7.スミナガシ

 ゆうは、誘われるように、お父さんの書斎に入った。

いつも、入ってはいけない、と言われるその場所は、カーテンの開けられることのない、薄暗い部屋で、かび臭い匂いに包まれていた。積まれた大量の本。そして、悠のお目当ての「あれ」。

 それは、立派な額縁に入った蝶の標本だった。何の蝶かは、幼い悠には分からなかったけれど、深い紫色の羽をしている蝶が、特にお気に入り。悠はうっとりしながらじっと蝶を見つめた居た。


「おい、坊主」


 すると、どこからか声がした。

 悠はびくりとし、辺りを見回した。しかし、どこにも人影は無い。


「ここだよ、ここ!」

 

 驚いたことに、声は真っ黒な羽の、小さな蝶の標本からしているようだった。

 恐る恐る、悠はその蝶の標本を持ち上げた。


「そう、そこだよ! おい、このピンを抜いてくれ!」


 悠は、言われるがまま、ピンを恐る恐る抜き取った。

 少し失敗しただけで蝶が粉々になってしまいそうで恐ろしかった。でも何とか綺麗にピンが抜けたので、悠は、ふう、と安堵の息を吐きだした。

 そっと黒い蝶を手のひらに乗せる。すると黒い蝶は、心底ほっとしたような声を出た。


「はあ~! 助かった!」


「助かったも何も、きみはもう死んでいるんだけど」


 悠がそう言うと、黒い蝶は、


「んなこと分かってらぁ! 気持ちの問題だ!」


 と威勢よく言った。何だか変な蝶だ。

 悠は、蝶にそっと指で触れてみた。ぴくりとも動かない。やはり、死んでいるようだ。


「おい、触るな」


 蝶は、不快そうな声を出した。しかし、蝶の口が動いた様子もない。


「君は、蝶の幽霊なの?」


「まあ、そうなる、かな?」


 歯切れの悪い返事をする黒い蝶。どうやら、本人も分かっていないようだ。


「死んだことを、後悔しているの?」


 この世に未練のある魂が、現世にとどまることで幽霊になる、悠は依然、そう本で読んだことがあったことを思い出した。

 しかし、黒い蝶は、


「生きている者は皆死ぬ。それは当たり前のことだ」


 と、憮然とした口調で言ってのけた。


「――しかし、困ったなあ」


 実際には首なんかないのに、悠の目には、この蝶が首を傾げたように見えた。


「いつまでも幽霊のままじゃ、俺の奥さんに会えねぇじゃねーか」

「奥さんがいたの!?」

 

 びっくりしたように、悠は言った。

 すると蝶の声は、誇らしげに答えた。


「いたともさ! 紫の綺麗な羽で、あそこにいるあんな蝶よりもずっと綺麗だった」


 悠は、額縁に張り付けられている紫色の蝶のを方をちらりと見た。


「あの蝶より? そんなに綺麗だったの?」

「おうともよ! 蝶の仲間の中で、一番きれいだったんだ!」


 その時、玄関がガチャリ、と開く音がした。


「マズい! お父さんが帰ってきちゃった! 悪いけどまたね!」


 悠は、慌てて蝶を額縁の中に戻すと、急いで部屋を出ていった。そんな悠の背中に、黒い蝶は叫んだ。


「おい! 待てよ! また来いよ! 絶対だぞ!」

「うん!」


 バタリ、と書斎のドアは閉められ、またいつものように、ほの暗い闇に書斎は包まれたのだった。


   ◇


 次の日、悠が約束通り、また書斎にやってくると


「おい、遅いぞ」


 と黒い蝶が声を上げた。


「だって、学校があったんだもん」


 そして、その黒い蝶の姿を見て悠は驚く。


「あれっ? またピンで刺されてる!」


 もしかして、お父さんにこの部屋に入ったことがバレたのだろうか?

