三日目
床にはホカホカと湯気を立てる、ご飯と味噌汁。脇にはほうじ茶の注がれた湯のみが置いてある。
空は真っ青に晴れ渡り、ベランダに干されたワンピースの白が目に眩しい。
優しく吹き抜ける風はレースのカーテンを揺らし、目の前に座る葵の前髪を弄んでいる。
昨晩、家に帰り着いた私は、倒れこむように眠った。
全ては非現実的で非常識。漫画や小説の中にしか存在しない出来事に対処するのが精一杯で、精神の方は置いてきぼりになっていた。
私は味噌汁を嚥下して、ほうっと息をつく。
美味しいなぁ・・・・・・。
味噌汁の温かさが胃から腸、そして全身へと染み渡っていく。
約束の三日目。
本来なら、昨夜黒ずくめが捕まった時点で葵の任務は終了のはずだった。
けれど、彼女は私の手を引いて家へと戻り、今もこうして一緒に朝食を摂っている。
私は、椀と箸を置くと湯飲みを手にした。
「狙われるはずだった、もう一人の『ワタナベシオリ』さんは、どうしているの?」
ふくよかな胸を揺らして、葵も湯飲みを手にする。
「あちらには別の者が監視についています。やつらの手先が捕まったことは、もうすでに察知しているでしょうから、大事には至らないと思います」
「そっか・・・・・・」
しんと静まる室内。
私は、どうしても『今日で終わりだよね』という一言を言えずにいた。
訳もわからず狙われた女子大生と、それを守る為に現れた忍。私たちの関係はこの一言に尽き、長い時間を共にした訳でもなければ、深い話をして理解しあった訳でもない。
けれど、一人暮らしに降って湧いたような同居人は、どこか心の奥を暖めてくれた。
振り返ってみると、大学に入ってから、この部屋に人を呼んだことは一度もなかった。友人が居ないわけじゃない。でも、この部屋に溜まっていくのは、読みきれない書籍と空虚な自身の心だけだったように思う。
その書籍も、もはや家の主を追い出しかねない勢いだ。
コトリと葵が湯飲みを置く。
「詩織様。本日のご予定は?」
大きな双眸には自分の姿が映っている。
「これから大学へ行って、夕方からバイト」
「それでは、夕食をご用意しておきます」
少し首を傾げて笑う葵は、もう私に付いてくるとは言わなかった。
「ただいま」
予想はしていたが返ってくる言葉はない。カーテンの引かれた部屋は真っ暗で、人の気配どころが物が動く音すら聞こえなかった。
私は、少し落胆して部屋の電気を点ける。
「―――え?」
部屋の中央には、可愛らしい黄緑色の折りたたみテーブルがちょこんと置いてあった。テーブルの上にはラップがかけられた食事と、小さなヒマワリの花が一輪挿しに活けてある。
そして―――床に広がっていた書物の海は、新しく壁際に設置された本棚に全て納まっていた。
狭いと思っていたこの部屋も、こうして片付けられると広く感じる。
葵が来る以前にこの状態だったら、どんなに良かっただろう。
荷物を置いてテーブルの前に座る。ラップをはがしてみると、夕飯はハヤシライスだった。
これからバイトへ行く私の為に、簡単に食べられる物をと思って用意してくれたに違いない。
盛られたハヤシライスはまだ温かく、さっきまでここに葵が居たみたいだ。
私はスプーンを取ってハヤシライスを口へ運ぶ。当然だけど、ものすごく美味しい。
美味しいけれど―――どこか味気ないのは独りだから?
「何よ。一言くらい言って行けばいいじゃない」
呟く私の目に、ヒマワリの黄色が鮮やかに映った。
と、その時。
ガチャリと玄関で音がして、明るい空気が部屋へと流れ込んできた。
「あれ?詩織様、お早いお戻りでしたね。留守にしておりまして、すみません。ちょっと着替えを取りに帰っていたものですから」
目を丸くする私に、葵は構わず話し続ける。
「詩織様に言われて気がついたんですが・・・・・・忍装束で電車に乗るのは、やはり注目を浴びるものですね。特に殿方の絡みつくような視線には、さすがの私も困惑してしまいました。次回からの外出には、もっと周りと同じような格好に―――どうかされましたか?」
口を半開きにしてぽかんと見つめる私に、葵は不思議そうに首を傾げた。
スーパー家政婦兼全く忍ぼうとしない忍は、もう少しだけ私の部屋に居候するらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます