第二章

 雲の少ない空の下、のどかな日差しに照らされた草原がなだらかに広がっている。草花は柔らかな風に揺れ、対照的に小高い丘にある一本のクリフォトの樹は堂々とそびえ立ち、その下に大きな影をつくっていた。

 その影の中に、一人の少女の姿があった。彼女は草の上で横になり、穏やかな寝息をたてている。長い紅のツインテールは細長い川のように体の左右を流れ、その間に横たわる丸みを帯びた肢体を包む白いワンピースは、さざ波のように風に揺らめいていた。

「ん、んん、カブト様ぁ……」

 少女は囁くようにつぶやいて、何かに抱きつくように寝返りを打つ。しかし伸ばした手は空気をかいて、腕は力なく芝の上に落ちた。

「んー?」

 もう一度腕を伸ばして手を動かしてみても、そこには草と風の流れがあるだけで、彼女の求める感触は気配さえも見つからない。

「……いたっ」

 指先に走った鋭い痛みに少女は顔をしかめ、ゆっくりと目を開けた。

 少し痺れるような痛みに視線を向ければ、人差し指から染み出た小さな雫が少しずつ膨らんでいく。しかし、それよりも先に少女の瞳から一条の涙がこぼれ落ちた。

「カブト様」

 ぽつりと口から出た名前を飲み込むように、少女は傷ついた指先を口に含む。

 周囲を見回せば、眠る前と風景は変わらない。でも、口の中に広がる鉄の味は、変わらないはずなのに酷く自分を不安にさせる。

 少女は立ち上がり、丘の上から遙かに広がる草原を見下ろした。辺りを見回しても人影はなく、隣にあったはずの温もりも吹き抜ける風によって残ってはいない。

 彼がいない。誰もいない。自分しかいない。

 ざわつく胸を押さえるように少女は両手を重ねて抱きしめる。そして、少女は駆けだした。

 透き通る空の青さから逃げるように、無言で風に揺れる草花から目をそらし、孤独にそびえる樹の気配に怯えて走り続ける。

 流れゆく雲が陽の光を遮り、少女を捕らえようと闇を広げ、まとわりつくように風が服と髪に絡みつき、少女の体をその場にとどめようと吹き続ける。

 それでも少女は唇をかみ締めながら走り続けた。

       ◆

「カブト様!」

 木の扉を開けるなり叫んだ少女の声は、追いかけるように入ってきた風とともに誰に届くこともなく消えていく。

 きれいに手入れの行き届いた部屋には小さなテーブルと二つの椅子があり、出窓に置かれたヒースの鉢植えには、薄紫色の小さな花がたくさん咲いていた。

 少女は二階に上がり彼の書斎、寝室、風呂場と家中を確認していく。しかし、ほんの前まで二人の生活があったはずの場所は、色を失ったかのように静かで冷え切っていた。

 少女は家を飛び出して探し続ける。

 二人で待ち合わせをした広場、二人で話をしたランチのお店、二人で迷った遊園地、二人で議論を交わした図書館、二人がケンカをしたアパレルショップ、二人がすれ違った交差点、二人で探した映画館。そして、二人が初めて出会ったフラワーショップ。

「……」

 しかし、どこにも誰の目にも彼の姿は残ってはいなかった。

「カブト様」

 見知らぬ人々の流れから取り残されたように一人俯き、少女は自分の中に残された彼の名を抱きしめるように吐き出した。

 瞳はほとんど光を失い、肌は青ざめ、震える膝は今にも崩れ落ちそうで、頭の片隅で囁く嘲りの声に、少女は諦観の底へと導かれていく。

 無音の水底へと泡のように消え行く少女を、道行く人は誰も気にしない。しかし一人だけ、少女に触れる者がいた。彼女は力強く少女の肩をつかみながら声をかける。

「こんなところで、どうしたのさ?」

 その声に感情という名の泡は揺らめき、細かな気泡となって震えながら浮かび上がる。

 溢れ出す涙を気にせず振り向けば、そこには自分を見つめる親友の笑顔があった。

       ◆

 目を覚ますと、そこには白い天井があった。

 カーテン越しに入り込む日の光と鳥のさえずりが、朝の爽やかな時間帯であることを教えてくれる。

「あ、ヒガン。起きた?」

 視界の端で天井が揺れたかと思えば、キクノの黄色い瞳が優しくわたしを見下ろしてきた。その顔を見た途端、わたしの中でせき止めていた感情が溢れ出す。感情は視界を濡らし、温かな感触とともに目尻からこぼれ落ちていく。

「うぅ、キクノぉ~」

「え? ちょっと、どうしたの?」

 声をつまらせながら呼びかけると、彼女は慌てて近寄り指で涙を拭おうとする。でも、触れることができずに困ったような、少し悲しげな表情を浮かべた。

 そんな彼女にわたしは微笑み返すと、ゆっくりと深呼吸をして息を整える。そして、体を起こそうと横を向いた。

「あっ」

 目の前には、無防備に静かな寝息をたてるハルキ様の寝顔があった。

「リンクの影響で欲望を抑えるのがきつかったらしくてね。濡れたシーツとか、あんたの後始末をしたあと、そのまま疲れて寝ちゃったのさ。あ、変なことは一切させなかったから安心して」

 キクノの言葉に、わたしは昨夜の出来事を思い出した。

 全身の肌が一瞬で沸騰し、その後の様子を想像してさらに顔が熱くなる。でも、目の前の彼がわたしの世話をする様子を想像すればするほど、恥ずかしさと同時に体の芯から愛しさが広がっていくのを、わたしは止められなかった。

 気づいたときには、わたしの唇はハルキ様のそれに触れようとしていた。そして、お互いの息が触れて温かさを感じ始めたとき、彼のまつげがゆっくりと動いた。

「⁉」

 彼の瞳は一瞬で大きく見開かれ、その中心にわたしの瞳が映り込む。

「な、何をするつもりだ!」

 体をのけぞらせて非難を口にする彼の瞳から、わたしが消えていく。そのことに寂しさを感じながら、かつての彼が喜んでくれたことだと伝えたくて、わたしは自分の行動を言葉にした。

「あの、おはようの挨拶……」

「やっぱり俺を殺すつもりなのか⁉」

「違う!」

 伝える以前に聞いてさえくれない彼の態度に、焦燥感が募っていく。

 ヤダヤダヤダヤダ。イヤだよ!

