『忍』ですから・・・

 バァン!

 空になったジョッキがテーブルに投げ出される。

 顔色は全く変わらないが、目だけを据わらせて、翔太かなたさんは颯介そうすけくんを睨んだ。

「悪いが、俺は一歩も引く気は無い」

 ガァン!

 同じく、空のジョッキを天板に叩きつけて、目元を真っ赤にした颯介くんが翔太さんを睨み返す。

「僕だって引く気はありません。どんなに僕が小野寺先輩に及ばなくとも、この件においては、全く関係ありませんから!」

「あっはは! 沢田、勝てないって認めてるし。ダメでしょうそんなんじゃ」

「ちょっと、あかねさん。颯介くんの応援は私の役目です。横取りしないでくださいよ」

 四人が四人とも、へべれけと言っていいほど酔っている。私にしても、目の前のお酒が何杯目だか数えてもいない。

 店員は心得たもので、ジョッキやコップが空になると、影のようにそっと現れて新しいものを置いていく。

 テーブルに並べられた料理はあらかた食べつくされ、酒量だけが増えていく中、葵を中心とした恋愛四方山話は止まることを知らなかった。

 はっきりとした記憶は無いけれど、気付いたら「あかね翔太かなた」対「詩織しおり颯介そうすけ」の図が出来上がっている。この抗争の原因である葵は、調理場に移ってから一度も返って来てはいなかった。

 ふと、酔いが醒めた気になって、カウンターの方を見やると、葵が楽しそうにお玉を握っている。店から借りたのであろう、白いぶかぶかの割烹着が異様なまでに似合っている。

 お母さんというより、大正、明治くらいのお女中さんといった感じだ。大きな屋敷に仕えて、今にも主人の息子と身分違いの大恋愛をしそうな雰囲気が漂っている。大学生らしき男の子が、カウンター席からしきりに葵へ話しかけていた。

 そんな男子学生を、葵は笑顔であしらっている。

「興味が無いとはいえ、翔太さんと颯介くんに悪くはないか?」

 そんなことを考えつつ、串から鶏肉を外しにかかる。酔っているせいか、視線が定まらない上に、箸で鶏肉を掴めない。

 苦戦していると茜さんが巨乳を寄せてきた。

「しおりん、気がついてた? 少し前から心の声がダダ漏れよ~。舌鋒鋭いって、しおりんみたいなことを言うのね~」

「埋まる。茜さん、乳に腕が埋まりますって。新手の貧乳批判ですか」

「そんなわけないじゃない。しおりん、さっきから真顔で怖い~」

 なおも言い募ろうとしている茜さんを放って、私は男性二人を振り返った。左肩には茜さんがぶら下がったままになっている。

 もにもにと腕を胸に埋めたまま、私は二人をビシビシっと指差した。

「二人はさぁ、そうやって引くの引かないのって言ってばっかり。本当に葵と付き合う気あるの?」

『あるに決まってる』

 見事なユニゾンで四つの双眸が私を射抜いた。

「そんなら、今から一人ずつあそこにいる葵を口説いておいでよ」

 目を眇めてカウンターへと顎をしゃくる。言われた二人は、さっと顔を青くした。

「馬鹿な! 沢田が先になって、OKを貰ったらどうするんだ」

「葵は翔太さんに興味がなかったってことで、潔く諦める」

「それでは、俺にチャンスが回ってこないじゃないか! そもそも、葵が俺の気持ちを知らないままになる可能性もある。平等じゃない」

「でも、恋愛の本質って早い者勝ちでしょ? どっちが先攻になるかは運命じゃない」

 相変わらず胸を押し付けたまま、茜さんは笑う。

「ぼ、僕が後攻になったら―――勝ち目なんて・・・・・・」

 颯介くんは真っ青になったまま、ぐびっとビールを飲んだ。弱気なのは変わらないけど、泣き出しそうな感じは受けない。アルコールで気が大きくなってきたのだろう。

 苦手だと言っていたビールも、ぐいぐい進んでいる。

 私は腕を組み、しかつめらしい顔で頷く。

「颯くんったら、意外と頼もしいじゃない。でも、翔太さんの言い分も解る。あそこに居る鈍感な割烹着の天使は、絶対に二人の気持ちに気が付いてない・・・・・・そうか、それなら二人一緒に行けばいい」

