第三章 対峙編
魔王とお話を
暗く、青黒く、深海を髣髴とさせる静かな世界。
その魔王の間に踏み込んだ時、俺はふと思い出したことがある。
小学生高学年の頃、俺は朝一番に登校し、真っ先に教室へとやってきていた時期があった。
小学生特有の騒乱でナノマシンがかき混ぜられる前の、誰もいない教室は、空気の濁りもなくある種神秘的な雰囲気を持っていた。
それはあらゆる事象から切り離された、ひとつの独立した世界である。
あの頃の俺がそこまで考えていたとは思えないが、それでも、ここにいる自分は特別な人間ではないかという錯覚を呼び起こすには充分だっただろう。
『俺こそがナンバーワンだ』
誰もいない教室は、そんな欲求を満たしてくれた。
だがそこでなにより重要だったのは、美月はそんな俺のことなど気にもせず普通に登校していたことである。
そうである以上、俺は、美月よりも早く登校する存在として、ちっぽけな自分の居場所を確保できていたのだ。
そこには違う道があった。
そんなことを一ヶ月ほど続けていると、ある日、当時もクラスメイトだった
火宮は俺をほめそやし、そこから次第に、クラスに早朝登校が広まっていった。
朝の教室はいつの間にか児童であふれるようになり、それまでと同じような時間に登校しても、俺が一番乗りになることも減っていた。
とはいえ、褒められて悪い気分になるはずもない。ましてや小学生である。
あの頃の俺は単純に、そのことを喜び、優越感の沼に浸っていた。
だが、それも長くは続かない。
決定打となったのは、ある日の帰りの会で担任の教師が大々的に早朝登校を褒めたことだった。
個人の習慣は大人数の慣例となり、そしてなんとなく義務のようになった。
俺の時間は終わったのである。
なにより、その朝の時間に、美月が来るようになった。
美月は俺よりも早起きをするようになり、俺よりも朝早く学校に行き、そこからはこれまで何度も繰り返したいつも通りの流れである。
その頃には俺はもう早く登校するのも止め、ただ子供心に自分が失ったものを噛み締めていた。
この魔王の間は、どこかあの朝の教室に似ていた。
神秘と、孤独と、静寂。
濁りのない空気が肌を包む。
その雰囲気が、俺の記憶の奥底にあった思い出を引っ張ってきたのだろう。
だが、一つだけ決定的に違うことがある。
ここは、暗い。
その暗い部屋の奥に、俺たちを待っていたであろう、そして俺たちがこのダンジョンを潜る理由そのものであった、一人の白いマントを羽織った少女がいる。
艶のない、生気を感じない、白。
その背後には微動だにしない、置物のようなスケルトンとゴブリンの集団。
この暗き空間で、白いマントはまるで鬼火のように揺らめき、魔王がいかなる存在かを示している。
マントの上の、俺にそっくりな顔が俺を射抜く。
そいつこそ俺の双子の妹、
二卵性双生児は双子であっても瓜二つではないというが、俺と美月は性別の違いはあれどかなり似た顔つきで、それが美月の儚げな美少女ベースでの構成だったことは、俺にとってはどちらかといえば幸運だった。
「美月……」
そこにいる魔王が自分でないことを確認するかのように、俺の口から無意識のうちにそんなつぶやきが漏れた。
「やあ、輝兄さん。来てくれたんだね……」
返ってきたのは、落ち着いた、極端に感情というものが薄まった静かな声。
ただ、美月のその声はいつも通りのトーンであり、だからこそ、この静まり返った空間でも同じように響くのが、怖い。
「どうだったかな、ボクの作った迷宮は」
「学校をここまで変えられるような妹を持って、俺も兄として鼻が高い、とでも言っておけばいいか?」
その声を振り払おうと、俺はぶっきらぼうにそう返す。
なにしろ、相手は魔王なのだ。
「……輝兄さんはいつもそうだね。自分自身のことを勝手に下げたり脇にどけたりして、いつだってボクを適当に持ち上げる。それで満足かい?」
少しだけ、美月の澄んだ声にノイズのような感情の起伏が混ざる。
波紋にもならないような、小さな揺れ。
