第2話

 

    一


 弐子は自身の上げた唸り声に驚き、飛び起きた。

 背中のシャツが冷たく、彼は布団を手繰り寄せた。暗闇に目が慣れると、壁の時計の針の位置が何となくわかってくる。数秒後、弐子は今が真夜中であることを理解した。まだ朝は遥か遠くにあり、帝都にやってくるのは数時間先だ。

「夢か」

 呟いて、漸く彼は自身が先日敗北を喫した時の夢を見ていたのだと気付いた。

 再びベッドに身体を投げ出し、目を瞑る。が、瞼に映るのはあの日の呪いたくなる記憶ばかりである。

 とにかく手酷くやられたのだ。相手が二種持ちでも弐子は一対一なら勝つ自信があった――実際百目木の探偵も退けた――のだが、その後に現れた謎の装甲に打ちのめされ、最後はトレーラーのコンテナをぶん投げられた挙句下敷きになった。何より弐子を落ち込ませたのは、相手の装甲が、どう見ても三種、或いはそれ以下にしか見えなかったと言うことだ。

 だと言うのに彼の拳は相手を捕らえられず、プラズマ弾は受け流され、ついに弐子は返り討ちにあった――

「認められるかよ、んなもん」

 独りごちる。

 闖入してきた謎の装甲。そのシルエットは細く、人に鉄板一枚貼り付けた程度の厚みしかない。ただ異様だったのが、頭部のマフラーだ。二本にょっきりと生えていたそれは、まるで牙、或いは悪魔の角の如きであり、その先端から吹き上がる緑のアフターファイアが禍々しさを増長させていた。

(次は絶対殺してやる)

 謎の装甲探偵への復讐心を滾らせつつも、格下であるはずの相手に喫した敗北は重く、思考に粘性が伴う。

 どうにもならず、彼は一度意識を眠りへと導いた。


    二


 帝都東京は本郷区に春陵女学院がある。良家の、そして資産家の令嬢が通うそこは帝都のくすんだ色合いとは隔離された別世界であり、「御機嫌よう」の挨拶が今なお息づく非国立史跡名勝天然記念物である。

 その中で、朱音は極めて異色な存在であった。

「おっはよー」

 教室に入った途端気だるげに挨拶をするその姿に、好悪両方の視線が向けられる。どちらかと言えば嫌悪のものが多いのだが、彼女に対する憧憬の念を抱く者も少なくない。春陵の塀の中は刺激のない常春の凪いだ湖の様なところである。つまり朱音は刺激に満ちた外界、自由の象徴の様なものであった。

 そんな彼女に隔てなく接してくれる友人というのは大変貴重な存在である。

「おはよう、百目木さん」

 席についた朱音をくすくすと笑って迎える銅場諒子どうばりょうこは、そんなレアメタルの一つである。

「眠そうね」

「ちょっと寝つきが悪くってさ。くーちゃん、宿題やった?」

「ダメよ。見せてあげない」

「ケチ」

 口を尖らせる朱音であるが、その目は笑っている。

 ちなみにくーちゃんというのは諒子の苗字、銅場に由来する。朱音的思考では、銅だからCuくーちゃんということである。

「色々考え事してたら平気で一時回ってた」

「考え事?」

「くーちゃんには相談できない話」

 言いながら、彼女は睡眠不足でぼんやりした頭をゆっくり働かせて、燕次とのことを考えていた。

 彼は幾つか朱音に約束を取り付けた。曰く、解決までは事務所を訪れないこと。連絡は燕次から行うこと。また、原則朱音から燕次への接触は避けること。ただし、命の危機に晒された場合はこの限りではない。以上を守りながら、必要以上に神経質にならず、今までどおりの生活を送ること。

 つまり、朱音は燕次が守ってくれている「だろう」という前提で、しかし彼を意識せずに暮らさなければならないのだ。それもこれも、百目木に潜んでいるであろう外敵の存在を鑑みてのものである。

(厄介だわ、マジで)

 想像以上の窮屈さに、朱音は内心音を上げた。

 諒子はそんな彼女の苦労は知らないが、いつもとは違う憂いの表情を見て、心配そうに朱音の顔を覗き込んだ。

「だいじょうぶ?」

「平気。授業で寝ればいいし」

「ダメよ。新しい先生が見たらショックで泣いてしまうわ」

 諒子の言葉に、朱音は目を瞬かせた。

「新しい先公?」

「私も聞いた話なんだけど、太刀川たちかわ先生がそう言っていたわ」

 朱音は眉を顰めた。

「……こんな時期に?」

「珍しいよね」

 ふんわり笑う諒子だが、朱音の眉間に刻まれた皺は深い。

(……嫌な予感しかしねえ)

