第4話
一
百目木朱音は自宅に帰宅すると、まっすぐ二階の奥にある自分の部屋に向かった。小走りで階段を登ると、階下のドアがガチャリと開く。無視して登りきろうとする朱音の背中に、ヒステリックな声が投げかけられた。
「朱音! 今何時だと思ってるの!」
彼女は応えることなく、自室のドアを乱暴に閉じることで返答した。そのままベッドに体を預け、視界を塞ぐ。
「今お父さんの会社は大変なの! 貴女まで困らせる様な真似はしないで!」
母茉子のヒステリックな声に、聞きたくないとばかりに朱音は耳をふさいだ。
「そんなの知らないよ。大体何時って、まだ九時じゃん。クソ」
悪態も寂しく、毛布の奥に消える。
百目木家に罅が入りだした、と朱音が気づいたのは彼女が10歳の時だった。百目木洋行が経営危機に陥ったのだ。父はたまに帰ってきたかと思えば不機嫌でしばしば怒鳴り散らし、母は始終精神不安定。兄と姉は他人事と言わんばかりに家に寄り付く風は見せず、大学生活を満喫していた。
朱音は自身の家庭が継ぎ接ぎで出来ていることをその時知った。兄と姉の影響もあり、彼女の性格が奔放さを増していったのはこの頃である。非行にこそ走らなかったが、彼女は徐々に家から離れ、百目木のしきたりから逃れる様に外へ外へと心を移していった。
そんな彼女にとって、家はもはや安寧の場所ではない。学校、或いは課外の街が彼女の居場所だった。しかし先日の脅迫以降、そこかしこで得体の知れない感情が蠢いている気がして、緊張を解けない状況が続いていた。
彼女はベッドに顔を埋めながら、ふと自身が依頼した装甲探偵、羽村燕次のことを考えた。胡散臭い男であることは間違いないが、しかし今頼りになるのは百目木で雇っている数人の装甲探偵か、教師として潜入しているこの男である。
(あいつ、今何してるんだろう)
聞きたいことは沢山ある。しかし朱音から接触を許されていない現状がとにかくもどかしく、ごろりと仰向けになり天井のガス灯を見つめた。
揺らめく炎に照らされた影が踊る。急に自身を襲ってきた孤独に耐えるように、朱音は目を強く瞑った。
二
だから翌日進路指導室へと燕次に呼び出されていた時は、表向き不機嫌を装っていたが内心かなり心を踊らせていた。その分、
「この学校、レズビアニズムの浸透具合はどんなものか」
と開口一番聞かれた瞬間の落差たるや。
「……何言ってんだあんた」
朱音の顔から一切の表情が消失した。
「レズビアニズム。同性愛だな、女性同士の」そういうことを聞きたいのではない、と朱音の表情が物語っていたが、燕次は何やら手元の資料にペンを走らせ続けるだけで、彼女の方を一顧だにしなかった。
「そこのところどうなってるんだ」
「どうもこうも」朱音の頬が引きつっている。「しらねえよ、そんなの」
「そうか。いや、どうもこの学校じゃあ一割程度は流行しているのではと感じているが、君の意見を聞きたかったんだ」
マジかよ。朱音は声に出さず、口だけを動かした。
「知らないならいい。余計なことを言ったな、もう行ってもいいぞ」
「行ってもいいぞじゃねえだろ。突然ワケわかんないこと言って、それで終わりって幾らなんでもありえないでしょ」
つうかレズって誰と誰だよ、と呟く朱音に「個人情報だからな。それは秘密だ」と燕次はにべもない返答で応じ、再び彼女は眉を顰めた。
「いや、あのさ。進展がどれだけあるかこっちは分かんないのに、いきなりレズがどうこうとか言われて納得できるわけないでしょ。仮にもあたしは客だぞ」
正論に、む、と燕次は押し黙った。
「いい機会なんだから、進展を報告してくれてもいいんじゃないの?」
燕次は腕を組み、そうだな、と顎を撫でた。
「おおよその状況は掴めている。解決も近いだろう」
「え、マジで?」朱音は目を丸くした。「犯人とかわかってるの?」
「残念だがまだ報告できる段階じゃない。さっきも言ったが個人情報も関係しているし、推測もかなり混じっている」
