35.冬のメリーゴーラウンド《匿名バトル恋愛編》

 色あせた遊園地の門をくぐり、湿った雪を踏みしめると、彼女がいた。


 本当は気づかないふりをしてその場を去ろうとしていたんだけど、あの日と同じ赤いマフラーがあまりにも赤いので、思わず足を止めてしまった。


「久しぶり。あなたも来てたのね」


 白い吐息と共に彼女が立ち上がる。雨でしっとりと濡れた長い黒髪。耳の先が赤く染まっている。


 僕は少し息を飲み込むと、ゆっくりと頷いた。


「ああ。今日で終わりだっていうから」


 少し、視線を落とす。


 彼女に会うのは全くの想定外だった。


 僕がこの遊園地に久しぶりに来る決心をしたのは、ここが閉園するというニュースを見たからだった。


 どうせ終わるのなら、最後に一目だけ。


 僕はただ一人、終わりの日を迎える遊園地で、静かに感傷に浸るつもりでいた。


 一人で思い出に浸り、一人で傷つき、一人で葬り去るのだと思っていたのに。


 みぞれ混じりの雨が、雪に変わる。


 赤や黄色にチカチカと灯る電飾。

 古ぼけたオルゴールのような懐かしい音が、ぽつりぽつりと音を立てる。


 やがてメリーゴーラウンドがぎこちない音を立てて回り出し、脳裏には、十五年前の事がまるで昨日のことのように浮かんだのだった――




 十五年前のあの日、彼女は十四歳で、僕はまだ十二歳だった。


 僕の記憶は、海沿いのコンクリートで囲まれた児童養護施設で始まっている。


 それ以前のことはあまり覚えていなかった。だけど、施設の職員たちが時々口にする過去の断片から推察するに、どうやら酷い状況の家庭から救い出されたらしい。


 僕と彼女は、そこでしばらく一緒に暮らしていた。


 だけれども時は過ぎ、僕たちは別々の家に引き取られてしまうこととなって――


「ねえ二人でどこか遠くへ行ってみない?」


 彼女がそう提案したのは、僕たちが離れ離れになる、まさにその前日。


 僕らはお別れする前に、出来たばかりのこの遊園地へ行ってみることに決めたのだった。


 まだ真新しく、活気がある園内。人混みの中、全てが眩しく、お伽噺の中に居るみたいだった。


「お小遣い、殆ど無くなっちゃったね」


「ジェットコースターに乗りたかったのに」


 入園料を払った僕たちに残された手持ちはあとわずかだった。


 入園料の他にも園内の乗り物に乗るためにお金がいるなんて思ってもみなかったので、途方に暮れてしまった。


「ねぇ見て、メリーゴーラウンドなら乗れるよ」


 お目当てだったジェットコースターには乗れなかったけど、遊園地の乗り物に乗れるというだけで充分だった。僕たちは急ぎ足でメリーゴーラウンドへと向かった。


 かぼちゃの馬車と白馬が、僕らを乗せてくるくる回る。


 玩具みたいな舞台の上、二人で白馬に乗ってくるくる廻った。まるで時が止まったように、穏やかな時間だった。


 空から、いつの間にか羽のような雪が降り始めた。


「見て、綺麗」


 うっとりと空を見上げる彼女。赤いマフラーが揺れる。白く整った横顔をじっと眺めた。


「うん」


 不思議な魔法にかけられて、まるで僕らは王子様とお姫様になったみたいだった。


 二人離れ離れになるなんて、全く信じられなかった。


 誰かが肩を叩いて、そんなのは嘘だと言ってくれるのを、心の底から願ってた。


 だけど別れの時間は刻一刻と近づくから、僕は、彼女との思い出を忘れないように何度も何度も反芻した。


 手を繋いでくれたこと。


 身を寄せて抱きしめ合ったこと。


 体越しに伝わる体温。その柔らかな暖かさ。少女の匂い。「愛してる」「愛してる」と繰り返す甘い声――


 脳が溶けそうになりながら眠りについた記憶が、今も心臓の奥に焼け付くように残ってる。


 今なら分かる。


 親から愛情を受けられなかったかのじょにとって、きっとぼくを愛するということが唯一の心の支えだったのだろう。


 汚れたぬいぐるみを抱きしめる子供みたいに、姉さんは僕を抱いた。そして、僕もすがり付くように姉さんを抱きしめた。


 血の繋がった姉弟だという事実からは、目を背けて。


 さよなら、姉さん。さよなら、つかの間の恋人。


「ねぇ姉さん、僕たち、明日から他人になるんだよね?」


 帰り道、ゆっくりと歩きながら僕は尋ねた。


「そうだよ。もう、姉弟じゃなくなるの」


 答える姉さんの表情は見えない。


「そしたら......そうしたら僕たち――」


 僕は必死で言葉を紡ごうとした。だけれども、できなかった。

 こぼれそうな思いは喉の奥に引っかかっているのに。口に出した瞬間、涙まで溢れ出てしまいそうで。


 姉弟じゃなくなっても、姉さんは僕を愛してくれるのか。それとも――


 姉さんは悲しそうに笑って僕の頭を撫でた。


「離れても、あなたのことを忘れないよ」




 昔のことを思い出す僕の横で、彼女は冬のメリーゴーラウンドを見上げながら白い息を吐き出した。


 灰色の雲から頼りなく降り注ぐ光が、はらはらと舞う雪に反射して煌めく。

 

 僕たちを乗せないまま、ぎこちない音を立て、色褪せたメリーゴーラウンドは回る。


 あの時は、あんなに華やかで夢のように見えたのに。


 この遊園地は、あの頃の僕たちにとって、逃避行の終着駅だった。姉弟にとっての、地の果てだった。


 あれから僕は大人になって、ここより大きな遊園地も、ここよりうんと遠い場所も知った。


 今の僕らにとってこの遊園地は、広大な世界の片隅で、ひっそりと終わろうとしているちっぽけな施設でしかない。


 だけれどもやっぱり――ここは世界の果てなんじゃないかと、心の片隅で思ってる。


「最後にまた乗ってみる?」


 僕は意を決して切り出した。


「ううん」


 彼女は頭を振る。


「もう暗くなってきたし、私は帰るね。最後にここを見れただけで充分だから」


「......そっか」


「じゃあ。今夜は冷えるから、風邪に気をつけてね」


 微かに微笑みながら手を振ると、ゆっくりと遠ざかる彼女。

 僕は身動きすらできなかった。

 手を上げた瞬間見えたキラリと光る薬指の指輪。その目のくらむような輝き。


 去っていく彼女の後ろ姿を、赤いマフラーを、僕はただじっと見つめていた。


 空っぽのメリーゴーラウンドが、誰も乗せないままぐるぐると回り続ける。

 辺りに響くのは、歪んだおもちゃ箱のようなメロディー。

 誰もいない楽園が、静かに終わりを告げる。


 僕はただひっそりと、みぞれ混じりの雪を踏みしめ空を仰いだ。

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