二日目

 一日目は、特に何も起こらなかった。

 命はもちろん無事だし怪我さえしてない。私は普段、能動的に出歩く方ではないし、昨日はバイトも休みだった。

 そして葵の『忍』としての実力は判らないけれど、家事能力は驚嘆に値した。

 冷蔵庫に残っていた幾許かの野菜と冷凍食品だけで、あんなにも美味しい夕食が出来上がるとは思ってもなかった。

 さすがに一日で本の塔を整理するには及ばなかったけれど、塔と塔の隙間に落ちている綿埃はいつの間にか綺麗になっていた。

家主の私でさえ移動には気を使うのに、今朝も葵は難なく本の間を動き回りながら、朝食の用意を済ませていく。

 朝ご飯はスクランブルエッグにトーストとサラダ。コーヒー付き。

 テーブルが無いので全て床での食事だけれど、朝日に照らされてサラダの彩が鮮やかだ。スクランブルエッグはふわふわとした食感で、甘みといいバターの香りといい文句の付け所も無い。

「詩織様。本日はどのようなご予定ですか?」

 私の正面で、きゅうりをぽりぽりと齧りながら葵が尋ねてくる。夕食の席では、一緒に食事をするのを固辞しようとしていたが、独りで食べるのも味気ないと説き伏せたのだ。

 こんな狭い部屋に二人しかいないのだから、私だけ食事をしていというのもいたたまれない。

「お昼前に大学へ行って、夕方から夜まではバイト」

「大学、でございますね!アタシ、大学へ行くのは初めてです!」

 勢い込む葵に、私はちょっと身を引いた。

「え?学校まで付いて来る気なの?」

「当然です。お傍に居なくては、いざという時に御守りできませんから」

「でも、その格好で外には出られないでしょ」

 私は苦りきった表情で葵の服を見つめた。

 忍装束とでも言うのか、葵は今日も例の道着を身につけている。昨晩はその格好のまま寝ようとするので、慌ててクローゼットからスウェットを引っ張り出した。

 三日間もここへ留まる気なら、初めから服の変えくらい用意してきて欲しい。  しっかりしているのか何も考えていないのか理解に苦しむ。

「そうでしょうか。これは忍としての正装ですから、何もおかしなところはないように思いますが」

「因みに、ここまでどうやって来たの?」

「JRを乗り継いでやってまいりました。あの・・・・・・何か不都合でも?」

 葵は小首を傾げる。沈黙の意味を正確に受け止めてくれたらしい。

 私は、ちらりと葵の胸元に視線を走らせた。

 別に個人的には不都合は無いけど、視姦してくれと言わんばかりのその格好は、どう考えても目に毒でしょう。特に健全な男性には刺激が強すぎると思う。

 よく電車内で痴漢に遭わなかったな。

 きょとんとした葵の口元では、トーストがさくさくと小気味いい音を響かせている。

 勝手なイメージだけれど、忍ってもっと目立たないように行動するものだと思っていた。コスプレ紛いの格好で電車に乗るなんて、天を突き抜けて宇宙まで行ってしまえるほど予想の上をいっている。

 ―――違う。どちらかといえば、予想の上をいっているのは私の方だ。

 だって、この状況を当たり前のように受け入れ始めちゃっているんだもの。

「いくら正装でも、一緒に歩くのにはちょっと抵抗があるかな。私の洋服を貸すから、着替えてもらってもいいかしら」

 職業『忍』に対して、目立たないように指示する素人ってどうなの。

 私は深々と溜め息をついた。



「おお!これが大学!華やかですね。詩織様」

「ちょっ、目立つから大人しくしててよ」

 白地に青い小花柄のワンピースでクルクルと踊るように回る葵を、私は必死で止めた。

 大学構内の円形広場。初めて大学というものに足を踏み入れた葵は、その瞬間からメータを振り切ったようにはしゃいでいる。

 傍から見れば、姉の学校を見学に来た女子高生のようだけれど、勢いよく回りすぎて下着が丸見えだから!少しでいいから恥じらいってものを持ってもらいたい。

 クローゼットを引っ掻き回して捜した結果、私が持っている洋服で葵に合うのは、胸元がゆったりとしたこのワンピースしかなかった。散らかした衣類は、結局、葵が全て片付けてくれたわけだけれども、スカートは動き難いから嫌だと駄々をこねる彼女に洋服を着せるのは一苦労だった。

