装甲探偵 羽邑燕次

鬢長ぷれこ

第1話

 

    一


 煉瓦造りのビルの隙間から、クリーム色の空に浮かぶ飛行船が顔を覗かせる。

 帝都は今日も、霧とも靄ともつかぬものに包まれていた。

 長い髪に纏わりつくそれらを振り払うかのように、濃紺色のセーラー服に身を包んだ百目木朱音どうめきあかねは新宿の外れを一心に歩いていた。足取りは力強い。彼女の同年代である女学生のそれは気だるいかか弱いのどちらかであるのに比べれば、瀝青れきせいが敷かれた道路をのっしのっしと歩く様は蟻を踏み潰すような勢いだった。しかしその足をふと止めると、彼女は急に横道へ入って行った。交通量の多い明治通りだが、一歩裏に入ると閑散としたものである。人通りと言えば近所の老婆が道を掃いているくらいで、つられて朱音の歩みも自然緩やかなものになる。

 幾つかの建物を通り過ぎ、彼女はとある古い雑居ビルの前に立つと、中へ恐る恐る入って行った。出迎えたのは古びたアルミダイキャストの郵便受けだ。貼られた表札らしき紙を注意深く探し、彼女は漸く目当ての場所に辿り着いたのだと気付いた。道に迷うこと三回、半ば諦めかけていたその時だった。

 二階に上がり、北側の部屋へと向かう。扉には確かに『羽邑はむら私立探偵事務所』と黒く印字された立派な金属板が掲げられている。

(……はむら)

 よし、と気合を入れると、朱音はノックをした。やって少しお行儀が良すぎたかと後悔したが、中から返事は返ってこない。客は自分なのだと言い聞かせると、ノブを回してドアを開けると、一瞬風が彼女の身体を押しのけようとし、目を瞑った。それも一瞬のことで瞼を開けると、果たしてそこは罅割れたモルタルの壁に相応しい雑然とした部屋が広がっていた。古びたソファにローテーブル、これまた雑然とファイルが押し込められた背の高い年季ものの本棚、スーツがかかったラック。そして窓際には立派なオーク材(に見える)デスクが鎮座しており、例に漏れずその上には大量の書類が積まれている。横には古びたラジオがあり、スピーカーからノイズとも音楽とも判別がつかない何かが流れていた。

 ここまではいかにも探偵の事務所らしく、朱音の予想の範疇であった。問題はそれが部屋の半分のみを占有し、もう半分は見慣れぬものが埋め尽くしていたことだ。彼女は名を知らぬが、それらはボール盤、旋盤、石定盤、顕微鏡――と呼ばれる工作機械や計測器であった。他にも板金や配管、ガスボンベの様なものも揃っており、ちょっとした工場の様相を呈している。同じ部屋なのに右と左で全く違う姿を見せるその部屋に、朱音は戸惑いの表情を浮かべていた。

 何より彼女を困惑させたのは匂いである。埃っぽくツンとした、独特の匂い。それは部屋の半分から主に漂ってくる、主に油の匂いであった。換気のために窓を開けているのだろうが、すっかり染み付いたそれを取り除くにはあまり効果がないように思えた。

 帰るべきか否か真剣に朱音が悩んでいると、急にがたんと物音がした。見ればデスクの椅子にどっかりと男が座ったまま本を顔に乗せ、眠り込んでいたようだった。足を跳ね上げ、その衝撃で寝ぼけ眼ながら動き始めたらしい。本を机の上へ乱暴に投げ出すと、座ったまま背伸びをして、首を数度捻る。緩慢な動きで立ち上がり動き出したところで入り口に立つ朱音に気づいたのか、男は派手に後ずさった。その動きにビビッて朱音も一瞬身を竦ませた。