 離れる気持ちを捕まえようと、追いかけるように視線を向ける。でも、ハルキ様は視線をそらして立ち上り、そして吐き捨てるように言った。

「とにかく迷惑だから、体調がよくなったのなら、さっさと出て行ってくれ」

 そう言うと、ハルキ様はわたしに背を向けて部屋を出て行こうとする。

 また置いて行かれちゃう。

 こんなに近くにいるのに、なんで届かないの?

 行き場を得られない想いと感情はひたすら大きくなるばかりで、胸は締め付けられ息は詰まり、言葉も空回りして形にできず声が出ない。

 だめ! このままじゃいけない!

 ドアノブに手をかける彼に、わたしは力任せに口を開く。

「置いてかないで! カブト……」

「俺はそんな奴じゃない」

 それは怒るでも馬鹿にするでもなく、ただただ冷たい声だった。

 音もなく心に針を突き立てられたかのように、わたしの体から血の気が引いていく。

「……様」

 余韻で口から出た音は、彼に届くことなく虚しく消えていく。

 突きつけられた彼との距離に開いた口さえ閉じられず、わたしの中の何もかもが動けずに軋んだ音をたてる。

 そんなわたしに構うことなくドアノブはスムーズに回り、扉が開いて彼が一歩を踏み出そうとしたそのとき、ぎゅるるると滑稽な音が部屋の中に鳴り響いた。

「⁉」

 それは、わたしのお腹の音だった。

 ハルキ様が大きくため息をついて、振り返ることなくわたしに言う。

「追い出した途端に倒れられても困るしな。朝飯くらいは用意してやる」

 ため息の残滓から伝わる微かな温かさに、わたしは恥ずかしさと安堵で涙を浮かべながら、小さく頷くことしかできなかった。

       ◆

 後ろのキッチンからは、香ばしい魚の焼ける匂いが漂ってきて、簡素な木製のダイニングテーブルには水菜のサラダが置かれていた。サラダには、赤味の濃い艶やかなミニトマトとカリカリのベーコンが添えられていて、見た目にも美味しそうだった。

 でも、それ以外には目を向けることができず、盛んに空腹を訴えてくるお腹を押さえながら、わたしは俯いてテーブルの木目を見ることにした。

「いやー、あんたを探して苦節二十八年。このエリアにいることはわかっていたけど、本当に見つかってよかったわー」

 わたしの頭上から、キクノが明るい声でハルキ様に話しかけていた。

「二十八年って……。俺、今十七なんだけど」

 食器を棚から取り出す音とともに、ハルキ様がつまらなそうに疑問を口にする。

「うーん。ハルキは輪廻転生って知ってる?」

「なんだよ突然。輪廻転生って、生まれ変わりのことだろ?」

 鍋がカタカタと音をたて始めるが、それもハルキ様が数歩動くと静かになる。

「そう、それ。人は現世で死んで幽世に行っても、生まれ変わることで現世に戻ってくる。でも、魂そのものは変わらない」

「で、それが?」

 冷蔵庫の扉の開く音とともに、ハルキ様は興味なさげに話の先を促す。

「あたい達は二十八年前から、そんな輪廻転生を繰り返す魂の一つを探してる」

「もしかして、それが俺だと?」

 少し考えるような間が開いて、キクノはあっけらかんとした口調で言った。

「どうだろうね?」

「はあ?」

 キクノの言葉に、ハルキ様が抗議混じりの疑問をこちらに向かって投げかける。しかしキクノは何も言わず、二人の視線に挟まれたわたしは、ただ肩を竦めることしかできなかった。

 そんなわたしに呆れたのか、ハルキ様はため息をつくと再びキクノへ話しかける。

「そもそも、あんた達は一体何なんだよ? 死神とか淫魔とか……。まともじゃないのはわかるけど……」

「あたい達は、そうだな……」

 ちらりと上目づかいでキクノを見れば、彼女はあぐらをかいたまま、人差し指を唇に当ててゆっくりと逆さになっていく。そして、真っ逆さまの状態で首をかしげて言った。

「幽霊?」

「幽霊って、あんたはそうかもしれないが、そっちの……」

 ハルキ様の視線が背中に当たって、ピリピリとした感覚が走り抜ける。

「ヒガン?」

「は、なんで肉体があるんだ?」

 名前を呼ばれなかっただけなのに胸がきゅっと締め付けられ、わたしは膝の上に置いた手を握りしめて奥歯をかみしめた。

「インス……、簡単に言うと受肉ってやつだよ」

 少し間を置いて、そうキクノは答えた。

「一時的な転生みたいなもんだね。ただ、常に力を使い続けるから余計な物質化はできないし、死神からも確実に見つかるから、あんたを見つけるまでは幽体のままでやってきたんだけど……」

 キクノがため息をついて黙り込む。

「なんだよ、その恨めしそうな目は? やっぱり俺を殺すつもりなんだろ?」

 何か汁物を取り分けるような音がぴたりと止まり、ハルキ様が声を低くして言う。

 それに対してキクノは、さらに深いため息をついて話を続けた。

「だから殺しに来たわけじゃないんだよ。ただ一緒に帰りたいだけ」

「幽世にか? そこに行くってことは死ぬってことだろ? 同じじゃないか」

「そうかもしれないけど、そうじゃないんだよ」

 苦笑を浮かべながら曖昧に答えるキクノに、ハルキ様は「そうですか」とどうでもいいような感じで答えた。そして、足音がキッチンから近づいてくる。

「待たせたな」

 そう言ってハルキ様は、わたしの目の前に食器を並べていく。湯気の立つ艶やかなご飯に豆腐の浮かぶお味噌汁。それに脂ののったホッケの干物。どれも温かくておいしそうだった。

「あんたの分はないが、必要だったか?」

「いいや、お構いなく」

 二人は軽く言葉を交わし、そしてハルキ様は向かいの席に座ってわたしに言った。

「じゃあ、食べるか」

 わたしは黙って小さく頷くと、お箸をとってお茶碗に手を伸ばした。

「おい」

 急にかけられた声に、肩がビクッと震えて手が止まる。

 ゆっくりと視線を上げると、そこには不機嫌そうに鋭い視線を向けるハルキ様の顔があった。

 何か気に障ることでもしただろうかと思うが、金縛りに遭ったように思考が動かない。

「あの、ご……」

 とにかく謝ろうと言葉が先走り、

「いただきますは?」

 それを遮る彼の言葉に安堵と焦りがない交ぜになって、わたしは慌てて従順な答えを返した。

「え? あ、はい」

 そして姿勢を正すと、わたしは両手を合わせて感謝の言葉を口にした。

「いただきます」

 ハルキ様のほうを上目づかいで窺うと、彼は満足そうに頷いて自分も「いただきます」と言ってお茶碗を手にとる。その顔に、わたしはほっと胸をなで下ろした。

       ◆

「おいしい!」

 ご飯を口に入れた途端、感想が自然とこぼれ出て声になった。

 ご飯一粒一粒の舌触りがなめらかで、かむほどに口に広がる甘みが心地好く、香りとなって鼻を抜けていく。

 お味噌汁を口に含むと、口に残ったご飯の甘さを絶妙な塩加減が洗い流し、再びご飯が欲しくなった。

 わたしはもう一口ご飯を頬張り、ホッケの干物に箸を伸ばす。その身はふっくらと柔らかく、口に入れれば芳ばしい香りと脂の旨味が広がって、淡泊なご飯を包み込みながら舌の上で次々とおいしさを膨らませる。

