忍べない忍

都路垣 若菜

忍べない忍

一日目

 瞼の裏に映る眩い光。

 真っ白な世界は私を優しく包み、現実へと優しく手招きをしている。


 厭だ。まだ、私はここに居たい。

 もう少しだけ・・・・・そう、あともう十分間だけでいいの。ここへ居させて。

 

 私の願いも空しく、耳元ではスマホが起床の音楽を奏で始める。

 現実の世界は酷だ。特にこの二日間は人生最大の受難だと言ってもいい。

 人生最大って断言したけど、私、まだ二十歳なんだよね。

 でもそれくらいのインパクトはあった。大学の友人にも、ましてや両親には口が裂けても相談なんて出来ない。

 そんな現実とは思えないようなことが、一介の女子大生の身に降りかかっていた。

 ゆっくりと目を開くと白い天井が視界を覆う。

 頭を巡らせれば部屋のそこかしこに、ハノイの塔のごとく書籍が積まれている。

 1Kマンションの一室。あるかないかのスペースに布団を敷き、私はそこに横たわっていた。

「ううん・・・・・・」

 傍らから小さな声が聞こえる。目を転じると、そこには年齢不詳の、でも外見だけは少女の形をした女の子が同じ布団に横たわっていた。

 私が貸したスウェットとTシャツに身を包み、豊かな胸を上下させて寝入っている。

 胸部の布の張り具合が癇に障るが、それはまあいい。

 問題は、一人っ子一人暮らしの私の部屋に、友達でもなんでもない彼女が寝ているという事実だ。

「あ、おはようございます。詩織様」

 つぶらな瞳を開いて、彼女は天使の微笑を私に向けた。



               一日目



 私の名前は渡部詩織わたなべしおり

 何処にでも生息している、ごくごく普通の女子大生。

 ごくごく普通の一般家庭で育ち、ごくごく普通の大学へと進学して独り暮らしを始めた。

 大学へもそれなりに通い、友達もそれなりにいる。他の人と同じようにアルバイトをして小遣いと生活費を稼ぎ、特に不自由なく『普通』にカテゴライズされる人生を歩んでいた。

 そう、その時までは、私はどこにでも居る一般大学生だったのに!



「あ、おかえりなさいませ~」

 玄関のドアを開くと、異様に高い声に出迎えられて私は目を見張った。

 知らない女の子が台所に立ち、エプロン姿でにこやかに笑っている。丸顔の大きな瞳。黒く艶やかな髪は後頭部で高く結い上げられている。

 私は思わず玄関のドアを閉めてしまった。

 何、今の。

 冷や汗が背中を伝って落ちていく。

 見上げた部屋の番号は807号室。間違いない。どう見たって私の家だ。

 持っている鍵でドアだって開いたし、他の部屋と間違えたわけじゃない。

 じゃあ、今の女の子は誰だったの?

 まさか、これが白昼夢?

 昨晩の夜更かしが、こんなところで弊害をもたらすとは・・・・・・。

 大きく息をついて心を落ち着かせる。

 そうだ。玄関はきちんと閉まっていたわけだし、きっと見間違いか何かよ。

 昨日読んでいた本に、よく似た女の子が出てきていたし、私の疲れた脳が見せる幻影だったのかも。

 軽く頭を振って苦笑すると、私はもう一度ドアを開いた。

「おかえりなさいませ~」

 視界いっぱいに広がる愛らしい笑顔と甲高いアニメ声。

「んぎゃあ!」

 自分でも女の子らしくないと思うような悲鳴を上げて、私はドアを閉めようとした。

 でも、閉まりきる直前で何かに引っかかってドアが閉まらない。

 パニックに落ちいった私は、力いっぱいドアを押した。

「痛、痛いです。詩織様」

 彼女は薄っすらと目に涙を浮かべ、必死でドアを開こうとしている。よく見ればドアの隙間には彼女のほっそりとした足先が差し込まれていた。

 これって、押し売りがドアを閉じさせない為にするやつじゃん!

 ってか、内側からする人なんて普通いないでしょ!

「う、わわわ!ごめん!」

 不審人物に向かって謝るってのもどうかと思うけど、私はびっくりしてドアから手を離してしまった。

「いえ、アタシの方こそ、段階を踏まずにお邪魔してしまって・・・・・・すみませ・・・・・・うう、痛い」

 彼女は律儀にドアを開けたまま、しゃがみ込んで足を擦る。

「こんなところではご近所迷惑ですから、中にお入りになってください。詩織様」

 不審少女Aは、そう言うと涙に濡れた瞳を上げた。


 狭い我が家にある唯一のスペースに私と彼女は向かい合って座った。

 床にはお茶を注いだ湯飲みが二つ。テーブルを置けるような空間など、悲しいが私の部屋には存在しない。

 エプロン(もちろん私の物)を外した彼女は実に奇抜な格好をしていた。

 一見すると空手とか柔道の道着のような服にも見えなくないけど、下はショートパンツのように丈が短く、上着にいたってはノースリーブ。ごてごてした装飾は無く、色も黒くてシックだけれど、大きく開いた胸元からは渓谷と表現しても差し支えのない谷間がよく見える。いくら同姓とはいえ向かい合っていると、どうしてもそこへ視線が向いてしまう。

「アタシ、実はこういう者なんです」

 私の不躾な視線をものともせず、彼女は流れるような動作で胸元から一枚の名刺を取り出すと、こちらへと差し出した。

 受け取った小さな紙片は生暖かく人肌の温もりを感じる。というか、内ポケットじゃなく、肌へ直に触れていたやつじゃない?

