第2節

 あるオフィスビル、その一室のドアのノブに『旅人』が手をかけたとき、中から怒鳴り声が聞こえてきた。

「お前はなんで、こんなこともできないんだ。ここにいて何年になる。……。何! とっとと出て行け。もう一度、直してこい。」

 『旅人』はドアから手を離してしりぞくと、中から若者が飛び出てきてうつむいて足早に去っていった。

 中から男が開きっ放しのドアを閉めに来た。

「扉を閉めることすらできんのか。ったく。」

 そういったところで彼は『旅人』に気付いた。

「あっ、これはお客様でしたか。みっともないところをお見せしてすみません。」

「いえ、それはいいんですよ。でも、出ていった若者をほっておいていいんですか。」

 彼は禿げた頭を手でかきながら言った。

「いつものことなんですよ。困ったことです。ところで、御用は何ですか。」

「少し話をしたいと思いまして。」

「私と? 話を? まぁ、とりあえず中に入ってください。」

「それでは失礼します。」

 『旅人』を部屋に迎え入れて、男はドアを閉めた。部屋は少し散らかっているが、中央に筆記用具が転がっているスペースがあって、書類が積まれている机は、いかにも仕事が出来そうな雰囲気をかもし出していた。

「ええと、はじめての方ですよね。ヨハンソンと申します。あなたは?」

「『旅人』と申します。」

「お名前は? 何とお呼びすればいいのでしょう。」

「『旅人』とお呼びください。」

 ヨハンソンは苦虫をかみつぶしたような顔をして言った。

「では、『旅人』さん、お話があるとのことでしたが……。」

「あなたが見ている夢の話です。」

「夢ですか?」

「心当たりありませんか?」

 ヨハンソンは少し驚いた様子を見せた。

「確かにこのところ変わった夢、同じ夢をずっと見ていますね。それが外目にわかるのですか。おたく、占い師か、何かで?」

「占い師ではありませんが、似たようなものですね。神がお選びになったのでやってきました。それと、『このところ』というのは間違いですね。『ずっと』のはずです。自分をごまかしているのかもしれませんが。」

「神ですか……。」

 ヨハンソンはネクタイを少し緩めて席に座った。

「あの、話の途中ですが、失礼して座らせていただきました。何か気分が悪くって。」

 『旅人』は気分が悪いというのを聞いて心配げに眉をひそめた。

「少し話を早くしますね。その夢というのはどこかで溺れている夢ですね。暗い海のようなところをずっと溺れて苦しんでいる……。」

「そうです。何か心理学的に有名なものなんですか。とても神だなんて……。」

「単刀直入に申しますが、あなたはすでに死んでいて、水責めの罰を受けているのです。」

 先ほどの怒気はどこへやら、ますます気分が悪そうになってやっとのことで聞き返した。

「なんですって。私が死んでるって何を言っているんだ。」

 『旅人』はヨハンソンの脇に立ち背中をさすってやりながら答えた。

「そうですね。今、しばらく奇跡が起こって水責めが止まります。変化が起これば、本当のあなたが目を醒ますはずです。リラックスして、眠っても大丈夫ですよ……。」

 ヨハンソンは席に座ったまま眠りに落ちた。


 ヨハンソンは見渡す限りの海の上に浮いている。今日は先ほどから突然、波もおだやかになり息ができる。それで目醒めたのだ。

「おや、目醒めた?……のだったかな。」

 ヨハンソンはさっきまで見ていた夢のことを思い出した。『旅人』と名乗るおかしな男と会う夢だった。そこでは自分は死んでいると言われたのだった。

「何をわかりきったことを……。」

 そうだった。彼は、とっくの昔に死んでいて、最後の審判があって復活したとき、この水責めの地獄に割り当てられたのだった。

 地獄に来た最初は、ただ苦しくてあえいでいるだけだったが、奇妙なもので、その苦しみにも少しずつ慣れ、しばらくしたころ、彼は眠ることができるようになった。眠りの中で、彼は生活をし仕事をしている夢を見ている。夢だからその日によって違うはずだが、このところ同じところで生活している夢を見ていたようだった。

 その夢に『旅人』がやってきた。彼は何を告げたかったのだろう。

「何、ヨハンソンさんに、それが夢であることを教え、ちょっとした救いをもたらそうとしたのです。」

 背後から突然、呼びかけられた驚いた。あの『旅人』が小舟に乗って彼の前に現れたのだ。

 水に苦しむ人影を見ることはこれまでにも何度かあったが、この地獄に小舟に乗った人を見るのははじめてだった。もちろん、こんなに穏やかな海も地獄に来て以来、はじめてだった。