 もう疲れた。授業なんてほっぽって家に帰りたい。

 到着して五分と経っていないけれど、私は早くも葵を連れて来たことを後悔し始めていた。

「詩織様は、これから『講義』というものをお受けになるのですね?ああ、なんて素敵。カレッジライフ。ビターホットチョコレートに蜂蜜をたっぷりと注ぎ込んだような、濃厚で甘美な響き」

 うっとりと空を見上げる葵は、完全に違う世界にイっちゃってる。表現もイマイチ伝わり難いし、蜂蜜を入れるならビターチョコを使う必要は無いじゃない。

 家政婦として彼女が優秀なのは間違いないけれど、忍としてはどうなんだろう。 実年齢は本当に解らないけれど、この落ち着きの無さを見るに付け、不安は膨れ上がってくるばかりだ。

 今のところ危険な目には遭っていないし、遭わないことに越したことは無い。葵の話を百パーセント信じているわけではないけれど、可能性があると思うだけで心の底が冷えた。

 けれど、もしその時が来たとしても、彼女は全然頼りにならなさそう。最終的には、自分の身は自分で守るしかないのかな。

 私は無意識の内に首筋を撫でていた。不安なことがあると、ついやってしまう癖だ。女の子らしくないから止めなさいと何度注意されても直らない。

「あのさ、葵。その、護衛の件なんだけど」

 護衛という言葉に反応して、葵はギラリと目を光らせながら振り返った。

「ご安心ください。詩織様の周辺は、常にチェックしております」

「いや、そうじゃなくってさ・・・・・・このまま、何も起こらないって事もあるんだよね?」

 私たちは肩を並べて円形広場の階段を上がり始めた。

 古代ローマのコロシアムのように、広場は長く高い階段に囲まれている。私がこれから受ける講義は、広場に一番近い建物に教室があった。正門からは、この円形広場を突っ切って行くのが近道なのだ。

 葵は人差し指を顎に当てて少し思案した後、おもむろに口を開いた。

「残念ですが、その可能性は低いと思われます。敵は、やるといったらやるタイプと申しましょうか、標的を外したことはありません。あ、ご心配はなさらないでください。これまで我々が関わってきた事件で、被害が出たことは一度もありませんから」

「そう。それならいいんだけれど」

 私は、また首筋に手を当てた。心配よりも不安の方が大きい。理由も判らないのに狙われていることだけが確実なんて、不条理にもほどがある。

 階段を上がりきったところで、隣にあるはずの気配が消えていることに気付いた。

 振り返ると数段下から丸い瞳がこちらを見上げている。

「詩織様はアタシを信頼してくださらないのですね」

 真っ直ぐで曇りのない瞳。私は言葉に詰まった。

 だって普通そうじゃない。守られる理由も狙われる理由も不確か。見た目年齢十代のスーパー家政婦が、『忍』ですって言ってからまだ数時間しか経ってないのよ。

 だいたい『忍』って忍者のことでしょ?

 それが、家政婦で社会人で少女みたいだなんて、常識を逸しすぎてる。漫画や小説じゃないんだから、本当に勘弁してもらいたい。

「詩織様の心情、お察しいたします」

 低い声で葵は呟いた。アニメ声以外も出せるんだ、と違うところに感心してしまう。

「突然のことで、混乱していらっしゃるのですね。アタシにとっては任務であり日常ですが―――」

 唐突に葵の言葉が途切れた。

 変だなと思うのと同時に、後ろから力強く突き飛ばされて体が宙に浮く。

 

 え?