 温かな日差しの下で広い海原に心地好く浮かんでいるような、そんな穏やかな朝食にうっとりしながら、わたしの手は次から次へと目の前の食事を口へと運び続けた。

 すると、ハルキ様がくすくすと笑いながら言ってくる。

「おまえ、よっぽどお腹が空いてたんだな」

「違うの」

 わたしは自分の気持ちをちゃんと伝えたくて、お味噌汁で口の中のものを喉の奥へと流し込むと、ハルキ様の顔をまっすぐに見つめて言った。

「本当においしいから。本当に、本当に、おいし……」

 彼のご飯が余りにおいしかったのか、それとも単に空腹から解放されて気が緩んだのか、彼の顔を見ていたら涙がぼろぼろと溢れて止まらなくなってしまった。

「う、ううぅ。ひっぐ、うぅ。お、おいしい、から、だから……」

「おいおい。わかったから泣くなよ」

 頭をかきながら、ハルキ様は困った顔でキクノに視線を送る。でも、彼女はなぜか嬉しそうに微笑みを返すだけだった。

 ハルキ様は怪訝そうな顔を浮かべながらも食事を再開しようとして、ふと何かを思い出したのか、もう一度キクノを見て言った。

「そう言えば、この町が幽霊町って呼ばれるようになったのは、もしかしてあんた達のせいなのか?」

「幽霊町?」

 キクノは左右に体を揺らしながら聞き返す。

「三十年近くここら辺で幽霊やってて知らないのか? この町は落ち武者の幽霊だとか山で行方不明になった女の霊が出るとかで、結構有名な心霊スポットなんだぞ?」

「へえ、そうなの。ヒガンは知ってた?」

 お味噌汁を静かにすすりながら、わたしは首を横に振った。豆腐がつるっとしておいしい。

 キクノはハルキ様に視線を戻して話を続ける。

「だから、あたいを見ても大して驚かなかったのね」

「まあ、物心つく頃からその手の話はよく聞いてたし、それに幽霊らしきものには俺も小さい頃に会ったことがあるしな」

「ねえ、その話、もう少し詳しく聞かせてくれる?」

 急にハルキ様の真横に陣取って、キクノは顔を近づけて言った。

「なんだよ、急に。そうだな、たしか夏休みの自由研究でカブトムシの観察をしようと思って、近くの山に獲りに行ったときのことだったな」

 ハルキ様はキクノから顔をそらして、天井を見ながら話し始めた。

「急に霧が出てきたかと思ったら、奥のほうから黒い影みたいのが幾つか出てきて、そこら中を飛び回り始めたんだ。最初は俺と同じようにカブトムシを捕りに来た奴かと思ったんだけど、次第に女の泣くような声が聞こえてきて、段々それが近づいてきたから気味が悪くなって山を下りたんだ」

 山と言えば、死神のエージェントに追いかけられたときは大変だったなー。

 そんなことを思っていると、ハルキ様が人差し指を立てて真っ直ぐにわたしを見つめて言った。

「そしたら、その数時間後に山崩れが起きたんだよ。数日雨が続いたせいで地盤が緩んでたらしいんだけど、あのまま山にいたらやばかったな」

 そう言うと、ハルキ様は当時を思い出すように目を閉じて、腕を組みながら何度も頷いた。

 それを横で聞いていたキクノも腕を組んで何かを考えていたようだったけど、にやりと口の端をつり上げると、獲物を見つけた猫のような目でハルキ様に言った。

「それじゃあ、ヒガンはハルキの命の恩人ってことだね」

「なんでそうなる?」

 横目でわたしを見ながら怪訝な表情でハルキ様が言う。

「だって、その女の声ってヒガンの声だもの」

「はあ?」

 驚きの視線を向けてくるハルキ様に、わたしも驚いて口に入れようとしていたホッケが箸からこぼれ落ちる。運良くご飯の上に落ちたホッケを見下ろして安心していると、キクノが話しかけてきた。

「ねえ、ヒガン。何かお礼してもらいなよ」

「え? え?」

 楽しげに目を輝かせて言うキクノの横で、ハルキ様があからさまに嫌そうな顔をしていてわたしは困った。

「でも、それがわたしかどうかわからないし……」

 ハルキ様の表情を窺いながら言うわたしの上から、キクノが楽しげに彼に問い掛ける。

「ふふふ、ハルキ。あんたが山で聞いた女の声って、何か言ってなかった?」

「んー、たしかカブトみたいなこと言ってたな。幽霊も昆虫採集するのかと不思議に思ったから覚えているけど」

 うんうんと大きく頷いてから、キクノは人差し指でハルキ様を指さして言った。

「それって、あんたの名前だよ」

「全然違うだろ」

「だから、肉体じゃなくて魂のほうの」

 疑いの眼差しを向けるハルキ様を無視して、キクノはわたしに聞いてくる。

「ヒガンも覚えてるだろ? 山でカブトを探してたら、死神のエージェントに見つかっっちゃってさ」

「うん。あのときは大変だった。せっかくカブト様が近くにいそうだったのに、エージェントから逃げるために煙幕使ったら、カブト様の気配も消えちゃって」

 それを聞いたキクノは、得意げにハルキ様に向き直って言う。

「ほらね。あのときヒガンがいなかったら、ハルキは死んでたかもしれないんだよ?」

 ハルキ様はなぜか黙ると、眉間に皺を寄せながらわたしを見た。

「まったく信憑性の欠片も無い話だな」

 呆れるように言うハルキ様の言葉に半ば納得しながらも、どこか繋がりを期待していたわたしの心は沈んでしまう。

「あんたねー」

 キクノがハルキ様に詰め寄る。それを手で制しながら彼は言った。

「が、まあいい、変に祟られても厄介だからな。一つだけだぞ。それから、俺は自分の嫌なことはやらないからな」

 腕を組んでそっぽを向くハルキ様の横で、キクノがしてやったりという顔で「ほら。おねだりしなよ」と口だけで言ってくる。

 キクノの言葉に恥ずかしさを感じながらも、わたしはご飯に乗ったホッケの身を見ると意を決してハルキ様に言った。

「じゃあ、あの、サラダ……」

「サラダ?」

 ハルキ様が少し睨むような視線を向けてくる。

 わたしは思わず肩をすくませながらも、遠慮がちに上目づかいで聞いてみた。

「……食べさせてくれますか?」

 するとハルキ様は少し顔を赤らめてちょっと目をそらそうとした。でも、キクノに睨まれると観念したようにため息をついて、器用に水菜とミニトマト、それからカリカリベーコンを箸の上に乗せる。そして、それに手を添えてわたしのほうへ差し出してきた。

