第13話
一
百目木冬弥は開始時間のぴったり一分前に部屋へと入った。そこは貸ビルの一角、百目木洋行東京本社内にある最も大きい来客室である。普段は顧客との打ち合わせのみで使用されるこの部屋だが、年に一度だけ異なる目的に用いられる。ドアの脇には「大正○○年度 株式会社百目木洋行 株主総会」と、墨と筆で書かれた看板が立てかけられていた。
中に入ると、既に十人以上の男達が着席している。冬弥は後ろから部屋を見回し、内心嘆息した。
(鋭吉はどこだ)
自身の息子、お飾りではあるが株を持つ役員でもある。確かに彼の出欠が総会議案を左右することはないだろうが、問題はそこではない。株主総会は会社で最も重要な行事と言って差し支えない。その最も重要な行事に特別な用事もなく出席しないというのは、信任される側の役員にとってはあってはならない、信頼を失う行為である。将来鋭吉が百目木洋行を切り盛りするにあたって、信頼を無くせば沈下は必至だ。若さゆえの過ちでは許されないのだ。それはまた、父の冬弥への信用問題にも波及する。
苦々しく思いながらも、冬弥は最前列のテーブル――他のテーブルとは対面になるように据え付けられた――、その中央に着席し、自身の名札を表に上げた。
資料を机の上に置き、懐中の時計を見遣る。あと三十秒で開始だ。鋭吉は――
更に十秒が過ぎた頃、ドアが開いた。静かな室内に響き渡るそれを気にする風を見せず、鋭吉が部屋へと入ってきた。スーツの着こなし方が、いかにもだらしない。
鋭吉はきょろきょろといかにも場馴れしていないという仕草で部屋を見回し、結局後ろの方の席にどかりと座った。
冬弥は改めて全体を見渡した。銀行、商社、メーカー、一族――知る顔ばかりである。欠員は恐らくない。であれば、議案は今回で全て可決するだろう。議案に対して降りかかるであろう質問は考え尽くし、それに対する答えも完璧に用意してある。何せ三十を超える総会を経験してきたのだ。
(問題ない)
「時間になりました。本年度の株主総会を開催致します。議長は私、百目木冬弥が務めさせて頂きます。異義のある方は――」
「動議」
場を、一瞬の静寂が支配した。あり得ないタイミングでの動議である。議案の審議に入る前に、横槍が入るというのは異常の出来事だ。
手を上げているのは、
(鋭吉……!)
不敵な笑みを浮かべる、冬弥の息子であった。
「いきなりで悪いが、親父。いい機会だから議長代わってもらおうぜ」
突然の提案に、全員がざわめいた。冬弥も例外でなく、ぽかんとした表情を見せていたが、次第に目が釣り上がり、
「馬鹿を言うな、貴様!」
怒りのあまり、唇が震えている。鋭吉はたじろいだが、再びおどけてみせた。
「今時社長イコール議長なんて古いって。ここは専務の平澤さんにやってもらおうよ」
「何の権限があって、お前が……」
「だから動議だっつってるじゃん」鋭吉は仕方がないといった風に笑った。「あんたも歳だし、長いこと話し続けるのは大変でしょって、親孝行の心から言ってるんだけどね」
「下らん!」
「定款上も問題ない」鋭吉は冬弥の怒気に怯みつつも、すらすらと言葉を述べると、
「どうですかね、皆さん。議長が平澤さんの方が、皆さんもお話しやすいと思うんですが」
鋭吉の提案は、冬弥の想像とは異なり、出席者の気を惹いたようであった。そこかしこで相談が始まっている。冬弥は慌てたが、それをおくびにも出さず、再び鋭吉を睨みつけた。
「貴様、株主の皆様の貴重な時間を無駄にする気か!」
「じゃあさっさと決を取ってくれよ。反対多数なら、それで終わりだぜ」
冬弥は隣に座る専務――平澤を見た。困惑した表情の平澤だったが、「まあ、最悪私が引き受けても構いませんよ」と言ったため、冬弥は苦々しげに決を取ることにした。
「では。本総会の議長を弊社専務の平澤が務めることについて賛成の方」
結果は冬弥にとって面白くないものであった。手が上がった数の方が多い。株主の人数が少ないため、五分五分にならない限り多寡は明らかである。表情を見るに、どちらとも決めかねる、という人が殆どの様に見えた。
「……賛成多数。本会議の議長は以後平澤が務めます。どうぞ宜しく」
冬弥がそう言った瞬間、鋭吉の口角が釣り上がった。面白くて仕方ないといった風であった。
そこに目を取られたせいで、彼は平澤、そして場の何人かが同種の笑みを隠そうと口元をおさえたことに、遂には気づけなかった。
二
平澤による議事進行はつつがないものであった。長い間専務の職に携わっており、この手のやり取りに問題はない。一号議案の配当については、多少の茶々も入ったが賛成多数で終わった。