想像以上のポジティブな結果が返ってきたことに、朱音の心中には喜びより驚きが勝っていた。
「解決近いって、どれくらい?」
「もちろん相手次第だが、まあ、まず二週間はかかるまい」
「……そっか」
朱音は二度三度と頷いた。事件の解決とは燕次との契約が終了することを意味する。自身に降りかかる脅威が取り除かれることより、今は彼が学園からいなくなることが、意味もなく何故か不安に感じられた。
「さて、それはそれとして。やるべきことを一つ思い出した」燕次はそんな朱音の心中を知ってか知らずか、鞄から一冊のファイル――表紙は茶色の厚紙で出来ている――を取り出した。
「進路指導といこうか」
三
「なに今更教師ぶってんだよ」
朱音の悪態も当然だったが、燕次はどこ吹く風、
「今は教師だ。……君、前回の進路相談、逃亡したらしいな」
指摘を受けて、朱音は口を閉ざした。
「そういうわけで、俺に白羽の矢が立ったということだ。
なに、安心していいぞ。追加料金は発生しない」
まあ座れ、と促され、朱音はしぶしぶ椅子に腰を下ろした。
「卒業したら何になるつもりなんだ」
ファイルを開き書類に目を落としながら、燕次は朱音に問いかけた。
「……別に。決めてない。とりあえず大学」
「とりあえず大学」燕次は反復した。「どの辺の大学だ」
「だから、決めてないって」ふてた様に言う朱音にも、燕次は顔色を変えず頷いた。
「何も決めていないってことか」
「そう言ってるだろ」
「君の人生だから好きにして結構」
冷たさすら感じさせる言い方で、どこか朱音は釈然としないものを感じさせた。
「あんたはどうだったのさ」彼女は小さな反撃のつもりで、燕次に問いかけた。
「俺?」
「装甲探偵って、どういう勉強してなるもんなんだ。何歳くらいからなろうって思ったんだ」
朱音の質問に、「さて、いつだったかな」燕次は顎を撫でながら視線を上に向けた。
「正確には覚えていない。気がついたら俺は装甲探偵になるため、日夜勉強と訓練に励んでいた」
「気がついたらって、何歳くらいなのさ」
「小学校に入るよりは前だ」
朱音は眉を顰めた。
「教育熱心なこった」
「昔はどうだか知らないが、今時装甲探偵を目指そうと思うと早期教育が不可欠だ。正確な判断を素早く下すには訓練と十分な知識がいる。脳が一番柔らかいのは子供の頃だからな、その時分に叩きこむだけ叩き込めば、大人になってから楽ができる」
「それで親の敷いたレールに乗っかってきたってことか」
「否定はしない」朱音の嘲る様な口調にすら燕次は首肯した。「そうでなければ、この歳で仕事はできていないからな」
「そこにあんたの意志が介在しなくても?」
「少なくとも俺は今、こうして探偵業を続けている。これが答えだ。嫌ならとっくに辞めている」
「……そっか」朱音は納得していないと言った顔で頷いた。「あんたの親はよっぽどできた人だったんだろうさ」
「さあ、それはどうだろうか」燕次は小さく肩を竦めた。「実は小さい頃、両親は亡くなってね。その辺りのことは、いまいち覚えていない」
思わぬ答えが返ってきて、朱音はバツが悪くなり項垂れた。
「ごめん」
「気にするな」
燕次の口調は軽かったが、朱音の背中には罪悪感が張り付いていた。不良を装っているだけで、彼女は根っから素直な人間である。燕次すらとっくにそのことを見ぬいていたが、知らぬのは本人ばかりである。
「……じゃ、じゃあさ。なんで探偵やってるの」彼女は少し狼狽しながら、早口で尋ねた。「あんた、やりたいって思ってやってるんでしょ」
朱音の質問に、燕次は小首を傾いだ。
「いや、やりたくてやっているわけではないぞ」
「なにそれ。あんた、妥協して今の仕事してるってこと」
「妥協。妥協か。まあ、そうとも言えるかもしれない」
苦笑しながら言う燕次に、朱音の一瞥はそっけないものであった。
「冷めてるな。大人ってのは、そういうもんか」
