忍べない忍~銭湯編~
銭湯編
「今夜は銭湯に行くしかなさそうね」
「銭湯?」
ため息混じりな私の呟きに、夕飯の準備に勤しんでいた
「そ、それは、世界文化遺産にも登録されているという、あの有名な銭湯ですか? 紳士淑女が一糸纏わぬ姿で交流する魂の社交場!そこには国籍や年齢をも凌駕す る、神聖なる儀式があると聞いています」
虚空を見上げてうっとりしている葵の台詞を反芻して、私は軽く首を捻った。
「葵。何かそれ色々間違っている気が・・・・・・」
「アタシ、銭湯は初体験です!
艶やかに光る漆黒のポニーテイル。
輪郭の丸い顔には、つぶらな瞳。
そして―――ノースリーブの忍装束から覗く、深い深い胸の谷間。
葵は私の両手をしっかりと握り、天使の様に微笑んだ。
「一刻も早く食事を終えて、銭湯へ参りましょう!」
風呂が壊れた。
いや、違う。物事はもっと正確に言い表すべきよね。
壊れたのはガス給湯器の方で、浴槽にはひび一つ入っていない。
むしろ浴室自体は、私がここへ越して来たときよりも明かに綺麗になっている。
というのも、ここ数日我が家に滞在しているスーパー家政婦の手によって、隅々までピカピカに磨き上げられたからだ。
白い目地が目に眩しい浴室で、いつまで経ってもお湯の出ない蛇口を見つめ、私はとりあえず途方にくれてみた。
夏場なら水でも十分しのげるのだけれど、春を過ぎたばかりのこの時期にお湯が出ないっていうのは、どう考えても致命的。
風邪を引くとか言う前に、冷たすぎて長く手を触れていられない。
我に返り、慌てて管理会社に電話をかけたら、修理業者の手配は早くても明日だと言われた。
普通なら、ここで友達や親戚にお風呂を借りることになるんだろうけど、幸運にも私の住んでいる街には古き良き日本の大衆文化『銭湯』がある。
早々と夕食を終えた私と葵は、小さなバックに着替えとタオルと垢すりを詰め込んで、夜の道をてくてくと肩を並べて歩いていた。
隣を歩く葵は、自称スーパー家政婦兼『忍』。
少し以上に世間ズレした認識と十代に見える容姿、そしてエベレストクラスの胸を持つ社会人・・・・・・らしい。
一週間前に株式会社ヒューマンシッターという家政婦紹介会社から派遣され、人違いで命を狙われた私を無料で守ってくれた。
――― 一応、守ってくれたことになるんだと思う。
事は無事に収束したのだけれど、何故か彼女はそのまま私の家に居候を決め込み、細々と世話を焼いてくれている。
家事も掃除もしなくていいから楽といえば楽かな。家賃と水道光熱費は私持ちだけれど、食費を渡した覚えがないから、それは葵のポケットマネーから出ているみたい。
「ねえ、葵」
私は隣を歩く葵を見つめた。ピンク色のカーディガンと裾にフリルをあしらった白いショートパンツが、愛らしい彼女によく似合う。パンツから伸びる素足は程よい肉付きで、同姓の私から見ても形のいい色っぽい脚だ。
出合ったときには奇抜な忍装束で何処へでも出かけようとしていたけれど、家へ来てからは周囲の視線を気にして普通の格好をするようになっている。
「なんでしょう、詩織様」
「私が大学に行っている間も仕事に出かけている様子がないけど、会社はどうしたの?」
「あら?言っていませんでしたか?アタシは今、休暇中なんです」
「休暇中ぅ?」
「はい。『忍びたるもの定期的に休暇を取り、英気を養うのも勤め』というのが社訓でして、
「へええ」
私の感心したような声に、葵は満足気にうなずいた。
実のところ感心したわけじゃない。それらしい話を聞いて、本当に社会人だったんだなと思っただけだ。
程なくして、夜の闇の中に橙色の灯りが見えてきた。黒々とした煙突が星空を突き上げるように
「こ、これが銭湯なのですね。聞きしに勝る威風堂々とした姿。アタシ、緊張して手が震えております」
「ただのお風呂屋だって。ほら、入るよ」
私は葵の手を引いて、『女』と赤い文字で大きく書かれた引き戸をくぐった。
