34.こんな夫婦も悪くない《文体見せ合い・お茶漬け》
夫がいきなり会社を辞めると言い出した。
「ほら、俺って、人に命令されたりだとか、組織の枠にとらわれたりすんの苦手じゃん?」
さも当然のように言うアキオくん。頭がくらくらしてきた。
「もー、辞めてどうするの?」
「カフェを開きたいんだ。海辺の小さな町でさ、良いだろ? 昔からの夢だったんだ」
確かに、昔からコーヒーが好きだって言ってたけどさあ......
そんなやりとりから一週間。
あたしは決意する。あの時はうやむやに会話が終わってしまったけど、今日こそガツンと言ってやるんだって!
そして夜7時すぎ。
カギをガチャガチャする気配で、あたしはアキオくんの帰宅を察知した。玄関に向かう。
「ただいまー」
よし、言ってやる。言ってやるぞ!
いや、いきなり言うのはちょっとアレだ。まずは軽いジャブ。
「おかえりなさい、アキオくん! ご飯にする? お風呂にする? それともあ・た・し?」
しかしアキオくんは、あたしの渾身のギャグを受け流す。
「とりあえず飯かな......ミカリン、俺、あんま食欲ねーからササッと食えるもの、用意してくんねぇ?」
アキオくんはそう言ってリビングに向かう。
あたしは台所で美味しそうに湯気をあげる焼肉を見た。
あーん、これ、とっておきのお肉だったのに!
だけどあたしは嫌な顔一つせずに言う。
「うん、分かった!」
う~ん、あたしってけなげ!
冷蔵庫を開ける。
何かササッと食べれる、軽いヤツ。
リビングをちらりと見ると、アキオくんたらいつの間にかパジャマに着替えてゴロゴロしている。
あたしは結婚祝いに貰った大きなお茶碗にご飯を盛ると、冷蔵庫からシソを取り出した。
「ねえ知ってる? シソと大葉って同じものなんだよ」
「ふーん、なんで同じものなのに名前が違うんだろう」
アキオくんが首を傾げる。
「さあ? 気分じゃない?」
「俺がミカリンのことママとかお母さんじゃなくてミカリンって呼ぶようなもんか」
アキオくんが笑う。
そう。あたしはママなのだ。普通なら、旦那さんにもそう呼ばれるんだろう。
あたしは自分たちが結婚した時のことを思い出す。
結婚する前にあたしはもう既に身ごもっていて、急いで籍を入れた後は、子育てと共にバタバタと結婚生活はスタートしたんだ。
お金もないし毎日が戦争のように忙しく、新婚の甘い雰囲気なんて皆無で。
こんなんじゃダメだ! そう思った私たちは、ある作戦を開始した。
名付けて「アキオくん・ミカリン作戦」!
あえて「パパ」や「ママ」と呼び合うんじゃなくて、お互いの名前で呼び合うことで、新婚みたいなラブラブ感を出そうという作戦だったんだけど......そんなんでラブラブになれたら苦労はしないよねぇ。
実際には新婚気分どころか、今じゃただの同居人? ルームシェア? 協力者? そんな感じなんだけどね。
あたしは、冷蔵庫から桐の箱を取り出した。
これは一箱五千円もする高級梅干しだ。あたしが週に二回、家政婦として働いてる三津谷さんっていうお金持ちの老婦人がいるんだけど、その人が「お歳暮に貰ったけど食べきれないから」ってあたしにくれたの。
粒が大きくて、いつも食べてる一パック298円の梅干しと全然違うんだ
子供も大きくなってきて、これからもっとお金が必要かと思って始めた家政婦のパート。
でも……アキオくんたらどうして仕事を辞めるだなんて。
はあ。確かに結婚前は職を転々としてたけど、今回の仕事は割と続いてるなあ、って思ってたのに。どうしていつもこう無計画なのよー!
あたしはご飯の上に種をとって小さく切った梅干しと、刻んだシソと塩昆布をのせ、刻み海苔をかける。
後は何だろう、胡麻とか散らしたら美味しそうになるかな? あ、そうだ、ワサビだ!
