に収った。


「あー、こうやるの久々だねー」


 桜華がボクに体重を掛けながらそんなことをいってくる。ボクはそれに負けないように桜華のお腹に手を回して逆に体重を掛け返す。

 女性特有の柔らかさと、シャンプーの香りが微かに香ってくる。

 ドキドキしなくなって久しい、桜華の香り。とても安心できる柔らかさと香りだ。


「そうだね、この姿になってからは、ずっとボクが前だったもんね」


 身長差があるから仕方ないとは言え、ずっと愛玩され続けてきた仕返しの意味も込めてる。

 というよりも、今から話すことは顔を見てできない話だ。


「それで、どうしたの?」


 桜華がボクの方を振り向きながら言った。

 それに顔を合わせないように桜華の背中に顔を押しつける。


「珍しい」

「ちょっとね、恐くなってきた」


 心境を吐露する。

 決断をした。


『ボクの決断は――女の子として生きていく』


 その宣言をした時は心晴れやかな気持ちだった。

 聞いていた二人は、微笑みながら認めてくれた。

 たぶん、誰もがボクの決断を認めてくれると思う。

 だって、これはボクにしか関係の無いことだから。


 だからこそ、一人で決断して、その決断を聞いて貰って、言葉にしたことで、とても恐くなってきた。

 男のボクがいなくなるということは、それすなわち、男のボクが死ぬと言うこと。

 生きていながら、死ぬ感覚を肌で感じるなんて、普通なら経験できないことだけれど、普通に考えて経験したくない。

 これから先、女として生きていくにあたって、男のボクの知り合いは、男のボクが死んだという風に見てくるだろう。

 男のボクの存在を隠すというのも有りかもしれない。

 だけど、それは何れボロが出る。

 実際、ボロが出た。隠し通すことが出来なくなって、今の状況になった。


「人が一人消えるって、恐いことだね」

「どうしたの?」

「ボクを知っている人にはボクがいなくなったことを明確な理由を付けて知らせないといけないのが、恐くて。ボクはここにいるのにね」


 自分で、何を言っているのか分からない。

 だけど、桜華はが少しだけ唸るように身じろぎして、


「でも、私も、瀬野くんも、ひーちゃんも、パパもママも、おじさんもおばさんも、それに先生だって、燈佳が男の子だって事を知っているよ。それだけじゃダメかな」


 ダメではない。だけど、ボクの世界は、そんなに狭い物じゃない。

 顔を合わせられないって分かったけれども、今日、今のボクを作り上げた張本人と対面した。

 道は前にしか続いていないのに、でもちゃんと振り返れば歩んできた軌跡がある。

 ボクがいなくなったことを周知したら、どうなるんだろうと。

 恐いと言って、ボクの助けを振り払った彼は、ボクがいなくなったことで胸のすく思いをして欲しい。罪の意識に苛まれて間違いを起こして欲しくない。


「桜華、ボクには前、結構な友達がいたんだよ? ふさぎ込んだ最初の頃は心配して来てくれる人も多かったんだから」

「そうなんだ」

「そうだよ……」


 結局一か月もしたら人はこなくなったけれど、元親友の彼だけは暫くの間お見舞いに来てくれていた。

 ただ、ボクが玄関まで行けなかっただけなのだ。また、あの冷たい目で見られるのがたまらなく恐かったのだ。


「燈佳、くるし……」

「あ、ごめん……」


 桜華に声をかけられて、ボクは物思いに耽りながら腕に力を込めていた事に気付く。慌てて、謝って手を緩めた。

 気がつけば目尻に涙が浮かび、声は震えて涙声になっている。

 そのまま暫く無言の時間が流れる。

 壁掛け時計の秒針が刻を刻むカタリカタリという音だけが耳朶を打つ。


「燈佳くん」


 静寂を破ったのは桜華だった。

 ボクは鼻をずっと鳴らして、答える。


「なに……?」

「うん、燈佳くんが決めたことだから、口出したくなかったけど、そんなに恐いなら一度男に戻って、ちゃんとお別れをしよう?」

「おわかれ……?」


 何を言っているのだろう?

