19.喪失の304【時空モノガタリ最終選考】

 「ケータくん!」


 304号室のドアを開けると、あやみが腕に飛び込んできた。


「良かったあ。あんまり遅いから今日はもう来ないのかと」


 泣きじゃくるあやみの、すこしぺったんこになった黒い髪を撫でてやる。

 そうしてベッドの横に腰掛け、僕たちは職場であった面白い話やペットの犬の話、テレビの話なんかをして過ごす。

 入院した彼女を甲斐甲斐しく毎日見舞いに来る彼氏。一見してごく普通のカップルに見える。


 問題は僕が「ケータくん」ではない、ということ。僕の名前は「つかさ」で、勿論あやみの彼氏ではない。



 あやみに出会ったのは1ヶ月ほど前。長いこと入院生活を送っていた母が、病状の悪化に伴って個室の403号室に移った。その時に間違えて304号室に入ってしまったのがきっかけだった。


 「ケータくん!」そう言って抱き着いてくる病弱そうな大学生くらいの女の子。

 最初は戸惑ったし、何度も訂正した。けれどもあやみは聞く耳を持たなかった。

 

そしてあやみの熱意に負け、また来る、と約束してしまい困り果ててしまった僕だったが、そこはポジティブに捉えることにした。

 そうだ、どうせ母の見舞いに病院には来なきゃいけないんだし、こんな可愛い女の子に抱きつかれるなんて滅多に無いことだ。僕が行けばあやみも喜ぶし、人助けと息抜きを兼ねてこれからあやみに会いに行くことにしよう。


 こうして僕は、名前と少し頭がおかしいということ以外知らない女の子の、彼氏のフリをすることになったのだ。


 

「⋯⋯どうしたの?」


 ふとあやみが抱きついた手を離し、大きな瞳で見つめてくる。僕の元気が無いことに気づいたのだろう。


「⋯⋯いや、母さんがさ⋯⋯」


 僕は言葉に詰まった。母さんはアルツハイマーで、病状は日に日に悪化している。

 初めは料理の手順が分からない程度の軽いものだったが、最近では僕の顔すら忘れてしまっている。僕が見舞いに行っても「つかさはもっと小さくてかわいい。つかさを呼べ」と泣き叫ぶのだ。


 今日なんか、机に置いてあった湯呑を僕が盗んだなんて言いがかりをつけ、お菓子だのティッシュだのを手あたり次第投げてきた。誰がそんなものを盗むっていうんだ。


 僕のそんな様子を見たあやみは、ぎゅっと僕の頭を抱きしめた。


「へいきだよ。私がついてるからね。私がずっと、側にいてあげる」


「……うん」


 ずっと側にいるなんてこと、できないことは心の隅では分かっていた。だけれども、あやみの確かなぬくもりに、僕は本当にあやみの彼氏になれたらいいのにと思った。


 それから数日後、母は亡くなった。病院を一人抜け出し、用水路に落ちて死んだのだ。


 母が亡くなってからしばらく、親戚への連絡やら何やらでバタバタし、僕はあやみの元へ行けなかった。


 数日後ようやく落ち着いてあやみの病室に行ってみると、そこにはすでに誰もいなくなっていた。


「あやみさんなら退院しましたよ」


 そう看護婦さんが言った。きっと本物の「ケータくん」が迎えに来てくれたのだろう。



 日曜日には、母の火葬が行われた。そこでは僕の2人の兄がすべて取り仕切ったので、僕はほとんど何もせずに済んだ。


 県外に住んでいて最近は全く見舞いにも来なかった兄たちは、綺麗になった母の死体を見て涙ぐんだ。


 一方僕はというと、母が死んでも「悲しい」よりもむしろ「やっと解放された」そんな思いが先に出た。僕はとんだ親不孝かもしれない。むなしい風が胸を吹き抜ける。


 僕は懸命に母の優しかった頃のことを思い出そうとした。でもいざ思い出そうとすると、苦労ばかりが思い出されて泣くことすらできない。


 母は、父親が小さいころに死んでからは女手一つで僕たち三兄弟を育ててくれた。大したものだと思う。苦労もあっただろう。

 僕はそんな母のために、必死で優しい思い出を探そうとした。しかし、頭の中に浮かんできたのは、なぜかあやみの色白の顔だった。


 あやみ。心を病んだ女の子。例え一時だけでも、僕の恋人だった女の子。もう二度と会うことも無いだろう。あやみが抱きしめてくれた時の柔らかなぬくもりを思い出す。


 そう、あの日僕は泣きたかった。泣いて泣いて、母さんに慰めてもらいたかったのだ。


「おやまあ、つかさくんはお母さんっ子だったからねぇ」


 そんな声が聞こえてきた。

 気がつくと目からは涙が溢れていた。

 そうか、僕はお母さんっ子だったのか。

 僕は自分の涙の味を噛み締めた。

 骨を焼く灰色の煙が、目眩のするような青空に容赦なく登っていく。


 目をつぶると空っぽになった304号室のリノリウムの床が白く光った。

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