36.夏のフェアリーテイル

 八月は、夏の眩しさが目にしみる。


 薄汚れた狭い部屋。男の匂いから逃げるように窓の外に視線を向けると、雲ひとつない空が広がっていた。


 その時の空の青が、今でも網膜に焼きついているから、まるで手の届かないおとぎ話フェアリーテイルみたいに、いつまでも胸の奥に夏の青がきらめいているから――


 だから私は、夏が嫌いだ。





「ああ、怖かったね。もう辛い目に合うことはないから安心よ」


 見知らぬ女性に手を引かれやってきたのは、海沿いのコンクリートに囲まれた小さな孤児院で、絶えず波の音がしていた。


「お義父さんは、どうなったんですか? お母さんは――お母さんは無事ですか?」


 尋ねると、女の人は悲しげに目を伏せ、私と弟の肩を抱いた。


「もう、大丈夫よ。お母さんにも――きっとすぐ会えるわ」


 声色から、震える手から、その言葉は嘘で、母はもう帰ってこないのだと悟った。


 繋いだ弟の手を強く握る。


 その時も、窓の外には眩しすぎる空が広がっていて、私はその高さに打ちのめされていた。


「お義父さんもお母さんも、しばらく帰ってこれないの。だから――私たち、ここでしばらく二人きりよ」


 カーテンを締め切った薄暗い部屋で、私は弟に言い聞かせた。


「うん。僕は......姉さんがいれば大丈夫」


 弟の返事。胸から湧き上がる熱い思い。堪らなくなり抱きしめる。


 柔らかな温もり。これこそが愛だと信じて疑わなかった。


 手を繋いで、

 抱きしめ合って、

 唇を交わして――


 外からは、波音が絶えず聞こえていた。


 窓の外は眩しすぎて、見るのは苦手だったけど、砂浜に打ち寄せる規則的なメロディーを聞くのは好きだった。


 弟と二人、いつまでも温かな水音を聞いていた。


 外の眩しい光は、空の健全さは苦手だった。


 だから夏の太陽からは目を背けて、暗く狭い部屋の中で、私たちは愛し合った。


 その時のことを考えると、今でも胸が締め付けられる。


 あれは愛なのだと信じて疑わなかった日々。


 だけど今にして思うと、私が義父にされてきたことと、私が弟にした事は何が違うのか。


 愛してきて、大切にしてきたつもりだった。だけど――




「だけど――あの子は、夏の日差しの中を歩くべきなのかもしれない。私の事なんか忘れて......」


 青い空の下、日向の元、堂々と。


 私が小さく呟くと、白いシーツの海の中、

シャツ一枚だけを身に纏ったなぎさが、ほんの少しだけ顔を上げた。


 テーブルの上のミネラルウォーターに口を付ける。昨日開けたペットボトルの水は酷くぬるくて、喉の奥が変にざわつく。


「梓も、弟くんのことを忘れて?」


 渚は伸びをすると、後から悪戯っぽく私を抱きしめる。レモンサワーとシャンプーの甘い匂い。


 今でも不思議だ。


 なぜ渚が、こんな私の過去を受け入れてくれたのか。


「――うん、そう」


 何となくそんな気分ではなくて、身を離そうとしたんだけど、渚の細く長い腕は器用に私の体を絡めとる。乱暴に唇を押し当てられる唇。


 脳の奥が痺れてふわふわ浮き上がるみたいな、不思議な感覚。体が火照るように熱くなって――でも、悪くない。


「もう」


 息苦しくなって、唇を離す。

 渚は歯を見せて笑った。


「ふふっ、隙あり」


 渚は女の子なのに、化粧っ気もないし、髪も短くて細身で、男の子みたい。

 だけど、やっぱり男の子とは違う。不思議な存在。


 もしかして渚は、男でも女でもない。海の底に住む「きれいな生き物」なのではないのだろうか。


 妖精だとか、人魚だとか、竜だとか、そういうおとぎ話の中に住む不思議な存在。


 馬鹿みたいだけど、時々そう思う。


 胸の奥で、波音が規則的なリズムを刻む。

 好きかどうかは分からない。愛かどうかも。そもそも女の子同士だし。でも――


 潮風でカーテンが揺れ、青い空が目に入った。


「カーテン、閉めて。空が眩しいから」


「はいはい」


 しなやかな動作でカーテンを閉める渚。

 回る換気扇が、カタカタと壁に影を作る。


「これでいい?」


「うん」


 私たちは、確かめ合うようにもう一度唇を重ねた。



 元々私は、夏は家にずっと引きこもるのが習慣だった。


 そんな私を変えたのが、ダイビングと渚。


 運命の歯車が回るきっかけを作ったのは、バス停に貼ってあった、剥がれかけたダイビングスクールのポスターだった。