楽でいい、と冬弥は思った。議長というものは喋り倒しなので、決まって喉を潰していた。その苦労がなくなると、総会がこんなに楽になるとは。自分の役割と決めつけていただけに、彼にとっては目から鱗であった。
これからは、平澤にやってもらおうか――そういった甘い考えは、次の二号議案に入った瞬間吹き飛んだ。
「役員の再任についてですが、賛成頂ける方は挙手を」
毎年恒例の儀式である。手を挙げた冬弥は、しかし目を疑った。足りない。どう見ても半数に達していないのである。
「……反対多数、ということで本議案は否決となりました」
「どういうことだ!」
冬弥は怒声を上げた。手を挙げていないのは銀行に、商社に――一人ずつ目を合わせて、「あんたがた、何故手を挙げんのだ!」
「社長、静かに。これから新しい役員を選ばなくちゃなりませんからね」
平澤が言ったその時、ドアが開いた。入ってきたのは、恰幅のいいスーツ姿の中年の男である。冬弥の知らない男であった。
「誰だ、今は株主総会中だぞ!」
「なら問題ありませんね」男は席に座ると、身を乗り出した。「株主ですよ、私は」
「……どちらさんだ。失礼だが、会社を間違えてるんじゃないだろうな」
「いいえ。ただ冬弥さん、貴方がご存知ないのも無理はない」男は蛙の様な笑みを見せた。「私がこの会社の株を取得したのはつい昨日のことですから」
「知らんぞ、そんなことは!」
「鈍いな、親父」鋭吉が野次を飛ばした。「まだ気付いてないのか」
「それは、どういう……」
言葉を失う冬弥を他所に、鋭吉が立ち上がった。
「動議だ。現取締役、百目木冬弥の解任。そして新取締役に百目木鋭吉を選任する」
「お前……!」
「そもそもさあ、親父」鋭吉は冬弥の眼前まで歩き、不遜なことに机の上に尻を乗せて座った。「親父はとっくにこの会社の筆頭株主じゃなくなってるんだって」
「筆頭株主じゃ、ない……?」
「今は俺と、そこの龍見さんとこが筆頭株主さ。要するに、あんたはクーデターに遭った」
鋭吉の言葉に、冬弥は慌てて首を巡らせた。何が起きたのか分からない、といった表情の者も確かにいたが、逆に数人は、唇に薄い笑みを浮かべている。
「第一、貴様は誰だ!」冬弥は今しがた入ってきた男に怒声をぶつけた。
男は涼し気な顔で立ち上がると、「申し遅れました。私、この会社の筆頭株主となりました武蔵野ディアマンの設計部部長、龍見と申します」慇懃にそう言って、前後に一礼した。
「本来なら弊社の社長が参るべきところですが、今日は代わりに私が務めさせて頂きます」
「武蔵野ディアマン……?」
聞いたことがない、と冬弥は面食らった。他の株主も、数人首を捻っている。
「ええ、ご存じないのも当然です。こちらより少々規模が大きい程度の中小メーカーですから」
「そういうこと」鋭吉は龍見の援護を受け、得意気に話し始めた。「うちはこれから武蔵野ディアマンさんと組んで、海外の販路を拡大する。メーカーの技術的なコメントがあれば、あんたみたいに怪しい会社を掴まされることはもうない」
冬弥は苦い顔をした。昨年新興国の会社と取引を始めたが、ものの見事に逃げられたことを指摘されたのである。確かに挑戦的な取引だったが、冬弥にとっては大きな失敗だっただけに、黙っておきたい話であった。
「冬弥さん、そんな話は聞いてないぞ!」株主の一人、老いた男が震えながら立ち上がった。百目木一族の人間で、冬弥にとっては遠縁にあたる。「ここ数年、我慢のしどころだと思っていたが、そんな無駄金を突っ込んでいたのか!」
「確かに失敗でした。ですが……」
「言い訳はよろしい!」ぴしゃりと言い放ち、椅子にどっかりと座る。「確かに、冬弥さんも席を譲る時かもしれませんな、これは」
その一言を受けて、他の株主達の顔色が変わったことに、冬弥は気付いた。全てが自分にとって悪い方向に向かっている。まるで蟻地獄だ。もがけどもがけど、すり鉢の中心へと勝手に沈み込んでいく。最早社長という肩書は空虚でしかない。
「新しい議案の決を取りましょうよ、平澤さん」鋭吉は議長である平澤を見やって促した。「筆頭株主こそが社長であると」
「承知しました。それでは」平澤が、死刑宣告を告げる。
「動議。現取締役、百目木冬弥を解任し、新取締役に武蔵野ディアマン副社長、野中
「……は?」
間抜けな声を上げたのは鋭吉である。
「反対の方は挙手を」
平澤の言に、全員が顔を見合わせた。一体何が、と。後を継ぐのはそこにいる鋭吉の筈ではなかったのか?