 朱音は「頼むからややこしくなりませんように」と祈りを込めて職員室へ視線を向けた。


    三


 彼女の祈りは届かなかった――というより、手遅れであったと言うべきだろう。

 前任の非常勤講師田原要一郎たはらよういちろうは家庭の事情と一身上の都合の両方で一時ではあるが急遽春陵を離れることになったと、壇上の男は淡々と抑揚のない声で言った。続いて彼は「瀬戸内珪せとうちけい、代理で皆さんの数学の授業を担当します」と自身が何者であるかを、熱意のない営業マンの自己紹介みたく告げた。

 その瞬間教室の温度がふわりと上がったのを、朱音は耳の後ろあたりで感じた。珪と名乗ったその男は若く、この学校では極めて珍しい存在である。生徒のみならず教師同士の間違いを起こすまいと厳しい選別を行なっている春陵では、まず男は排除の対象になる。そうしなければ一体どうなるか。今みたく、そこかしこで女生徒が嬉しげに男の相貌について褒めてはけなしの囀りを始めるのだ。

「私語は慎みなさい」

 珪の穏やかな注意にお行儀良く口を噤んだ彼女達であったが、その口角は皆喜色で釣り上がっている。玩具を前にした子供か、或いは餌を前にした禽獣か。

「随分若い人ね」

 隣から諒子が話しかけてきたが、朱音は応えずじっと男の顔を睨みつけていた。

 撫で上げて固めた髪、顔半分覆いかねない大きな眼鏡、無視できない程度に大きい頬の黒子。硬さのない、滑らかなバリトン。

 細部を見れば全くの他人だが、全体をぼうと眺めると不思議なことにあの男――探偵羽邑燕次の顔が浮かんでくるのである。

「あんたまさか、この学校に潜入してあたしを見張ろうってのか」

 言い出したい気持ちをぐっとこらえ、視線に力を込めるが男は何処吹く風である。なお眉間に皺を寄せる朱音の横顔を見て、

(百目木さんもお年頃ね)

 と諒子があらぬ誤解に思いを馳せていたのは、また別の話である。


    四


「よく気づいたな」

 呼び出しを受けた朱音が職員室の隅にあるデスクに座る珪を訪ねた瞬間、彼はそう告げた。突然声のトーンが変わったことに朱音は面食らったが、やはりこの男の正体は燕次であるのだと確信を得て、腕を組むと眼前の偽教師を睨み付けた。

「幾らなんでも怪しいっての」

「いや、君が鋭い。こうして少しの特徴をずらすだけで、大抵の人間は今の俺と前の俺の区別がつかなくなるものだ。君みたいに疑い深いのは例外中の例外だ」

「あっそ」

 あんたの変装が下手なんじゃないかという皮肉を飲み込んだ彼女は、「で、何の用。つうか何であんたがここにいるの」と畳み掛けた。

「何でって、それは君の依頼に応えるためだ」

「はあ?」

「君が言ったんだぞ。百目木の連中の手が届かないところをフォローしろと。俺はここ数日君と百目木の動きを追って、やはりここが空白地帯だと確信した。だからこうして無理をしてでも潜り込んだんだ」

「……ちょっと待て、あれからずっとあたしを見張ってたのか?」

「それが何だ」

 朱音の頬が引きつった。サバサバしてはいるものの、彼女とて年頃の少女である。自分の周りを嗅ぎ回られたと言われて平静を保つのは難しい。例え自身が依頼した警護であったとは言え、である。

「つうか田原のオッサンはどうしたんだよ」

「前任の教師か。聞かない方がいいぞ」

 絶句する朱音に、「いや、悪いようにはしていないから」とフォローを入れる燕次であったが、彼女の目は既にすっかり据わりきっていた。

「……いいよ、もう。分かった。納得はしてないけど飲み込むことにする」

 その言い分は朱音が百目木という特殊な家で生き抜くための処世術の一つであった。父親、母親、兄、ありとあらゆる圧力が彼女を蹂躙しにかかるあの家にあって、いつしか彼女は無理に抗うのをやめ、力を抜いて身を任せることを覚えた。ただこの言葉を百目木の家以外で使うのは、彼女自身気づいていないが、初めてのことである。