 しばらく互いに見詰め合ったまま、無駄に時間が流れた。

「誰だ、お前」

 遠くでクラクションが鳴った。

「き、き、」朱音は顔に血が上るのを感じていた。「客だ!」そう言うのが精一杯だった。

 男は目をぱちくりとさせると、二度三度と頷いて「そりゃあ、どうも。見苦しいところを見せた」嬉しいのか嬉しくないのか、なんとも言えない笑顔を浮かべた。

「…………」

 人の心の機微を察するのに疎い朱音でも、男の目が笑っていないことに気付いていた。

「とりあえずそちらにかけて。今コーヒーを淹れる」

 古びた茶色のソファに腰掛けるよう促され、躊躇した朱音はその場に立ち尽くすことを選んだ。

 しかし、と朱音は狭い給湯室に身体を入れて湯を沸かす男の背中を見遣った。厚ぼったい二重瞼が眠たげであったが、男は朱音が想像していたより遥かに若そうに見えた。ぼさぼさ頭にしろ、探偵と言うより書生の風体だ。襟の立ったシャツだけが、唯一社会人らしいアイテムと言えた。


    二


 しばらくして男がコーヒーを運んできた。

「座って」

 今度は従う朱音。ローテーブルに置かれたカップには手をつけず、彼女は対面に横柄に腰を下ろした男をじっと見遣った。

「いらっしゃい。

……じゃあ話を聞こうか、と言いたいけれど、その前に」男は器用に片方の眉を上げて見せた。

「どうしてうちに? 私立探偵なんて幾らでもある、この辺じゃ野良猫より多い有様だ」

「客はこっちだ、私立探偵」朱音は不機嫌そうに言った。「いちいち詮索すんなよ」

「見かけによらずえらく言葉遣いが悪いな」悪びれもせずに、男は言った。「まあどっちでもいいさ。顧客の秘密は守る。それでも言いたくなければ言わなくて結構」

「そういうわけじゃねえんだけどさ」突き放されると、朱音はばつが悪そうに頭をかいた。「それよりなんだよ、見かけによらずって」

「言葉通りだ。君は――」男はそこで言葉を区切るとコーヒーを一口飲んで、

「まだ自己紹介もしていなかったな。俺の名前は羽邑燕次はむらえんじだ、以後宜しく」

「……朱音でいい」彼女は苗字を言うに躊躇った。

「じゃあ、朱音。ぱっと見たところ、君は、そうだな」男は朱音の全身――長い髪に紺のセーラー服と、一際大きな瞳と白い肌を除けば普通の女学生のもの――を値踏みするように視線を行ったり来たりさせて、口を開いた。

「女学生だ」

「見りゃわかんだろ」

春陵しゅんりょうか」

「……あんた、まさか高校の制服全部憶えてるだなんて言わないだろうな」

「変な誤解はよしてくれ。仕事柄必要に迫られて憶えたんだ」朱音の疑念が込められた視線に、燕次はたまらず否定した。「家出娘の捜索依頼は多いからな」

「そういうことにしといてやんよ」

「お気遣いどうも。

……それと、君自身はどうか知らないが、少なくとも君の親は金は持っていそうだ」朱音は眉宇を顰めたが、燕次は続けた。「かなり裕福な家と見た。違うか?」

「……のーこめんと、だ」少女の目は泳いでおり、それは肯定も同然だった。

「そういう前提で進めるぞ。相談は無料だが、正式に依頼を受けるとなると金がかかる」燕次は両手を摺り合わせた。「学生無料なんて気前の良いシステム、うちにはない」

「それくらい分かる」

「結構」苛立ちを見せる朱音の表情にもどこ吹く風、燕次は再度カップに口をつけて続けた。「そして年上の兄弟姉妹がいる。兄と姉の両方だな。あとスポーツは得意だが、少なくとも今は部活には所属していない。加えて弦楽器をやっているか、それもかなり小さい頃から。多芸なことだ」

 まあそんなところか、と呟いて、再度燕次はコーヒーで口を湿らせた。

 一方の朱音は険しい表情で燕次を睨みつけている。目の前の探偵を自称する男が言った内容は、全て正しいものだった。一体どうしてその事実を知りえたのか、問い質したい気持ちはあったが藪をつついてなんとやら。背中の汗が冷たくなるのを感じながら、朱音は沈黙を保つことを選んだ。

「で、本日はどういった御用向きで」

 燕次の問いかけに、朱音はしばらく黙り込んだ。自分の今の境遇を説明しきれないし、この男をどこまで信用してよいかも分からない。迷った挙句、彼女はすぐに依頼について話す前に、自分がここに来た理由について話そうと決めた。


