第6話

 

    一


 双馬燐が親の仕事の都合で春陵女学院に転入してきたのは、つい二ヶ月ほど前のことだった。

 二年の初夏、既にコミュニティは一通り出来上がっており、引っ込み思案な双馬が入り込む余地は皆無であった。唯一彼女にも分け隔てなく接してくれる銅場諒子という存在がいた。が、彼女の友愛は遍く学友たちへ注がれるものであり、燐の様に諒子の存在を学園生活の頼みとする人は多い。特に、朱音という不良じみた娘が、何故か諒子と頻繁につるんでいることに、燐は気付いた。

 彼女は自身の居場所が学院にないと感じ始めた。その焦りが朱音への恨みにすり替わっていくまでに、そう時間はかからなかった。人付き合いの少ない彼女であるが、周囲で囁かれる朱音の評判がすこぶる悪いからだった。なぜ諒子があの女と仲良くする? このままだと、彼女に悪い影響を与えてしまう。ひょっとして一方的に付きまとわれているのでは? 斯様に疑念は正当化されてそれらしいストーリー性を帯び、己しか知らない隠された事実として、脳の奥に蓄積されていった。

 そうして燐は、朱音に反撃する決意を固めた。と言っても引っ込み思案の彼女であるから、人目に知れずいたずら程度の脅しをかけるのが精一杯である。親が寝静まってからノートを切り取り定規とボールペンを用意したまでは良いが、文面はろくに思いつかず、眠気に導かれるままやけっぱちに線を引く。そうして脅迫状もどきを出したはものの、朱音に変わった様子はない。何とかあの女の鼻をあかさねばと二通目に手を伸ばすまで、一週間だけ我慢をした。我慢が切れたのは、朱音が警察の厄介になったとか、諒子がそこに巻き込まれたとか、そんな噂を耳にしたからである――それが燕次の流した根も葉もない虚言であるとは、露ほども思わず。

 そうして燐はいつもより2時間早く起きて誰もいない春陵女学院に行き、一階に据え付けられた木製の下駄箱の前に立ち、音を立てぬ様にこっそりと朱音の上履きの上に手紙を置いた。

 ――彼女にとっての誤算は、朱音が脅迫状をあまりに大げさに受け取ってしまったこと。

 音もなく隣に現れた新任の教師の存在に気づき、燐は悲鳴を上げて尻もちをついた。


    二


「と、いうことらしい」

 放課後の進路指導室に呼び出された朱音は見知らぬ一人の生徒の前で一通り顛末を説明され、最後に漸くその双馬燐という根暗な登場人物が目の前の少女と同一人物であるということに気付いた。

「……あんたがあの手紙出したの?」

 燐の表情は強張り、息は荒い。相当のストレスに晒されているのは目に見えていた。

 一方の朱音は怒りもなく、ただ脱力していた。

「マジでうちの会社とか関係なくって、ただの私怨なの?」

 燐は困った様な顔をして、「会社とか、よくわかりません」と小声で言った。

「そ。……あっそ」

 はー、と息を吐く朱音。燕次の顔をまともに見れず、彼女は天を仰いだ。

「そういうことだ。百目木洋行の件と今回の脅迫状、関連はない。つまり、」

 燕次は一旦言葉を区切ると「これにて解決だ」拍子抜けと言わんばかりに、ピリオドを告げた。

「……なに、あたしが悪いわけ?」

 半笑いで言う朱音の耳はやや赤い。無理もない。あれだけ騒いで大金を動かし、結果クラスメイトの悪戯だったというオチである。大山鳴動して何とやら。

「いや、大事でなくて良かったな。費用もずっと少なく済むぞ」

「まあそれはいいことだわ、うん、純粋に。純粋にね」

 自分に言い聞かせるように二度三度と頷く朱音に、燕次は哀れみとも同情ともつかぬ視線を向けた。

「正直手紙を見た時点で生徒の犯行だと思ったがな。脅迫状を出すだけというのは本職のやることじゃない」

「おい。それって、ずっとあたしを馬鹿にしてたってことか」

「いや、鋭い君のことだ、何か考えあってだとばかり。――今時定規で書いた脅迫状だぞ?」

 身も蓋もない燕次の言い方に、朱音は恥辱と怒りで頬を染めた。ちなみに燐の耳も赤くなっている。

 燕次はその様を一瞥すると、

「それで。この双馬という娘をどうする」

「……ちょっと待って下さい。瀬戸内先生」

 燐が声を上げた。二人から視線を受けて一瞬たじろぐも、

「貴方は百目木さんの何なんですか。つい先日赴任された教師と生徒の関係にはとても見えません。どう考えても前々からお付き合いがありますよね? 個人的な関係があるのは、教師として問題が」