 しかし燕次はそこまで彼女のことを知らない。頷くと、

「そういうことだ。俺はこれから教師として君に接触する。こうして一対一でやりとりするのは学内では最後だ。後は手紙を使う。それと、一つ渡しておくものがある」

「?」

「君のロッカーに大きめのペンを一つ入れてある。もし誰かに襲われたら、それを押しながら捻るんだ。躊躇するなよ」

 勝手にロッカーを開けられたことにショックを受けたが、いちいちこんなことで嫌な思いをしてはこの先きりがないのだろう、と朱音は諦めの嘆息を吐いた。

「何それ、あたしを助けに来てくれるって?」

「そうだ。いつ何が起きるか判らない、常に携帯しておくことだ」

 燕次の警告が突然危険を具体的な形にしたような気がして、朱音は少し身を縮めた。

「……何かヤな感じ」

「使わずに済むならそれで結構。第一学外は君の護衛がいるし、学内は俺がいるから、ま、あくまで保険だ。

くれぐれも壊すなよ。そこそこ高価で、中には危険なものが入っている」

「そういうのを平気で年頃の女の子に持たせるって考え、正直ヤバいと思う」朱音の皮肉にもどこ吹く風、燕次は顔色一つ変えず、

「検討した結果、受け入れられるリスクだと判断した」

 そう言うと、「で、質問はあるか?」と朱音の方を向かずに何やらの書類を整理しながら尋ねた。

 朱音は少しの間押し黙っていたが、結局「ない」と言い放った。

「よし。じゃあ、行っていいぞ。宿題はちゃんとやるように」

 最後に先生らしいことを言ったものだから、カチンと来た朱音は「エセ教師のクセに」と捨て台詞を吐くと肩を怒らせて教室を出て行った。

 その後姿を見遣りながら、心労に燕次は思わず息を吐いた。

(これは割に合わない仕事だ。また見積もりを誤ったか)

 臨時とは言え、教師のふりをし続けるというのは存外に難しい。前任の教師は数学の担当で複数の学年とクラスの授業を受け持っていたため、燕次は毎日数回教壇に立ち続けねばならず、なおかつその授業の準備まで行わなければならない。さすがに担任の業務はしなくても良いということだが、この上朱音の護衛を行わなければならないというのははっきり言って荷が勝ち過ぎる仕事であった。

「瀬戸内先生、大丈夫ですか?」

 溜息を聞きつけて、太刀川華子はなこが声をかけてきた。この学園で勤めて6年目になる英語の教師である。かなりのショートヘアであるが、彼女の小さく丸い頭によく似合っており、持ち前の美貌も相まって女性らしさを失っていなかった。

「ええ、大丈夫です。ご心配かけましたか?」

「少しだけ。赴任早々生徒を呼び出すなんて、聞いたことがないですから」

「私も初めてです。ただ彼女はどうも他の生徒とは違うようで、少し話を聞いてみたかった」

 成績の確認も兼ねて、と燕次が言うと、華子は目を細めて薄く笑った。

「そうですか。熱心なのは良いことです」

「ただ杞憂ではありましたね。彼女は良い子だ。頭も良い」

 華子は目を細めたまま、眉を上げた。

「へえ、そうなのですか? よく生徒を見ていますね」

「褒められるようなことではありませんよ。

――そろそろ次の授業がありますので、失礼します、太刀川先生」

 手元のファイルを脇に抱え、燕次は挨拶もそこそこにその場を後にした。


    五


 その後姿を、隣の建屋の窓からじっと見つめる瞳があった。背の低い、ボブカットの女生徒である。

 彼女は燕次の姿をじっと目で追っていたが、「双馬そうまさん」と肩越しに声をかけられ、つと振り返った。

「そろそろ行かないと。次体育だよ?」

 諒子に話しかけられた少女――双馬りんは慌てて笑顔を作ると、「そうだった。ありがとう、銅場さん」と言うと自身の教室にとって返した。彼女は急いで机から体操服の入ったトートバッグを掴むと、今度は廊下に飛び出した。

「銅場さん、次の授業、一緒に組みません?」

 そう言おうとした彼女は咄嗟に口を噤んだ。階段を上がってきたばかりの朱音と諒子が仲睦まじく話をしていたのだ。あの様子では、諒子と組を作るのは朱音だろう。燐は諒子から、この学園から弾かれた様な気分を抱えていた。

 そして彼女の予想通り、二人は楽しげにおしゃべりをしながらそのまま体育館へと向かっていった。人気のない廊下で、燐はその様をじっと見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る