第三章

 リビングに入ると、オレンジの爽やかな香りと小麦の芳ばしい香りが漂ってきた。

「ハルキ様、おはようございます」

 わたしは牛乳を手にしたハルキ様に挨拶をして、匂いのもとへと視線を向ける。

 ダイニングテーブルにはキツネ色に焼かれたトーストとマーマレード、それから小さな器に水洗いしただけの真っ赤なミニトマトが幾つか盛りつけられて置かれていた。

「ああ、おはよう。ようやく起きてきたか」

 そう言ってハルキ様はグラスに牛乳を注いでいく。「キクノも、おはよー」

「おはよ」

 天井をすり抜けてきたキクノにも挨拶しながら、わたしはテーブルに着いて隣の席を引く。

「ありがと」

 キクノはお礼を言って引いた席に座るまねをした。そして、向かいの席にハルキ様が座ると、私たちは「いただきます」と言って朝食を食べ始める。

 トーストにバターを塗り、その上にマーマレードをたっぷり乗せる。

「はむっ」

 サクッとした歯触りとともにマーマレードの甘さとバターの塩分がほどよく合わさり、トースト自体の甘味とともに芳醇な香りが胸一杯に広がる。それを冷たい牛乳で喉の奥へと流し込む。

「くうっ、おいしい!」

 わたしは一口、二口とトーストにかじりついては牛乳を飲み干していく。

「おい」

 ハルキ様に声をかけられ、わたしは飲んでいた牛乳のグラスをテーブルに置いた。

「なんですか?」

「今日は、ちょっと俺につき合え」

 その言葉に思わず鳥肌が立って、わたしはテーブルの上に身を乗り出して答えた。

「もちろんです! わたしは、どこにだってついて行きますからっ!」

「近い近い。少し離れろ」

 そう言って、ハルキ様はわたしの口にミニトマトを一つ押し込んだ。椅子に座り直しながらミニトマトをかむと、皮が弾けて甘いジュースが口の中に広がる。

 ハルキ様は、そんなわたしを難しい顔でじっと見つめていた。その視線がわたしの口元から下へと降りていく。

「ハルキ様?」

 わたしの声にハルキ様は視線を慌てて上げると、携帯電話を取り出して電話をかけ始めた。

 暫くすると相手が出たのか、横を向いて話し始める。

「もしもし。ハルキだけどチエリか? 朝早くに悪いな」

 名前からすると相手は女のようだった。下の名前で呼ぶなんて気になる。でも、話はすぐに終わったようで、内容を聞き取る間もなく彼は電話をしまうと食事を再開した。

 そして、ハルキ様が電話をしてから数分後、玄関のチャイムが鳴った。

「ハルキさん。来ましたわよ」

「え? 早っ⁉」

 聞こえてきた女の声に驚くわたしを横目に、ハルキ様はグラスに残った牛乳を飲み干すと玄関へと出て行く。

「来てくれてありがとう。助かるよ」

 ハルキ様の安心したような優しい声が聞こえた。

「何を言っていますの。ほかならぬハルキさんのお力になれるのでしたら、いつでもわたくしは駆けつけますわ」

 女の楽しげな声に、わたしは居ても立ってもいられず席を立ってダイニングの扉から玄関の様子を窺う。

 そこには、いかにもお嬢様という雰囲気をまとった線の細い女が立っていた。フリルのついた白いワンピースから伸びた手足は色白で、白桜色の腰まで伸びる長い髪が玄関から入る光を浴びて輝いている。ただ、少し大きめの麦わら帽子で隠された胸は、可愛らしいくらいに控えめだった。