「ほら。さっさと食え」

 ぶっきらぼうに言うハルキ様に苦笑しながらも、わたしはこぼれないように口を大きく開けると、それを思い切ってくわえた。すると、口の中からハルキ様の箸がゆっくりと引き抜かれていく。ハルキ様の使った、彼の口に触れたお箸が。

 その行く先を目で追いながら、わたしはサラダをよくかんで飲み込んだ。正直、味はよくわからなくて、何かお礼を言わなくちゃと思っても、わたしの口に触れたお箸で無造作にご飯をかき込むハルキ様に、嬉しいような恥ずかしいような少し悲しいような、そんな感情が渦巻くばかりだった。

「お、おいしいです」

 そして、結局わたしの口から出たのは、当たり障りのない味気ない言葉だった。

「そうか。よかったな」

「はい」

 わたしを見ることなく言う彼に頷くと、わたしはホッケを乗せた冷めかけのご飯を見下ろした。その上に何かが落ちて、ご飯が濡れる。

「おいおい。おいしいなら泣くなよ」

「……はい」

 少し慌てた様子で言うハルキ様の声に、わたしはなんとか笑顔を浮かべて返事をする。

 頬を伝って唇を濡らす涙の味は、少し塩分が濃くて辛かった。

       ◆

「あのさ、カブトってどんな奴なんだ?」

 リビングのソファーに腰掛けながら、目の前に座ったハルキ様が聞いてくる。

 わたしと彼の目の前にはグラスが置かれ、新緑を思わせる鮮やかな緑色のお茶の中には氷が涼しげに浮いていた。

 窓の外から差し込む日の光は真っ直ぐで、徐々に夏の暑さを感じさせつつある。

「何? 気になるの?」

 そう答えたのはキクノだった。彼女はわたしとハルキ様の間に浮かびながら、意地悪そうな目で彼を見つめる。

「うるさいな。おまえには聞いてない」

「あ、そう」

 そっけなく言いながらも、キクノは楽しそうにわたしへ視線を向ける。

 その視線の横で彼の視線は、ふて腐れた表情とともにわたしを見て催促を口にした。

「で、どんな奴なんだよ?」

「えっと、カブト様は……」

 わたしは自分の中にある彼に思いを馳せると、その想いを目の前の彼に伝える。

「カブト様は、わたしの大切な人です」

「それは、つまり恋人ってことか?」

「はい。イグ……、じゃなかった。幽世には結婚がないけど。したいです、結婚!」

「いや。そんなこと俺に言われても……」

 引き気味に言うハルキ様に、わたしは思わず身を乗り出していた自分に気づいて座り直す。そして、少し落ち着こうとグラスを手にとった。手のひらに伝わる冷たさが気持ちよくて、一口飲むと爽やかな苦味が火照りかけた体を冷やしていく。