今時珍しい『番台』と呼ばれるカウンターには、皺に埋もれた老齢の女性が座っている。二人分の代金を番台へ置くと、枯れ枝のように痩せ細った手で引き換えのようにロッカーの鍵を渡してくれた。
板張りの脱衣所には、胸の高さくらいまでのロッカーがずらりと並んでいた。浴場から流れ出てくる湯気で、至る所がしっとりと湿っている。
「詩織様。番台とは、男性側もあのように見渡せるのですか?料金の受け渡しをしているのは、ご高齢とはいえ女性です。誰もそのことを気にしたりはしないのでしょうか」
カーディガンのボタンを外しながら葵が尋ねてくる。その瞳は爛々とした輝きに満ちていて子供っぽい。胸だけは立派なのにと思うと、余計に脱力感が増してくる。
「あの人は商売であそこに座ってるの。お医者様だって、人の裸を見てうろたえたりしないでしょ? 見られてる方も気にしないじゃない。それと一緒よ」
「なるほど。確かにそうかもしれませんね」
頭を縦に振りつつも、葵はどんどん着衣を脱いではロッカーへと入れていく。
銭湯初体験と言っていたわりには、いい脱ぎっぷりね。こういう場所へ来たら、普通ならもじもじして脱ぐのを
ここだけの話、葵は基本的に無防備で着替えをするときも回りの目を気にしない。私が見ていても平気で下着姿になって着替えちゃう。それなのに、意外にもまだ裸を見たことはなかった。
まあ、下着なんか脱がなくったって胸の大きさだけは知ってるけどね・・・・・・。
上着やズボンを脱いだ葵の姿は、
レースに飾り立てられた檸檬色の小さな布が、丸みを帯びた稜線を申し訳程度に覆い隠し、腰は括れてきゅっと引き締まっている。
物凄く肉感的なのに、無駄な贅肉はひとつもついていない。どこからどう見ても、私と同い年くらいに見える。
肌は陶磁器のようにすべすべと滑らかで、血色がいいのかほんのりとピンク色を帯びていた。
胸元を隠す最後の一枚を脱ぐべく背中に手を回し、葵は不思議そうに私を見た。
「あの、詩織様。アタシに何か付いていますか?」
「ううん、別に。何でもないわ」
私はごまかすように、服を手早く脱ぎ始めた。
危ない、危ない。うっかり見とれてましたとは言えない。
それでも、時々隣を盗み見ながら入浴の準備を進めていく。
すっかり裸になった葵の体は、本当にビックリするくらい綺麗だった。全体のバランスはいわずもがな、パーツ一つとっても色といい形といい、文句の付け所がない。
正直に言う。
なんて・・・・・・羨ましい。
はあ。
思わず、貧相な自分の体を見下ろしてため息をついてしまった。平面とまでは言わないけれど、葵に比べたら幼児と大人ぐらいの差は確実にある。
家の給湯器さえ壊れてなければ、こんな惨めな思いをせずに済んだのに。
私は、脱いだ自分の下着をぐっと握りしめた。
「詩織様? どうかなさったんですか? 先ほどから変ですよ?」
「どうもしてないわよ。ちょっと格差問題についての一考察をね・・・・・・」
思わず口から乾いた笑いが漏れる。
これはDNAの成せる技で、私個人が努力して何とかなるって問題でもないけれど、やっぱり劣等感を抱かずにはいられない。
胸の大きい小さいで人生が左右されるはずもないけど、世の中よく言うじゃない。
『ないよりは、ある方がいい』って。
私は、そんな自虐的な考えに打ちのめされつつロッカーへ静かに鍵を掛けた。
「わあああ。ひろーい!」
一糸纏わぬ姿で浴場のドアを軽快に開け放つと、葵は感嘆の声を漏らした。特徴的な高いアニメ声が浴場内に反響する。まるで、小学生がはしゃいでいるみたいだ。
正面には、これぞ銭湯!と言わんばかりの富士が描かれており、その足元には三つに仕切られた大きな浴槽。そして、浴槽までの花道を飾るように洗い場が縦に二列配置されている。
室内は全て小さな正方形のタイルで覆われ、水色で統一されている。そのせいか浴室は明るく、建物の古さの割には清潔感があった。
平日の夜なせいか、人の入りはあまり多くない。年配の女性が湯船に二人、洗い場には母子と思しき一組と成人女性の三人がいるだけだ。