 

 目前に広場の美しい形状が広がり、それを取り囲む階段が私を包み込む。

 余計なことは考えられなかった。

 ああ、落ちるんだなと一瞬にして心が、脳が悟った。

「詩織様!」

 葵の金切り声が響き、なけなしの運動神経がきゅうっと強張る。襲い来る衝撃を覚悟して、私は反射的に硬く目を瞑った。

 

 駄目だ。落ちる。落ちた先にあるのは―――死。

 

 どさっと音を立てて、私の体は地面へと落下した。

 

 終わった。何もかも終わってしまった。

 

 短い人生だった。まだやりたいことも読み終えていない本も沢山あったのに、ここで終わりだなんて酷すぎる。

 でも、想像していたよりも痛くない。苦しい思いをする最後じゃなかったのは、せめてもの救いね。

 衝撃は大きかったけれど・・・・・・頬に当たるふわふわした感触が気持ちいい。そうか、人は亡くなると、こんな柔らかいものに包まれて天国へ行くのね・・・・・・。


 んんん?ふわふわ???

 

 ぱっと見開いた目に白いレースが飛び込んでくる。柔らかく丸みを帯びた肌に沿う眩いばかりの純白のレース。

「ちょっと葵!下着が見えてるんだけど!」

「今は、下着どころではありません!詩織様!」

 私は慌てて上体を起こす。

 どうやら階段へと落ちる前に、葵の胸に抱きとめられていたみたいだ。彼女が着ていたワンピースは、衝撃で胸元のボタンが弾け飛んでいる。

 い、生きてた・・・・・・危なかった。

 腰が抜け、がっくりと地面に膝を付く。葵が覆いかぶさるように、私の肩を抱いた。

「詩織様、お怪我はありませんか」

「だ、大丈夫・・・・・・だと思う。どこも痛くないから」

「ここを動かずに居てください。少し上を見てきます」

 身を翻して葵は階段を登って行き、私は震える手を胸の前で握り合わせた。

 狙われた―――葵の話は真実だった。

 階段下を見下ろして、その高さに改めて身がすくむ。葵が抱きとめてくれなかったら、確実に死んでいた。

「申し訳ありません、詩織様。犯人を取り逃がしてしまいました」

 頭上から高いアニメ声が聞こえて、私はゆっくりと顔を上げた。

 胸元を大きく肌蹴た葵が、悔しそうな表情で降りてくる。青空を背景に日差しを浴びて立つ彼女の姿は、淫靡なのか爽やかなのかわからない。

「立てますか?」

 差し出された手を取りながら、私は小さくうなずいた。

「こんな一瞬の隙を衝かれるなんて。詩織様には、なんとお詫びすればよいか・・・・・・」

「ねえ、葵」

「なんでしょう」

「どうして私が狙われるのか本当にわからないの?昨日も言ったけれど、私は何の変哲もない、ただの大学生なのよ。特別な能力があるわけじゃない、高価な品を持っているわけじゃない、そんな私が突き落とされなきゃならない理由が、どこにあるって言うのよ!」

 悲鳴に近い声を上げた私を、葵は悲しそうな目で正面から見据えた。

「それは・・・・・・まだ、本社から連絡がありません。今は、不明としかお答えできないのです」

「もうやだ・・・・・・どうしてこんなことに・・・・・・」

 両手で顔を覆って俯くと、ふわりと温かいものに体が包まれた。

 葵のマシュマロのような体が、ぎゅっと私を抱きしめてくれた。

「今日は、もう帰りましょう。詩織様」

 私は、小さな子供みたいに葵にしがみつくしかなかった。



「まずい」

「え?美味しくなかったですか?」

 葵は真っ青になって、床に広げた昼食を見下ろす。

 グラスに注がれた緑茶が日に透けて、床に美しいグラデーションを投影している。

家に帰り遅めの昼食を食べて始めてすぐに、私は重大なことを思い出した。

「ご飯の話じゃないの。食事は文句なしに美味しいわ。完璧よ。そうじゃなくて、今日のアルバイトのことよ」

「先ほど、アルバイトは休むことになさったはずですが」

「今日はレジを締めて帰らなきゃいけない日だったの。休むわけにはいかないわ」

「レジを締める?どなたか別の方に代わっていただくわけにはいかないんですか?」

 私は箸をおくと、重々しくうなずいた。

 不定期ではあるが、私は週に三、四日ほど近くのスーパーマーケットでレジ打ちのアルバイトをしている。全国へチェーン展開しているような大きなスーパーではないが、地元密着型でサービスが良く結構繁盛していた。

