ハイランドクーラーの夜

三角海域

ハイランドクーラーの夜

 仕事が終わり、疲れた体を引きずるようにして会社を出る。

 ここ数日は残業が続いており、そろそろ心も体も悲鳴をあげはじめていた。週末になり、なんとか山を越えた、で、土日はゆっくり休めそうだった。

 さっさと新宿駅に向かい、帰宅してベッドに飛び込みたいが、集中の糸が仕事の終わりと同時にぷつりと途切れたせいか、疲れと共に、妙な開放感を感じてもいた。

 結局、駅の近くにあるコンビニでビールを買い、腰を落ち着かせるためにわざわざ会社の方へ戻り、中央公園のベンチに腰かけると、ビールの缶をあけた。

 一口飲み、だらしなく脱力してから、一気に喉に流し込む。

 体に酒が染みてくるのを感じながら、夜の空気を感じる。

 こんな風に、仕事帰りに外で酒を飲むのは初めてだったが、意外に悪くないと感じていた。

 すぐに缶は空になり、もう一度コンビニで酒を買おうかとも思ったが、せっかくなので、近くのバーにでも繰り出そうと考えた。

 ぶらぶらと夜の新宿を歩き、店名に惹かれた小さなバーに入った。

「いらっしゃいませ」

 バーというと、どうしても小説やドラマの中のイメージで考えてしまいがちだが、思っていたより「夜の店」という感じではなく、程よく淡い照明と、小粋なジャズがマッチした空間は、どこか心地よかった。

 カウンター席に腰かけ、いざ注文をと思ったが、なにを頼んでいいのかわからなかった。

 普段からちまちま酒を飲みはするが、コンビニやらドラッグストアで買い物ついでに目についた酒を買う程度で、銘柄なんかを気にしたことがなかったのだ。

「あの、すいません、こういうお店に来たのは初めてで……」

 羞恥から小声になってしまったが、カウンターに立つマスターはふっと微笑み、言った。

「そんなに恐縮なさらないでください。割と、何を注文したらいいかわからないという人は多いんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ。カウンターに腰をおろして、いつもので通る方なんていうのは、ごくわずかな人だけですよ」

「そうなんですか。どうにも、バーというと映画とか小説家のイメージが強いので」

「軽い気持ちで注文してください。ウイスキーでもビールでも。こんな感じでと伝えてくだされば、私が選びますので」

 スーツをばっちりと着こなし、しっかりとこちらの目を見つめて話すマスターの凛々しい表情に少しときめきを感じてしまう。男の色気というのは、こういうものを言うのだろうか。

「そうだな……それじゃあ、せっかくバーに来たので、カクテルを頼んでみようかな」

「わかりました。何をお作りしましょうか」

「有名なのはマティーニとかになるんですかね」

「そうですね。映画や小説で知ったカクテルを飲んでみたくてご注文なさるお客様もいらっしゃいますね。ギムレットですとか、アレキサンダーですとか、レッドアイですとか。うちでは生卵はいれませんが。あとは特に多いのはウォッカマティーニでしょうか」

 ウォッカマティーニだけは007に出てくるものだというのがわかった。といっても、昔にテレビでやっているのを観たから知っているという程度だが。

「いろいろあるんですね。どうしようかな」

「なにか好んでお飲みになるお酒などはありませんか? もしくは、興味があるお酒でもいいですが。それをベースにしたものをおつくりしますよ」

 好みがあるといえるほど酒を飲むわけでもないので、興味のある酒を答えた。

「ウイスキーでしょうか。なんだか、かっこいいの代名詞というか、ちょっとした憧れがあって。それならウイスキーを頼めという話ですが」

「いえいえ。そういう興味から開拓していくものですよ。こちらがチョイスしてもよろしいですか」

 マスターはそう言うと手早くウイスキーやレモンジュースなどをシェイクし、氷をいれたグラスに注いだ。そこにジンジャーエールを注ぐと、店名のロゴが入ったコースターをカウンターに敷き、そこにグラスを乗せた。

「ハイランドクーラーです。お疲れの様子なので、さわやかな飲み口のものをチョイスしました」

カクテルというと、カクテルグラスにはいったものを思い浮かべるが、このカクテルは円筒型の細長いグラスだった。コリンズグラスというらしい。

ひとくち飲むと、なるほど、さわやかな飲み口という説明がしっくりきた。

「おいしいです」

 爽快感に満ちてはいるが、酒の持つ独特の重さのようなものも感じる。

「いや、ほんとうにおいしいです」

 味わって飲もうとは思うのだが、飲み口のさわやかさもあり、どんどん進んでしまう。

「気に入っていただけてなによりです」

結局、すぐにグラスをあけ、おかわりを頼んでしまった。

二杯目は店内に流れるジャズを聴きながらゆっくりと味わいながら飲んだ。酒というのは不思議なもので、口を軽くさせる。今日はうまい酒だからか、すこしセンチな自分語りをしてしまった。