「あ、そうですよね。でも、カブト様はわたしのすべてなんです。カブト様のそばにいられるなら、わたし、それ以外は何もいりません!」

「ずーっとカブトと一緒だったもんね」

 キクノに言われて照れるわたしに、ハルキ様はなぜか冷ややかな視線を向けてくる。

「ふーん。そんなに好きなのか」

「今のあんたとは似ても似つかないけどね」

 キクノの指摘に少しムッとしながらハルキ様が言い返す。

「でも、そいつの魂が今は俺の中にあるんだろ?」

「そうだけど、カブトは誰にでも優しくて女を泣かせたりしないし、困ったときは頼りになる奴だからね。まあ、大分へタレでムッツリだけど」

「ちょっと、キクノぉ」

 カブト様のことを話すキクノが楽しそうで、わたしは彼女を見上げて頬を膨らませた。

「ああ、ごめんごめん。そんな、ご主人様をとられた子犬のような顔しないでよ。カブトのことを一番よくわかってるのはヒガンだけだよ」

「ほんと? とったりしない?」

 念を押すわたしに、キクノは手のひらを大きく振って肯定する。

「しないしない。カブトとはあくまで、ただの友達だから」

 それでもじっと見詰めるわたしから視線を外して、キクノはハルキ様に話しかけた。

「ところで、ハルキはこの家に一人暮らしなの?」

 いきなり話を振られたハルキ様は、なんだかつまらなそうな顔で答える。

「ああ」

「両親は?」

「海の上だよ」

「海の上?」

「それって、もしかして……」

 キクノは疑問を顔に浮かべるだけだったけど、わたしは頭に浮かんだ悲しい想像が消せなくて泣きそうになる。

 それを見たハルキ様が慌てて言葉を口にする。

「違う違う。両親は深海生物の研究をしていて、一年のほとんどは海洋調査船の上か研究所にいるんだよ。勝手に人の両親を殺さないでくれ」

 胸を撫で下ろすわたしの上で、「なんだ、そういうこと」とキクノが呆れていた。

「寂しくないんですか?」

 わたしの言葉に、ハルキ様は強がるふうもなく答える。

「別に。むしろ、煩わしさから解放してくれて本当に二人には感謝してるくらいだよ」

 彼の素っ気ない態度に、わたしの中で寂しさが波紋のように広がっていく。

 寂しいのはわたしだけ。

 そのことがピアノ線のようにキリキリと心臓を締め付け、鋭い痛みが胸に走る。

 そんなわたしに、ハルキ様は同じように素っ気ない視線を向けて聞いてくる。

「そんなことよりも、あんたらの事情はなんとなくわかったが、それで、やっぱりあんたは俺を殺すのか?」

「そんなことしません! 殺すなんて、したくありません。だから……」

「だから?」

 胸の痛みを引きちぎるように、わたしはハルキ様に体を寄せて訴えた。

「その方法が見つかるまで、一緒にいさせてください!」

「ごめんだな。じゃあ、その方法とやらが見つからなかったら俺を殺すってことだろ?」

 突き放すように視線をわたしから外して、ハルキ様は窓の外を見ながら言った。

「違います! そんなこと……」

「まあ、殺されるくらいなら、俺は自殺を選ぶけどな」

 冗談のように言う彼に、わたしは距離を感じていた。

 ただ一緒にいたいだけなのに……。

「そんな悲しいこと、言わないで……」

 わたしを見ない彼の横顔に向かって言っても、彼は遠くを見たまま口を開くことはなかった。

「しょうがないわね。ちょっとハルキ」

 見かねてキクノがハルキ様を呼んだ。

「なんだよ?」

 振り向きもせずに答えるハルキ様に、キクノは彼の耳元で何かを話し始める。

 声が小さくて「襲った」とか「夢枕」とか断片的にしか聞こえないけど、それを聞いたハルキ様の顔がみるみるうちに青ざめていく。そしてキクノの話が終わると、呪われたような疲れ切った表情で、ハルキ様はわたしに言った。

「くそっ、わかったよ。夏休みの間だけだぞ。俺も忙しいからな、それまではいてもいいが、それ以上はダメだ」

 なんだかよくわからないけど、ハルキ様はそう言うと目の前の緑茶を一気に飲み干して、天を仰ぐようにソファーの上で仰向けになった。

 キクノを見れば、彼女は親指を力強く立てて満面の笑みを浮かべている。

 とりあえず一緒にいられるの?

 疑問は次第に現実味を帯びて、胸の内側から実感として広がっていく。

「ありがとう! ハルキ様、だーい好き!」

 わたしは喜びの余り、ハルキ様の胸へと飛び込んでいた。

       ◆

「本当に、そのカブトって奴のことが好きなんだな」

 俺の隣に寄り掛かって気持ちよさそうに眠る彼女――ヒガンを見ながら、俺はため息とともに独りごちた。

 カブトとかいう俺の知らない男のことを、彼女は満面の笑みで自分のことのように話していた。鬱陶しいくらいに腕に抱きついてきて暑苦しくて、うざいくらいに瞳を輝かせて見つめてくる彼女に、俺の頬は終始引きつりっぱなしだった。今でも顔がやけに熱くて困る。

「わたしのすべて、か……」

 俺は彼女の小さな頭を見下ろしてつぶやく。

 ヒガンの髪は彼女の体を優しく包み込み、その鮮やかな紅は、朝の光をその表面に流しながら自分の存在を主張していた。でも、そのカブトって奴が君のすべてだと言うのなら、じゃあ、君はどこにいるんだ?

 隣で眠るヒガンが、鎖に縛られた空虚で何もない人形のように見えて、俺の心がざわつく。

「くだらない」

 俺はポケットの中でピルケースをいじりながら、ささくれ立つ気持ちを吐き出すようにため息をついた。

 天井を見上げれば、白いはずの天井がやけに暗い。

「何がくだらないって?」

 声に焦点を合わせれば、黒い女が月のように冷たい目を細めている。白髪が触れそうな距離で、キクノが俺を見下ろしていた。

「おまえ、不気味だぞ」

「幽霊だからね」

 真っ黒な瞳孔を縦長に細めながら、キクノはぶっきらぼうにそう言うと、そのまま俺を見たまま黙り込む。

 その視線に押しつけられるように俺は首を竦めるが、怠い体がそんなことはどうでもいいと言ってくる。俺は自分の体に従って、目を閉じてキクノを視界から追い出すと全身から力を抜いた。ソファーに心地好く体と意識が沈んでいく。

 帰ってきてから一日も経っていないというのに、ヒガン達が現れて半日くらいで酷く疲れがたまっていたみたいだ。そのことを実感して、沈み行く意識の中で面倒なことになったと俺は改めて思った。しかし、それさえも今は気泡のように意識の底から消えていく。

 取り敢えず今は休もうと、俺は固くなった体をほぐすために肩を動かした。

 ふにっ。

 柔らかくて温かい感触が二の腕を撫でる。そして、俺の意識は一瞬の心地よさとともに凍りつく。油断した。すっかり忘れていた。隣に彼女がいたことを。急速に意識が現実へと浮上していく。

「記憶がなくても、スケベなところはカブトのままってことか」

「いや、これは……」

 目の前でキクノが、真っ黒な怒気をまといながら俺を睨んでいた。

 体中からは汗が噴き出し、早鳴る鼓動に支配されたように、思考はヒガンの鼓動を意識していた。

「やっぱり、一度殺しておいたほうがいいかもね」

「殺したくないんだろ⁉」

 反射的にそう言うものの、ヒガンに抱きつかれた腕は、なぜか電信柱のように動かない。

「ヒガンはね。でも、あたいは殺してみるのも手だと思ってるんだ」

 そう言って、キクノが拳を鳴らす仕草をしながら迫ってくる。

 慌てて俺は、ヒガンの胸から腕を引きはがそうとする。しかし、逃がさないというように彼女は俺の腕を強く抱きしめ直した。

「カブト様、行かないで……」

 ヒガンが目を閉じたまま小声でつぶやく。その目尻には、一粒の涙が浮かんでいた。

「はぁ、まったく……」

 キクノの怒気が、ため息とともに霧散していく。

「ヒガンが悲しむことはできないね。それに……」

「それに、何だよ?」

 しがみつくようなヒガンの顔を見ながら、俺はキクノに尋ねる。しかし、キクノは続きを口にしなかった。

 俺は今日何度目かのため息をつくと、ヒガンの頭を撫でて涙を拭ってやる。そして、その顔に笑顔が戻ったことを確認すると、今度はためらいなく立ち上がった。

「どこに行くのさ?」

 目の前にいたキクノが、俺に体を串刺しにされた状態で背後から聞いてくる。

「風呂だよ。汗を流してくる」

 一気に噴き出た汗が体にまとわりついて気持ち悪かった。

 早足で扉へと向かう俺の後ろで、ヒガンの少し苦しそうな呻き声と衣擦れの音が聞こえてくる。でも俺は、それを無視してリビングを出て行く。

「まあいいさ。死なんて無意味だしね」

 誰に言うともなく苦笑交じりにこぼれ落ちたキクノの声は、どこか悲しげに俺には聞こえた。

       ◆

 希薄になった腕の中の温もりに気がついて、わたしは息苦しさとともに目を開けた。

 背に当たる温かな日差しと、それとは別に頭に残る彼の感触が懐かしくて心地いい。でも、彼の姿はどこにもなくて、代わりに水の流れるような音が遠くから聞こえてくる。

「ん? ハルキ様?」

 わたしは彼の名前を呼びながら体を起こした。

「ハルキなら風呂場だよ」

「おふろ?」

 重たいまぶたをこすりながら、頭上から聞こえるキクノの声におぼろげな思考で言葉を返す。そして、次いで出てきたあくびに任せて、わたしは体を伸ばしながら大きく息を吸い込んだ。