「ちょっと葵。少しくらい前を隠しなさいよ」
今にも走り出しそうな葵の横に並び、私は彼女へタオルを差し出した。
保護者というか姉というか、こういった子守的なノリにも慣れてきた気がする。 服を着ているときはいいけど、女の子なのだから素っ裸で天真爛漫は控えてもらいたい。
「湯船に浸かる前に、体を洗うのが先ね」
私は入口横にうず高く積まれた風呂桶と椅子を手にして、洗い場の端を陣取った。
蛇口は、腰くらいまであるタイル張りの壁に取り付けられており、座るとちょうど顔と同じ高さに鏡がある。壁を回った裏側も同じ作りになっており、五人がけのそれが四面あった。
銭湯初体験だという葵も、私の真似をするように、桶を手にしてチョコチョコと後をついて来る。
「温まるより、体を洗う方が先なのですか?」
私の隣へと座りながら、葵は首を傾げる。ポニーテイルを解いた黒髪が、首の動きに合わせてさらりと横へ流れた。
「そう、ここは公衆浴場よ。体の汚れは、先に落としてから入るのがマナーなの」
「なるほど。言われてみればそうですね」
蛇口を捻って桶に湯を張りながら、葵は嬉しそうに頷いた。
「あと、ここの銭湯は石鹸やシャンプーを共同で使うシステムだから、独り占めせずに譲り合って使ってね」
「解りました。それにしても、とても詳しいご様子ですが、詩織様はここへはよく来られるのですか?」
「よくってほどでもないけど時々ね。家のお風呂は狭いから、手足を十分に伸ばせないでしょ。疲れたなーって思うときは来てるかな」
「なんだか、解る気がします」
苦笑しながら葵は、垢すりを手にして辺りを見回した。たぶん、石鹸を探しているのだろう。
どうせ自分も使うことになるのだからと思い、私も首を巡らせる。
葵から一つ空けて隣では女性が前屈みになってシャンプーをしていた。その女性の前に白い固形石鹸が置かれている。
私は、葵の肩を叩いて石鹸の方向を指差した。頷いて彼女は立ち上がる。
先ほどはちらりと見ただけであったが、よく見るとそのシャンプーをしている女性も葵に負けず劣らず、ナイスボディーの持ち主だ。
泡に包まれた頭をかく度に、豊かな胸がゆさゆさと揺れているのが、ここからでもわかる。
再び劣等感に
私は体を洗いに来たのであって、精神的苦痛を味わいに来たんじゃない。
『風呂は人生の洗濯』とか言った奴は誰よ。
ちっとも洗濯にならないんですけど。
彼女の前から持ってきた石鹸で体を洗い始めた葵は、すぐに泡で全身がモコモコになってしまう。鼻歌交じりにお腹や脚を滑っていく手が、妙に艶かしい。
葵の一つ向こうでは、女性が勢いよくシャワーを出して頭を洗い流している。お湯の温度が高いのか、もうもうとした湯気がこちらまで漂ってきた。
私は、なるべく横の二人を見ないように、鏡に映る貧相な自分とにらめっこをしながら体を洗い始めた。しかし女性の立てる湯気のせいで、直ぐに見えなくなってしまう。
鏡ですら、私を写すのが厭か。
私はちょっとイラつきながら、乱暴に垢すりで石鹸を泡立てる。
シャボンの香りが辺りを包み、体を洗い終えた葵がシャンプーを始めた頃、例の女性が私たちの方へと歩み寄ってきた。
こげ茶色の長い髪に切れ長の瞳。眉も唇もやや薄く、美人といっても差し支えないが、あまりにもクールすぎて近寄りがたい雰囲気がある。
女性にしては高めの背丈と細く長い手足。
「あの、石鹸を借りたいんですが」
薄い唇が開いて、想像よりもハスキーな声が漏れる。
私は、ハッとして目の前にある石鹸を差し出した。
「いつまでも持っていて、すみません。どうぞ」
彼女は会釈をすると、踵を返して元の位置に戻って行く。
へぇ、なんかクールビューティーって感じ。
ただのOLさんには見えないから、モデルとかそういう華やかなお仕事をしている人かしら。
隣では、シャンプーを洗い流した葵が勢いよく頭を上げた。
「コンディショナー・・・・・・詩織様、コンディショナーを見かけませんでしたか?」
え?コンディショナー?