    三


「さっきの話だけど」

「どの話だ」

「あたしが、なんでこんな寂れた探偵事務所に来たかっていうこと」

「ああ」

 皮肉が通じない。(意味分かってんのか)朱音は心中で毒づいた。

「あんたの予想通り、うちは裕福な家だ。親は事業をやっていて、敵も多い。先週、会社のヤツが襲撃を受けたらしいけど」朱音は言葉を区切ると、上目で燕次の顔を見た。「たまたまいたあんたが返り討ちにしたって、噂になってるぜ」

 燕次はむ、と唸って目を細め、ソフアから立ち上がるとデスクに歩み寄り、引き出しから名刺入れを取り出すと中の名刺を一つ取り出した。

「……成程」

 手元の紙と彼女の顔を交互に見比べた燕次は、「君は百目木のお嬢さんというわけか」と頷いた。

 その名刺は燕次が救った男と交換した(奪い取った、と言うほうが正しい)もので、肩書きには『有限会社亜東技術研究所』とある。燕次は当然その団体を調べていた。亜東技術は小さい企業だが、親会社は百目木洋行というその道では有名な専門商社だ。

「そういうこと」

「わからんもんだ。情けは人のためならず、日頃から善行は積むものだな」

「善行って言うほどのもんじゃないでしょ。金は取るわ、相手はボコるわ――大暴れしららしいじゃないか」口に出して初めて、朱音は違和感に気付いた。一見線の細い目の前にいるだらしない風体の男が、本当にそれをやってのけたのか。事務所に来る前の想像とは異なる現実に直面し、朱音は顔にこそ出さないが内心動揺していた。

「仮にも商売だ、慈善行為じゃない。料金は適正価格だ」そんな朱音の心中などつゆ知らず、燕次は反論した。「下手人も殺していない。文明的な解決だ」

「わかってるよ。あんたが善行だなんて言うから」朱音は肩を竦めた。「そりゃふてぶてしいだろう、ってコト」

「手厳しい」

「……感謝はしてるさ。それで、」朱音は漸くコーヒーに口をつけた。「本題だけど」

 燕次は黙ったまま頷いて、続きを促した。

「……警護を依頼したいんだ」それまでの勝気な様子は消えて、朱音の口調は年相応のか弱い少女のものに、燕次の耳には聞こえた。

「警護? 誰の?」

 燕次の疑問に、朱音は答えない。

「君のか?」

 言われ、彼女は小さく頷いた。

「詳しく話せ」燕次はソファに座り、前のめりになった。探偵を自称するこの男が客に対して初めて真剣な態度を見せたので、朱音は(まともなところがあるんだな)と少しばかり安堵し、口を開いた。

「さっきも言ったけど、うちの親の事業には敵が多い。若い頃は色々ムチャしたらしいし、恨みを買ったのも二三人じゃないと思う」

「それで、君の警護か」

 朱音は学生鞄から一枚の封筒を取り出すと、ローテーブルの上にそっと置いた。

「見ても?」朱音の返事もそこそこに、燕次は注意深く封筒の口を開いた。ペーパーナイフで開けられたと思しきそこから、一枚の紙切れが机の上に落ちる。燕次は二つ折りにされたその紙を摘み上げた。