 声のトーンこそ抑えていたが、口角から泡を飛ばさん勢いで燕次に食って掛かった。黙りこくってはいたが、彼女なりに必死に頭を働かせ、何とか反撃の糸口を伺っていた末のことだった。

 が、彼はどこ吹く風、

「冥土の土産に教えてやろう。俺は彼女に雇われた装甲探偵でね」

「え、え、」突然出てきた単語に、燐は目を丸くした。「装甲、探偵? ……ですか?」

「脅迫を受けた彼女の護衛でこの学校に入ってきた」

 燐は目を瞬かせた。

「そ、それって、え?」

「教師ではないから問題ではないということだ。もっとも、これから東京湾に沈む君が心配することではない。すぐに前任の教師が復職して、この学院に平和が戻る」

「ちょっと待て。ちょいちょい聞き捨てならねえ単語が入ってるんだが」

「聞き捨て? どの単語だ?」

「東京湾とか沈むとかだよ!」

 慌てて声を上げた朱音に、燕次は眉を顰めた。

「仮にも君を脅迫した相手だ、放っておけば何をするか分からないぞ。禍根は残さぬよう綺麗さっぱり断っておけ」

「しねえよそんなこと! 子供の悪戯に何ムキになってんだよ!」

 燕次の言葉に、今更恐怖を感じて燐が震えだす。そんな彼女に向き直った朱音は、

「そういうことだから。あんたがもうしないって言うなら、この話はこれでお終いだ」

 すてばちながらその口調は優しく、ほっとした燐はつい泣き出しそうになってしまった。

 しかし燕次は空気を読まず、

「おすすめしないぞ。今なら格安で」

「……今取り消すなら、あくまで冗談ってことにしておいてやる」

 外見に不相応の迫力で凄む朱音に燕次は苦笑すると両手を挙げ「分かった。悪い冗談だ。忘れてくれ」と嘯いた。

「であれば、俺の仕事は本当にこれで終わりだ。引き継ぎ作業もある、しばらくはここに残るが――長くても二週間ほどだ」

「そっか」

 朱音は笑顔を浮かべた。が、それは安堵から来るものではなく、どこか虚ろな何かを抱えている――と、燐は横顔を見ながらそう思った。

「ありがと。おかげで助かったぜ。……おい、燐って言ったか」

 暗い表情でじっと座っていた燐だが、名を呼ばれて急に顔を上げた。

「は、はい」

「あたしはこいつを使ってあんたをどうこうしようとは思わないけど、代わりにあんたの口から色々聞きたいことがある。

……ま、何だ。とりあえず一緒に帰ろうぜ」

 背筋を叩いて無理やり立たせると、朱音は肩を組んで部屋をそのまま出て行った。

 二人の後ろ姿を見やりながら、燕次はニヤニヤとらしくなく、下品なくらいに相好を崩した。

「いや、青春。いい娘達だねぇ」

 生徒の成長を間近で見る。これが教師の喜びかと、彼はその味を反芻する様に頷いた。

 同時に、彼はふと、自分はどうだったかと少し遠くなった過去に思いを馳せた。

(あいつら、元気にやってるかね)


