神々のための黙示録

JRF

第1節

 昼とも夜ともつかぬ薄暗い石造りの街、アパートメントの一階の部屋、使われていない暖炉の前、落ち着いた模様のペルシャ絨毯の上に、婦人と坊やが足を崩してじかに座り、大きな絵本を広げ、婦人がそれを読み聞かせていた。

 絵本には星の散らばる宇宙の図がカラー写真で描かれている。

「宇宙はビッグバンによりはじまりました。ビッグバンがはじまるまでは、なんと時間すらなかったのです。ほんの小さな素粒子の時代があって、しばらくして恒星ができはじめ、宇宙はどんどん大きくなりました。そのほんの片隅に太陽系が生まれ、チリやガスが集まってできたのが……。」

 婦人が答えを促すかのように坊やを見る。坊やは手を叩いている。婦人は次のページをめくりながら続けた。

「そう。地球です。地球は四六億年前にできました。やがて、ほんの小さな生命が現れます。はじめから人間やゾウさんやキリンさんがいたわけではありません。小さな生命から、進化と呼ばれるものによって様々な生物が生まれて、……そして消えていったの。」

 海の中で三葉虫が描かれているページをめくる。

「ガオッ。恐竜さんの時代もありました。大きな大きな恐竜さんも、やがて滅びてしまいます。そして、小さな哺乳類が進化してやがて現れたのが……。」

 またも婦人が答えを促すかのように坊やを見た。坊やは胸を叩いている。

「そう。人間です。人間はこのような宇宙の誕生を知り、進化の秘密を暴き出し、何億年も先のことを予言しました。しかし……。」

 婦人はまたも坊やを見る。婦人は笑顔を作り次の一言を吐き出した。

「突然、ラッパの音が鳴り響いて、全部、終ってしまいました。」

 坊やが「やあ」と声を揚げた。

「人間は科学によって滅ぶのでもなく、多くの人が不遜にも馬鹿にすらしていた最後の審判の日を迎えたのです。ビッグバンも進化も全部終りです。それらは現実感があるように創造されたに過ぎなかったのです。」

 絵本には多くの人が地面より起き上がる光景が描かれている。

「死から復活した人々は、しかし、初めての光景に驚き、何が起こるか震えて待ちました。ある人は天国に、ある人は地獄に送られたとも言います。けれど、この街では人々が待ち続けています。」

 絵本にはその街の姿が描かれていた。どこか昼か夜かよくわからず陰鬱だけれども、窓からは明りが漏れているのが、人々の生活がそこにあるのを表していた。

「今日、そこに『旅人』がやって来ます。彼は神様の命により死後の世界をめぐることになっているのです。さあ、もう近づいてきましたよ。」

 次のページをめくろうとしたのとほぼ同時くらいに、玄関の扉をノックする音がした。ページをめくる手をとめ、「はーい」と返事をし、婦人は扉のほうに向かった。扉の向こうから声がする。

「こんにちは。『旅人』です。」

 婦人は扉を開けた。

「お待ちしてました。」

 外には中世の修道僧のように一つなぎの服を頭から被って帯をしめた男が立っていた。頭巾をぬぐと、ヒゲをたくわえ、少し薄汚れているようにも見えたが、その笑顔には不思議と清潔感があった。

「少し話をうかがいたいだけです。」

「でも、今、主人は出掛けております。」

「いえ、あなたのお話を聞かせていただきたいのです。」

「そうですか。あなたのような聞き手でしたら、留守に男の人を家に入れても主人に怒られることはないでしょう。どうぞお入りください。」

 暖炉のある部屋に『旅人』は通された。そこには坊やが座っていた。

「こんにちは。坊や。元気にしているかい。」

 婦人が台所のほうから語りかける。

「ソファに座っててください。あと、ジュースでいいかしら。コーヒーもいれられなくはないのだけど。」

「おかまいなく。ジュースで結構です。すぐに出ていきます。ほんの少し確認することがあるだけです。」

 婦人はジュースとお菓子を持って部屋に入った。『旅人』は座って会釈する。婦人は坊やを招き寄せて椅子に座らせてから、『旅人』に対面してソファに座った。

「確認したいことというと何でしょう。」

「この街で復活したあとのことを私のほうで記録しておこうと思ったのです。」

「大事なことなの?」

「私が旅を続ける上では。」

「何からはじめたらいいの?」

「少し恥ずかしいこともあるかもしれませんが、最後の審判のラッパが鳴ったあとからのことをお話し下さい。」

「そうねぇ。」

 婦人はよく覚えていないと言わんばかりに目を細めてうつむいてから、『旅人』から視線をらして壁のほうを見たり、ときに坊やのほうを向いてあやしたりしながら答えた。

「ラッパが鳴ってよみがえったとき、私は裸だった。でも気にならなかった。街は確か最初からこんなだったけど、街を歩いている人の中には裸の人が多かった。」

「ちょうど未開人が裸であるように?」

「そうね。ぼうっとしている間にずいぶん時間が過ぎて、少しずつ裸でない人が増えてきて、気付いたら私も服を着ていた。」

「襲ったりはされなかった?」

「ここの街にそんな人はいないわ。でも、そうね、はじめからそんなことは起きないという確信みたいなのと、そうなったらそういう世界なんだからどうなってもしかたがないみたいな気持ちと両方あったかな。」

「坊やは?」

「坊やも気付いたらいたのよ。泣いて、ほっとけなくて、困って乳首を吸わせてみたらミルクが出たのには驚いたわ。そして、あぁ、私はこの子と暮らしていくんだって悟ったの。私のほうは何も食べてなくても平気だったから、そういうものかと思っていたんだけど。不思議ね。誰かに何かをあげることがこんなに幸せだなんて。」

「その間、ずっと道にいたのですか?」

「そういうことになるわね。あんまり意識していなかったわ。そのあたりのこと、よく覚えていないの。そうこうしているうちにあの人がやってきて、私はこの家に住むようになったわ。坊やの成長をみるともうあれから何ヶ月も経っているのね。でも、そんな実感はないわ。」

 そしてしばらく沈黙が続いた。『旅人』はジュースに軽く口をつけ、その後、口をつけた部分をぬぐった。

「そうですか。いえ、聞きたいことはそれだけだったのです。ところで、今は幸せですか。」

 婦人は坊やを抱きながら笑顔で言った。

「幸せよ。」

 『旅人』も笑顔になって言った。

「もうすぐご主人が帰って来ますね。」

「えっ、もうそんな時間かしら?」

「私と話すと時間が早く過ぎるんですよ。……なんてのは嘘ですが。その、ご主人と鉢合わせするのは気まずいので、玄関じゃないところ、そう、そこからお邪魔していいですか。」

「そこって……。」

 『旅人』は廊下に出て何もないところをまるで額縁でもつかむかのようにして、足をその向こう側に送ると足が消えた。

「まぁ、便利ですのね。」

「それでは失礼します。」

 そう『旅人』が言うか言わないうちに玄関の扉が開いた。『旅人』が次元の狭間からのぞいていると、玄関から光が四方八方に漏れ出した。人の形をした光が家に入ってきたとき、家は、その世界は、光に包まれたように見えた。


 婦人の名前はイブ、旧約聖書の創世記の最初で罪を犯した女である。「ご主人」は天国の何者かであるが、『旅人』にはその名を語ることを許されていない。坊やは、元は誰だったのか、それは『旅人』にもわからなかった。

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