「い、今からですかぁ」

「葵のいないところで、あーだ、こーだ言ってても仕方ないでしょ。ほら、立って行く。翔太さんも!」

 二人は顔を見合わせると、ジョッキに残ったビールを一気飲みして、ふらりと立ち上がった。

「若干足元が覚束ないわね。こんな状態で告白なんて出来るのかしら」

 私は顎に手を当てて、ふむと首を傾げる。こうして見ると、颯介くんより翔太さんの方が、頭一つ分背が高い。二人とも多少、左右に揺れてはいるけれど、泥酔している感じは受けなかった。

「まあいいわ。告白には、お酒の力も必要でしょ。さあ! 行きなさい!」

 私は腕で空を切り裂き、葵のいる方角を差した。

 緩慢な動作で、二人は動き始める。颯介くんの座っていた椅子を交わそうとして、翔太さんがよろめいた。

 バランスを失った翔太さんの上体が大きく傾き、倒れるのを防ごうと、右手が大きく空をかく。


 ごち。


 自身を支えることも叶わず、翔太さんの顎が颯介くんの後頭部にクリーンヒットした。

「仕方ない。酔っているのだから、そういうこともある」

 私はコップを傾けて、感想を述べる。

 だが、颯介くんはそう思わないらしく、後頭部を手で押さえたまま、くるりと翔太さんを振り向いた。

「小野寺先輩。僕を牽制しているつもりですか」

 そう小さく言う彼の眼は、完全に据わっている。気合の程は伺えるが、矛先が違ってきてないか?

 対する翔太さんは、顎を押さえて「は?」と颯介くんを見下ろした。

「僕が先を行くのが気に入らなくて、頭突きを食らわせたんでしょう? 大人気ないですね」

 翔太さんを見据えて、颯介くんはよろっとテーブルに置いてあった割り箸を手にした。箸の先で翔太さんを捕らえつつ、そのまま身を低くする。

 素面なら、結構さまになっている動きなんだろうけど、酔いのせいで緩慢かつフラフラとしている。翔太さんの鼻先に構えた割り箸だって、大きく円を描いていて、まるでトンボを捕っているみたいだ。

 身に覚えの無い言いがかりを付けられ、翔太さんは無言でその腕をパシリと払った。反動で颯介くんの持っていた割り箸は、テーブルを一つ越えると床の上を滑っていってしまう。

「何をするんですか!」

「それはこっちの台詞だ!」

 二人は一瞬視線を交錯させると、じりじりと間合いを取り始めた。

「完全な誤解で、一触即発~☆」

 茜さんが諸手を挙げて喜んでいる。私は憮然として振り返ると、彼女とハイタッチした。

「二人の男が可憐な女性を奪い合い決闘。ありがちな筋書きですが、面白くなってきました」

「だよね~。今の内に、料理も追加を頼んでおこう」

 茜さんの手が、ゆっくりと持ち上がる。

 それが―――戦いのゴングになった。



 短刀代わりであった箸を飛ばされた颯介くんは、焼き鳥の串だけを手にすると、それを鋭く投げ放つ。

「あれ、本気で投げてるつもりなんでしょーね」

 ハツを咀嚼しながら、私は茜さんへと問いかける。

 颯介くんの放った串は、たいしたスピードも無いまま、へろへろっと床に落ちた。翔太さんは翔太さんで、大真面目に割り箸でそれを叩き落そうと腕を振っている。

 が、当然串はかすりもしない。

「二人ともかなり酔っているからね。仕方ないでしょ」

 茜さんも猪口を構えたまま、無表情で二人を眺めている。

 投げるのを諦めた颯介くんは、一転、指の間に串を挟みこむと、翔太さんへと踊りかかった。正直、踊りかかるというより、倒れ込むという表現がピッタリだけど。

「あれ、手甲鉤の代わりですか? ヒューマンシッターの社員って、応用力高いですね」

「まあね~。警察に見つかったら困るし、会社員が武器を携帯して歩くなんて、非常識でしょ」

「今回は間違ってないですが、あなた方の常識は、世間一般では非常識と呼びます」

 翔太さんは、とっさに椅子を蹴って颯介くんの接近を妨害すると、持っていた割り箸を素早く投げつける。

 優秀と言われるだけあって、酔っていてもかなりの勢いで箸は飛んで行くが、コントロールが定まっていない。見当違いの方向へ飛んだ割り箸は、ゴスっと鈍い音を立てて、壁へと刺さった。