「――『ひけ さもなくば いのちはない』」

 燕次は定規で書かれたであろうひらがなを読み上げると、続いて渋い顔の朱音を見つめた。

「これをどこで?」

「ガッコ。下駄箱に入ってた」

「『ひけ』とは? 手を引けということか?」

「知らねえ。心当たりなんてねえよ」

「君の学友の悪戯じゃないのか?」

「いねえよ、ンなヤツ」

 朱音は鼻を鳴らした。「幾らなんでも物騒すぎんだろ、女子高生の犯行にしちゃあ」

「しかしそうなると、話はより物騒だ」燕次はしかめ面で顎を撫でた。

「犯人は君の学校に忍び込み、下駄箱を探し当て、手紙を入れて消えた。男か女か、大人か子供か」

 なんにせよ考えたくない話だ、とぼやきながら、燕次は手元の脅迫状をテーブルの上に放った。

「で、警護というのは」

「……見ての通り、ワケわかんない状況。誰がどこから狙ってくるか、考えだけで正直ビビってる。あたしも家族もそうだけど、友達とか狙われたら耐えらんない」

「百目木には警護のスタッフもいるだろう」

「あたし的に、一番怖いシナリオはあいつらの裏切り」

「どういうことだ」

「こないだ襲われたって話、実は待ち伏せされたんじゃないか、だってさ。そうなると、うちの誰かが裏切ってる可能性だって考えられるだろ」

 成程、と燕次は頷いた。(口は悪いが、頭が良くて慎重だ)内心誉めそやす。が、そこで彼はあることに気付いた。

「ちょっと待て。ひょっとして、この話は百目木家に通っていないのか」

「誰が関わってるかわかんない、って言っただろ」

「それはまずいな」燕次は顔を曇らせた。「あまりに不利過ぎる。警護どころじゃないぞ」

「……基本的には、うちの連中が守ってくれるはず。だから、」朱音は燕次を見ると、「あんたにお願いしたいのは、うちの連中が手の届かないところ」

 しばらくの間、沈黙が辺りを包む。燕次はこめかみを数度叩くと、「守り続けるのは不可能だ」と呟いた。

「ジリ貧になる。打って出る必要がある」

「出来んの? そんなこと」

「やるしかないだろう。幸い、あてはある」燕次は苦い顔のまま言った。

「この間の下手人。結局取り逃がしたが、あれが一つの鍵だ。あの装甲を探し当てれば、なんとか追い詰められるだろう」

 『装甲』。燕次が発したその単語に、朱音は目を見開いた。


    四


 装甲とは、鉄鋼その他で出来たある種の強化服――パワードスーツのことである。

 圧縮プラズマ炉という途轍もない熱量を放出するエンジンを搭載したそれは、自動車を弾き飛ばし、空を飛び、単体でビルを崩落させるほどの力を持つ。個人が軍隊並みの力を纏うことが可能となるのだ。

 もっとも、誰しもが使いこなせる訳ではない。加速に耐えるための強靭な肉体に、圧縮プラズマ炉の出力を瞬時に制御するための冷徹明晰な頭脳を持ち合わせた者――つまり文武両道、心技体の全てが揃った超人こそが『装甲探偵』を称することが出来るのだ。

「装甲か……やっぱ強かった? その下手人」

「あの出力、恐らく第二種持ちだろう」

「にしゅ?」

「……この業界は商売するのに協会の免許がいる。一種、二種、三種とあってな。二種持ちってのはなかなかのものだ」

 装甲を遣うには前述の通り特別な能力が必要で、それに満たない者が分不相応な装甲を遣おうとすると、本人のみならず周りにも多大な被害を及ぼしかねない。それ故国の認定を受けた日本Japan装甲Armored探偵Detective協会Association――頭文字を取ってJADAジェイダと呼ばれる機関が探偵に免許を認可する形で高出力の装甲を管理している。第三種、第二種、第一種と数字が小さくなるにつれ使用可能な装甲の出力は上昇し、その分試験は幾何級数的に難しくなる。現在日本には約20万の装甲探偵がいると言われているが、うち第三種を所持しているのが3万、第二種は5千で、一種持ちとなるとたったの100人にまで減少する。

「で、あんたは?」

 朱音の問いに、燕次は肩をすくめてみせるだけだった。

「……どういうことよ」

「試験を受けてないからな。免許は持っていない」

「おい、今すぐドアの看板取り下げろ」

「言っておくけどな、別に法的には全く問題ないぞ。三種で認められている以下の出力の装甲を使うのは許されている」

「でも相手は二種なんだろ。それって、超不利じゃないのか」

「その通りだ。よく知ってるな」

 朱音は顔を覆った。

「……あたし、ひょっとして選択ミスったか」

「なんだ、知らなかったのか? それはご愁傷様」

 恨めしそうに燕次を睨むが、彼はどこ吹く風、自分の淹れたコーヒーを無表情のまま淡々とすすっていた。

「まあ、相手が何種持ちかなんて考えなくてもいいさ。けれど規模は問題だな。俺の身体は一つだから、出来ることには限度がある。二種持ちを雇えるとなると、そこそこの資金を持っていると考えて良い」燕次は腕を組んで言った。「正直、他所をお勧めする。追い払うだけなら出来るが、問題の根絶にはならない」