「それは人それぞれだ。君たちもお嬢様という一括りにはできないだろう。今の君たちが数年後どうなっているか想像してみると良い。大人と言っても子供の延長線上にいるのには違いないのだから」
反論する燕次が初めて歳相応の子供っぽさを見せた様で、朱音は少しだけ嬉しくなり、「そういうの、あんまり大人の口から聞きたくないんだけど」口調はつっけんどんだが、声から喜色を隠せずにいる。
「そうか。まあ、俺もつい二年前まで学徒の一だったから、大人を語れるほどのもんじゃない。未熟者の戯れ言として受け流してくれ」
さて、と燕次は窓の外の時計台を見やった。煉瓦造りの塔の上には巨大な円盤が掲げられている。
「そろそろだ。いや、つまらない話をした。結局相談にもならなかったな」
「そうでもないさ。あんたの話には興味があるよ、あたし」実際、彼女の心を覆っていた泥の様なものは一瞬と言えど引いて、声色はすっかり軽くなっている。「周りにいないタイプの人間だからかな」
「変わっているな」燕次は歯を見せて笑った。「悪い影響を与えかねないから、俺としてはあまり話したくはない。反面教師にする分には歓迎だが」
「ここは退屈だから刺激が欲しいんだよ。面白い話が聞きたいんだ」
燕次は応えず苦笑しながら首をふり、手元のファイルをぽんと叩いて立ち上がった。
四
汐留にあるとある複合ビルの一つは、おおよそ二つのエリアに区分けできる。二十階までは有名企業がオフィスを構えているが、二十一階から上は外資系の高級ホテルが鎮座しており、うち二十二階には会員制のジム・フィットネスクラブが入居している。数時間利用するだけでそこいらのフレンチを楽しめるくらいには金がかかるこのクラブ、当然利用客は限られている。中年の男性が最も多く、次に老人、ほんの少しだけ壮年の男がおり、それで終いといったところである。ハードなメニューや機具も揃えてはいたが、それらは一週間に数回使われれば良い方だった。
特に奥にはボクササイズ用のサンドバッグとトレーナーが待機しているのだが、彼らを訪ねてくるものは片手で十分である。そのうちの一人が、倉間探偵事務所の所長、日本に百人しか存在しない第一種装甲探偵である倉間辰比古であった。
朝六時。営業を開始すると同時にジムへ入った倉間は、シャワーもそこそこにオープングローブを填め、奥の部屋へと向かう。彼がボクササイズルームに入ると、眼下には霧とも靄ともつかぬものに包まれた東京湾が広がっている。ガラス張りの壁から朝焼けで染められた青い光が差し込む。部屋の中では、彼のための準備が既に出来上がっていた。
「今日も済まないね、
サンドバッグの横に佇むトレーナー、美女木と呼ばれたその青年は小さく会釈した。
「倉間さんのためなら。大変ですが、傍で見れるのは光栄です」
「可愛いこと言ってくれるねえ。君が名前の通りの女の子だったら本当に嬉しかったんだけどねえ」
倉間は笑いながらサングラスを外すと美女木に渡し、両の拳を一度どんと突き合わせると、早速サンドバッグにひたひたと歩み寄り構えもそこそこに拳を突き立てた。その時、工事現場でしか聞かないような音を立ててサンドバッグが跳ね上がり、吊り下げている金具が悲鳴を上げる。落ちてくる瞬間、今度はボディーフックを打ち込む様に小さく左拳を振りぬく。サンドバッグは再度宙を舞い、右に左に竜巻の如く暴れまわった。
美女木はその様を少し遠くから眺めていた。彼は帝体――帝国民体育大会、拳闘の部で優勝経験すら持つ優秀なアスリートである。そんな彼が、倉間のトレーニングには一切の口をはさむ余地を、いや、そんな意志すら持たずにいた。
(何度見ても恐怖が消えない。このサンドバッグ、一体何キロあると思っているんだ)