仕上げに、麦茶をかける。麦茶はカフェインも入ってなくて夜でも安心だし、夏バテ予防にピッタリなミネラルが沢山入ってる。
あたしは勉強は苦手だったけど、そういう知識は覚えられるんだ、不思議なことに。
よしっ、完成! ミカリン特製夏の冷やし茶漬け!
「できたよー」
「おおっ、お茶漬けかあ。食べやすくていいじゃねーか! さすがミカリン、やるう!」
「でしょでしょ?」
「この梅干し大きいねー肉厚だし」
ウメボシの赤に、シソの青。黒い海苔が涼し気に麦茶の中で揺れている。
「シソの香りもいいし、冷たくて美味しそうだ」
麦と梅、シソの香りのする冷たい汁を、アキオくんは一口飲み込んで味を確かめる。
「うん、悪くない」
出た。悪くない。アキオくんが悪くないっていう時は、それはつまり、良いって意味。美味しいなら美味しい、まずいならまずいとはっきり言えばいいのにね。
お茶漬けを口の中に流しいれるアキオくん。あっ、むせた。ワサビの塊を食べちゃったんだ。ご飯粒がくちから一粒零れ落ちる。あーもー。
「んー、さっぱりしてて美味しい!」
満足そうにお茶漬けをすするアキオくん。
お茶漬けを食べるアキオくんを見つめ、あたしは唾を飲み込んだ。
今こそ、対決の時!
「ねえ、先週言ってたことだけど……」
「何?」
「ほら、会社を辞めるって言ってたことだよ!」
「ああ。俺、もう辞めるって決めたから」
「でも、お金もかかるし」
「少しだけど退職金があるしさ」
平然とした顔をしてお茶漬けを食べるアキオくん。あたしは語気を強めた。
「チカのことだってあるし。ほら、これから色々お金もかかるでしょ」
一人娘の将来を思い不安なあたしに対し、アキオくんはあっけらかんとした顔で言った。
「それよりさ、お茶漬け食べないの?」
あたしはため息をつく。
「食べる気力が湧いてきません……」
「えー? このお茶漬けすげー美味しいから、二人で一緒に食べたいのに!」
あたしはお茶漬けを半分残したままのアキオくんの顔を見た。
妙に食べるのが遅いな、と思っていたけど、それはこのお茶漬けが美味しいから、二人で一緒に食べたかったんだ。
そう、あたしも奥様の家でこの梅干しを食べたとき、真っ先にアキオくんの顔が浮かんで、どうしても食べさせたいと思ったんだ。
アキオくんは笑う。
「大丈夫だよ。チカにはもう電話したけどさ、もう30だし、結婚資金ぐらい自分で何とかするって。それに年金が来るまでの少しの辛抱だよ」
あたしはカレンダーを見た。今月の30日に、大きな花丸がついていて、「30回目の結婚記念日♡」の文字が書かれてる。そっか、今年は2047年だっけ。結婚してもう30年も経つのか。
あたしはため息をついた。
そうだね。
決して裕福な生活ではないかもしれないけど、新しいことを始めるには若くないかもしれないけど、よく考えたら大変なのは今に限ったことじゃない。
あたしはお茶漬けを食べながら想像する。
目の前に広がる青い海を。白い砂浜を。
そしてそこに佇む小さなカフェを。
壁にはアキオくんが昔好きだったサーフボードが飾ってあって、店内にはいつも懐かしのナンバーがかかっている。
カウンターの奥ではオーナーの老夫婦が仲良く美味しいコーヒーを入れていて、その香りが外まで漂ってくる、そんな光景を。
梅とシソの香りが鼻の奥に広がる。麦茶が喉をひんやりと通り抜ける。ツン、と広がる山葵の風味。麦茶に浮いた氷が茶碗にあたり、カランと音を立てた。もうすぐ夏だ。
「ま、たまにはそういうのも悪くないね」
あたしは茶碗を置いて、そう呟いた。
そうだね、新婚気分で、また一から始めるのも悪くない。
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