 大分なじんできた体を、さらさらと自分の髪が流れ落ちていく。肌を撫でていくその感触がくすぐったくて、わたしは体を震わせた。

 それでも気怠さが少し残る体を靄のかかった意識でなんとか立ち上がらせると、わたしは彼の匂いに体を委ねて歩き出す。

「ちょっとヒガン、どこに行くの?」

 怪訝そうな声で聞いてくるキクノに、わたしは頭に浮かんだ映像をそのまま口にする。

「わたしもハルキ様とおふろに入る」

「はあ? ちょっと待ちなさい!」

 リビングを出ようとするわたしの目の前に、すかさずキクノが滑り降りてくる。

「どいてよー」

 彼への扉を隠すキクノに文句を言って、わたしは彼女を睨みつけた。

「あんたは痴女か……」

「痴女って、ひどいなー。普通だよ。体を洗いっこするだけだもん」

「普通? 洗いっこって……」

 わたしの答えにキクノが疲れた顔をする。

「もー、邪魔だよー」

 わたしが勢いよく手を振ると、キクノの体は抵抗もなくスライドして遠ざかった。その姿は天井を通り抜けて見えなくなり、彼女の声だけが頭の中から響いてくる。

「もう! 無駄な力を使って! どうなっても知らないからね! あと、どうせだから、しっかりハルキから抗体もらってきなさいよ!」

「はーい。わかったー」

 小さくなっていくキクノの声にあくび混じりに答えて、わたしは目の前の扉を開けた。

 薄暗い廊下へと踏み出す私の頭に、「ほんとに、わかってんのかね」とノイズ混じりにキクノの声が聞こえたような気がしたけど、今のわたしにはどうでもいいことだった。

 水の音と彼の匂いを頼りに廊下の突き当たりにある扉を開けば、強い彼の匂いが鼻腔をくすぐる。

 脱衣所に脱ぎ捨てられた彼の衣服を確認して、わたしはお風呂場の扉越しにぼんやりと浮かぶ彼の姿を視界に捉えた。そして、しゃがんでいるような姿のハルキ様に近づきながら声をかける。

「はーるーきーさーまー」

 すると、ガタッという音ともにハルキ様の声がすぐに返ってきた。

「おい! おまえ、そこで何してる⁉」

 何をしているんだろうと考えて、浮かんだ言葉を口にする。

「わたしも一緒に入るー」

「わたしもって……、俺が入ってるんだぞ!」

 ハルキ様がなんだか喚いているけど、わたしは構わず扉を開けた。

 立ち上がってわたしを見るハルキ様の視線が、下から上へと動いて生唾を飲み込む音が聞こえる。

 やっぱりカブト様より小さくて可愛いなーと思っていると、わたしと目が合った瞬間にハルキ様は慌てて背を向けて言った。

「おい! そんな格好で入ってくるなよ!」

「んー?」

 肉体を具現化したときに何か間違えたのかと、わたしは自分の体を見回してみる。胸も腰もお尻だってたるんでないし、手足もガリガリってわけじゃない。それにむだ毛は、そこまで設定する余裕なかったからそもそもないし……。そこまで考えて、わたしは気がついた。

「そっかー、お風呂だもんねー」

 体にぴったりと張り付いた水着のようなボディスーツを思いだして、わたしはそれを泡のように消し去った。

 すると、違和感に気づいたのかハルキ様が首を回して視線を向けてくる。

「ぬわっ! な、何してる⁉」

 彼は目を見開いて、わたしの体を見ながら叫んだ。

 体を締め付けていたボディスーツから解放されて、わたしは熱い視線を向けるハルキ様へと抱きつく。

「あったかーい」

「ちょ! おまえ、やめ……」

 ハルキ様の筋肉質の背中が温かくて気持ちいい。彼の胸に腕を回せば、早鐘のようなリズムが聞こえて、それは徐々にわたしの鼓動とテンポを合わせ始める。彼の体とわたしの体が一つのリズムで繋がり、彼の中のわたしが蠢いて、活性化した衝動が彼の中にある理性を揺さぶる。

 汗ばんだ肌から立ち上るハルキ様の匂いに包まれながら、わたしは体をより密着させて彼に自分を伝えていく。そして、ハルキ様をもっと知りたいという衝動のままに、黙り込んだまま微動だにしない彼の体へと手を這わせていった。

 固く締まった腹筋に鼓動を伝えるしなやかな胸、しっかりとした太もも、そして、シンクロしたテンポに導かれるように、わたしの手は彼へと伸びていく。

「おい! そこは、やめてーーーーーッ!」

 風呂場に響くハルキ様の可愛い悲鳴を聞きながら、それでもわたしは彼を精一杯抱きしめた。

       ◆

「どうしたの?」

 周囲を見回していたわたしに、左隣に座った友達が聞いてくる。

「ううん。なんでも?」

 笑顔を浮かべてそう答えると、ちょうど注文したドリンクがやって来た。

 テーブルに置かれたグラスを見て、今度は右隣の友達が興味ありそうな視線を向けてくる。

「それ、ブルーベリーソーダ?」

「マルベリーソーダっていうみたい。今日のお勧めなんだって」

 空中をゆっくり漂うお勧めメニューを指さしながら、わたしは彼女に笑顔で答えた。

 グラスをかざしてみると色はブルーベリーよりも濃くて、向こう側が見えないくらいの赤黒さに少し不安を覚える。でも、表面で泡が弾けるたびにフルーティーで爽やかな香りが広がって、そんな不安も溶かしていった。ストローを使って一口飲んでみれば、思ったよりもさらっとしたジュースが舌の上に広がって、ソーダの刺激とともに甘酸っぱい香りが鼻から気持ちよく抜けていく。