 ボクはここにいるのに、お別れって、どういうことだろう。


「うん、最低でもおじさんとおばさんに、できれば私にも。後、お手紙でもいいから、自分がいなくなることを伝えたい人に」


 それは目から鱗が落ちるような言葉だった。

 考えもしなかった。そして、理事長がボクに切り替えできる珠をくれた意味にも気付いた。


『彼に選択の余地を与えました。一か月一緒に過ごされ経過を見るといいでしょう。学校は休まれても構いませんし、遅れて登校して来ても通常の出席扱いとします。いつでも元の姿に戻れる、その上でどのような選択をするのか、わたしは楽しみにしておきましょう』


 きっと、理事長が父さんと母さんに向けて言った言葉は、言外にボクに大いに悩めと言った事だったのだろう。

 きっと、最後の願いを伝えるときに、どちらかの性別に固定されてしまうのだろう。だから、お別れはきっとできない。

 きっと、それが分かっていたから、ボクにちゃんとお別れを告げる時間をくれたのか。


 桜華の言葉で気付かされた。

 ボクは、どうしてここまで意固地になっていたのだろうか。


「だって、私、燈佳くんから……男の子の燈佳くんから、ちゃんとお別れを聞きたい……」

「うん……」

「さようならって……、いなくなるから諦めてって……。ちゃんと振るなら男の子の姿で私の事振って……」

「うん」


 いつの間にか、桜華が涙声になっていた。

 ボクも涙が溢れる。

 どれだけ、ボクは桜華に酷い事をして来ていたのだろうか。


「本当は、えっちしたあの日に、ちゃんと振って欲しかった……朝、目が覚めておはようって男の子の燈佳くんに言ってもらって、ちゃんとごめんなさいって言って欲しかった……」

「…………」

「でも、起きたら、女の子の姿に戻ってて……」


 恨みがましい言葉をボクは真摯に受け止める。

 ボクだって、桜華の一生のお願いを聞いて、これきりだからねと言うつもりだった。だけどそれはできなかった。

 ただ、体を重ね合わせた事実だけが残って、流れてしまった。


「私……女の子の燈佳くんも好きだけど、やっぱり男の子の燈佳くんが一番好きなの……だから、一番好きな人にちゃんとごめんなさいって言って欲しい。そうじゃないと私、前を向けない……」


 哀切の声。

 神にも祈るよう懺悔をするように、今までひた隠しにしてきた桜華の胸の内が明かされていく。

 それは、いっそ清々しいまでの独りよがりのどろりとした胸の内で、ボクに取って知るかと一蹴できるものではあったけれど、その胸の内を作り出した一端が、ボクにもあることを考えると無視できない物だった。

 そして、桜華の中にはまだ男のボクがいて、その男のボクが過去の物になりきれていない。

 うん……、多分父さんと母さんの中でも、男のボクがいなくなるって事に至ってないんだろう。


「ありがとう、桜華」


 桜華の背中に頬をすりつけて、おへその辺りにぎゅっと力を込めて抱きかかえる。


「やっと、思ってること言ってくれたね」

「ちがうの……ちがうの……。燈佳くんを責めてるんじゃないの……。こういう状況を作った自分を責めてるの……」

「ううん、元々はちゃんとお別れをするって言う発想に至らなかったボクが悪いんだよ。ボクも自分の事しか考えてなかった。自分が幸せになることばかり考えて、回りの事は何も考えてなかった」


 どれだけ、ボクは愚かなのだろう。

 ボクはボクだけの事で手一杯で、回りから言われてやっと、自分の事しか考えていないことに気付くなんて。


「うん、ボク、お別れをするよ、懸念してることもあるから……」


 男のボクが迷惑をかけてきた人へのせめてもの罪滅ぼしに。

 親友だった、彼に。

 中学の同級生で迷惑かけてしまった人に、それと担任の先生に。

 そして、桜華に、育ててくれた両親に。


 後ろ髪を引かれないように、ボクがボクの幸せを求めてもいいように。

 残せる物を残していこう。


 それが、消える事を決めた人のやるべき事なのだろう。


「桜華」

「なに?」


 まだぐずぐずと涙声の桜華に、ボクははっきりと告げる。


「先に謝っておく、また桜華を傷つけます」

「いいよ……。私、燈佳くんに傷つけられるの嬉しいから」

「うん……。好きな人に傷つけられるのって、嬉しいよね……」


 桜華の気持ちは痛いほど分かるから。

 ボクだって、好きな人には沢山傷つけて欲しいし、傷つけたい。

 痛い思いは、想い出に変わるし、前に進む原動力になる。塩梅が大事だけれども……。


「うん……」

「じゃあ……」


 桜華を離して、ボクは枕元に転がしておいた魔法の珠を手に取った。

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