利用者の要求に応えて適切なサンドバッグを用意するのがこのジムのサービスであるが、倉間が使用するものは彼自身が持ち込んだ、重量実に300キロの特注品である。中心部は鉛の砂がぎっしりと詰められており、とてもじゃないが人間の手でどうこうできる重量ではない。それを軽々と跳ね上げる膂力とは、一体いかなるものか。倉間が来てから急激に傷みだした床のマットが、威力のごく一部を物語っている。
これが噂に聞く第一種装甲探偵の力――美女木が身を震わせたその時、隅の壁に控えめに備え付けられた黒電話が鳴り響いた。
美女木が受話器を取り、二言ほど話すと受話器の口元を抑え、倉間に声をかけた。
「早乙女様という方がいらっしゃっているそうです。ご存知ですか?」
五
「食って待ってりゃ良かったのに」
午後七時きっかり、同ホテルのレストランで、倉間は己の部下、早乙女を迎えた。彼は既にテーブルについており、食事に手を付け始めている。
「余計な出費になりますから」
「これっくらい俺が出してやるよ。朝っぱらからわざわざここまで来てくれたんだから」
「遠慮します。弐子さんの件、報告が終わったらすぐ離れるつもりでしたので」
「そう言ってくれるなよ。水曜ってのは忙しい俺が女なしでゆっくり朝を迎えられる貴重な日なんだ」倉間は笑顔もなくさらっとセクハラめいたことをぼやいた。「大体、六時って言えばトレーニング始めたばっかりだ。その時間にやって来られても困るぜ、こっちは」
「だからこうしてここにお伺いしたんです。最近お忙しいようで、ちっとも捕まりませんから」
「ああ、そりゃあ悪い。それじゃあレポートでも机の上に置いてくれりゃあ」
「とっくにそうしています。見て頂いたんでしょうか」
倉間の頬が痙攣する。
「ああ、そう、そうか。いや、忙しくてね」
「ですから、こうして、」
「分かった、分かったよ。飯食いながら聞くから、とりあえず話してくれ。
で、弐子はあの後、一体どうした?」
上司の奔放な振る舞いに慣れているのか、早乙女は顔色一つ変えずに話し始めた。
「弐子さんは今、チームを組んで動いています。椎名さんに家代さん」
「……ふうん、その二人ねえ。大丈夫かいな」
「今のところ、チームワークに支障ない様です」
「意外だな」
倉間は頷きながら豪快に、しかしマナーに一点の曇りなく、テキパキと更に乗った食事を平らげていった。
「百目木洋行内部にスパイを潜りこませるのには成功している様です。切り崩しも時間の問題かと」
「へえ。で、あいつらの次の一手は?」
「次の一手、ですか。こういった場で口にするのは憚られるのですが」
「小声で言ってみ」
「
倉間はあからさまに顔を歪めた。
「マジで?」
早乙女は表情一つ変えず、倉間は天を仰いだ。
「弐子を追い詰めすぎたか。……で、誰を?」
倉間の問いに、早乙女が初めて表情を変えた。
「いえ、残念ながらそこまでは。百目木家の誰かということだけ」
「そりゃそうだろう。しかし……まあ、いいか。うちのエースのお手並み拝見といこう。ダメならクビにするだけだ」
躊躇いもなく冷酷な言葉を吐いた倉間だが、彼にしてみれば社員を追放することは愛情故である。つまり、所属先を活躍できるチームに変えてもらうだけなのだ。早乙女は数年倉間の元で秘書もどきの仕事をしていたから、それをよく知っていた。
ワンプレートをぺろりと平らげた倉間は立ち上がると「俺はおかわりを貰うけど。君、ホントにいらないの?」と早乙女に問いかけるも、彼女は「報告は以上です」と言外に断った。
「……はい。じゃあもう行っていいよ。あと俺、今日も忙しいから事務所に戻るのは遅くなる。まず顧客に会いに行くから」
「どちらまで?」
「今回のクライアントさ。確か、真、真――」
「真空会では」
「そう、それ。じゃ、また今度な」
振り返ると、既に早乙女はレストランを出ようとしていた。さっき聞いたヒールの音は彼女のものだったか。寂しいねえ、と独りごちた倉間は、華やかなビュッフェが並ぶテーブルに再度足を向けた。
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