第六話
彼女は、苦しんでいた。看護士に首を絞められているにもかかわらず、死ぬ事はおろか失神する事さえも出来ない。しかも聞きたくない看護士の声や言葉が、一字一句はっきり理解してしまう。つい先程まで最悪の状況と思われていた事が、あっさりと更新されてしまった。そして彼女は、奈落という言葉を脳裏に浮かばせてしまった。恋人に捨てられてから、自分の望む結果にならない。良縁は切られ、絶命は防がれ、動作は封じられ、精神は掻き乱されている。底無しの負の渓谷に落とされ未だに堕ち続けているところに、不幸や不運といった落石が、容赦なく次々と降り注ぐ。彼女は、まさに今奈落を実感していた。そして看護士によって、追い討ちを掛けられようとしていた。
「この首の絞め方は、SM倶楽部に勤めている知り合いから教わったやり方で、所謂ランナーズハイに似た症状になるんだ。だからアンタ、今首を絞められているのに意識だけはっきりしているから、俺の言っている事が判るよな。 」
看護士は、喜々した声で得意気に話した。それは彼女にとっては、凍てつく猛吹雪でしかなかった。そして猛吹雪は続いた。
「まずアンタを助けたのは、実は昼にアンタを診察してくれた医師で、アンタの向かいの部屋に住んでいるらしいよ。」
また彼女の中に混乱が芽吹いた。もはや現状打破も起死回生も望めないこの無力な状態でも、彼女はさらに混乱を強いられた。今傷打っているのは、ここの看護士で恋人の弟。その前に助けたのは、ここの医師で向かいのは部屋の住人。彼女は、自分の人間関係の狭さに絶句した。その瞬間、大きな鈍い音が鳴り、彼女の肉体の苦しさがなくなった。彼女は咳き込みながら呼吸を整え、数秒間隔で瞬きを繰り返して視覚を甦らせた。その間、彼女は自分の四肢が自由になっていくのと胴体の圧迫感がなくなるのを感じていた。やがて呼吸が整い視覚が甦った時、だいたいの状況を把握できた。
「大丈夫かい。」と言いながらベッドから彼女を起こしたのは、医師だった。そして床に看護士が頭を抱えながら悶絶していた。
「既に警察には、通報したから・・・。」
そう言うと医師は、なぜか言葉を詰まらせた。そしてそれを誤魔化すように、看護士の拘束を試みた。看護士は抵抗しようと足をバタバタさせてみたが、頭にダメージがあるせいか思うように力を入れる事が出来ず、簡単に医師に拘束されてしまった。看護士を拘束した医師は、今度は看護士を手当てし始めた。いつの間にか用意していた救急箱から素早く必要なものを取り出し、手際良く傷に薬を塗り、ガーゼ、包帯を看護士につけた。医師が手当てを終えたのを見て、彼女は思わず長い溜め息をついた。それは関心と諦めを表していた。如何なる方法で自殺を図っても、この医師が近くにいる限り失敗してしまう。彼女にそう思わせる程、医師の手当ては鮮やかだった。
やがて制服を着た警察官複数人が、部屋に入ってきた。警察官達は、各々自分の役割をこなした。拘束されている看護士を連れ出す警察官。医師や彼女に話しを聞く警察官。見たことがある器具で床や壁など部屋中を調べる警察官。先程の事が嘘だったかのように、彼女の周囲は、騒然となった。それから暫くは、彼女は警察官達の質問攻めにあった。しかし、正直彼女は答えられなかった。自分の置かれている状況が次々と変わっていく速さについて行けず、とうとう彼女は気を失った。それはまるで、糸が切れたマリオネットが地面に墜ちて倒れるようだった。
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