第3話

「ちょっと、ご飯も食べないでどこ行くのよ?」

 再び母親の前に姿を現した息子は、中身などほとんど入っていない、スカスカのボストンバックを持って玄関にいた。

「多分十日くらい出かけてくるよ。携帯にも出られないと思う」

 スニーカーのかかとを玄関のたたきで調整しながら、まるでコンビニにでも行ってくる、とでもいう様子で荷物を肩にかけた。

「親父に伝えといて。あと二週間しかないけど、色々決めるにしても、俺が帰ってくるまで待ってくれって。お袋も、まだ保険に手をつけたりしないで」

「あんた、どうするつもりなの」

「…ちょっとした、アテがあるんだ」

 まだ学生の息子に、そんな稼ぎや当てなどあるわけがない。けれども彼は、大丈夫だと言う。

「だから、少しだけ待ってて」

 澄んだ目を向けてくる息子の表情に一瞬胸を突かれたが、言いかけた言葉は己のうちに飲み込んだ。

「…犯罪だけはダメだからね」

「お袋は、俺の目指してるもの知ってるだろ?」

 答える顔は、あくまで穏やかだった。

 けれど、その表情にほんの少し差しているかげりを見逃せるほど、由紀子は鈍い母親にはなれなかった。

 漠然とわかっていた。

 多分息子がこれから、自分では決して望まぬことをするつもりだと。

 そしてそれを、例え家族であっても、知られたくないと思っていることも。

 彼が物心つく頃には大きくなっていた、九歳年の離れた姉はいるが、昔からわがままも言わず、手のかからない子どもだった。

 特に成績が良いわけでもないのに、時折不思議なほど聡いと感じるところがあった。

 弟という立場がそれをうまく隠しているし、彼が抱えているものが何なのかを尋ねたことはないが…家族の誰もが、彼が何か特別なものを持っていることに、薄々気づいている。

 わかっているからこそ、知られたくないと思っている彼のために、何も気づいていない振りを貫いてはきたけれど。

「学校は休むことになるけど、出席日数も問題ないし」

 何かを抱えていると、家族が気づいていると知っていても、彼は決してそれを口にしようとはしなかった。

 おそらく、これから先も彼が自分たちに語ることはないだろう。

「たかだか十日ばかり留守にするくらいで、そんな顔するなよ。俺は、大丈夫だからさ」

 いつの間にこの子は、こんなに大人びた顔をするようになったのか。

 由紀子は息子の様子に驚きと、少しの寂しさを覚える。

 門扉もんびの向こう、遠ざかっていく足音を聞きながら呟いた。

「…ごめんね」

 窮地きゅうちを話せば優しいあの子が、望まぬものでも選ぶだろうことをわかっていた。それを理解した上で多分…いや、確信犯的にけしかけたことを決して忘れてはいけないと、由紀子は自分に誓う。

「ごめんね…」

 届くわけもないとわかっていたが、それでも彼女は詫びずにはいられなかった。


 きっちり十日後、息子は出かけた時と何も違わぬ表情で戻ってきた。

 無言で差し出されたバッグを受け取った由紀子に、励ますよう微笑み、二階にある自分の部屋へと上っていくその後姿は、荷物を下ろしてもなお、何かを背負い続けているように、ひどく疲れて見えた。

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