 大学一年生の時から、ずっと同じところでバイトをしているため、今や私の地位は社員さんにも匹敵する。アルバイトには普通任されない、営業終了後のレジ締めを週に一日だけ分担していた。

 週に一日くらいは社員さんも早く帰りたいっていうのが本音なのだろうけど、任されるっていうのは、それだけ信頼されてるってことの裏返しだから悪い気はしない。

「今日だけはだめ。外に出たくはないけれど、信用を裏切るわけにはいかないよ」

 葵は真剣な眼差しで私を見つめた。

 そうして深々と溜め息をつくと、箸を置いて胸の谷間からスマホを取り出す。

「詩織様は責任感の強い方なのですね。判りました。善処いたします」

 葵は家政婦とは思えない白く滑らかな指をスマホに走らせると、席を立った。



 照明が半分落とされ薄暗くなった店内に、暢気な鼻歌が響いている。

 閉店時間を過ぎた店内には、各部門の人間が数名残っているだけで、先ほどまでの値引きラッシュが嘘のように静まり返っていた。

 私が締めているレジの隣では、葵が制服代わりであるヒヨコの絵が描かれた赤いエプロンを身に付け、楽しそうに千円札の枚数を数えている。

 夕方になり、バイトへと出かける私に、葵は当然ついて来た。

 バイト中は客として店内に居るのだろうと思っていたが、予想を裏切って、彼女はバックヤードへ入る私の後ろを平然とついて来る。

 驚いて葵を外へ出そうとしていた私に、レジ管轄の社員さんが声をかけてきた。

「あれ?詩織ちゃん、その子と知り合いだったの?彼女、社長の姪子さんで、今日は単発でラストまで入ってもらう予定なんだよ。なんでも、両親の結婚記念日の為にバイトしてるんだって?高校生なのに偉いよねー。知り合いなら、ちょうど良かった。彼女の補佐をよろしくね」

 その言葉を聴いて、私は目を眇めて葵を見た。

 誰が高校生だって?

 潜入に当たって、自分の容姿を最大限に活用するとは恐れ入る。

 食事のときにかけた電話は、この根回しだったのか。電話一本ですんなり事が運ぶなんて、ヒューマンシッターって会社は裏でどんなことをしているんだろう・・・・・・。

 当の葵は悪びれもせずニコニコと笑っている。

「そういう訳ですので、宜しくお願いします。詩織様」

 どういう訳だ。

 だが、さすがは社会人。仕事ぶりは私の補佐を全く必要としなかった。

 愛らしい笑顔と細やかな気遣いで、パートのおばちゃんたちには「よく働くいい子ねえ」なんて口々に言われ、社員さんにも「単発なんて勿体無い。長く働いてくれればいいのに」と褒められていた。

 先に言っておく、別に羨ましくなんかないから。

 鼻歌交じりに、葵は数え終わったお金を黒いジッパーケースへと入れていく。

 レジは全部で六台あり、一台ごとに中に入っている全金額を数えて空にする。レジから出したお金は、ジッパーケースへと入れて、最終的には二階の事務所にある金庫へと保管することになっていた。

 金庫へお金を出し入れするのは、さすがにバイトの私には出来ない。何かあったら責任を取れないし、金庫の中には現金以外の書類や貴重品も入っているだろう。最後まで残っている経理の人に、お金を渡すまでが私の仕事だった。

「詩織様、こちらのレジは終わりました。後は何をすればよろしいですか?」

「じゃあ、私はお金を事務所に持って行ってくるから、台を拭いてレジにカバーをかけていてくれる?渡すだけだから、すぐに戻るわ」

「わかりました」

 買い物カゴに六台分の現金を詰めたジッパーケースを入れて、私は売り場を後にした。

 昼間は運送会社や売り場に商品を出す人で賑わっているバックヤードも、この時間ともなれば人っ子一人見かけない。

 照明がメインの通路だけを煌々と照らし、靴音が闇へと吸い込まれていく。他の部門への入口はすでに消灯が済んでおり、店内に残っているのは私と葵だけみたいだった。

 二階へと続く階段を上がると、正面に扉が見えてくる。

 ノブを捻ってドアをくぐると、いつもとは違う顔ぶれが私を出迎えた。業務終了間際のこの時間まで残っているのは、大抵女性社員ばかりなのに、今日は男性社員の姿がやけに目に付く。