 ヨハンソンはあえぎながら『旅人』に語りかける。

「どうやって。ここに。」

「ちょっと特別扱いしてもらってここにやって来ました。こうすれば早く伝わるだろうと思って。でも、もうこれで十分ですね。引き上げます。」

「ちょ、ちょっと……。」

 言う間に、小舟は遠のいていき、それと同時に雲が出てきて再び嵐になりはじめた。波に飲まれ息ができなくなったヨハンソンは、意識が遠のくのを感じた。


 ヨハンソンは、うたたねして舟をこいだところで目が醒めた。

「ああ、いや、むむ……。」

 少し寝呆けてから、かたわらにいる『旅人』の手を取って言った。

「これが夢なのか。」

「そうです。あなたはこの世界で水泳ができませんね。」

「ああ。」

「あなたが人より水を怖がるのも、本当の自分が水責めを受けているからなのです。」

 ヨハンソンは寝汗をぬぐいながら、一人つぶやくように言った。

「中国古典の『荘子』だったか。自分が胡蝶になった夢を見ていたのか、胡蝶の見る夢が自分なのか。確かそんな話だった。」

 『旅人』は部屋の隅にあるヘッドフォンの付いた装置に触りながら尋ねた。

「この会社は昔、睡眠学習のシステムを売っていたようですね。『胡蝶の夢』はセールストークか何かだったのでしょうか? 睡眠学習……夢の中で特定のことが習えるなら、夢を記録することができれば、夢の共有も可能になる。……きっとそうですよね。」

「ああ、そんな売り文句もあったかな。未来への投資というわけだ。でも、そんなたわごと誰が信じるかってんだ。今じゃ睡眠学習なんて売り物にもしていない。」

「でも、神はそのアイデアに目を留められた。人は予知夢を解いてもらうために占い師に頼ってはなりません。夢を使って人をコントロールしてはいけません。それらは魔術です。しかし、夢は技術的に共有できるかもしれない。その発想は魔術ではないとお認めになられたのです。」

「まさか、この世界はただの夢でなく共有された夢だとでもいうのか。」

「そのまさかです。」

 ヨハンソンはバンと机を叩いて立ち上がった。

「どうやってそれを確かめる! 他人の見ている夢なんてわからない。さっきみたいな芸当が何かあるのか。そうかあちらの世界で目醒めている状況で会うのか。」

「思い通りにならないことがあるから夢でないということはありません。自分に知らない細部がわかるから夢でないということもありません。そしてあなたがたはあちらの世界ではコミュニケーションができません。ですから、これが共有された夢であると証明する客観的な方法はありません。」

 ヨハンソンは手のひらを開き、大きなジェスチュアで訴える。

「じゃあ、意味がないじゃないか。そもそもどうしてこれが夢だと、俺に教えた。知らなければ地獄の苦しみからほんの少しの慰めのあるこの世界で満足できたんだ。」

「奇跡を感じることができるはずです。いろいろな奇跡が日々起こっています。そのうちのいくつかについてあなたは、これが奇跡だ、と感じることができるようになっています。それが死後の世界の証です。」

「ああ、そうなのか。どうも偶然が重なることが多いと思っていたんだ。何かの導きのようにも感じていて、つまりそれは俺の信仰心だと思っていた。これが死後の証だったとは……。」

「ここに住む他の人々は、遅かれ早かれそのことを教えられていきます。神がそれを望むときに。」

 ヨハンソンは一息ついて机の上に腰かけた。

「教えられた俺は、どこかの宗教団体にでも入ればいいのか。」

「いえ、違います。あなたは先ほど、若者を怒鳴りつけてらっしゃいましたね。」

「ああ、そうだな。思えばあいつも地獄仲間ってことなんだな。もう少し考えてやらないとダメってことか?」

「いえ、違います。あの若者は『実在』しません。あの若者は元は誰かの夢としてここに来ていたのですが、すでにこの世界を去って別の世界にいます。」

 ヨハンソンは目を見開いた。

「はぁ? じゃあ、俺は影みたいなものに怒っていたわけだ。」

「ええ。実は、あなたはあちらの世界で目が醒めたときにここで怒っていたことを何度も悔いています。しかし、地獄で悔いるからこそ、こちらの世界に来たときまた同じことをやってしまうのです。」

「そうなのか。じゃあ、俺が怒るために怒っているだけで、誰かが悪くて俺は怒っているんじゃないということなのか。」

「ええ。怒る意味はありません。」

 笑顔を作りながら『旅人』は続けて言った。

「ねぇ。ヨハンソンさん。しょせん夢であるとしてもこの夢はヨハンソンさんにとっていい夢ではありません。現実感のあるお仕事の夢ではなく、例えば、人を助ける、そういう存在になってみてはどうです。」

「俺は死んでまで現実感にとらわれていたということか?」

「いい場所ゆめを知っていますよ。そちらに移られてはいかがです?」

 ヨハンソンは天井を見上げてから、『旅人』のほうを見た。

「人に頼るのは敗北のように感じていた。でも、そうじゃないんだな。死んでまでそんなことにこだわっていてもしかたがない。『天使』だから信じるのではなく、あなたを信じる気になった。まるで奇跡がそうであることがわかるように。ヨシッ、移ろう。よろしく頼むよ。」

 二人は部屋を出ていった。

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