「おいしい」

 いつも迷ってお勧めにしちゃうから、たまに外れることがあるんだけど、今日は大丈夫でよかった。

 そう思って、ほっとしながらソーダを飲んでいると、向かいから何か視線を感じる。

 顔を上げてみれば、フェル先輩がブルーブラックの艶やかな髪をかき上げて、にやりと笑みを浮かべていた。

「さっきからキョロキョロしてるけど、もしかして探してる?」

「な、何をですか?」

 先輩の鋭い視線に心臓が大きく跳ねて、動揺を隠そうとしても、出てくる言葉は道端を転がっていく石ころのようにたどたどしくなってしまう。

 そんなわたしを面白そうに見つめる先輩の口から、核心を突く言葉がゆっくりと告げられる。

「カ・ブ・ト」

「ち、違いますよ!」

 慌てて首を横に振っても裏返った声では、みんなの笑いを誘うだけだった。

 わたしは火照った顔を隠そうと、俯いてストローに口をつける。

「さっさと告白すればいいのに」

 楽しげに言う先輩の顔を目だけで睨みつけて、わたしは冷たいソーダで渇いた喉を潤した。

「そう言えば、カブトさんなら落ちたって聞いたけど……」

 隣の声に思わず振り向いたわたしに、その彼女は驚いて、

「まったく、あんた、どれだけ彼のこと好きなのよ」

 と、呆れながら言った。でも、その親しげな「彼」という言葉にさえ、今のわたしは反応してしまう。

「だから、そんな、とっておいたイチゴを取られたような顔しないでよ。大丈夫、カブトさんの友達からたまたま聞いただけだから」

 疑いの視線を向けるわたしに、彼女は「ほんと、ほんと」と言いながら頭を撫でてくる。

 その扱いに釈然としない気持ちとカブトさんがいないという現実に、自然とわたしの口からため息が漏れた。

「まったく。そんなに落ち込まないの」

 そう言って彼女は、またわたしの頭を今度は少し乱暴に撫で回す。

「じゃあ、わたしたちも落ちちゃう?」

「いいんじゃない。どうせ暇なんだし」

 左右を見れば、彼女たちは笑顔でわたしを見ていた。

「そうね。たまには気分転換も必要だし。特にヒガンは」

 茶化すように言う先輩に頬を膨らませて怒ってみても、先輩は気にするふうもなく、宙に半透明のコンソールを呼び出して手際よく落ちる準備を進めていく。

「設定は……、決めるの面倒だからランダムでいっか」

「やばいの出たらどうするんですか?」

「そうですよ。先輩なんか、せっかく人魚になったのに漁師に捕まったんでしょ?」

「あの人生は酷かったわー」

 額に手を当ててそう言いながらも、先輩の顔は楽しげに笑っていた。そして、笑顔をみんなに向けながら気楽な口調でいつもの口癖を言ってくる。

「でも、決まった人生なんてつまんないって言うでしょ?」

 その言葉に、わたしはおずおずと手を上げて異を唱えてみる。

「あの、わたしは慎ましく平和なほうが……」

「ヒガンは恐がりだもんね」

「魚の眼も見れないくらいだし」

 そんなささやかな周囲の同意も虚しく、先輩は「大丈夫、大丈夫」とランダム設定のままコンソールを消してしまう。

「じゃあ、行こっか」

 そう言って立ち上がる先輩に続いて、隣の二人も楽しげに立ち上がる。そして、うなだれるわたしをよそに、ゲートをそれぞれ開き始めた。

「……もう!」

 わたしはグラスに残ったソーダを一気に飲み干すと、喉を襲う刺激をこらえて立ち上がる。

 目尻に浮かんだ涙を拭って三人を見れば、それぞれに笑顔で、

「またあとでね」

「ばいばい」

「楽しんできなよ」

 そう言って自分のゲートへと入っていく。

 わたしもそれに応えて小さく手を振ると、自分のゲートを呼び出して入った。

 ゲートの先、薄暗い空間には青い光を放つ椅子が一つある。わたしは諦めのため息とともに、その椅子に腰掛ける。すると空間の中を幾つかの光が走り抜け、椅子がゆっくりとリクライニングして体が仰向けになっていく。

《新しい人生の始まりへ、ようこそ》

 システム音声が闇の中に響いて、わたしの意識がゆっくりと落ちていく。

 カブトさんに会えるといいな。

 気持ちよく溶けていく意識の中で、わたしは彼との楽しい人生を願った。

 それは、サイコロを転がすくらいの軽い気持ちだった。

 でも、それは間違いだった。楽しい人生なんて願ってはいけなかった。

 だって、イグノアはあらゆる想いが実現する世界なのだから。

《それでは、充実した人生をお送りください》

 その声を最後に、わたしは何もかもを失った。

       ◆

 窓から差し込む日差しが温かい。

 ベッドに横になりながら、結局一睡もできなかったことにため息をついて、わたしはゆっくりと体を起こした。

 ここは、イグノアのわたしの家。

 そのことを再確認して、わたしは安心する。

 でも、ほっと一息ついた直後にそれはやって来た。肌をくすぐるような感覚が腕を覆い、意識を向けると白い腕に紅い線が幾つも浮かび上がる。血に犯された腕はうずき、ぬめるような内蔵の体温が肌にまとわりついて、手のひらに脈動する太い血管の感触が蘇る。