いや、でもお父さんは何も言ってこないし、きっと自然に外れたと思って直したんだな。

 ゆっくりと、悠はピンを引き抜いてやった。

 前回よりも、ピンを引き抜くのが慣れたような気がする。


「はー、苦しかった。お前の親父は変態だな。人の死体をピンでとめて喜ぶなんて」


 悠は、少しむっとして言った。


「僕のお父さんは偉いんだよ。理科の先生なんだ。子供たちに、動物のこととか自然のことを教えているんだよ」


「はーん、それで、人の死体をもてあそんで喜んでいるわけね」


 皮肉たっぷりに、黒い蝶は言う。


「で? 何がしたいの?」


 悠は、ため息をついた。


「外へ出よう。俺と奥さんの話をしてやる。そう言えば、俺の名前を教えてなかったな。俺の名はレオ。王者の名前だ」


 蝶にしては豪勢な名前だ、と悠は思った。


「僕の名前はユウだよ」


 悠は手のひらの中にレオを隠し、風で飛んでいかないようにガードしながら、レオの指示する方向へと歩いて行った。


「どこまで行くの?」

「そのまままっすぐだ!」


 着いた先は、悠の通う小学校だった。


「え?ここ?」


 校庭には、サッカーや野球をする子供たち。

 悠は、そのわきを通り抜け、チューリップの花壇の前までやって来た。

 赤や黄色のチューリップが、丁度いい具合に色づいている。


「ここで、俺たちは出会ったんだ。まだ小さかったころだ」


 レオが遠い目をするような口調で言った。


「イモ虫のころに?」


 悠がそう言うと、レオは少し不機嫌な口調で訂正する。


「……幼虫のころだ。俺は、仲間の中でも一番の食いしん坊で、太っちょだった。

これは蝶にとっては誇らしいことだ。一番大きくて、一番立派だった」

「ふうん」


 レオの幼虫のころ。想像したいような、したくないような。


「それで、俺はモテモテだったんだ。蝶の世界では、でかくて強いオスがモテるからな」

「へぇー」


 悠は必死で、ふとっちょで、イモ虫で、モテモテのレオを想像しようとした。


「反対に、奥さんは凄くちびっこかったんだぜ!