「あら、お疲れ様。遅くまで大変ね」

 事務の制服を着た若い女性が、私に近寄ってきた。

「あ、はい。お疲れ様です。今日はいつもの方じゃないんですね」

「ええ。今日は用事があるとかで、早めに帰られたのよ。これ、レジの集計ね?合計六個。確かに受け取りました」

「宜しくお願いします」

 現金の入った買い物カゴを渡して踵を返す。きっと今頃、仕事を終えた葵が私を待っているだろう。

 

 後から考えると、この時の私は完全に油断をしていた。


 朝、構内であんな目に遭ったのに、バイト中は狙われることも無く、いつもと変わらない日常を過ごしたせいかもしれない。それに、無事に仕事を終えて一安心したこともある。

 軽い足取りで一階に下り、店内へと入ろうとしたとき、私は詰まれたダンボールの脇に不振な影を見つけた。

 目を凝らしてみていると、その不振な影は音も無く徐々に私の方へと近づいてくる。

 頭のてっぺんから足元まで、全て黒ずくめの衣装。

 これは―――黒装束?

 性別も判らないその人物は、目元の部分だけ肌が露出しており、怪しい事この上ない。

 私の脳内で警報が最大音量で鳴り響いた。

 これ、やばいでしょ。姿を見せるのは初めてだけれど、私を狙っている『敵』ってやつじゃない?

 悲鳴をあげる前に、私は脱兎のごとく駆け出した。

 店内に入り、陳列棚の間を駆け抜けて葵のいるレジを目指す。

 恐ろしくて振り返ることも出来ず、私は夢中で足を動かした。

 途中、耳元を何かが掠め、風が唸りを上げる。

 嘘でしょ!攻撃されてる!

 レジカウンターが見え始め、私は大声で叫んだ。

「葵!助けて!何か黒い奴が追いかけてくる!」

 滑りこむようにカウンターに身を寄せると、今まで私が立っていた場所を何か四角い物が通りすぎた。

「カウンターの影に隠れて下さい!」

 声と共に現れたのは赤い影。

 白地に青い小花柄のワンピース。

 高い位置で結わえられた漆黒の髪。

 葵は仁王立ちになって黒ずくめをビシリと指差した。

「今朝はよくもやってくれましたね。ここであったが百年目!観念してお縄につきなさい!」

「ちょっと!決めゼリフが古すぎる!」

 私は思わず、隠れていたカウンターから身を乗り出した。

「え?古いですか?かっこよく聞こえる台詞をずっと考えてたんですけど・・・・・・」

 葵は情けない顔をしてこちらを振り向く。

 今の台詞に、かっこいい要素は欠片も無かったと思うのは私だけ?

 私は眉をひそめて葵をじっとりと見つめた。彼女は、おどおどと自分の台詞を復唱している。

 っていうか、いつからその台詞を考えていたんだろう。構内で私が襲われた後からだとしても、もっと心に刺さるような台詞が思い浮かんでもおかしくないくらいの時間が経っているはず。

 それ以上前からだとすれば、葵のボキャブラリーはびっくりするくらい貧困か前時代的かのどちらかだ。

 動揺する葵の背後で、黒ずくめが陳列棚から箱を取り出すのが見えた。

「敵を前にして余所見しないでよ!ほらあ、あいつ、何か投げようとしてるじゃない」

 黒ずくめは手にした物を、大きく振りかぶってこちらへと投げつける。

 私は慌ててしゃがみ込んだ。


 だだだん!


 空間を裂いて、何かが背後の壁に当たる音がする。

 ひええ。ガチ狙いとか、やめてほしいんですけど!