「そうは言っても、あたしだってそんなに金持ってないしさ」

「ちょっと待て。君、予算は幾らだ。そう言えばこの話は百目木の家には通していないのだったな?」

「そうだよ。だから、あたしの小遣い」

「……幾らなんでも、それは」燕次はうなだれた。

「今日は帰れ。それから、君のお父上にちゃんと話すことだ」

「なんだよ、それ」朱音は憤慨したが、燕次は意に介する様子はない。

「いいか小娘。人を雇うには金が要る。装甲探偵ならなおのことだ。俺は確かに資格を持っていないが、装甲を動かすだけでも金を食うもんだ」

 燕次の大人気ないはっきりとした言い方に来るものがあったのか、朱音は顔を憤怒と羞恥に赤らめながら、勢いよく立ち上がった。小ぶりな下唇を噛み、感情を殺すように拳を震わせている。

「頼むよ」

 それでもいじらしく言ってくる様に、燕次は溜息をついた。

「君のためにも言ってるんだ。良い人材は金を積まなきゃやってこない。装甲探偵もそうだ。金を積んで一種持ちでも雇えば、話はすぐに解決するはずだ。娘の命がかかっているなら、君の親だって」

「あいつは!」朱音は燕次の話を遮るかのように、大声で叫んだ。「あたしのことなんて、どうだっていいって思ってる!」

 虚を突かれた燕次は目を瞬かせ、ソファーに座ったまま固まった。

 しばらくの間、二人の間に沈黙が流れた。破ったのは机の上のラジオだった。スピーカーの埃を被ったウーファーが、ノイズの向こうから湿ったハード・バップを奏でる。飛行船が去ったお陰か、漸く電波を掴まえたようだ。

「頼むよ。そりゃ、あたしの小遣いなんて大した額じゃないのは知ってる。全部かき集めても三百万ぽっちだ。けど、あたしのせいで、友達が狙われるなんて、そんなの」

「ちょっっっっっっと待て」燕次はそれまでの気だるさがウソのような裏返った声を上げた。「今なんつった」

「……は?」

「今。数字だ、数字」

「三百」

 燕次は愕然とした。これが高校生の小遣いか。これが格差か。俺が今まで小金を拾い集めるのにどれだけ苦労したことか――

「いいぞ」

「……え?」

「その金額で見積もろう。いやしかし、君は学生だから、そこそこまけてもいい」

「ほ、ホントか?」

「たださっきも言ったとおり、本来はもっと人数をかけてだ――」

「いいって、いいって! なんだ、お前、良いヤツじゃんか!」

 破顔しながらばしばしと燕次の背中を叩く朱音の笑顔は邪気とは無縁のもので、燕次は(俺は今、世間知らずの女の子をだまくらかして金を巻き上げようとしているのだ)と密かな罪悪感に苛まれていた。


    五


 東京には有象無象の探偵事務所がひしめいているが、中でも新宿はその傾向が顕著だ。勿論西新宿も例外でなく、とあるビルの一角にも探偵事務所が入っていた。ただし、そこはビル全体が事務所であった。燕次が開いている個人事務所とは違う、そこそこの規模の大手事務所だ。

 このビルは五階建てであったが、その五階で、若い男が腹を押さえて蹲っていた。

「あのさあ、弐子にし君」

 弐子と呼ばれた若い男が、苦悶の表情で顔を上げる。そこにはストライプ柄でダブルのスーツに身を固め、室内にも関わらずティアドップのサングラスをかけた中年の男がいた。ゆるくうウェーブのかかった髪は殆どが白髪と化している。

「俺も大人気なかったよ、いきなり蹴り上げたりして。ごめんな。ちょっとイチから、もっかい説明しなおしてくれねえか」

 そう言われた弐子だが、はいそうですかと説明を始める気にはならない。もしあらましを全て話しきったその時、彼が生きてこの部屋を出られるかどうかと考えれば、口を噤んでいた方がまだましに思えた。だがそうしていてもいずれは拷問まがいの暴力に晒され、結局のところ最後は同じ運命を辿るかもしれない。そう考えて、彼は小さめながら口を開いた。何より目の前の男――事務所の所長である倉間辰比古くらまたつひこの眼光が弐子に沈黙を許さなかった。

「……高速の出口で標的の車を待っていました。指定の時間前に車が来たんで、慌ててトレーラーをぶつけて無理矢理停めました。そうすると、中から連中の装甲探偵が出てきて」