「ウゥゥゥゥゥゥゥ!」

 じっと見ているこちらに気づいたのか、彼女がこちらを見ながらおずおずとハルキ様に尋ねる。

「あのー、ハルキさん? あちらで唸っている彼女は?」

 ハルキ様は後ろを見てわたしに気がつくと、困ったような表情で彼女に説明する。

「ああ、彼女は遠い親戚の子なんだ。ちょっと両親が仕事の都合で海外に行くことになってね。うちで夏休みの間だけ預かることになったんだ」

「えええっ!」

「なんでおまえが驚く⁉」

 驚くわたしに、ハルキ様が笑みを引きつらせながら言ってくる。

「だって、わたしはハルキ様のかの……」

「わあああ!」

 いきなり大声を出したハルキ様に思わず息を呑むと、その後ろから冷たい視線とともに別の声が聞こえてくる。

「へえ、そうなんですの」

 わたしより少しだけ高い背を見せつけるように、彼女は絶壁のように胸を反らしながら見下ろしてきた。そして、そのままの姿勢で口元に笑みを浮かべながら話しかけてくる。

「初めまして、わたくしはチエリと申します。あなたのお名前は?」

「ヒガンです」

 必要最小限の言葉を返して、わたしはダイニングから廊下へ出ると、彼女の視線を真正面から迎え撃った。

「それで……」

 そう言ってチエリさんの視線が、わたしの体を値踏みするように上下に動く。

 顔を少し赤らめながら、チエリさんはわたしから視線を外すとハルキ様に聞いた。

「彼女はなんで家の中で、あんな……、水着姿なのですか?」

 ハルキ様は、どこかほっとしたように一息つくと彼女に向かって話し始める。

「そのことでチエリの力を貸してもらおうと、今日はわざわざ来てもらったんだよ」

「この子のことで……」

 横目でわたしを見ながら彼女はつまらなそうに呟いた。

「こいつ、これしか持ってなくてさ。女物の服は俺にはわからないし、それでチエリにこいつの服を見繕ってもらおうと思ってさ」

 ハルキ様の言葉に、チエリさんは「そう」とだけ答えると、疲れたように大きなため息をついた。

 そんな彼女の隙を突いて、わたしはハルキ様の腕に抱きついた。

「ハルキ兄様ぁーーー♡」

「兄様ぁ⁉」

 そして彼の恥ずかしがる顔を見ながら、チエリさんにも聞こえるように言ってやる。

「わたしは、このままでも全然平気だよ。だってこれ、ハルキ兄様がわたしのために選んでくれたものだもん♡」

「ハ、ハルキさん⁉」

 面白いように驚くチエリさんに、わたしはハルキ様の体に抱きついて見せつけながらさらに言う。

「ねぇ、兄様ぁ♡ あんな女は放っておいて、もっとわたしと遊びましょうよぉ♡」

「な⁉ ちょっと、あなた! ハルキさんから離れなさいよ!」

 甲高い声とともに近づく重い足音に振り向けば、目の前には迫り来る麦わら帽子の影があった。

       ◆

「とりあえず洋服から見繕いましょうか」

 車から降りると、目の前にそびえる駅ビルよりも堂々とした態度でチエリさんはそう言った。

 後ろを振り返れば黒塗りの高級車の横で、いかにも執事といった感じの白髪の老人がにこやかな笑みを浮かべている。

「ねえねえ、ハルキ、あの執事の方のお名前はなんて言うのかしら?」

 隣というかハルキ様の上から、キクノが少し興奮気味に言ってくる。

「は? 執事の方? お名前? かしら?」

「いいから教えなさいよー」

 老人に熱い視線を向けたままのキクノに、ハルキ様はため息交じりに答える。

「ワタラギさんだよ」

「ワタラギ様って言うんだ。お名前も渋いわぁ」

「キクノは、本当におじいちゃんが好きよね」

 そう言うわたしにキクノは人差し指を立てて、わかってないというふうに話し始めた。

「違うわよ。あたいが好きなのは老執事! 完璧な心配りと落ち着いた品のある佇まい、そして何よりも儚ささえも感じさせるその優しさ。ああもう、ス・テ・キ!」

 うっとりするキクノにわたしとハルキ様は苦笑を浮かべた。

「あなたたち、誰と話をしていますの?」

「誰って……」

 尋ねるチエリさんにハルキ様は空中を指さす。その先を見つめて、彼女は首をかしげた。

 ハルキ様が、説明を求めて顔をわたしに向けてくる。

「この人にはキクノは見えませんよ?」

「え?」

「キクノ?」

 驚くハルキ様の横で、怪訝そうにチエリさんがキクノの名を口にする。

 ハルキ様はわたしの耳元に口を寄せると小声で聞いてきた。

「じゃあ、なんで俺には見えるんだ?」

「なんでって、わたしとハルキ兄様が繋がってるからに決まってるじゃないですか♡」