こいつがそういう態度を取る時は、本気だ。
だが、今日のこの場では、俺も一歩も引くわけにはいかない。
「満足なんてするわけないだろう。いつだってお前の方が優れていたし、お前に勝てないと思っているのも事実だ。だから俺は、お前を意識しない方法を必死に考えていたんだ」
もちろんこれまで美月に対してこんなことを語ったことなどないし、語ろうとも思わなかった。
その意志は今もあまり変わりはしないが、それでも、俺がそう思っていることを目の前の魔王さまに告げてやる必要はあると思ったのだ。
そんな俺の言葉を聞いて、目の前の俺にそっくりの顔は、静かに、寂しげな笑みを浮かべてみせた。
「勝てない、か……。輝兄さんは本当に自覚がないんだね。逆だよ、逆。ボクと輝兄さんの差は凄く大きく、そして簡単なことさ。そしてそれがある限り、ボクは兄さんには勝てない。ほら、後ろを見てごらんよ」
そう言われ、慌てて振り返る。
土谷の野郎と滝見センパイと火宮が不思議そうに俺を見ているが、それだけだ。
特になにもない。
「……どうやら、まったく気がつかないみたいだね。それも輝兄さんらしい、かな」
俺がなにかを答える前に、俺の様子を見た美月が皮肉げにつぶやく。
もう一度後ろを見て目をこらすがなにもわからない。
その様子を見て、双子の妹はただクスクスと笑うばかりだ。
「……お前、なにをした?」
「ボクはなにもしていないよ。……やっぱり気が付かないみたいだからネタばらしをしてしまうけれど、兄さんの後ろには、多くの人がいるだろう。そこにいる以外にもだ。ボクにはいない。今でさえ作れるのは空虚な作り物のガイコツと小鬼だけ。僕に許されたのはそれだけ。それだけのことだよ」
そう言われ、あらためてもう一度自分の背後を見る。
幼馴染みでクラスメイトの火宮がいる。
同じくクラスメイトでクソ野郎の土谷がいる。
遅刻したがために今回の一件に巻き込まれた滝見センパイがいる。
その誰もが、俺の知人で、俺を知る人物だ。
再び視線を美月に向けた時、そこにはただ、さみしげな笑顔があった。
「輝兄さんは覚えているかな、小学校五年の頃、クラスで早朝に登校するのが流行った時期があったことを」
俺は答えなかった。
答えられないままこの暗く、青黒く、深海を髣髴とさせる静かな世界を見回した。
それはあの朝の教室に似た、あらゆる事象から切り離された、神秘的な雰囲気を持つひとつの独立した世界。
だが、似たようで、違う世界だ。
これが美月の見たあの教室なのか。
「あの時も、輝兄さんは人気者だった。みんな兄さんの周りに集まっていたね。ボクは後からそこに入っていこうとして、遠くからその様子を見ているだけだった。誰もボクのことに気を止めることもなかった。そこがボクと輝兄さんの差だよ」
「クッ、ククッ、アハ、アハッハッハ」
だが美月のその言葉が終わらぬうちに、突如、後ろで滝見センパイが大声を上げて笑い出した。
あまりにも場違いな笑いに、美月も俺もあっけにとられる。
「ど、どうしたんですか、センパイ。退屈すぎて死にそうなんですか?」
「はは、はっはは、まあ似たようなものかな。いやあ輝明後輩よ、お前さん、このままだとホントに戦士くんのアシストをさせられることになるぞ」
周囲の怪訝な視線も気にすることなく、センパイはまだ笑いをこらえきれずに腹を抱えて震えている。
最初に怒りを爆発させたのは、やはり美月だった。
「なにがおかしいのさ……。そうやって、輝兄さんはいつもボクの知らない世界で楽しいことをしている。ボクが耐えられないのは、そこなんだ」
「ああ、いや、天才少女な妹ちゃんも一皮むけば鈍感なただの高校生だと知ってさ、安心したんだよ。アタシは勘違いしてた。ホント、お前さんらの人間関係は凄いよ」
だが美月の凍えるような冷たい視線の刃も、今のセンパイには届かない。
あまりにも無敵すぎる。
それどころか、センパイはそれを逆なでするかのように俺の背中を叩き、さらに恐ろしい事を促した。