「で、お前はそいつにおめおめとやられたと」

「いえ、いえ、そうじゃないんです」慌てて弐子は否定した。「俺はそいつをぶっとばしました。あいつ二種でしょうけど、全然大したことなかったですね」

「じゃあ、一体どうしたって言うんだ」

「そこで突然、別のヤツが割って入ったんです。そいつが、強くて、」弐子は己の惨めさを隠しながら、喘ぐように言った。「俺は車を確保できませんでした」

 倉間は思案顔で白髪交じりの短い顎髯を撫でると、「ふうん」と興味深げに声を漏らした。

「お前、二種持ちだったよな」

「は、はい」

「今年で幾つだ」

「はい?」

「お前、今年で何歳になるんだ」

「えっと、今26で、冬に27に」

「その若さで二種ってのは大したもんだな」今更ながら、男は弐子の経歴を褒めた。「で、そのお前が手も足もでなかったと」

「…………」弐子は返答こそしなかったが、肯定も同然だった。

「じゃあ相手は一種か、準一種クラスか。装甲はどんなだった。それくらいなら、調べれば分かるかもしれん」

「いや、それが」弐子の歯切れは悪い。「なんつうか、説明し辛くて」

「はあ?」

 倉間は凄むが、弐子は視線を左右に巡らせて言いよどむばかりであった。

「ラジエーターはどんなだったんだ? サイズは? 二種持ちなら、相手の出力くらい見て分かるだろ」

 弐子の様子に、倉間の顔が歪んだ。

「まさか、お前、三種持ちにやられたんじゃないだろうな」

 沈黙を守る弐子に感情の一線を越えたのか、男の鋭い目が釣りあがった。

「よくもまあぬけぬけと戻ってきたな、お前!」

「すみません!」

「すみませんじゃねえよこのタコ! ええ!?」

 怒声に何事かと思ったのか、入り口から怪訝な表情で一人の若い女性が顔を覗かせた。だがそこに驚きはない。この倉間という男が怒声を響かせるのは珍しくはないのだ。

 弐子は下げていた顔を上げ、自分の上司の目をじっと見ると、

「もう一度チャンス下さい! 俺があいつを仕留めて、それからターゲットを確保します!」

「ああ!?」

 倉間の強烈な怒気に怯むも、弐子は再度食らいついた。

「一週間! 一週間で結果出さなければ、俺、ここ辞めます」

 床に手を突き頭を下げる弐子を見て、倉間は嗜虐的な笑みを浮かべた。

「分かった。お前にチャンスをやる。今日が水曜だから、」カレンダーをつと見ると、「来週の木曜昼まで時間をやる。それまでに出来なきゃ、お前はクビだ」

「はい」

「行っていいぞ。時間がないからな」

 逃げる様に走って部屋を出て行く弐子を、入り口で覗いていた女性はひらりと身をかわし、後姿を見送った。

早乙女さおとめ」ドア越しに声をかけられ、「はい」と返事をしたその女性は部屋の中に入っていった。

「弐子を尾行しろ。あいつとターゲット、それから途中で割って入ったっつう謎の装甲探偵について俺に報告するんだ」

「私、三種しか持ってませんけど」

「戦えなんて言ってねえよ。尾行だけで良い」

 早乙女と呼ばれたその女は「わかりました」と澄ました顔で言うと、弐子の後を急ぎもせずに追っていった。

「さて、最近の子は素直だねえ」

 部屋の主は今までの喧騒などなかったかの如く不敵に笑うと、胸ポケットからタバコを取り出し、ガスライターで火をつけ吸い始めた。

「しかし、弐子を降すほどの三種持ちか」

 二種と三種、資格では一つ分しか違わないがその差は歴然としており、三種の装甲が二種の装甲に打ち勝つことはまずない。自転車と自動車ほど出力に差があるのだ。加えて弐子という男は装甲探偵学校時代から優秀な成績を収め、18で三種、24で二種に合格した経歴を持つ、言わばエリート街道を直走る有望株である。

(それがここで躓くか)

 人生わからないものだ。倉間は不思議に思いながらも、誰もいない部屋で喜悦を隠す必要もなく、楽しげに肩を揺らして笑った。

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