「あ、いや、そんな……」

 慌てて腕をこすると、それは自分の髪の毛で、それでも消えない気持ち悪さにわたしは肌をかきむしる。

「いやあっ! いやああああっ!」

 でも、かきむしるほどに肌は赤くなり、次第にミミズが這うように血がにじみ出て、皮膚とは違う濡れた感触に神経が悲鳴を上げた。

「痛っ⁉」

 頭を突き刺すような痛みに手の動きが止まり、ようやくわたしは少し自分を取り戻す。

 すると、階段を駆け上がるような音が聞こえてきた。それは、今わたしがいる寝室の扉の前で止まると、少しの間を置いて勢いよく開いた。

「おい! 何があった! 大丈夫か⁉」

 そこにはカブトさんの顔があった。後ろで一つにまとめた長いブルーブラックの髪が、心配そうに揺れている。

「なんで……あ、いっ」

 指が傷口に触れて、その痛みにわたしは慌てて腕を隠した。でも、彼は早足で近づいてくると迷わずわたしの腕をとって、傷を見ると痛そうに顔を歪めた。

「こんなに傷ついて……」

 汚れた腕を見られた恥ずかしさとカブトさんに嫌な思いをさせてしまったことに、わたしは申し訳なくなって俯くしかなかった。

 彼はわたしの横に来てベッドに腰掛けると、空中を撫でて想力の泡からガーゼと包帯を取り出し、それを丁寧にわたしの腕に巻いていく。

「一体、どうしたの?」

 優しい声でカブトさんは聞いてくる。

 傷口にガーゼを当てる大きな手が遠慮がちに触れて、わたしの体温が少し上がる。

「痛い?」

 彼の声に胸が締め付けられながらも、私は嘘をついて首を横に振った。

「フェルも心配していたよ。よかったら、何があったか話してくれないかな? もしかしたら、僕には話しにくいことかもしれないけど」

 そう言ってわたしの顔を覗いてくるカブトさんを「ずるい」と思いながら、それでも彼を頼ってしまう自分に、わたしは心の中で呆れながら口を開いた。

「わたし、人を殺してしまったんです」

「そんなこと誰だって経験することだよ。気にすることないさ」

 期待どおりの言葉に安心しつつ、それでもぬぐえない不安が口からこぼれ出る。

「でも、あんな……」

 そこまで言って、頭をよぎった記憶の断片に気持ち悪さがこみ上げ、わたしはそれ以上口にできなかった。でも、心の奥底でもう一人の自分が囁く。本当は気持ち悪いからじゃない。それ以上に楽しんでいた自分がおぞましかったから。そして何よりも、湧き上がるあの高揚感を抑えられないかもしれない、そう思う弱い自分が怖かったからだと。

 震えるわたしの体を、カブトさんがそっと抱き寄せる。

 彼の肩により掛かりながら頭を撫でられるだけで、わたしの心は少し軽くなった。

「僕もダウンで酷い目に遭ったばかりでさ」

 苦笑を浮かべて言う彼の声は優しくて、わたしは彼の腕に抱きついて甘えずにはいられなかった。

「土砂降りの雨だっていうのに夜中に呼び出されて、行ってみたら何か麻酔薬みたいなものを打たれちゃったんだよね」

 彼の言葉に、なぜか血の気が引いていく。それなのに心臓と腕だけが別の生き物のようにドクン、ドクンと脈を響かせていた。

「でも意識ははっきりしてて、腹に直接手を入れられたり心臓握りつぶされたりで、あれが猟奇殺人ってやつかな? ん? ヒガン?」

 そっと離れたわたしを、心配そうなカブトさんの声が追ってくる。

「ごめんなさい」

 聞こえるかもわからないような小さな声が紡いだのは、自己満足に過ぎない言葉だった。

「あ、ごめん。気持ち悪かったよね」

 くだらないわたしの言葉にさえ謝る彼に、わたしの心は耐えられない。

「ごめんなさい!」

 私はベッドから駆け下りると、そのまま部屋を飛び出した。後ろから聞こえる彼の声から逃げるように、包帯を巻いた腕を抱きしめながら無我夢中で走り続ける。

 よりにもよって、なんで彼なの? なんで? なんで! なんで!

 痛い。腕が痛い。腕も胸も裂けるように痛いよ!

 行き場のない憤りと鋭い痛みに思考はがんじがらめになって、わたしは絶望の底へと沈んでいった。

       ◆

 夜空の下で、潮騒が傷ついたわたしの心を撫でていく。

 闇を抱えた岸壁の上では、大きな満月が白い光を放っていた。

 砂浜を吹く風はワンピースの裾を揺らし、素足に触れてまとわりつく。

 いたずらに引き留めるような風を無視して、わたしは重い足を引きずっていた。

 じっとりと腕の包帯は濡れて熱を持ち、鼓動がうるさく主張を繰り返す。

 喉は渇いて首を締め付けるように張り付き、唾を飲み込むたびに血の味が口の中に広がった。

 貝殻でも踏んだのか、足裏に痛みが走る。

 反射的に顔が歪むけれど、それよりも傷口に入り込んだ砂がこすれて、痛みよりも痺れるようなくすぐったさに苦笑が漏れた。

 お腹の底から何かが溢れそうになる。それを吐き出せば楽になれる。そんな誘惑に体が震え、それを掻き消すように足先に冷たい感覚が押し寄せた。

 重たい視線を少し持ち上げると、海に映った月が大きな白い海月のように手招きをしている。

 消えよう。消えてしまおう。どうせ死ぬことはできないのだから。

 わたしは海月に手を伸ばし、その内側へと沈んでいく。

 海月は拒むことなく、ただ静かに受け入れて、わたしを体内へと呑み込んでいく。

 ほどけかけた包帯が暗い影を広げながら触手のように揺らめき、電気が走るような腕のうずきに、わたしは上を向いて大きく息を吐き出した。

 月明かりに星々は身を潜め、冷たい風が体を包み込む。そして、背後から不意に抱きしめられた。

 わたしは抵抗することなく動きを止める。

「……」

「どこに行くんだい?」

 意味のない質問に、頭は勝手に沈黙を選ぶ。

「僕も連れて行ってよ」

「ダメ!」

 反射的に言葉が出る。でも、寒気に体が凍りついて振り向くことさえできなかった。

 また殺してしまう。

 その想いを必死に否定しようと、思考が悲鳴で埋め尽くされる。

「君が僕を殺したから? それとも人殺しを楽しんでしまったから?」

 やっぱりずるい。わかっていて、それでも彼は、わたしの心に直接触れてくる。

「僕は、そんなことで嫌ったりしないよ。それが君を解放から遠ざけるのなら、むしろ嬉しいくらいだよ」

 腰に回された腕がわたしを抱き寄せて、お腹のあたりがじんわりと温かくなる。

 溶け出した心が言葉になって、涙と一緒にこぼれ落ちた。

「でも……。わたし、あな、たを……、あんな……」

 それ以上は頭が痺れて、どうしても言葉にならなかった。

 これ以上わたしに優しくしないで。でも、嫌いにならないで。

「ごめん、なさい。ご、めん、なさい……」

 気持ちと違う言葉しか出てこないことに苛立ちながら、それでも彼を想う気持ちに、どうしようもない無力感が広がっていく。

 糸が切れたように体中から力が抜ける。

「謝らなくていいよ」

 崩れるわたしの体を抱き留めながら、彼は腕に力を込めて静かにそう言った。まるで、怒っているような響きを隠して。

 そして彼の声が、わたしの耳元ではっきりと契約の鎖となって音をたてる。

「ヒガン。君は僕を殺した。だったら、君は責任を持って僕の葬送をしないといけない」

 わたしはそれに答える。首に回された愛しい鎖に触れながら。

「はい。カブト様」

 死ぬことのないイグノアで、死者だらけの世界で、葬送は決して終わらない。

 こうして、わたしと彼との新しい関係は始まりを告げた。

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