 頭を抱えて視線を落とすと、足元には何故かレトルトカレーの箱が落ちている。

 何よこれ。

 それを拾いあげようと手を伸ばすと、葵の怒号が聞こえた。

「待ちなさい!」

 だだっと二つ分の足音がして、気配が遠ざかっていく。

 カウンターの影からそっと伺うと、二人の姿はどこへともなく消えていた。

 十分に辺りを警戒しながら立ち上がる私の視界の端に、見慣れない物が飛び込んでくる。


 何?あれ・・・・・・。


 レジカウンターの横にある壁から、角ばった物が突き出ている。そこの壁はもともと平面で、装飾の類いはついてなかったはず。

 私は目を細めて壁へと近づいた。

「え、ウソでしょ」

 突き出ているのは、どうやら箱みたいだ。見慣れた赤いパッケージで、それが床に落ちていたレトルトカレーと同じものだとわかる。他にも『玉ねぎを加えて炒めるだけ』『加えて三分』といった躍り文句がついた箱もある。

 夕飯のおかずに大活躍のレトルト食品群が壁紙を突き破って刺さっていた。

 私は、はっとして手を打つ。

 そうか!黒ずくめがこちらへ向かって投げた四角い物はこれだったのか!

 てか、物理法則とか力学とか無視しすぎじゃない!?どうやったら紙の箱が壁に刺さるのよ。

 手裏剣の代わりに、手直にある商品を投げないでもらいたいわ。


 ガシャ!ガラガラ!


 壁から生えたレトルト食品の箱を引き抜こうとすると、店の奥から大きな物音がする。

 私はビックリして振り返った。

 今度は何?

 走って音のした方へと向かう。たぶん飲料コーナーの辺りだ。

「げげえ!」

 辿り着くと、夥しい量の缶やペットボトルが散乱して床を埋め尽くしていた。

 行く手を阻まれた葵が、その中心で悔しそうに唇を噛んでいる。

「飲料水まきびしとは・・・・・・おのれ!」

 葵は一つ飛びで飲料水のまきびしを越える。ふわりと舞ったスカートの裾からは、純白のパンティーがちらりと見えた。

 あまりのことに一瞬呆然としてしまう。これ、誰が片付けるんだろう・・・・・・。

私は我に返って叫んだ。

「ちょっと!商品で戦わないで、武器くらい自前で用意しなさいよ!私、弁償なんて嫌よー!」

「詩織様、危険ですから近寄らないでください。どうか安全なところに避難を」

「避難を、じゃないでしょ!お願いだから商品に手を出さないで!戦うなら、外でやりなさいよ!」

「アイツをここから逃がすわけにはいきません。忍でも武器を携帯していれば、銃刀法違反で捕まってしまいます」

「何でもありなのに、法律だけ遵守しようとしないで!」

 半泣きの私を置いて、葵は青果コーナーへと消えて行く。

 危険だけれど、二人をこれ以上放っておいたら店は滅茶苦茶になってしまう。後から事情を説明したところで、許してもらえるとは到底思えない。それ以前に、この状況を絶対に信じてもらえないだろう。

 私は、別ルートから二人を追いかけた。

「これでも食らいなさい」

 青果コーナーでは、葵が平台に並べてあったトマトを黒ずくめへと投げつけていた。その攻撃を予想していたのか、黒ずくめは飛び退って迫り来るトマトをかわす。

 着地した直ぐ傍には、本日の目玉商品一パック九十五円(税込み)のお徳用Lサイズ卵のパックが三つ残っている。

 黒ずくめは、さっとパックを手にして中の卵を葵へと投げた。

「くっ!こしゃくな」

 辛うじて卵爆弾を避けると、葵は一つ六十八円(税込み)のバラ売り玉ねぎを投げ返した。

 空中で卵と玉ねぎがぶつかり合い弾ける。

 黄身か白身かわからないドロリとしたものが、私の目の前で幾つも糸を引きながら爆散していく。

「やめてー!やめて!やめて!やめてー!商品に手を出さないでよ!」

 私はムンクのごとく、両頬に手を当てて喚いた。

 当然、二人の耳に私の声が届くはずも無く、黒ずくめの抱えた卵のパックは、あっという間に空になった。

「ふ。小娘と侮っていたが、なかなかやるではないか」

 低い、地を這うような冷たい声が黒ずくめから発される。この人、男性だったのか。

「これでも、ヒューマンシッターの一隅ですから」

 不敵な笑みを浮かべる葵。

 こりゃ駄目だ。二人とも完全にそっちの世界に入り込んじゃってる。

「くくく。だが、真の勝負はここからよ」

「望むところです。その鼻柱、へし折って差し上げますよ」

 妙な緊張感と沈黙が青果コーナーに充満した。

「あの・・・・・お願いだから商品には―――」

『はあっ!』

 二人は同時に飛びかかり、葵の手には大根が、黒ずくめの手には白ねぎが握られている。白い奇跡を描いて二つの野菜が交差した。


 バリッ!