シャワーで体中に付いた石鹸の泡を流しながら、私は辺りへと視線を走らせる。先ほどのクールビューティーの傍らにそれはあった。
「葵の一つ隣に座っている人の傍にあるの、コンディショナーじゃない?」
「あ、本当だ。ありがとうございます」
腰を浮かせた葵の背中を、流しきれなかったシャンプーの泡が這う様に落ちていく。その白い背中を見送って、私はシャワーを止めた。
「そのコンディショナー、お借りしてもよろしいですか?」
「ええ、どう―――」
答える女性の声が不自然に途切れた。私は不審に思って顔を上げる。
ここからでは葵の影になって女性の姿は見えないが、なんとなく二人の間に緊張が走ったのが解った。
「どうしたの? 葵」
私の呼びかけに答える間もなく、女性から険のある声が上がった。
「
「
カコンっと大きな音を立てて椅子がタイルの上を転がる。茜と呼ばれた女性は、肢体に泡をつけたまま立ち上がっていた。
「何でアンタがここに? 休暇中だったはずでしょう」
茜さんは葵よりも背が高い。立ち上がると、彼女の表情がよく見えた。
心なしか唇が
もしかしなくても―――会社の知り合い?
「茜先輩こそ。銭湯なんて前時代的な場所へは絶対に行かないって豪語していらっしゃったのに・・・・・・」
「う、うるさいわね! アンタはいつも一言多いのよ。私が何処へ居ようと勝手でしょう」
「それはそうですが―――」
茜さんは葵の台詞をみなまで聞かず、突然に飛び退った。
「ふ、ふふふふ。社外で会うなんて好都合! 後輩の癖に、私よりも多くの顧客をかかえてるなんて、生意気だとずっと思っていたのよ」
美しい顔を醜悪に歪めて、茜さんはキッと葵を睨んだ。
へぇー。葵って結構仕事の出来る人なんだ。まあ、家政婦としての腕は確かよね。
私はシャンプーのポンプを、カコンカコンと押す。
「ニコニコ人畜無害そうな顔をしているくせに、私にだけは反抗してきて・・・・・・社内ナンバー1の実力だからって調子にのってるんじゃないの!」
「調子になんてのっていません! それに、アタシは先輩に反抗している訳じゃないんです。先輩が裁縫は家政婦に必要ないとか、剣術は腕が太くなるから嫌だとか、忍装束はお洒落じゃないとか言って、皆を困らせるから・・・・・・」
な~んじゃ、そりゃ。
心の中で、ツッコミを入れつつも、わしゃわしゃと頭を洗ってシャワーのノブを捻る。湯気と共に、熱いお湯が私の上へと降り注いできた。
「私はね、家政婦課ではなく秘書課へ配属されたかったの。私の才能と美貌は、秘書課で発揮されるべきものなのよ」
「しかし先輩は今、家政婦課へいるのですから、そこで全力を尽くすべきです」
ほうほうほう。秘書課なるものがあるのか。ってか、一体どういう部署なんだろう。
家政婦課が『忍び兼家政婦』なら、秘書課は文字通り『忍び兼秘書』なんだろうか。
そんな益体も無いことを考えつつ、シャンプーの泡を流す。時々、鏡で洗い残しが無いかを確認する。
あ、そうだ。コンディショナーは二人の間にあるんだっけ。
私はシャワーを止めると、髪から水気を搾り取りながら二人の方を見た。
暗い瞳をギラつかせて、茜さんはヒクヒクとこめかみを震わせている。
一触即発―――と言った雰囲気だけれども、二人とも裸なのでどこか間が抜けて見える。
「あの、コンディショナー・・・・・・」
私が小さく声をかけると、それを合図にしたかのように茜さんはすっと葵を指差した。
「もういいわ。今後、私に対して生意気な口がきけないようにしてあげる―――勝負よ!」
「―――受けて立ちましょう」
待て。何故そうなる。
「ふう~」
私は少し熱めのお湯の中で体を伸ばし、大きく息をつく。
今日一日の疲れが、徐々に指先から抜けて行く気がする。
「はあ、天国」
湯気で少し霞む視界の真ん中には大きな富士山の絵。
松林と湖を足元に、抜けるような青空へと向かって
ちゃぷり、と、手で掬ったお湯を肩へと掛ける。