 熱くなる頬を押さえながら、わたしは小声ではなくチエリさんを見てはっきりと答えた。

「繋が……ハルキさん⁉」

 絶句するチエリさんを無視して、わたしはハルキ様との話を続ける。

「それに、誰にでも見えてたら大騒ぎになっちゃいますよ?」

「アー、ソウカ。ソレモソウダヨナー」

 ハルキ様は急に疲れたような表情になってうなだれると、

「チエリ、あとは任せた」

 そう言ってチエリさんの肩を軽く叩いた。

 叩かれた肩を暫く見つめてから、チエリさんは腰に手を当てると少し赤い顔で高飛車に言った。

「な、なんだかよくわかりませんけど、任されたからには、きちんとしたものを選んで差し上げますわ」

 そして、わたしの服装を見ると一転して彼女は少し不機嫌そうな顔をした。

 デニムのパンツに白いワイシャツ、それに緩く締めた黒ネクタイ。そんな自分の格好を改めて見ながら、わたしはぽつりとつぶやく。

「わたしは、これでいいのに……」

 それは、すべてハルキ様から借りたものだった。ハルキ様の匂いに包まれて、もうそれだけで幸せな気持ちになれる。

「ねえ、ハルキ兄様もそう思うでしょ?」

 ハルキ様の腕に抱きつきながら、わたしは彼に同意を求めた。

「いや、おまえと服を共有する気はないから」

「えー」

 冷たく言う彼にがっかりしていると、急に誰かの手がわたしをつかんで引っ張り出す。

「当たり前です。男性から服を借りるなど、うらや……、うら若き乙女のすることではありません!」

「ちょっと、そんなに強く引っ張らないでよー」

 ハルキ様との距離がどんどん離れていく。

 ハルキ様は執事さんに軽く会釈をすると、その上でぼーっとしているキクノを呼びつけ、彼女とともに小走りにやって来た。そして、わたしとチエリさんの後ろに来ると、

「あのさ、買い物はチエリに任せるけど、その前に昼飯にしないか?」

「さんせーい」

 わたしはチエリさんに引きずられながら、ハルキ様の提案に喜んで賛成する。

「あなたは、これから服を選ぶというのに……」

 チエリさんは額を押さえて、深いため息をついた。

「結構、疲れると思うぞ。精神的に」

「……そうかもしれませんわね。それで、どこにしますの?」

 チエリさんは大きく息をつきながらも同意すると、わたしから手を離してハルキ様に尋ねる。

「あそこ、あそこがいい!」

 わたしはハルキ様の腕を強く抱きしめながら、緑・白・赤の三色で彩られた鮮やかなお店を指さして言った。

「じゃあ、あそこにするか」

 そう言って歩き出すハルキ様についていこうとして、わたしは背筋に冷たいものを感じて立ち止まった。恐る恐る振り返ると、そこには逆さになった幽霊が、短い白髪を垂らしながらジト目でわたしを見ていた。

「ヒガン。相手はダウンの人間なんだから、からかうのもほどほどにしときなよ?」

「わ、わかってるわよ」

 半ば呆れた様子で言ってくるキクノに平静を装いながら答えると、わたしはハルキ様の後を追って、パスタ専門店と看板に書かれたお店に入っていった。

       ◆

 お店に入ると、楽しそうな会話の声とオリーブの香りが食欲をかき立てる。

 二人同士で向かい合う四人席に、ハルキ様とわたしは並んで席に着いた。そして、あとからやって来たチエリさんは向かいの席について、隣に麦わら帽子とハンドバックを置く。キクノはと言えば、その上であぐらをかいてコンソールをいじっていた。

 店員さんがメニューとお水を持ってくると、ハルキ様はメニューをテーブルの上に広げて言った。

「何にするかな?」

「そうですわね」

 ハルキ様とチエリさんがお水を飲みながらメニューを見ている中、わたしはグラスに口をつけながらハルキ様を横目で見ていた。

「わたくしは夏野菜のパスタにしますわ」

 さっさと注文を決めるチエリさんの声が聞こえるけど、わたしはハルキ様の首筋に浮いた汗が気になって、抱きつきたい衝動を必死に抑えていた。

「おいしそう」

「ん? 食べたいものが決まったか?」

 思わず漏れた声にハルキ様が訊いてくる。

 いきなり彼に振り向かれて、わたしは慌てて目をそらすとメニューの中で一番大きな写真を指さした。

「えっと、これ!」

「え? 山男のカルボナーラか? これ、かなり量があるぞ」

 写真をよく見れば、それは山盛りのスパゲッティーに溶岩のような濃厚ソースが絡まり、岩石を思わせるゴロゴロとした厚切りのパンチェッタ(塩漬けの豚肉)に火山灰を思わせる粗挽きの黒胡椒のかかった、なんとも豪快な料理だった。