 小気味良い音を立てながら白ねぎが真二つに折れ、破片が私の方へと一直線に飛んでくる。

 ひょええ!

 反射的に顔をガードした腕に、ビシリと白ねぎが当たってツンとした臭いが鼻腔を襲った。

 いや、もう何か違う意味で襲われてるんですけど。

「覚悟!」

 怯んだ相手の隙を突いて、葵は大根を横へ薙ぐ。黒ずくめは驚異的な跳躍力で青果の棚の上へ飛び乗ると、そのまま棚の裏へと消えてしまった。

「しまった!」

 大根を投げ捨て、形のいいお尻と程よく肉のついた太ももを露にしながら、葵も慌てて黒ずくめの後を追う。

 ああ、スカートでそんなに飛跳ねたらダメだって・・・・・・。

 棚の後ろからは盛大な破壊音が聞こえ始める。

 私は真っ青になって足を踏み出した。

 こうなっては、命が狙われている云々の話ではない。

 店の崩壊。明日の営業はもちろん中止だし、私の処分は良くてクビ。悪くて全額返済で借金地獄確定だ。

 ズルリと卵で足元が滑り、床に尻餅を付く。

「痛ったあ。もお、やだあ~」

 命の危険は微塵も感じないけど、精神的苦痛は死ぬほど味わっている。黒ずくめの目論見は、違った形でしっかりと私に作用していた。

 エプロンも洋服も卵に塗れ、腕はネギ臭い。こんなくだらない争いに巻き込まれて、本当にいい迷惑だ。

 このまま、家に帰って寝てしまいたい。何も見ていなかったことにして、本当に帰ってしまおうか。

 項垂れる私の耳に、派手に何かが倒れる音と振動が伝わってくる。

「ええい!くそー!」

 卵の湖に手を突いて、私は立ち上がった。

 やっぱり、このまま放って帰るわけにはいかない。まがりなりにも、葵は私の為に戦ってくれているんだから。

 青果コーナーを出ると、店内は想像以上の有様だった。まるで店の中に小さな台風が来たみたいになっている。

 倒れた棚。落ちた商品で足の踏み場もない床。

 種類ごとに陳列されていたはずなのに、その面影はどこにも無い。

 棚が倒れて広くなった場所では、葵と黒ずくめが〇マーのパスタで斬り合い(?)を繰りひろげていた。

 当たり前だけれど、パスタが交わる度に、袋の中では乾麺が砕ける音がする。粉々になったら、新しい袋を棚から取り出して使い捨てているようだ。

 葵が最後の袋を取り、黒ずくめは刀(?)を失った。「くっ」と小さく呻いて、隣に陳列されていた饂飩の乾麺を手に取る。

「やあ!」

 葵は胸元から粒ガムの細長いパッケージを数本取り出して、右手を一閃させる。

 飛びクナイの代わりとなったガムは、黒ずくめの足元へと突き刺さった。

 私は唖然としてその戦いを見守っていた。決着が付かない限り、彼らを止める術は無いのだろうか。

 と、その時、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。

 葵も黒ずくめもぴたり動きを止めて、音の出所を探り始める。

「む、私だ」

 黒ずくめは片手を上げて葵に待ったをかけると、懐からスマホを取り出して耳に当てた。

 この状況で、普通に出るんかい。

「なんだ。今、取り込み中だ・・・・・・何?それは、どういうことだ。詳しく説明しろ・・・・・・ふむ、ふむ、いやそんなはずがない・・・・・・ちょっと待っていろ」

 黒ずくめはスマホを耳から離すと、私の方を振り向いた。

「おい、お前。名前はなんという」

「は?何よ、今更・・・・・・渡部詩織だけど」

「字はどう書くのだ」

「姓は渡るに部活の部で渡部。名は、ごんべんに寺、織物の織で詩織だけど」

「間違いないか」

「当たり前でしょう。自分の名前よ」

 黒ずくめは再びスマホを持ち上げて、相手に私の名前を伝え始めた。

 私は葵と目配せをする。なんだか変な雲行きになってきたなぁ。