頭を湯船へ持たせかけて力を抜くと、ふわりと浮力で体が浮いてくる。
あ~気持ちいい。このまま眠っちゃいたい・・・・・・。
「ここで会ったが百年目! 積年の恨み、思い知るがいい!」
「もう止めましょう、茜先輩。こんなことをしても空しいだけです」
「おだまり! アンタに何が解るって言うのよ!」
カッコーン!
一際大きな音が響いて、私はくるりと体を洗い場へ向けた。
そんな私の目の前を、シャンプーハットが湯気を切り裂いて飛んでいく。
垢すりを手にした葵は、それを鞭のように振るい、飛び来るシャンプーハットを叩き落している。
いやもう、どうしてこんなことになったんだか。
私の隣では、同じく湯船に浸かった母子が呆然と二人の戦いを眺めていた。先に湯に浸かっていた年配のご婦人方は、早々に上がって難を逃れている。
二人は髪を振り乱し、裸で洗い場を縦横無尽に飛んだり跳ねたり―――それはもう、いろんなところが見え隠れして・・・・・・ホント勘弁してほしい。
連続で三枚のシャンプーハットを投げ飛ばすと、茜さんは垢すり一枚とタオル二枚を連結し始めた。
その隙を付いて、葵が茜さんへと迫る。
葵が手にした垢すりを振るうより早く、茜さんの右手が素早く横へ薙ぎ払われた。
「はぅ!」
短い悲鳴を上げて、葵は大きく後ろへ跳んだ。胸元には、先ほどまでは無かった赤い筋が付いている。
茜さんは、凍えるような冷たい瞳でくすりと笑った。
彼女がゆっくりと右手を動かすと、連結されたタオルが蛇のように妖しく蠢く。
葵は額に汗を浮かべて、そのタオルを一瞥した。
「さすがですね。茜先輩。鞭を使わせたら、社で右に出るものはいない、と言われるだけあります」
「ふん。今頃私の実力を知っても遅いのよ。その柔肌に一筋ずつ痕を残して、これまでの言動を後悔させてあげる」
ぱしん、ぴしん、と鋭い音を立てて葵へ迫る茜さんは、さながら女王様のようだ。
葵の逃げ場を塞ぐように、右へ左へと鞭(?)は間断なく動き、徐々に間合いを詰めている。
「ああっ!」
突然、葵が身悶えた。よく見ると、わき腹と太ももの付け根辺りが赤く腫れ上がっている。
にやりと茜さんが口元を歪めた。湯気の向こうにあるはずなのに、血を舐めたように唇が紅い。
「ふふふ。真っ白な肌に浮かび上がる赤い傷。ゾクゾクするわ―――もっと、もっと私の為に鳴いて頂戴」
恍惚の表情で、茜さんが軽く腕を一閃させた。
「ふっ、んあぁっ!」
呻く葵の二の腕に朱がはしる。
「んふふふ。いい声。いい声よぉ、葵」
興が乗ってきた茜さんは、鞭を振るい続ける。動作は大きくないのに、鞭の先は目に見えない速さで、葵の肌へと叩きつけられていた。
その度に、葵はビクリと体を震わせる。
胸、腰、肩、尻、
次々に葵の体には、暗い情熱が刻まれていく。
「あ! はうぅぅっ!」
大きく仰け反った葵の口から悲鳴が上がる。
「見ちゃいけません」
はっとして横を見ると、母親が娘の目を必死に覆い隠していた。そんな母の顔も、耳まで真っ赤に染まっている。
小学生くらいの女の子は、母にされるがままになっているが、ぽかんと開いた口元が彼女の心境を物語っていた。
どう見たって、教育上問題のある光景ですよね・・・・・・。
私は力なく笑う。
この状態―――つまり、葵が『何かしらを相手に闘う』という状況に、少なからずとも動揺はしなくなった。
加えて今回は、葵の個人的な事情によるもの。二人の
そうすると、必然的に今の状態になるわけだけれども・・・・・・。
ちらっと二人に視線を向ける。
「きゃははは。いい。すっごくいいわよ、葵」
「あぁん。いやぁ」
うっとりと鞭を振る美女と、瞳に涙を浮かべて悶える少女。
うん。やっぱり、関わり合いたくない。やめておこう・・・・・・。
状況が急変したのは、私が決心したのとその時だった。
ぐらりと葵の上半身が傾き、床へと落ちていく。
―――倒れる!