「ほら、輝明後輩よ、妹ちゃんに説明してやりなよ。お前は一人じゃないってさ」
「えぇ……」
おそらくその時の俺は、これまでの人生で最も複雑な表情をしていたことだろう。
美月と俺、その時の表情は対極であり相似であった。
「……なんの話さ……。まさか『あなたにはこんな素敵な兄がいる』みたいなことを言ったりしないよね……」
「しないしない。本当に気が付いてないのか。まあ、この兄もまったく当てにならないし、自分でどうにかしたらどうだい、テニス部エースくん」
そしてセンパイはついに、土谷の野郎に声をかけた。
「えっと……あの……」
そこに、学校で名を知らぬ者のないスーパープレイヤーはいない。
そこに、あの華麗な剣捌きを繰り出した最強最速の戦士はいない。
そこに、想い人と同じ顔を持つ俺に絡んでくるあの野郎はいない。
そこに、土谷剣という飄々としたいけ好かないイケメンはいない。
「あ、ああの、み、美月さん、今日は月が、き、きれいですね……」
回っていない呂律で、土谷の野郎はそんなわけのわからないことを並べ立てる。
顔はひきつった笑顔で、遠目にもわかるほど脂汗が浮いている。
こいつは、
興味のない女子の顔はろくに覚えもしないくせに、そうでなければ、こうだ。
土谷剣がただの俺の親友と思われているのは、ようするにこれが原因だ。
「……なにが月だよ……お前、本当にクソ童貞だな……」
言われた美月もなんのことかまったく理解できていないようだし、センパイはセンパイで土谷の野郎が口を開いた瞬間から再びしゃがみこんで笑っている。
ひとことでいって、地獄絵図だ。
「……もうわかったから、土谷、お前、美月のところにいけ」
あまりにもいたたまれないその光景に、俺はついに、そのひとことを口にした。
「い、いいんですか、お兄様!?」
「お兄様言うな」
それだけ言って手で払いのけるように追い立てる。
それを見て土谷の野郎はまるで飛び跳ねるかのように美月の元まで駆けていき、そして、仰々しくその前に跪いた。
「えっと、土谷くん、なにを……?」
「ぼ、僕は、あなたの、騎士です。なんなりと、ご、ご命令を」
ぎこちないながらもそう告げた土谷の野郎を見て、俺はようやく肩の荷が下りたような気分で、大きくため息をついた。
おかしい。そんなつもりではなかったんだな。
「……そんなわけで、お前の自分はひとりぼっちだというのはただの思いこみだ。よかったな」
吐き捨てるように、俺はただそう告げた。
美月はそれに対しなにも語ることはなかったが、ナノマシンに満たされた世界のテクスチャが剥がれ始めたことは、なによりも雄弁にその心境を表していた。
スケルトンもゴブリンもひび割れるように崩れ去り、俺たちの武器や装備品も徐々に分解されていく。
ひとつの魔王病が終わろうとしているのだ。
だが、俺の後ろには、俺以上に動揺している奴が一人いた。
「い、いや、ねえ、ちょっと、おかしくない? なんで戦士さんは魔王の部下になっているわけ? あなたはここで、魔王となった美月と悲しき対決するんじゃないの? なんでこんなことにになってるのよ?」
ずっと黙っていた火宮が、この混迷極めた状況を見てようやく口を開いたのだ。
「さあなあ……。まあ、こんな結末になってしまったものは仕方ない。魔王病が解決するならそれでいいということにしておくしかないな」
だが俺の言葉にも、火宮は全く納得しない表情でさらに言葉を捲し立ててくる
「いいわけないじゃん! これじゃあなんのために……」
「美月を魔王にしたのかわからない、か?」
俺がその言葉を補足してやると、それまでの饒舌から一変、火宮は絶句し、ただ見開いた眼で俺を見てきた。
「……輝明、今なんて言ったの? 私が、美月を魔王に?」
「ああ、もっと言うならば、お前こそが真の魔王なんだろう、火宮麻夕」
俺の全ての装備品が消え、ただの制服のブレザー姿になった中、俺は、目の前のローブ姿の
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