 私と茜さんは、追うように壁へ目を向ける。

「修理代はヒューマンシッター持ちですよね」

「どうだろ。プライベートな恋愛がらみじゃ無理かもね」

「それ、結構まずいですね。どうせなら、壁じゃなくて箸が折れれば良かったのに」

 翔太さんは小さく舌打ちをすると、テーブルの端に積んであった小皿を数枚取り、手裏剣の要領で投げ始めた。当たらないなら、数を増やして確率を上げようという目論みだろう。

 しかし、それは―――

「修理代が嵩むだけじゃね?」

 予想通り、小皿は一枚も颯介くんにヒットしない。どころか、あらぬ方向へと飛んで行き、壁、天井、果ては客のいるテーブルの足にまで突き刺さった。

「だから、なんで皿の方が割れないのよ・・・・・・」

 ぽかんと開けた口に、茜さんがハツを押し込んでくる。

「社会人が四人もいるんだし、心配しなくても大丈夫よ。翔太は昔から器用な奴でね、あれくらいなら業者を呼ばなくても自分で修理しちゃうから」

 私は、むぐむぐと程よい弾力を噛み締めながら頷いた。茜さんの整った横顔が懐かしそうに翔太さんを見つめている。

 会社の同期というだけで、こんなに理解し合えるものだろうか。最初から、何処となく茜さんは翔太さんの味方だった気がする。

「もしかして、お二人は元恋人同士ですか?」

「まさかぁ」茜さんはからりと笑った。

「大学からの腐れ縁よ。そういう展開になったことも、そういう気持ちになったこともないわ。これまでも―――これからもね」

 言って微笑みながらお酒を口にする。私には、その綺麗な微笑みも何故か少し寂しそうに見えた。

 目を離した隙に、二人は店内の少し開けた場所へと移動していた。酔っているせいで飛び道具は全く役に立たないと悟ったらしい。千鳥足になりながらも、お互いに半身になって構えると、ぐっと腰を落とす。

「使えないのは道具じゃなく、自分自身だって気付いたんですね。酔っているのにいい判断だ。物さえ壊さなければ、もっといいのに」

「しおりんって、本当に辛口よね。もしかして、今までもずっとそんな風に思って見てたの?」

「ええ、まあ。概ね」

 続く二人の諍いは、小皿が派手に散ってしまったので、急激に人目を集め始めた。

知らない内に客層はやや若くなっている。ラフな私服姿で、いかにも大学生といった風貌の男女が大半を占めていた。

 私はコップを持ち上げ、俄かに活気付いてきた店内を眺める。

「ギャラリーが取り囲んで、闘技場みたいな雰囲気ですね。で、これから何が起こるんですか?」

「武器がダメなら、肉弾戦じゃない? 男は黙って拳で語る! これぞハードボイルドよねぇ」

「なるほど。それなら物も壊れないし、合理的ですね。しかし、こんなに盛り上がっているのに、葵は相変わらず店長と煮物を作ってる。なんてマイペースな」

「あの娘はあれでいいのよ。だからこそ敵の罠にもかからないし、動揺もしない。社内ナンバー1の秘訣よ。葵のことはいいから、ちゃんと見てないと見逃すわよ」

 イブシ銀な店長と微笑み合っている葵から視線を外し、私は翔太さんと颯介くんの方を向いた。

 二人の間に張り詰めていた緊張感は、すでに限界に達している。

 どちらが先に仕掛けるか―――その沈黙を破ったのは、颯介くんだった。

 大きく踏み込み、翔太さんの腹部目掛けて右正拳が突き出される。

翔太さんは、颯介くんの正面へ回り込むようにしてそれを交わすと、左の掌で正拳を受け流しつつ、右肘を颯介くんの顎へ向かって繰り出した。

 颯介くんの目が、一瞬、驚愕で見開かれるが、頭を低くしてこれを回避すると、走りぬける様に翔太さんの左側へと躍り出る。

 チッという翔太さんの舌打ちが、ここまで響いてきた。

 回りこんだ颯介くんは、翔太さんの左手を掴みながら反転し、腕を捻り上げようと試みる。だが、手筋を読んでいた翔太さんは、一呼吸早く空いた右手で颯介くんの顔面に殴りかかった。

