文学のコンテクスト(前提編)

 四連弾で行きます。前ページからのまたまた続き、です。


 昭和の終わりあたりを前後にして、小説における文章の考え方には大きな隔たりが出来ただろうと感じます。それはたぶん、インターネットの普及が原因で起きた、「一億総発信時代」の到来によると思っています。


 それ以前から、ホームページを「自作」出来る者たちに限定でですが、発信する文化は育っていました。敷居は恐ろしく高いもので中高生が入れる場所ではありませんでしたけどね。ハイパーテキストが書けなくちゃ話になりませんでしたから。


 それから便利な自動作成ツールなどが登場し始め、そこから一気に参入人口は爆発したわけで、それまでは圧倒的にROM専ばかりだったのです、ネット利用者は。


 つまり、書き手は極少数に限られ、ほとんどは読み手であったのです。


 そんな時代ではありましたが、どのホームページも盛況だったかと言えば、これは現在とさほど代わり映えありませんでした。良いものは人気で、悪いものは閑古鳥。

 ネットの中で我慢して読まなくても、本屋や図書館へ行けば幾らでも読み物は溢れてましたからね。


 で、外の創作物というのは、ある意味、基準値をパスしたものだけだったから安心出来たのは言わずもがなですが、ネットの中では相変わらず基準などないままで、それがそのまんまで市場を形成するに至ったのが今現在ですよね。


 ネット以前と以後、何が変わったのかと言えば、判断基準を作成する人々の種類と質の関係です。以前は、質において優秀と認められた少数の人々が決めていました。文壇というヤツですけどね。

 現在は、質は横においてただの多人数による多数決で決められるようになりました。だから目だったモノが良いものだ、という風な事になっています。


 これ、つまり、言葉は悪いですが「悪貨が良貨を駆逐した」状態です。


 多人数が認めるのだから良いものだ、なんて理屈をまさか馬鹿みたいに信じてたりはしませんよね? こんな詭弁を。(笑


 これがこのまま続けば、この言葉は破滅の原因を現す言葉ですんではっきり未来は見えてるようなものですが、破滅するのはビジネスモデルでしょうから、物書きとしてはあんまり気にしなくていいと思います。ビジネス面で気がかりではあっても。


 人が「面白い」と判断する時の基準なんてものは、人によっても、その時の気分によっても、世間の風潮によってでも変わりますんで、普遍などではないのです。

 まぁ、質で判断しようにもその質も普遍とは言い難いですけどもね。けれど、その時の、一瞬ごとくるくる変わるものよりは長持ちしますよ。


 一旦、現在の書籍とか小説にまつわるビジネス界隈は崩壊するかも知れませんが、そこから新たな価値観とシステムが立ち上がってきて、結局、元に立ち返るものですんで、どこの業界でも。(そうです、色んな場所で起きてきた現象です)

 だいたい、「安かろう不味かろう」が席巻したとしても、後々には「質を求める」に戻ってますからね。珈琲でも食い物でも何でも。


 ただ、そういう流れが後々に控えている事が解かっているなら、戦略を持たねばならないわけです。ただ漠然と流れに身を委ねていたらいつのまにか寄る辺のない大海のど真ん中、なんて事になりますよ、ええ。


 将来が不安だからこそ、先を見てアレコレをあーでもないこーでもない、と考え続けているわけなのです。で、それを嫌われながらもずーっと発信しています。



 追記。


 この記事に反感を覚える人はすごく多いと思います。しかし、冷静に考えてみてね、個々の作品を貶してるわけじゃないですよ?

 カクヨム史上、最高点数を稼いだ最高峰の作品はなんでした?


 『オレオ』だったじゃないですか。(笑)

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