「ちょ、ちょっと、待ってよ、平澤さん」鋭吉は慌てて、机越しに平澤の腕を掴んだ。「武蔵野ディアマンの、副社? なんで、そんなやつの名前を」
「筆頭株主でいらっしゃいますからね」平澤は平坦な声で鋭吉の問いに答えた。「50%以上を取得されている、大株主だ」
「50パー……?」鋭吉が呻いた。「ウソだろ、どこからそんな、」
呆けた表情であたりを見渡す。鋭吉にとっての裏切り者は歴然としていた。取引先の銀行に、付き合いのある商社、そして平澤――皆がこちらをみながらニタニタと、下品な笑みを隠そうともしなくなってきたのだ。
「龍見さん、どういうことだよ!」
「どうもこうも。御曹司、あなたはちょっと夢を見過ぎじゃないでしょうかね。大学を出たばかりで役員の職をもらって、その後一体何をしましたか。方方に口を出しては責任も負わず、上手くいかなければ部下の能力が低いせいだと公言を憚らない。そんな上司に、一体誰がついていきたくなると思うのですか」
今まで蛙の様な笑みを浮かべていた龍見であったが、ここにきて鋭吉を見る目は冷たく、表情はのっぺりとすらしている。これが本来の表情なのだろうと、冬弥は傍から見ていてそう思った。心を許していい相手ではない。
(騙されたな、鋭吉)
「約束が違うっつってんだよ、俺は!」
「それについては謝りましょう。ですがこれは長い目で見てこの会社のためだ。あなたの様な男が乗っていい船ではない。――皆さん」
龍見は全員を見回した。
「少々荒っぽいやり方になりましたが、百目木洋行はご覧の有様だ。上層部は混乱の只中にあり、それが昨今の業績悪化につながっている。ここで膿を出しきらなければならない。その為我々が一時的にこの会社の経営に参画します。ただ、実際は平澤さんの様な優秀な方に運営をおまかせするつもりだ。我々はこの会社との結びつくことで新たな分野の開拓を行うことを第一とし、最終的に互いの会社を繁栄させていく。今回のM&Aはそういった目的を持っているものと、ご理解頂きたい」
「やむを得んのではないか」先程声を上げた老人が、再び口を開いた。「冬弥さんも鋭吉さんもこれでは、株主としてあまりに不安だ」
「ど、百目木の名前は誰のものだと」
「会社は株主のものだ!」鋭吉の発言はすぐさまかき消された。「君がそこにいられるのは、株を持っているからだ!」
「そういう意味では、鋭吉さん。あなたはここにいる権利はありませんね」龍見の発言に、鋭吉、そして冬弥は目を剥いた。
「鋭吉、お前」
「あなたは株を我々にお譲りした。覚えていらっしゃるでしょう」
「そ、それは、一時的に――」
鋭吉は呻いたが、何もかもが致命的に遅いのだと、既に気付いていた。
「平澤さん。――決を」
「では、改めて。反対の方は、挙手を」
最早、冬弥も鋭吉も、手を挙げる気力はない。
しんと静まり返った会議室の中で、龍見は酷薄な表情のまま二度頷いた。
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