第9節

 雪国の一建家。引越しの準備をしているところに『旅人』はやってきた。『旅人』は家の中に通してもらい少女の部屋を訪ねた。

 『旅人』は少女に話しかける。

「はじめまして、マイア。お父さんの友達の『旅人』です。今日はマイアの話を直接、聞きたくて来ました。引越しの準備が忙しいところをごめんなさい。」

 マイアが答える。

「『旅人』さんはじめまして。引越しの準備はもうすぐ終るところよ。私の話が聞きたいなんて、一体、何かしら。」

「お父さんと意志が霊によって働くかどうか話をしたそうだね。」

「そんな話? でも、あの話ね、わかったわ。」

「意志は霊にどのように影響されているのか? 意志の動きは脳の動きですべて説明できるのではないか? 科学によって、意志の動きが脳の動きですべて説明できたとき、霊は存在しないようになるのか?……といったところです。」

「お父さんの話では、科学が意志を脳の動きで説明するようになったとしても、霊は神の記憶のようなものとして存在しうるということだったの。」

「もう少し詳しく教えて欲しいな。」

「神が生前の人を覚えるとき、服は何を着ていたか、どういうところを歩いていたか、どういうものを食べていたか、ということにはじまって、内臓の動きや脳の中のニューロンの動きまでも、正確に覚えてらっしゃるということ。それは神の中の人の記憶はまったき人そのものでありうるし、もっと何かが付加された人の理想状態のようなものかもしれない。そうであれば、意志が脳の働きで示されたとしても、それ以上の霊の働きが神の記憶の中であり、意志を持ちうるということになるわ。」

「なるほど。説得力がありますね。マイアはそれに賛成したのですね。」

「反対っていうのかな。それはありえるとも思うのよ。でも、そうじゃない在り方でも霊はありうると思ったの。」

「それはどんな?」

「人が死んだときにね。神様がやって来てくれるの。そして、用意してきた霊的肉体に脳の反応を移し替えてくれるの。霊的肉体をもって霊として生き、意志も維持できるようになるの。神様はいちいち一人一人にそんなことはしないと考えちゃダメなの。」

「そうですね。人の親は人が産まれたときに後の子供が想像しえないような手間を引き受けているものです。神も人が死後の世界に新しく『産まれる』ときには、人が思ってもいないような手間を引き受けてくださるのかもしれません。」

「それでね。大事なことは、意志の働きが脳の働きで説明されるようになったとしても、神の記憶モデルはもちろん、霊的肉体モデルも反駁することはできないの。そして、もっと大事なことは、科学的に意志の働きを脳の働きで説明できるようには未だなっていないってことよ。」

「そうですね。意志は常に外からの働きかけとせめぎあっていますから、脳の働きを単純に切り出すことはいつになってもできないかもしれません。そして、霊の真実は、神の記憶モデルと霊的肉体モデルの中間にあるのかもしれないし、どちらにも似ていないのかもしれません。」

「そう。なかなかパパはわかってくれなかったけど、最後には納得してもらえたのよ。うれしかったわ。」

「そういう会話が家庭でできるというのはなんと幸せなことでしょう。お父さんはそうして最近、転向され、そして、引っ越すことになったのですね。」

「それが引越しのキッカケだったの? 知らなかったわ。」

「おっと、口が滑ってしまいましたか。」


 『旅人』は、少女の部屋に残された木彫りの像を指さして尋ねた。

「あれは、何ですか。」

「神様よ。正確には天使様かしら。」

「マイア、偶像崇拝はいけません。家具を造った残りの木から彫られたのがその像なのです。家具はいらなくなったら燃やされ、炎と消えます。一方で、その像は、女の子から救いを迫られる。これはおかしなことじゃありませんか?」

「あの像は神様そのものではないわ。像を通して天使を拝むの。それは、それを通して結局、神様を拝んでいるのと同じことだと思うわ。神様にはそのことが伝わらないの?」

「神様もそれはわかっています。でも、そういうことは嫌われるのです。わかっていても嫌いなことは、マイアにもあるでしょう? 例えば、蛇や蜘蛛は好きですか?」

「いいえ、見たくもないわ。」

「本物そっくりの蛇のおもちゃがあるでしょう。おもちゃとわかっていても、それを嫌い、触れたくないと思いませんか? それと同じです。」

「なるほど。わかったわ。でも、他のお気に入りのおもちゃと同じで、その像を燃やされるのは、悲しいことよ。それもわかってはもらえないの?」

「いえ、今の私は燃やすことまで命じられてはいませんよ。でも、それは置いて行きましょう。」

「わかったわ。でも、私がもう少し大人だったらきっと蛇や蜘蛛のおもちゃを見ても平気だと思うわ。」

 『旅人』を通じて神はこのことを知り、恥じたわけではないが、心に留められた。

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