「ああ・・・・・・わかった」

 黒ずくめは会話を終えて、ゆっくりとスマホを仕舞う。葵が近づいてきて、私の横に並んだ。

「人違いだ」

 ぽそりと呟かれた一言に、私は頬を引きつらせた。

「は?」

「いや。だから、人違いだったのだ」

 黒ずくめは明後日の方角を見る。

「我々のターゲットは、同じ『ワタナベシオリ』でも漢字が違う同姓同名の人間だったのだ」

「ありえない・・・・・・仕事ってそんなに杜撰でいいの?」

「今回は、急を要する任務だったのだ。我々としても不本意だ」

「ほう」

 私は、顔に笑顔を貼り付けたまま拳を握りしめた。

「そんな理由で、私は命の危険にさらされたわけだけれども、そこのところはどう考えていらっしゃるのかしら?ご意見を拝聴したいわぁ」

「その・・・・・申し訳ないことをしたと・・・・・」

「回りを見てよ。店の商品、滅茶苦茶よ。ありえなくない?」

「それは・・・・・戦いの最中であったわけだし」

「弁償してよね。私に非は一切ないんだから」

 腕を組み、黒ずくめを睥睨すると、彼はうろたえ始めた。

「こ、困る。昨今の不景気で依頼は減ってきている。無駄に人件費を使ってしまったし、我々も楽な商売ではないのだ」

「知ったこっちゃ無いわ。不景気に苦しんでいるのはお互い様。社会人らしく最後まで責任を持ってください」

「それは本当に困るのだ」

『そこまでよ!』

 黒ずくめの情けない声に、朗々と響く女性の声が被った。

 バックヤードに続くドアが大きく開かれ、先ほど事務所で会った若い女性が仁王立ちをしている。

「ここで合ったが百年目!神妙にお縄につきなさい!」

「あの台詞、社則?それとも流行なの?」

 私は女性を指差して隣に立つ葵に聞く。彼女は苦笑いをしながら「でも、かっこいいですから」と答えた。

 女性の後ろには、同じく男性社員や警備員が控えており、彼女が店内に入ると全員がぞろぞろと中へ入ってきた。

「彼らはアタシと同じ、ヒューマンシッターの社員です」

 隣で葵が小さく説明を入れてくれる。そうか、見たことの無い顔ぶれだとは思ったけれど、やはり店の社員ではなかったのか。

 というか、二階に居たのなら早く降りてきてくれれば、こんな大事にはならなかったのに。

 私の不満を察して、葵がにっこりと微笑む。

「皆さん、今回はアタシを信用して任せてくれたんです。もう、大丈夫ですよ。犯人の捕縛及びお店の原状回復は、全て彼らが行ってくれます。ここで起こったことは、アタシたち以外に知る者はいません」

 つまり店内での出来事は全て無かったことになる、ということか。

 私は軽く頷いた。

 黒ずくめは、思った以上の人数に囲まれて観念したのか大人しく捕縛されている。人違いで派遣されたうえ、捕まってしまうとは彼も無念極まりないだろう。

「あの人はどうなるの?まさかとは思うけど、処刑されたりなんてしないよね?」

 葵は、彼を見ながら頭を振った。

「アタシにはわかりません。全ては上が判断することですから。でも、今だかつて捕縛した者を処刑したという話は聞いたことがありません」

「そう・・・・・・それなら良かった」

 人の命を狙う以上、彼もそれなりの覚悟をしているとは思うが、こんな幕引きでは余りにも可愛そうだ。

 階段から突き落とされたことには怒りを覚える。

 でも―――。

 私は隣で微笑む葵を見た。

 彼女が居たから怪我一つせずに済んだ。こうして黒ずくめに同情できるのも、葵が守ってくれたお陰だ。

「では詩織様。そろそろ帰りましょうか」

 葵は私の手を取ると、両手でそっと包み込んだ。

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