    三


 廊下を歩きながら、下駄箱に辿り着くまでに燐が放った言葉は少なかったが、朱音はおおよその事情を理解した。

「そうだな。諒子はいいヤツだよ。ああ見えて頼りになる」

「だから、あなたが警察に補導されて、その時銅場さんが一緒にいたと聞いて」

「そりゃデマだ。……発信源は、大体予想がついてるけどな」

 苦い面持ちで、朱音は来た道を振り返った。燐は「意地悪な人なのね」と呟いたが、

「まあそうなんだが、何て言うか、あれはあれで真剣にやってくれている、と思う」

 朱音はたどたどしくも、そう言葉を紡いだ。夕日に照らされ、彼女の髪が浅黄に輝く。

「私も海に沈めるなんて脅されたし。……本気じゃなかったみたいだけど」

「そうなの?」

「さっきふと思ったのだけれど、あれ、自分が悪役を引き受けたんじゃないかしら」

 お陰であなたをすぐに信用できたもの、と燐が言うと、朱音は一瞬虚を突かれた様な表情を見せた。

「……なにそれ。ホントひねくれてるんだから」

 口ではそう言いながら、しかし喜色を隠し切れない。

 その様を見ながら「あなたって、黙っていれば本当に綺麗なのね」と褒めそやした燐の言葉に、朱音は狼狽えた。

「意味分かんない」

「そう?」

「あんた、ひょっとして……いやいい」

 朱音は燕次に呼びだされたことを思い出した。あの時、確かあの不届き者はレズがどうのこうのとのたまっていなかったか。

 ただ燐がそうかと聞くのは流石に憚られる。小首を傾げる彼女に、朱音の耳は焦りと羞恥でつい赤くなった。

「もう良いから帰ろうぜ。家どっち?」

 朱音は恥ずかしさをかき消すように右へ左へ手を振った。その先には下駄箱、そして小さなグラウンドと正門が見える。下校時刻はとっくに過ぎており、校内に残っているのは部活に熱心な生徒だけで、彼女達が帰るのはもっと後だ。そのせいだろう、遠くから声は聞こえるが人気は皆無だった。

「私は本駒込」

「あたしは駒込。方向逆だな、それじゃ」

「待って、百目木さん」

 燐はそそくさと靴を履き、燐を置いて去ろうとする朱音の背中に声をかけた。その手は固く握られており、小さく震えている。

「私、あなたを脅したのよ。勝手な思い込み一つで。

ちゃんと謝りたい。それに、どうしてあなたはそう普通にしていられるの?」

 燐の声は小さく強張っていたが、はっきりとしたもので、朱音は立ち止まって振り返らざるを得なかった。

「……つってもなあ。ま、あたしはそういうのに慣れてるし、いちいち気にしないぜ」

「慣れてる、って」

 怪訝そうな表情の燐に、朱音は「そうだな」と呟くと、

「あんたはこの学校に来てどんくらいだ?」

 燐はすぐさま「五月よ」と答えた。

「じゃあ二ヶ月か。その間にイジメは受けたか?」

 燐は眉を顰めた。「……いいえ。そんなに直接的なのは、ないわ」

「ならこれからだな。ここのは酷いぜ。証拠は残さず、ただただ陰湿だ。

……ま、そういうのに比べたら、あんたのは遥かに健全だったってこと」

「でも、私が許される理由にはならないわ」

「あたしがいいっつってんだからいいんだよ」

 わざとらしく鬱陶しそうに、朱音は言った。実際のところ、彼女は人に貸しを作ることをあまり良しとした性格ではない――と言うより、あまり社交的でないと言うべきだろう。父や兄が打算にまみれた人付き合いばかりしていたものだから、それを見続けてきた彼女はすっかり人間不信に陥っていた。一見サバサバとした性格の彼女であるが、根底にはそういった人を避けようとする習性が根付いていたのだ。銅場諒子は数少ない例外である。

 だが燐はそんな彼女の胸の裡を知らない。困り切った顔をしてこちらを見つめてくるその様は、子犬か何か小動物の様に、朱音には見えた。

(こりゃ、近いうちにイジメの標的になりかねないわ)

生真面目な彼女はいつか性根の悪い生徒の不評を買うだろう。そこからは生殺しだ。彼女たちは個人で大掛かりなことはしない。ただ集団で、一人ひとりが同じくらいにごく小さいことをする。そうやって統一された意志は、苛められる側から見ると、一匹の巨大な鯨の影に化けるのだ。追えど消える、悪意の鯨である。この怪物に負けずにいられるのは、例えば朱音の様に強烈な我を持つ者くらいである。