 苦しそうに顔を背け、颯介くんは翔太さんの腹部を蹴り出す。

 押される様にして後退した翔太さんは、再び構えると余裕のある微笑を浮かべた。

「なかなか良い動きだ。だが、今のは、殴られてでも腕を極めるべきところだった」

 苦々しい表情で、颯介くんはふうっと息をつく。

「顔に痣が残れば、明日の仕事に支障が出ますからね。それに、まだ僕は負けていない」

 翔太さんは、その台詞をふんっと鼻先で笑い飛ばした。

「いいだろう、かかって来い!」

 ぽろりとハツを取り落として、私は我に返った。

 無駄がなく、酔っているとは思えない体捌き。

 今まで見た、どの戦闘シーンよりも確実にプロっぽい。ああ、二人は『忍』だったんだなって、素直に納得できる。

 私は、隣に居る茜さんの肩を掴むと、大きく揺さぶりながら声を上げた。

「どうしよう、茜さん。二人が・・・・・・二人が『忍』に見える! 真面目に闘ってて、かっこよすぎるんですけど!」

「ちょ・・・・・・しおりん・・・・・・吐く。吐くから・・・・・・揺すらないで・・・・・・」

 私の興奮に負けず、店内は異様な盛り上がりを見せている。あちらこちらから「いいぞ! やれやれ」「負けるな少年!」等の野次が上がり、遠い席にいる客は、椅子の上へ立ってまで二人を観戦していた。

 当然、否応なしに私のテンションも上がっていく。

 思わず立ち上がり、口元に手を当てると大声で叫んだ。

「颯くん、かっこいいぞ~。翔太さんなんて、吹き飛ばしちゃえ!」

 青くなって両手で口を押さえていた茜さんも、私の大声にはっと顔を上げて翔太さんを見た。

「こらー! 翔太! 後輩に負けるなんて許さないんだからね!」

 しかし当の二人は、ギャラリーを完全に無視していた。

 颯介くんが手刀で右横面を狙う。

 翔太さんは余裕の笑みを浮かべたまま、それを防ごうと左腕を掲げた。

 颯介くんは口元を緩めると、急に手刀を止めて、空いた左脇腹へと強烈な蹴りを放つ。

 先ほどとは反対に、今度は翔太さんが驚きを露にする番だった。

「ぼすっ」と鈍い音がして、翔太さんの上体が大きく揺れた。しかし、腹部に打撃を受けながらも、咄嗟に足を絡め取り、足首を鷲掴みにしている。

 颯介くんは、残る左足で大きく飛跳ねた。

 掴まれた右足を軸に空中でくるりと体を回転すると、左踵を掴んでいる手首へ向かって蹴り落とす。

 耳障りな「ごりっ」という音が響いて、店内が急に静まった。

 束縛から放たれた颯介くんが、音も立てずに床へ着地する。

 誰かの「骨が折れたんじゃない?」という囁きが、私の不安に火を灯した。

「茜さん、ど、どうしよう。救急車? 救急車を呼んだほうがいいの?」

 蒼白になりながら隣を振り返ると、茜さんは何事も無かったように頬杖を付いて、空になった猪口を弄んでいた。

「どっちも怪我はしてるだろうけど、救急車を呼ぶほどじゃないわ」

 私は微かに頷く。現役の『忍』が言うのだから、きっと大丈夫なのだろう。

「沢田。前言を撤回する」

 左手首を抱え、俯いていた翔太さんがゆっくりと顔を上げた。こめかみから顎に掛けて、すっと一筋の汗が流れていく。

「いい忍に成長したな。今の一撃は効いた」

 押さえていた右手を離すと、翔太さんの左手首は真っ赤に腫れ上がっていた。早めに冷やさないと、時間が経つごとに腫れは酷くなるだろう。

 しかし―――。

 私は困惑して眉を顰める。

「公衆の面前で『忍』だって言っちゃってよかったの?」

 当初から忍ぶことを知らない面々だとは思っていた。けれども、最近は行動が派手で露骨になってきている。

 彼らの中に、自覚という単語は存在するのだろうか?