「葵!」
顔から一気に血の気が引いて、私はお湯を跳ね上げて立ち上がった。
茜さんは勝利を確信してニタッと笑う。
攻撃が止んだ一瞬の隙をついて、葵はそのまま駆け出した。
洗い場の床へ置いてあった石鹸を、ケースごと足でひっくり返すと、あろう事かその上に乗ってタイルの床を滑っていく。
『なっ!』
驚いた私と茜さんの声が、浴室に響く。
茜さんから距離を取り、壁際の桶を山状に重ねてある所まで滑っていった葵は、おもむろにそれを一つ、手に取った。
「茜先輩―――」
右足を石鹸ケースの上に乗せ、左手で桶を掴んだ葵は、珍しくあの低い声で茜さんの名を呼んだ。
能面のように無表情だった顔に、ゆっくりと笑顔が浮かぶ。
「少しは満足していただけましたか? 次はアタシが攻める番ですね。そして―――これが最後です」
こ、怖い怖い怖い。笑顔でその台詞は怖いから!
茜さんも葵の迫力に圧されたのだろう、
「冗談じゃないわ。あれだけ攻め立てられておいて、これが最後ですって?」
ピシリと鞭が床を打つ。
「それだけ吼えたなら、見せてもらおうじゃないの!」
フォンっと唸りをあげて、黄色い手桶が空を切る。それも一つや二つではない。次々と葵の手から放たれる桶は、形状のせいか不規則な軌道を描いて茜さんを襲う。
最初の一つを鞭で叩き落とすが、襲い来る次弾に対応しきれず、茜さんは鞭を捨てて、手近にあった椅子を振り上げた。
カコカコカコーン!
椅子で桶を弾きながら、茜さんはじわじわと私の方へ後退し始めた。
宣言通り葵が
桶が無くなったら・・・・・・どうする気なんだろう。
一つ、また一つと減っていく手桶。勝ち負けじゃないとは解っているけど、湧き上がる不安を抑えきれない。
茜さんの均整の取れた肢体が、私の間近に迫っている。
「うひゃあ!」
ちょっと間抜けな声を上げて、茜さんの体が
何?
視線をずらすと、空中に大きな水溜りが浮いている。
「えぇ?」
流石にこれを椅子で弾くことは出来ない。慌てた茜さんは、大きくバックステップを踏んだ。
バシャ!
床で跳ねる飛沫が、茜さんの足元に降り注ぐ。
「あ、熱ぅ! 熱湯じゃない!」
蒼白になりながら、茜さんは顔を上げる。
目の前には、次々に迫り来る熱湯の塊。
「うそ! 待って! 殺す気!」
叫びながら、茜さんは後ろへ、後ろへと連続して飛ぶ。その度に、熱湯の飛沫が散るらしく『熱い!』だの『肌が!』だのと大騒ぎだ。
飛沫さえ避けようとして、茜さんは一際大きく跳び退った。
「今!」
鋭い声が上がり、葵の手から白いものが放たれる。
塊は白い残像を残して真っ直ぐに、着地しようとしていた茜さんの足元へ滑り込んだ。
「ひゃうう?」
白いものを踏みつけた茜さんの足がズルッと滑り、体が後方へ投げ出される。
そこから先は、スローモーションだった。
驚きで見開かれた瞳。
ツンと上を向いた形のよい胸に、細く長い腕。
指先では整えられた爪が小さく光り、泳ぐように虚空を掻いている。
ざっぶぁーん!
