第8話

 

    一


 椎名の動きは手慣れたものであった。器具を押し当てたと思ったその時、覚悟を決める間もなく足先から頭頂まで燐の全身を衝撃がつんざいた。

「あいだだだだだだだ!」

 悲鳴を上げて悶絶する燐に当初神経を凍らせていた朱音であったが、どうやら様子がおかしい、とじっと二人を眺めて、すぐに気付いた。

「……足ツボ?」

 確か大陸由来の民間療法でそういうのがあるらしい、と彼女は昔聞いたことがあった。叔母が台湾に行った時にいたく気に入ったと言っていたが、その話と目の前で身悶えする燐と繋がらない。さもありなん、効果には個人差があります。

「おいおい、大丈夫か」

 呆れた様に声をかける椎名に、燐は息も絶え絶え、涙目で反論した。

「自分でやっておいて、大丈夫かはないでしょう!」

「そうじゃねえよ、こんなに痛がるってことはそれだけ身体の調子が悪いってことだ。しかし君、まだ若いのに内臓が随分と……苦労してんだな」

 言いながら、再度足の裏の中央付近に棒の先端を押し当てる。縄で縛られているにも関わらず、燐の身体は痛みに跳ね上がった。

「ホント痛いホント痛い」

「それだけ君の身体が悪いってこった」

 先程の緊張はどこへやら。根暗気味ではあるがお淑やかではあったこれまでの燐のイメージ像が崩れていくのを、朱音は何も出来ずにただ見守っていたが、

(……ヤバい。段々面白くなってきた)

 実際時々思わず吹き出しそうなところを、腿を抓りあげて止めている有様であった。

「よし決めた。このままにしておくと悪化しかねないから、今日ある程度やっちゃおう」

「結構です!!!」

「遠慮しなさんな、さあ今こそ胃腸をほぐしてやるからな!」

 容赦なく二度三度とツボに力を込める椎名。顔に力を込めているのか、真っ赤にしながら吹き出しそうな口を噤んでいる朱音。その様を横目で見ながら、家城は心底嫌そうな顔をして弐子に耳打ちをした。

「あの人、本当はああなんですか」

「あの人?」

「椎名さんです」

「ああ。で、ああなんですかってどういうことだ」

「その……ああいう風としか言いようがないんですが」

「何を聞きたいのかよく分からないが、見たままってことなら、そうだ」

「…………」

 椎名も椎名だがそれを承知で連れてくる弐子も弐子だ。家城は嫌悪感を丸出しにして二人を睨みつけたが、二人共それには気付かない。

 そうしてしばらく燐の悲鳴だけが場にこだましていたが、それも徐々に小さくなり、最後は彼女はぐったりと動かなくなってしまった。

「完了だ」

 椎名はその様を見て、満足そうに額の汗を拭った。

(か、完了してしまった……)

 あっけに取られている間に燐を見殺しにしてしまったと、朱音は後悔に唾を飲み込んだ。

「おい、しっかしりろ、燐」

 かける声は何故か小さかった。

 燐はぴくぴくと痙攣するように動いていたが、次の瞬間、場の全員に聞こえるくらい巨大な腹の虫が鳴り、一斉に燐を、正確には燐の腹を見た。

 彼女の耳は一瞬で真っ赤になった。

「し、仕方ないでしょう!」

 燐の言に、椎名は当然とばかりに頷いた。

「食欲全開! ってとこだな」

「あなたのせいよ! こんな、こんな……」

 あまりの恥ずかしさに、遂に燐は泣き出してしまった。それが予想外だったのか、狼狽え始める椎名。

 しかし弐子は彼らを一瞥し不敵に笑うと、朱音の眼前に顔を寄せ、

「ああなりたくなければ、とっとと白状することだ。新入りの装甲探偵についてな」

 あたしが悪いのかと朱音は弐子の後ろにいる家城に視線を向けた。が、彼女は例えば夕方自転車を漕いでいて口の中に飛び込んできた謎の虫を思わず飲み込んでしまったと言わんばかりの得体の知れない嫌悪感に顔を歪めており、それを見て朱音は少しだけ救われた様な気持ちになっていた。

「……その、なんだ」

 さめざめと泣く燐を見ながら、朱音は口をもにょらせた。

「どうした」

「いや、やっぱり言わない」

「何だと」

 険しい顔の弐子に、今度は朱音が笑ってみせた。

「口を割らせたきゃあたしにもやってみなよ」

 

    二


 椎名の遣う足ツボ健康法――源流は大陸由来の経絡経穴を用いた鍼灸技術――は、彼が将来装甲探偵を廃業した先のことを考えて体得したものであった。装甲探偵自慢の膂力で経穴、つまりツボを刺激された者はとてつもない効能と引き換えに、体感したことのないほどの激痛を強要される。

 それは朱音も例外ではなかった。

「あんぎゃあああああ」

 怪獣のような咆哮を上げてのたうち回る朱音を、燐は怯えながら眺めていた。

「どうした、最近の若い子は――どいつもこいつも胃腸ボロボロじゃねえか!」

 そして言葉では嘆いているものの、喜々としてツボを押しまくる椎名であった。

(つか、想像以上に腹減るんですけど!)