だから俺もその頃は奥さんに全然興味がなくて沢山いるメスのうちの一匹に過ぎなかった。

言われるまで、一緒に幼虫時代を過ごしたことすら気づかなかったんだ」

「ひどいなー」


 二人は次に、そこから歩いて5分ほど離れた所にある自然公園に出かけた。


「俺があんまり太っちょだったせいで、学校の先生に見つかって、俺たちはこの公園に移動させられたんだ。ここで、おれたちはサナギになった」


 自然公園は、その名の通り自然がたくさんあり、桜はもう散ってしまったが、若葉が芽吹いてキラキラと太陽の光を反射し、美しい公園だ。悠は、公園のベンチに腰掛けた。


「ここは、お母さんとよく来るよ。桜が綺麗で、ツツジも咲くんだ」


「あじさいも良いぞ。俺たちは、あじさいの木のそばでサナギになったんだ」


 レオは言う。


「長い冬だった。冬の間中、俺たちはずっとサナギのままじっとしていた。

……まあ、その時の記憶はあんまり無いがな。そして長く寒い季節が終わり、俺は、なんだか体がポカポカしてきたなー、と思ったんだ。

 それで、起き上がると、俺は自分の体が蝶になっていたことに気づいたんだ」


 悠は、テレビで見た、蝶の羽化の光景を思い浮かべた。


「周りを見回すと、俺の他にも蝶になっている奴がたくさんいた。

辺り一面、黒い蝶だらけさ。今まさに、サナギから蝶に変わろうとしている奴もいた。不思議だったな。俺も少し前まではああだったのかと思うと」


「うん、不思議だろうね」


 二人でそんな風に話していると、公園に西日が差し込んできた。

 そろそろ夕ご飯の時間だ。長く伸びる影を見ながら、悠はそう思った。


「周りの奴がみんな黒だったから、俺は自分も黒い蝶だとすぐ分かった。

俺は、嬉しかったさ。なぜなら、黒色っていうのは強そうでカッコイイからな。

 ところが、だ。そんな中、一匹だけ梅雨時のあじさいみたいな、場違いな色をした奴がいたんだ」


「それが奥さんなんだね」


「そうだ」


 家に戻りながらも、悠とレオは話をつづける。


「俺はすぐに水辺に行って、自分の羽の色を確認した。

ひょっとしたら、俺も紫なんじゃないかって思ってな。でも、紫なのはあいつだけだった。

少し青みがかった黒い羽の奴はいたが、あんなに綺麗じゃなかった。青のような、紫のような、少し緑がかってもいて……」


「それで好きになったんだ」


「そうだ。なぜなら綺麗だからだ」


 即答するレオに、悠は苦笑する。単純な奴だ。


「でも、オマエだって、綺麗な蝶が好きだろう? あの紫の蝶、気に入っていたじゃねぇか」


 少し、怒ったように言うレオ。


「うん。でも、今一番好きな蝶はレオだよ」


 悠は言う。本心だった。レオの話を聞いているうちに、悠は不思議とレオのことが好きになっていたのだ。


「けっ、うまいこと言うぜ」


 照れたように、レオは笑う。

 今日は、レオを額縁に刺さずに、自分の部屋の机の上にハンカチを敷き、その上で寝せてあげた。再びピンで刺されるのを可哀想に思ったからだ。


 そしてその夜、悠は昆虫辞典を開き、レオが「スミナガシ」という蝶であることを知った。



  ◇


「おい! 起きろ! 出かけるぞ!」


 そんな声で目覚めると、レオは、ブルーのハンカチの上で、カーテンの隙間から差し込む太陽の光を浴びて輝いていた。


「えー? 今日は日曜だよ? もう少し寝かせてよ!」


 という悠の抗議もむなしく


「何、言ってやがる、子供のくせに! もう9時だぞ? 俺は外に出て外の空気を吸いたい!」


 とレオは頭の中でわめいた。まったく、わがままな蝶だなあ。

 悠は、しぶしぶ外に出かけることにした。そして、再び昨日の公園を訪れたのだった。


「えーと、昨日はどこまで話したっけな」


 草木の新芽がみずみずしい。

 二人は、昨日のようにベンチに腰掛け、新鮮な朝の空気を吸い込んだ。


「んー、レオがサナギから蝶になって、奥さんに出会うところまでだよ」

「そうそう!」


 レオが、思い出したように声を上げた。


「一匹だけ紫の綺麗な蝶がいたから、俺はそいつを好きになり、プロポーズしたんだが、俺がいくら嫁になれと言っても、そいつは『はい』と言わなかった」


「へー! フラれたんだ!」


 公園内は、桜のシーズンが終わったためか、日曜だというのに人もまばらだ。


「か、勘違いするなよ!」


 レオは、慌てた声を出す。


「蝶になっても、俺は幼虫の時みたいにモテモテだったんだ。一番大きくて、一番黒くて立派だった。

俺に夢中にならないのはあいつだけだった。あいつときたら、俺のことを偉そうだの、態度がでかいだの口のきき方が気に入らないだの」


「おまけにわがままだしね」


 悠は、けらけらと笑った。


「笑うなよ。傷つくんだぜ?これでも、一応。……そうだ。あの時も、傷ついていたんだ。

それで、こうなったらどうしてもそいつを手に入れようと思って、美味しい樹液のありかを教えたり、格好良く飛んで見せたり、愛の言葉を囁いたり、いろいろした。でもあいつは『どうして私なの? 私以外にも、メスなら沢山いるじゃない』ときたもんだ」