水しぶきを上げて、茜さんは隣の浴槽へと真っ逆さまに落ちていった。
あ、そこって確か・・・・・・。
「つ、冷たいぃぃぃぃ」
肩を抱えて、茜さんは浴槽から転がり出てきた。
―――水風呂なんだよね。
その場にいた全員が、これで戦いの決着が付いたと思った。
当事者を除けばギャラリーは三人しかいないけれど、両肩を抱いて震える茜さんを見れば、戦意など水に溶けて消えてしまったとしか思えない。
これ以上お湯に浸かっていたらのぼせる。
私が湯船から片足を引き上げかけたとき、カラカラと乾いた音がして、浴室のドアが開かれた。
全員の視線を集めた先には、老婆が一人、口元をもぐもぐさせながら立っていた。番台に座っていた、あのお婆ちゃんだ。
お婆ちゃんは、デッキブラシを杖代わりに立っている。皺に埋もれた瞼が垂れ下がり、どこを見ているのか判別が付かない。
もうもうと立ち込めていた湯気が、冷気と入れ替わりに外へと流れ出していく。
全員分の疑問符と沈黙が、湯気の代わりに浴場を満たした頃、お婆ちゃんは意外としっかりした足取りで、浴室に一歩踏み込んだ。
「・・・・・・じゃあ」
「は?」
お婆ちゃんの口から小さな声が漏れる。一番近くに居る葵が、きょとんとして首を傾げた。
「風呂場で遊ぶなという貼紙を読んどらんのか! 回りのお客さんに迷惑じゃろ!」
お婆ちゃんはカッと目を見開らき、鬼の形相で怒鳴った。
うるさ!
反射的に塞いだ耳の奥が、キーンと痺れるほどの大音量。かなり高齢そうに見えるのに、何処にこんなパワーがあるんだろう。
びっくりしてお婆ちゃんを見ていると、彼女はブラシの柄を床へ叩きつけるようにして、ずんずんと中に入ってきた。
手にした一枚の紙を、ずいっと前方へ押しやる。
そこには、赤い太字のゴシック体で、でかでかと注意書きがされていた。
『危険!浴室内で遊ばないこと!
禁を犯したものは厳罰に処す』
厳罰・・・・・・。
私は、茜さんと葵を交互に見た。
「そこのアンタとアンタ。こっちへ来んさい」
お婆ちゃんに指名された二人は、頭を垂れてその言に従った。
「したらいけん、と言われたことをしたのは解っとるね?」
先ほどの勢いとはうって変わって、穏やかに語りかける。
二人は同時にこくんと頷いた。
「反省はしとるようだから説教はせんが・・・・・・いい大人が子供の前でみっともないマネをしたらいかんよ。さ、ついておいで」
「はい」
「すみませんでした」
二人は、どちらからとなく謝罪を口にすると、とぼとぼとお婆ちゃんの後ろについて、浴室を後にした。
「キヨさん。タオルはこっちでいいですか?」
「葵。私は床にモップをかけちゃうから、そっちはお願いね」
「はーい」
私が浴室を出ると、二人は脱衣所の掃除をしていた。
『厳罰に処す』ということだったけれど、肉体労働で許してもらえるらしい。キヨさんと呼ばれたお婆ちゃんは、再び番台に座って満足そうに二人の働き振りを眺めていた。
脱衣所には、古代兵器と称しても良いくらいの古い扇風機が回っている。
風は生温いが、のぼせ気味の肌には心地よい。私は、タオルで丁寧に体を拭き始めた。
スーパー家政婦と秘書課志望の家政婦は、床を磨いたり洗面台を磨いたりして楽しそうに働いている。
同僚っていうより姉妹みたい。さっきの闘いは一体なんだったのかしら。
葵は桜色の生地に濃いピンクの糸で花柄をあしらった可愛らしい下着を身に着けている。反対に、茜さんはシックなワインレッドの総レースの下着。
なんで二人とも下着姿で掃除をしてるんだろう。