「僕はね、昔はプロの画家を目指していたんですよ」

「素敵じゃないですか」

「そうですね、言葉にすると、なぜだか素敵な思い出のようだ。でも、実際はそんないいものではなくて」

 少し言葉につまる。無理に話す必要はないのではと思ったが、ひとくちカクテルを飲むと、何故かするりと言葉が出てきた。

「狭き門なんていうのは、画家だけじゃなくて、芸術に連なる職業なら同じです。小説家、漫画家、役者。でも、それを目指す人間ほど、そこが狭き門だということを自覚している人はいない」

「それでも、目指すと?」

「ええ。自分はいつか輝けると、そう思っているんですよ。いつかはチャンスがくるんだと。先を行く人間がでてくると・あいつは才能があるからなという言い訳をする。それが自分に才能がないと認めているというのには気付かないで。だけど、違うんです。もちろん才能はあるにこしたことはない。だけど、それだけじゃない。もっと大切なものだってある。僕は、その大切なものを見失って、気が付けば言い訳しながら絵を描いていました」

 あいつは見つけてもらえた、あいつは才能がある、あいつは常人じゃ考えられないくらい努力している。あの頃の僕は、そんな風によく口にしていた。

 そんな憧憬を装った怨嗟を吐き出すくらいなら、それをエネルギーにかえて描くべきだった。

 みな、恨みつらみ泣き言を重ねているではないか。

 かつての僕はそう言うだろう。

 違う。

 彼らは、生みの苦しみの中で嘆いている。描き続けることに苦しさをその身にうけながら、恨みを口にする。

 僕は違う。

 僕は、ただ言い訳をしていただけだ。

「情けないです。大学を卒業して、しばらくフリーターをやっている時、ある映画を観て、それに気づいたんです」

「なるほど。だから、この店を選んでいただけたんですね」

 この店は、アマデウス。途方もない天才がその才能ゆえに他者を傷つける映画。

 いや、どうなのだろうか。勝手に傷ついただけと言われるかもしれない。

 ただ、自意識やら将来の希望やらを瓦解させるのは、そんな身勝手さなのだ。

「いまはもう描かれていないのですか?」

「ええ。その週には、道具も全部処分しました。そのあとすぐに就活をはじめて、今の会社にはいりました。今にしてみれば、あのタイミングで映画を観れてよかったのかもしれません」

「後悔はないんですか?」

「今更ですよ」

「いえ、夢をあきらめるのは決して悪いことではありません。その是非を決められるのはその人だけです。諦めないことも、諦めてしまうことも。ですが、たとえ挫折したとしても、お客さんは絵が好きだからこそ画家を目指したのではないですか?」

「それは、そうですが」

「どんな形でもいいじゃないですか。小学生が使うような水彩絵の具でもいい。それを買ってきて、休みの日に何かしら絵を描くんです」

 確かに絵は好きだ。今でもゴッホやルノワール展などがあれば出かけるし、気になった画家がいれば、その個展をのぞきにいったりもする。

 プロを目指している時は粗ばかりさがしていたそれらの作品は、今では評価されるのが納得のものだとわかる。

 嫉妬は創作のエネルギーになるが、度が過ぎれば目を曇らせるのかもしれない。

「もう、いいんですよ」

「本当にそうですか?」

 いい加減しつこいと言おうと思ったが、なぜか嫌な気持ちにはなっていなかった。

 むしろ、何故だか……。

「悔しいですね。身勝手で嫌な思い出しかなくても、絵は嫌いになれないんですよ」

 感情があふれてくる。年甲斐もなく目が潤み涙があふれそうになる。

「時折、考えてしまいます。もう少し粘れば、チャンスがあったんじゃないかと。まったく、悲しいというか、呆れるというか」

「そんなことはありません。それだけ夢中になれるものを見つけたというのは、間違いなく財産ですよ。変に考えることはないんです。好きなものは好きなものです。どんなことがあろうと、それを否定してしまうのは悲しいですよ」

 グラスに残る酒を飲む。もうほとんど残っていなかった。自覚はないが、話しながらも飲み進めていたのだろう。

 酔ってしまったのだろうか。いや、意識自体ははっきりしている。この店とマスターのかもしだす空気が、僕の心を酔わせたのかもしれない。

「いいんですかね、それでも」

 あいまいな言葉を選んでしまう。また絵を描き始めると、昔に戻ってしまいそうで怖かった。

「ええ。お客さんはもう、自分の弱さをしっていますから。きっと、大丈夫です」

 僕は恥ずかしくなり、うつむきながら三杯目のおかわりを頼んだ。



 店を出て、駅へ向かい歩く。

 やはり、疲れが体を包んでいる。酒は一時の癒しなのだろう。それでも、その一時が救いになることもある。

 電車に揺られながら、明日のことを考える。

 前向きに明日のことを考えるのは、どれくらいぶりだろう。

 少し、眠くなってきた。ほどよくまわった酒と、電車の揺れが心地よい。

 意識が眠りに吸い込まれる前、店を出るときのマスターの顔が頭に浮かんだ。

「ありがとうございました。またのお越しを楽しみしております」

 完全に眠り落ちる前、少しだけ、自分が笑ったように感じた。

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