「差別」と「権利」と「書物」
今朝、布団を畳んでいていきなりぺカーンときました! 漫画の表現に倣えば頭上に豆電球が灯るイメージ。あっちの端っこにあった事柄とこっちの端っこにあった事柄とが、突然、前触れなく、がっちりと握手。そうしてまた一つ、私の中の世界完全定理の断片が顕われたわけです。
カッコよさげに書いてますが、要は「閃いた!」というわけです。
昨日、某所で……いや、隠す必要もなく、いつものトゥゲッターのスレですが、ここでダラダラと長文レスを書きまして、それが何となく気に掛かっていました。
女性嫌悪の書き込みを見る機会が多くて辟易するという意見に関わる話で、差別発言はいかんよねという話。カウンターパンチで男性差別的発言に対しては何も言わないその態度は棚上げか、という話が出てきて、炎上。
私は、実は「差別より思想の自由の方が優先されるべき」論者でして。まず、差別を決めるのは誰なのか問題があり、どうしても誰かの恣意的基準による線引きという不公平がまかり通ってしまう問題が引っかかるんですよねぇ。下手すりゃ言論統制。
神が臨む世界は公平であるべき、まず何よりも公平であるはず、という訳で。公平であるように理論を組むと、桶屋になっていってストンと腑に落ちるようになっているので「公平」というのは世界を紐解く一つの鍵には違いない、と思っています。
例えばヘイトデモなんてのは、拡声器使って無理やり聞かせるわけですよ、これは強制的であるからアウトと思っています。強制性が無ければデモ自体はいいんじゃないかと思う。差別デモであっても。
囁き声で反対の意をお隣同士くらいでひそひそやり、自分から近付いて聞きに行かなきゃ聞こえないくらいの音量ならセーフじゃないかな、と。
プラカードにしたって、ベールで覆っておいて、見たいと希望した人にはぺらんとめくって見せてあげるというなら、なんと平和的なデモ行進が行えることか。
チラシを配って、もちろん無理な押し付けはご法度で、興味を示した人にだけよかったら読んで我々の考えを知ってください、とやる。これぞ平和的手法。内容が差別でも。
なんだかオカシイと思いませんか。妙チキリンです。私はオカシイと思いませんけどね、桶屋が儲かるという話の一つでしかないので。
『何事も、人は自分で発見しなくてはいけない』からですね。
『何事も、人は自分で発見したという体を持って自身に取り入れねばならない。』
はい、大事なことなので二度言いました。この一文が、今朝に閃いたピコーンの文言です。天から降って湧きました。(笑
何がいけないのか。それは「強制」です。それでいうと、「説得」もあんまりよろしくないし、「教え」もよくない。「指導」はどうなんだろうか、本人が自力で見つけられるようにという手助けに徹するなら、指導とか教育はセーフなのでしょう、うん。
それで、端っこと端っこががっちり握手したっていうのはですね、小説の書き方で長いこと悩んできた事柄でして、私は昔ながらの「気付かせる方式の文体」をやるべきなのだ、という事がストンと腑に落ちたという事です。(笑
すっきりしました。(^^)
気付かせる方式にも、様々あるとは思います。物語全般から何かを得てもらう方式なら、文章自体は説明形式の一本道な書き方でも構わないわけですが、私はもっともっと気付いてほしい。無いものまで見つけてほしい。
文章の一文ごとが意味深で、解釈が分かれ、深読みを許す、そういう昔ながらのスタンダードな書き方がやっぱり良いなと思うに至りました。
作者も意図しなかったような読み方が、読者の解釈の中で発見されるって凄いことだと思うんですよね。それって読者も参加してどんどん作品を深くしていくわけで。
そういう作品を書いていきたいもんです。
うん、やっぱりこの道で合ってる。(^^)
「思想の自由」「言論の自由」「表現の自由」と「傷つけられない権利」の折り合い。これは、傷つけられないというのをどこまでに規定するかが問題です。
要は、傷付くと解かっていながらやってきた者にまで適用する必要はない、と。傷付く場所と知らずにやってきた者に対しては、どこまで保護されるべきなのか。
これが難しいのかも知れない。(ヒント:無智は罪)
うん、私という人間は優しくないなぁ。(笑
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