 効果は折り紙つき、椎名が足ツボを押すたびに、朱音の内臓が蠢動する。音は小さいが、腹も鳴り放題である。痛みと空腹で、朱音の思考は急速に濁っていっていた。

「さて、」

 脂汗を額に浮かべる女子高生二人を前に、弐子は再びドラム缶の上に腰を下ろした。

「ここにところてんが一杯ある」

 どこからともなく、弐子は丼を取り出した。青色の陶器の器の中には、酢醤油で色づいたところてんが渦巻いていた。何故ところてんなのだ、と二人が疑問を浮かべるより先に、酢醤油の香りが鼻孔に届き、摂食中枢を直撃した。途端、朱音の腹は控えめに、燐のそれは地響きの様に鳴り響いた。

 再びさめざめ泣き出す燐をよそに、弐子は丼を爪弾いた。

「新顔の装甲探偵について話すんだ。牛の様な角が生えたやつだ。白状すれば、このところてんを食わせてやる」

「なんですって」燐の両目が輝いた。

(何故そこに食いつく!)

 朱音の非難がちな目もどこ吹く風、燐は今にも協力すると言わんばかりの姿勢である。

 本能的に、朱音は待ったをかけようと手を挙げた。が、今は両の手が後ろ手に縛られており、勢い良く地面に倒れ込むだけであった。

 耳目を集める中、それでも朱音は叫んだ。

「た、タイム!」

 いや、タイムって。

 集まった全員の視線がそう言っていたが、朱音は顔を赤らめながらも再度身を起こした。

「ちょ、ちょっとこいつと話させて」

「……それは許可できない」

「いいから! ちょっとだけ!」

 弐子の拒否を強引に無視すると、朱音は縛られた状態で全身をくねらせて地べたを器用に這いずり、燐の足元に近づいた。

 二人は一瞬互いの顔を見合わせた。

「…………」

 妙に静かな間があいた後、先に口を開いたのは燐だった。

「あのひとが言っているのって、瀬戸内先生のことなんでしょう」

 朱音は答えなかったが、その表情は肯定と言わんばかりのものであった。

「先生を庇っているのね」

「……庇っているかって言われたら、ちょっと分かんねえ」

 そう言いながら、苦い表情で朱音は燐を見た。

「別にさ。あたしがあいつを庇わなきゃいけない理由なんてないじゃん。

あいつは装甲探偵で、あたしより強い。それにあたしが雇用主だから、あいつを庇う理由はないでしょ。

でもさ」

 朱音はそこで一旦口を噤むと、

「そんな簡単に、あたしは人を売る様な人間になりたくない」

「……簡単じゃないと思うけれど」

「少なくとも、ところてんじゃあ釣り合わない」

 燐は苦笑した。そうね、と言った瞬間、再度腹の虫が響き渡る。最早彼女の瞳から生気が失われていたも同然であったが、朱音は意図的にそれを無視した。なけなしの情けである。

「いいわ。どのみち、私はあの人のことを全然知らない。どうせ瀬戸内というのも偽名なんでしょう?」

「そうだな」

「なら、私には最初から選択権が無いも同然だもの。それに、」

 燐の目に光が宿った。

「貴女、もう何か考えがあるんでしょう?」

 朱音は一瞬きょとんとしたが、すぐに相好を崩した。

「いや、そんな大したもんじゃないさ。ただまあ、こんな磯臭い・・・ところからはとっととおさらばしたいよな」

(磯?)