しかも、茜さんのランジェリーは薄い布地を通して、肌が透けて見える。
ヒモパンで掃除とか、本当に止めて欲しいんですけど・・・・・・。
モップがけの手を休めて、茜さんはふと私の方を振り返った。
「ところで葵。アンタと一緒に居る、あの女の子・・・・・・誰?」
洗面台を拭いていた葵は、シャンプーのCMみたいに黒髪をなびかせて振り返ると、私の元へと駆け寄ってきた。
「こちらは
茜さんはモップの柄にもたれかかって目を丸くした。
「依頼人とはビジネスライクに付き合うアンタが・・・・・・珍しいわね」
「そうでしょうか? それに、詩織様は依頼人ではなく、間違えて命を狙われたんですよ」
「へえ。珍しいこともあるもんだわね。ところで、詩織ちゃん」
「はい」
急に下の名前を呼ばれ、私はドギマギしながら答えた。目をすっと細めた茜さんが、私のことを上から下まで舐めるように見回す。
まだ裸のままだった私は、さりげなくタオルで体を隠した。
嫌な視線だなぁ。スタイルがよくないんだから、あんまり見ないで欲しい。
茜さんは「ふうん」と一つ頷くと、続けて言った。
「腰からお尻にかけてのラインがエロティックですごく綺麗ね。羨ましいわ」
「あ。茜先輩もそう思います? アタシもいいなってずっと思ってたんです」
「そうそう、特にここの―――」
茜さんはモップを壁に立てかけて、ぺたぺたと近づいてくる。
「ヒップライン。女の私でも思わず触っちゃう」
「ですよね。解ります」
「きゃあ! ちょっと止めて下さいよ!」
両サイドからするっとお尻を撫でられて、私は飛び上がった。
「いいじゃないのよ。減るものじゃないんだから」
「詩織様の肌、すべすべしてて気持ちいい・・・・・・。もう一度いいですか」
家政婦兼忍びにジリジリと間合いを詰められ、私は真っ青になって背中からロッカーにへばりつく。
「こりゃ、掃除は終わったんか?」
『はーい』
キヨさんに注意されて、二人は残念そうに持ち場へ戻る。
もう、嫌になっちゃう。
苦笑いしながら、私は下着を手に取った。
嫌になると言いつつも、葵が来てから毎日がちょっと楽しいかも、と思っちゃってる自分がいる。
全ては、あのマンションのドアを開けたときから始まってたんだ。
本と埃だけの空間に、ヒマワリの花のように鮮烈で生命力に溢れた風が吹き込んできた。
少女っぽくて、世間ズレしていて、家政婦なのに忍びな彼女。
私の視線に気付いた葵は、いつものように天使の微笑を返す。
「詩織様? どうかなさいました?」
「なんでもない・・・・・・」
ちょっと前までは、創作の世界でしか通用しないような、こんな状況にうんざりしていたなんて思えない。
私は、くすりと笑った。
「あ、アンタ達、コーヒー牛乳飲む? 奢るわよ」
モップがけを終えた茜さんが、冷蔵庫からコーヒー牛乳のビンを三本出して、手渡してくれた。
薄っすらと汗をかいて冷たいコーヒー牛乳。
「こ、ここここれは、あの伝説の儀式に用いられるという・・・・・・神聖なる飲み物、コーヒー牛乳!」
葵はビンを掲げて震えている。
「だから、何よ儀式って。ちょっと認識がおかしいんだってば」
「ほっときなさいよ。この子、会社でもこんな感じよ」
ペコンと音を立ててビンの蓋を開けると、誰からともなくカチャンとビンを軽くぶつけ合った。
「乾杯っ!」
私たちは腰に手を当て、下着姿のままそれを飲み干した。
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