 ポスターに載っていた薄暗い海の写真に何となく目が惹き付けられた私は、その週末には、ダイビングの教室のドアを叩いていた。


 ただ流されるだけの人生を歩んできた私には考えられないほどの行動力。

 この小さな冒険に、まるで初めてのおつかいに出る子供みたいに、酷く胸がどきどきしたっけ。


 緊張しながら事務所のドアを開けると、窓辺にウェットスーツに身を包んだ、野良猫みたいな女の子が腰掛けていた。それが、渚。


 聞けば、渚はフリーダイビングの大会で何度も優勝したこともある、日本でもトップクラスのダイバーなのだという。


「フリーダイビングはね、酸素ボンベを付けないの。息を止めてただそのまま潜るの」


 クーラーの壊れた事務所。サイダーを飲みながら、うっとりと話す渚。


「それって、危なくないんですか?」


「もちろん、命の危険と隣り合わせだよ。でも、海に潜るのって気持ちいいよ。初めは頑張って潜らなきゃいけないんだけど、水深40メートルぐらいからは、意識して泳がなくてもいいの」


「どうして?」


 三日月のように細くなる渚の目。


「力を入れなくても、スーッと重力で深海まで落ちていくの。暗くて、静かで、穏やかな海の底にね。まるで海に溶けていくみたい」


 海に溶ける。


 その言葉に、何故だか酷く心惹かれた。


 足ヒレをつけてダイビングの実演をしてくれた渚に、私は言った。


「まるで人魚姫みたいだね」


「そう? 私はイルカかシャチのつもりなんだけど」


 苦笑いする渚。


「お姫様なんてガラじゃないしさ。大体、人魚姫って悲しいお話じゃない。私は幸せになりたいの」





 幸せになりたい――か。


 果たして、これは幸せなのだろうか。

 私は渚の華奢な体を抱きながら考える。


 元々、渚と会うのは夏だけのつもりだった。


「だって夏だし、こんな経験をしてみてもいいんじゃない」


 それが渚の口説き文句で、私もひと夏の経験だからとそれを受け入れた。


 だけど、夏が過ぎ、秋がすぎ、もうすぐ一年になろうとしているのに、私たちはずるずるとこんな関係を続けている。


 不毛で生産性のない、こんな関係を。


 だけど――そろそろ、離れるべきなのかもしれない。

 

 弟と離れ離れになった時みたいに。

 その方が、お互いのためなのかもしれない、


 二人で、メリーゴーラウンドに乗った冬を思い出す。


 かりそめの幸せ。雪の中、オルゴールの音色がいつまでも響いて――胸が痛むような楽園。


 思えば、私は色々な人の人生を壊してきた。


 だからきっと、渚も私と居ては不幸になる。


 渚には、幸せになってほしいと思う。例えそれで、私が傷ついても。渚が傷つくよりはずっとまし。だから――


「渚、私――」


「そうそう、梓にプレゼントがあるの」


 私の言葉を遮り、渚は乱暴に机の引き出しを開けた。


「はい」


 無造作に渡されたのは指輪だった。

 小さなダイヤモンド。二人の名前と、魚の模様が彫ってある。


「これって――」


「結婚指輪......みたいなもんかな」


 へへへ、と笑う渚。


 何それ。


 その眩しい輝きに、理性が追いつかなくなる。何それ。ずるいよ。


「だけど、だけど私――」


 胸が詰まる。言葉が出てこない。

 胸の奥がじんわりと熱い。


 どうして。


 渚は幸せになりたいはずなのに。

 私と一緒じゃ、幸せになれないはずなのに。どうして――



 私には幸せになる資格なんかないのに。



「私は、梓に側にいてほしい」


 照れたようにはにかむ渚。


「それが、私の幸せ。それじゃ、駄目?」


 長くて、しなやかで、野生動物みたいな腕が伸びてくる。


 抵抗のできない温かさ。息ができない。

 私はただ、渚の薄い胸に顔をうずめた。


「駄目じゃない」


 二人で抱きしめ合い、深い海の底へと落ちていく。


 海に溶ける。溶けていく。


 私は渚に手を引かれ、初めて40m地点まで潜った時のことを思い出す。


 青くて、暗くて、ただ静かに時が流れて。流されるままに落ちていくあの感触。


 好きかどうかは分からない。愛かどうかも。でも――


 落ちていきたい。水深40m。誰にも見つからない場所まで、二人、このまま何処までも落ちていきたい。


 誰にも見つからないように。海の底まで。おとぎ話フェアリーテイルの果てまで。




【終】

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