 さてこのか弱い少女をどうしようか。下手に懐かれても困る、自分の交友関係は今以上広げる気はないが、しかし放っておくのも後味が悪い――朱音は髪をかき上げながら、自分の瞳をじっと見つめてくる燐を気だるげに見返した。

 その時、彼女の後方でタイヤが地面を擦る音がした。二人がそちらを見やると、一台の自動車が校門前に停まっている。運転席の窓が開くと、そこから男が顔を出した。

「百目木朱音さんだね!」

 知らない男に名を呼ばれ、朱音は眉を顰めた。が、彼が次に放った言葉に、彼女は驚かざるを得なくなった。

「君のお兄さん――鋭吉さんが、誘拐された!」


    四


 燕次は日誌を纏めると棚に戻し、机の上から一切の書類が消えると安堵の溜息を吐いた。これにて本日の業務は終了である。それは仮の職業である教師のもの、そして本業である装甲探偵のものすら意味する。朱音を脅迫していた犯人を特定し、調査終了を確認できたのだ。血を見ずに済んだのは久々だと、燕次は内心満足していた。相手はどちらも年端も行かぬ女学生だ。何かあっては責任が取れないと、この一週間気が気でなかったのも事実である。

「瀬戸内先生」

 声をかけられ、肩越しに振り返る。英語教師の太刀川華子が、笑みともつかぬ表情を浮かべてそこにいた。

「お疲れ様です」

「お疲れ様です。どうされましたか?」

「いえ。一週間経ちましたが、どうですか? 少しは慣れましたか?」

「ええ、まあ」燕次は曖昧な返事を返した。慣れるはずもない。ここは日本でも屈指の魔境だと、燕次は心中で華子を罵った。

「それは良かった。外の人はなかなかこの学校に溶け込むのは大変なようですから」

「そうですね」期限付きでなければ、流石の燕次も音を上げていただろう。この春陵という空間はあまりに特殊だ。新宿を始めとして帝都東京には得体の知れない場所が数あれど、春陵は一見してただの女学院である。中身もただの女学院には違いなかろうが、教師として潜り込んで初めて感じられる特殊な力場というものが確かに存在する。如何に燕次が超人たる装甲探偵とは言えど、ここで教師のふりを続けるのは極めて難しいことであった。

「生徒の評判も良いですよ。新しい先生は話しやすいと」

「そうですか。意外ですね」

 ある種の牽制だ、と燕次は悟った。つまり赴任早々あまり生徒と親しくするものではない、と華子は言外に告げているのだ。こういった婉曲的な手法を、春陵の教師は好んで使っていた。

「きっと先生はこの学校に向いているんですね。

――では。また明日もよろしくお願いします」

 華子が立ち去り、燕次は今日何度目かもわからないほどの溜息を吐いた。

 どれが本音で、どれが建前か分からない、灰色の世界。それが春陵女学院だった。

(息苦しい)

 早くここを出よう。手早く荷物を片付けると、燕次はロッカールームに向かった。部屋に入り、小さく薄いロッカーを開けた瞬間、彼は一瞬目を疑った。

「……光ってる」

 中に置いていた、一見して太いペン、その真中のガラス部から黄色い光が漏れており、ぼんやりと長い周期で点滅を繰り返していた。

 これが意味するところは一つ。対となる機械が動作したということ。その機械は朱音に持たせてあるということ。そして、己の身に危険が迫った時のみそれを起動させる様に伝えていたということ。

 つまり、朱音は己が危機を察知し、今まさに燕次に助けを求めているのだ。

「まずい」

 燕次はその機械――共鳴器レゾネイターと呼ばれる小型圧縮プラズマ管――を引っ掴むと、すぐさま校舎の陰に停めていた大型のバイクに駆け寄っては跨がった。エンジンをかけると重機でも動かしたかの様な音が、静かな校舎の壁に響く。何事かと帰り支度をしていた華子が飛び出してきたが、彼女が声をかける間もなく燕次はそのまま飛ぶように走り去った。

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