 見下ろしたショッキングピンクの名刺には、丸っこい可愛らしい文字で『㈱ヒューマンシッター 日向葵ひゅうがあおい』と書かれていた。

 私と視線がぶつかると、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「ヒューマンシッターより派遣されてまいりました、『忍』の日向葵と申します。

 突然ですが、渡部詩織様。

 貴方様の身は、現在、未曾有の危機に晒されております。

 本日より三日間、この不詳、向日葵が貴方様の身を御守りさせていただきたいと―――」

「ちょっと待って」

 私は掌を掲げて、彼女―――葵の話を遮った。

「ごめん。私、宗教とかそういうものに興味は無いの。悪いんだけど、他を当たってもらえないかな。部屋も荒らされた様子はないし、不法侵入については黙っておくから」

 本当なら即警察に通報するところだけれど、彼女はどう見たって高校生くらいにしか見えない。

 女性としての発育は私以上ではあるけど、とにかく、そんな彼女を警察に突き出すのは忍びないし、部屋が荒らされたり家捜しされたりしている形跡が無いのは一目瞭然だ。林立している本の塔はおろか、その間にある綿埃でさえ、部屋を出たときのままになっている。

 そもそも家には盗られるような物なんて置いてないしね。警察に通報して、家の中を改められる方がよっぽど困る。

 葵は、ぱちくりと目を瞬かせ、不思議な物を見るように私を見つめた。

「宗教の勧誘ではありませんよ。詩織様の身が危険なのです。これは冗談でもお笑いのネタでもありません。我が社の得た信頼できる筋からの情報によりますと、今後三日の内に詩織様は生命をも脅かされるような危機に遭遇します」

「度々ごめん。ちょっと待って」

 私は再び手を上げた。

 生命の危機?この娘は突然、何を言い出すの?

 これは―――かの有名な電波系ってやつじゃない?自分の世界に入り込んでしまって怪しい言動をしたり、日本語が通じないという類の人種。

 もしかしなくても、家に上げたのは間違いだったのかもしれない。いや、上がられていたと言う方が正しいか。

 私は少し青ざめながら、上げた手で首筋を撫でた。

「私、ただの大学生よ?突然、生命の危機とか言われても納得できないっていうか・・・・・。確かに読書が趣味だし、架空の世界も好きだけれど、現実にそれを求めているかって言われると、やっぱり無いなって思うのよね」

 葵は一瞬憮然としたかに見えたが、眉間に皺を寄せて言った。

「詩織様。アタシを怪しい、気の触れた可愛そうな電波系女子だとお思いなのですね。アタシは、こう見えてもヒューマンシッターという一企業に勤める立派な社会人ですよ」

「気が触れたって、そこまで言ってないんですけど・・・・・・て、社会人?年上なの?」

「乙女ですから、もちろん年齢は秘密です。弊社は、こうして危険に晒されている一般の方へ、表向きは家政婦として『忍』を派遣する業務を行っています」

「えー。胡散臭い」

 しまった。思っていたことが、口をついて出ちゃった。

 葵はちょっとむっとして、唇を突き出す。

「きちんとした企業ですよ。ホームページだって開設していますから、そのスマホで調べていただいても構いません。とは言っても、家政婦紹介所としての情報しか掲載されていませんが」

 私は膝の上に置いたスマホに目をやる。とは言っても、ネットなんて何でもありだから、調べる気なんてさらさら無いけど。

 葵はいたって真剣な表情をしていた。冗談や酔狂の類とは違うという雰囲気はバンバン伝わってくるけど、いきなり狙われていますなんて言われても、全然現実味が沸かない。

 はいそうですか、よろしくって返事をするのは、厨二病を患っている人だけだと思う。

「それで?何で私みたいな、ただの大学生が危険な目に遭うの?」

「それは・・・・・・大変申し上げにくいのですが、我々も詳しい情報は入手できていないのです。解っているのは詩織様が狙われているという事と、その犯人だけ」

「誰?そんな馬鹿なことを考えるやつは」

 葵は私から視線を外して俯いた。

「それも申し上げられないのです。詩織様が犯人を知ってしまえば、三日と言わず、今後もずっと狙われる可能性があるからです。ただ―――弊社の宿敵、とだけ申し上げておきます」

 私は腕を組んで溜め息をついた。

「随分あやふやな情報ね。それで信じろって言う方が無理だとは思わない?」

「仰るとおりです。ただ、狙われているのは本当なのです。どうかそれだけは信じてください」

「私、護衛の代金なんて支払えないけど」

「御代を頂くなんて滅相もありません!当然無料です。

 これは我が社のプライドをかけた護衛でもあるのです。詩織様の御身は、アタシが必ず御守りいたします。それに、アタシは特Aランクの家政婦でもあります。詩織様の生活も三日間しっかりと御守りさせていただきます」

豊かな胸をことさらに張って、葵は誇らしげに言った。

 何がなんだか解らないけれど、三日間一切の家事をしなくてもいいというのは結構魅力的。特Aランクがどの程度の技量なのかも不明だけれど―――部屋中に屹立するハノイの塔が整理されるならば考えなくも無い。

 それに、もし葵の言うことが真実だとするなら、無料で守ってもらった方が安心なんじゃないだろうか。

「解った。三日間でその危険とやらは去るのね?」

「はい。三日で片を付ける、と本社からは言われております。同僚は皆、腕が立ちますのでご心配には及びません」

「それじゃあ―――お願いするわ。見ての通り狭くて汚い部屋だけれど、よろしく」

「はい!ご理解いただけて嬉しいです!宜しくお願いいたします」

 こうして、変な『忍』日向葵との短い同居生活が始まった。

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