 不思議そうな表情の燐を他所に、朱音は上半身を起こすと、三人の装甲探偵に向き直った。

「待たせたな。もういいぜ」

「……そうか」

 呆れた様な表情の弐子に、朱音は僅かに申し訳の無さを感じた。

「結論から言うぜ。あんたの言うことには従えない」

 弐子の表情が強張ったが、間髪入れず朱音は口を開いた。

「が、あんたの望みはすぐに叶う」

「何」

「うちで雇った装甲探偵について知りたいって言ってたよな。そいつ、すぐにここへやってくるぜ」

「大した自信だな」

 鼻白む弐子に、朱音はにやりと笑ってみせた。

「ここ、羽田の発着場の近くだよな」

 弐子は口を噤み、僅かに視線を家城へ向けた。

「頭に麻袋は被せていました」小声で家城は弁解した。「ここに来る間、周りは見えていなかったはずです」

 聞いた弐子は表情一つ変えなかったが、家城、そして椎名の視線は一瞬揺れた。朱音は無意識のうちにそれに気付き、己の推測が当たっているとこれまた無意識に確信した。

「ここはうっすら潮の香りがする。車に乗せられていた時間は精々一時間かそこらってことを考えたら、東京湾の沿岸であることには違いない。その上この音――これは飛行船のプロペラ音だな。日も暮れてるのに聞こえるってことは、調布の傍ってことはないだろう。だったら、どう考えても、ここは羽田の近くだ。

だったら」

「だったら?」

 弐子の問いに、朱音は頷いた。

「そろそろ、うちの探偵が飛んできてもいい頃だ」

 言った彼女は、器用に足をくねらせてスカートのポケットから一本の棒を手を使わずに出すと、そのまま地面に転がせた。

「あたしはこれの意味が良くわかってない。

逆に、あんた達なら、理解できるんじゃない?」

 棒は金属とガラスでできていた。それは細いガス灯の様であったが、ガスなしでも光を放っている。

「共振器か!」

 真っ先に気付いた弐子が声を上げた。

(しかも点滅していない)

 実際のところは数十ヘルツで点滅を繰り返している。が、この速度になるともう人間には点滅しているのか連続で点灯しているのか区別がつかないほどである。

 そして、これだけの速度――周期で点滅しているということは、

(近い! 相当に!)

 弐子が背中に冷や汗を覚えた時、ふと共振器の発光が途絶え、同時に天井から低い音が建屋に鳴り響いた。

「敵襲ッ!」

 弐子が鋭く叫び、遅れて椎名と家城が身を翻す。全員が視線を上に向ける中、轟音を立てて屋根を突き破り、一体の装甲が降りてきた。

 白く細いシルエットは女性的であり、しかし昆虫を想起させるものであり、

「――亜波根あはね!?」

 現れたのは、果たして百目木家が雇った装甲探偵の一人であった。

 

    三


 気付いた朱音は、思わず声を上げた。

(どうして!?)

 それは彼女にとって必ずしも好ましくない事実であった。燕次に持たされた筈の共振器を携えてきたのは、どこから嗅ぎつけてきたのか、百目木の探偵である。

 ならば、燕次は? 彼はどうなった?

 亜波根と呼ばれた装甲探偵は朱音と燐を守るように二人の前に降り立つと、背中越しに声をかけた。

「ご無事ですか、お嬢様」

「あ――あ、ああ」

「良かった。正直なところ、気が気ではありませんでした」

 仮面に隠れて表情こそわからなかったが、その声はいつもの亜波根からは想像がつかないほど柔らかいもので、彼女は本当に自分を気にかけていたのだと、場違いにもその意外さに少し気を取られた。

「おい、話が違うじゃねえか」

 相対する弐子の表情は、静かな怒りに満ちていた。

「牛頭はどうした。俺が戦いたいのは、そんなカスみたいな三種じゃねえぞ」

「牛頭? ――ああ、」

 亜波根は頷くと、「あの男のことか」と嘯いた。

「愚かな男だった。探偵のくせに装甲も持たず、生身で私に歯向かってくるとは」

 それを聞いた瞬間、朱音の全身からさっと血の気が引いた。

 燕次は、どうなった? 問いただしたかったが今それを聞くのも恐ろしく、拳を固く握り小さく唇を震わせたまま、彼女は埃と砂が混じった床に座り身を縮めていた。

 一方の弐子は、失望の色を隠せず、あからさまに気の抜けた顔をしていた。

「……ちょっと待て。あいつは来ないってか? ここまでお膳立てさせておいて?」

 亜波根は応えず、弐子をじっと見据えている。――かと思えば、弾ける様にその場から消えた、地面すれすれを滑空しながら、目にも留まらぬ速さで弐子へと接近していた。

 亜波根の装甲が弐子を捉える直前、彼の全身を岩の柱の様なものが覆い尽くした。それらは互いに隙間なく噛み合い、最終的には出来の良い寄木細工の様な模様が表面に産まれた。

 最後に残ったのは、首元が太く、肥えた黒い猟犬の様な歪な形。

 それこそが弐子の装甲であった。

「!」

 亜波根はブレーキをかけたが間に合わず、にゅうと伸びた弐子の腕が彼女の胴を掴むと、そのまま片手で振り投げてしまった。

 けたたましい音と土煙を立てて、亜波根の装甲が壁をぶち抜いて飛んでいった。

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