 もちろん、それを問いかける気はサラサラ無い。疑問を持ちつつも、すでに私の中には明確な答えが存在しているからだ。

 颯介くんは微笑を返し、右足を引きずりながら半身の姿勢を整えた。

「ありがとうございます。まさか小野寺先輩から認めていただけるとは、思ってもみませんでした。しかし・・・・・・『骨を折らせて肉を絶つ』ですか? 僕の足も無事では済みませんでした」

「これで終わりだとは言わないな? 沢田」

「当然です。まだ、決着はついていませんから」

 その様子を見て、私は少し呆れた。

 怪我をしたということは、少なからず明日からの仕事に影響が出るはず。それも利き手、利き足だ。

 特殊な職業に就いているのだから、体調管理は業務の一環だろうに・・・・・・本当に、本当に馬鹿ばっかり。

 私は席を離れて調理場へと向かった。

 店の中央では、翔太さんが怪我を負った右足に向かって、足払いをかけている。

 先ほど一瞬静まった店内は、再び活気を取り戻していた。

 賑やかさに圧されて忘れかけていたと思うが、全ての原因は、まだカウンターの奥にいる。

 小柄な体を白い割烹着に包み、可愛らしくお玉を振りながら、鍋を覗き込んでいた。

 葵は小皿に煮汁を移し取ると、それをそっと店長に手渡す。

 店長は、髪に白髪が目立ち始めた五十代くらいの男性で、店員に比べると愛想のいい方ではない。むっつりと黙り込むような人ではないが、積極的に客と会話を楽しむタイプではなかった。

 その店長が、味をみてにっこりと微笑む。目じりに深い皺を寄せて、葵の肩を優しく叩いた。

 葵は桃色の頬を上気させ、潤んだ瞳で店長を見返している。

 なんだろう。ここにもロマンスが生まれている。

 二人は、客が観戦に夢中で注文が途絶えがちなのをいいことに、随分と距離を縮めているようだ。

「葵」

 私は、周りの歓声に掻き消されないよう、大きな声で彼女の名を呼んだ。

 葵は、きょろきょろと辺りを見回し、弾んだ足取りで私の方へやってくる。

「詩織様。どうかなさいましたか?」

「うん。調理中に悪いんだけど、あそこの二人を止めてもらえる?」

 私が彼らを指差すと、葵は目を丸くした。

 どうやら、この騒ぎの中心が翔太さんと颯介くんであることに、初めて気が付いたらしい。

「二人に何かあったのですか?」

「話すと長くなるから、後で説明するわ。とにかく、茜さんも酔ってるし、葵にしか頼めないの」

「承知いたしました。準備がありますので、少々お待ちください」

 そう言うと、葵は調理場の奥へ一旦引き返した。

 店内中央では、まだ激闘が続いている。

 双方かなり酔っているため、息が切れて肩が大きく上下していた。決着を急ぐあまり、お互いに怪我をした部分しか狙っていない。

 先ほどまでは連続していた技の応酬も、今では単発の大振りなものだけになっている。

 翔太さんは、颯介くんの右足を中心に、バランスを崩させるよう仕向け、颯介くんは、防御しきれない翔太さんの左側面ばかりを狙っている。

 素人目にも面白くない。こうなると、スーパーや銭湯での戦いの方が見ごたえがあった気がする。

 だが、観客は熱気の中にいるせいか、闘っているという事実だけで楽しいらしい。野次も歓声も一向に静まる気配がなかった。

「お待たせしました」

 急に声をかけられて、びくりと肩が震える。横を向くと、葵がお玉とフライパンを持って立っていた。

 彼女は店の中央を見ながら、ぼそりと呟く。

「どんな形でも、二人を止めればよろしいのですね?」

「うん。そう」

 私は、首を上下に振った。

「では、詩織様は危ないので、ここでお待ちください」

 葵は、笑顔の残像を残して踵を返す。

 男性二人へと歩み寄っていく後ろ姿を眺めながら、私は「うん?」と首を捻った。

 そもそも、喧嘩を始めたきっかけは、何だったんだろう。

ってか、そのお玉とフライパンの使い道は? まさか、それで殴り飛ばすとかじゃないわよね。

「ちょっと待って、葵」

 右手を差し出したその時、葵はすでに二人の間に割って入っていた。

 翔太さんのローキックを足で受け止め、颯介くんの右フックを手刀で叩き落す。

『おおー!』

 割烹着姿の愛らしい少女に、今日一番の歓声が上がった。


カンカンカン!


 葵は、お玉でフライパンの底を力強く打つと、人々を虜にする天使の微笑みを浮べた。

「はい。今日はここまでー」

 毒気を抜かれ、翔太さんと颯介くんは呆然と立ち尽くした。

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