 こんなにスカしてるレオがそんなに必死になるなんて、悠には想像もつかない。


「それで? どうやって奥さんにしたの?」


「それは、まあ、なんというか、圧力をかけたんだ。

群れの中で、一番大きくて強い俺は、群れのリーダーになっていた。そのリーダーが狙っているメスとあっちゃあ、誰もそのメスには近づかない。

 しかし、メスには卵を産まなくてはいけないという義務がある。

そしてとうとう卵を産む季節になっても奥さんは相手が見つからず、それでしぶしぶ『しょうがないわね』とかいいながら夫婦になってくれたんだ」


「なあんだ」


 悠が笑うと、ふと、何かを思い出したかのように、レオの話は止まった。

ざわわ、と、木が音を立てて揺れる。静かにレオは言った。


「今から、またお前を思い出の場所に連れて行ってやる。安心しろ、これが、最後だ」


   ◇


 思い出の場所と言うのは、意外にも悠の家の裏山だった。

 暗くじめじめとした木々が、うっそうと茂っている。


「こんなところが思い出なの?」


 ぬかるみに足を取られながら、悠はレオに尋ねた。


「まあ、見てなって」


 しばらく歩いていると、ふいに、視界がぱあっ、と開けた。

 柔らかい芝やタンポポ、シロツメクサに覆われた、町全体を見下ろせるなだらかな丘に、二人は出たのだった。爽やかな風が吹き抜け、頬に当たる。

 町のずっと奥には、海がキラキラと太陽の光を反射して輝いていた。


「わあ」


 悠は、思わず声を上げた。


「綺麗だろう」

 

 という、レオの誇らしげな声。


「うん」


 悠は、心を吸い取られたように、そこに立ち尽くしていた。

 こんなに綺麗な場所があったなんて、今まで全く知らなかった。

 

「何をしても興味を示さなかった奥さんも、ここに来たときは『綺麗ね』って言ったんだ」


 しんみりとした口調で、レオは言った。


「うん、分かるよ」


 雲が、ゆっくりと流れていく。


「だが、知っているかどうかは分からないが、俺たちの命は短い」


 急に真剣な口調になったレオに、ドキリ、と悠の心臓が鳴る。


「特に、奥さんは小さくて体が弱かった。なのに、卵を身ごもってしまったんだ」


 サワサワと、風が草を揺らしていく。


「俺は言ったんだ。卵なんていらない、子供なんていらないからもっと生きてくれ。でないと、苦労して手に入れたかいが無いじゃないか。だから、もっと生きて、俺のそばにいてくれと。

 そしたら、彼女は言ったんだ。

『私たちは、子孫を残し、死んでいく。そうやって命はつないでいくものよ。だから、死ぬのは怖くない。生きている者は皆死ぬ。当たり前のことよ』ってな。

 初めは納得できなかった。でも俺は悩んで、そして決意した。どうせ死ぬのなら、二人の思い出のこの場所で、この景色を見ながらって。

 彼女は、必死に、命をかけてこの場所で卵を産んだ。泣き言一つ言わなかった。泣いていたのは、俺の方だった。

 そしたら彼女はこう言ったんだ。『あなたは、昔からそうね。人前では、えらそうに強がっているけど、本当は涙もろくて繊細で、優しい人。そう、私は、知っていたわ。あなたが私に気づくずっと前からあなたのことを見ていたから』

――それが、最後の言葉だった」


 二人は、しばらくの間、そこに立ち尽くしていた。 

 長い間、そこに立っていた。

 黒い小さな蝶たちが、楽し気に、丘の上を飛んでいる。 

 この蝶たちも、やがては子孫を残すのだろう。

 悠は言った。


「ねえ、レオをここに埋めてもいい? そのほうが、奥さんも喜ぶだろうから」

「ああ」


 レオは、静かに答えた。

 悠は、小さなお墓をレオとレオの奥さんのために作ってあげた。

 


 柔らかな日差しが、今日もまた丘を照らし、誰も知らない小さな墓に影を落とす。

 そうして季節はめぐっていくのだ。小さな命のともしびと共に。

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