 どうしよう。こんなに一人で食べきれないし、でも「ハルキ兄様の汗がおいしそうだった」なんて言えないし……。

 軽く三、四人前はありそうな料理の見た目に、わたしは困ってハルキ様の顔をじっと見つめた。

「なんだ、そんなに食べたいのか? じゃあ、俺と分けるか……」

「ハルキさん⁉ それなら、わたくしもお手伝いしますわ!」

 テーブルを叩くような勢いで前のめりにチエリさんが言ってくる。そんな彼女に少し驚きながらも、ハルキ様は頼もしい笑顔を浮かべて言った。

「いや、チエリは夏野菜のパスタだろ? これくらいなら俺だけで大丈夫だよ」

「そう、ですか……」

 そう言ってチエリさんは浮かせた腰を静かに下ろした。

「ドリンクは、俺はアイスレモンティーにするけど、チエリとヒガンはどうする?」

「同じもので!」

 チエリさんが間髪を容れずに言ってくる。

「わたしも!」

 それに負けじと、わたしも手を上げて答えた。

「お、おう……」

 チエリさんとわたしの視線がぶつかる横で、ハルキ様は横目でこちらを気にしながらも手を上げて店員さんを呼んだ。そして注文を終えると、相変わらずコンソールをいじるキクノに向かって独り言のようにつぶやいた。

「幽霊は気楽そうだな」

「仕事中なんだ。あたいに話しかけないで」

「はいはい。そうですか」

 キクノのそっけない言葉に、ハルキ様はつまらなそうに返事をするとポケットからピルケースを取り出した。そして、中身を口の中に放り込むと音をたてて噛み砕く。微かにソーダのような香りがして、わたしはハルキ様に尋ねた。

「ハルキ兄様? 前にも食べてましたけど、それは何ですか?」

「ラムネ菓子だよ」

「ハルキさんは、本当にその駄菓子がお好きですわよね」

「脳の疲労回復にはブドウ糖が一番だからな」

 いかにも旧知の仲という雰囲気に、わたしは彼と手にしたケースを交互に見つめた。

「おまえも食べるか?」

「はい! いただきます!」

 詰め寄る私にハルキ様はケースから一粒取り出すと、それを手のひらに載せて「ほら」と差し出してくる。わたしはそれをじっと見詰めると、彼を上目遣いで見ながら言った。

「あーん♡」

「ちょっと、ヒガンさん⁉」

 抗議の声を上げるチエリさんを無視して、わたしは口を開けたまま目で催促する。すると、ハルキ様はチエリさんの視線に少し躊躇したものの、ラムネをつまんでわたしの口に入れてくれた。

 口の中で爽やかな香りと優しい甘さが広がっていく。

 幸せに緩みそうになる頬を押さえながら、わたしは恨めしそうな視線を送るチエリさんに笑顔を向けた。彼女は何か言いたそうにしていたけど、そこに三人分のアイスレモンティーがやって来て、彼女は半目でわたしを睨みながらもストローに口を付けてレモンティーを一口飲んだ。そして、自分の隣にちらりと視線を移すと、意味ありげに含み笑いを浮かべて、そこにある麦わら帽子を撫で始めた。

 チエリさんの笑みを不思議に思っていると、今度は夏野菜のパスタがやって来た。そして、最後に大きめの皿に盛られたカルボナーラがテーブルの上に置かれる。

 湯気の上がるおいしそうなカルボナーラを、ハルキ様はわたしのために手際よく取り皿に分けてくれた。

「こんなもんでいいか?」

「はい。ありがとうございます」

 わたしは食事に集中することにして、仲良く並んでいる大小のカルボナーラを見た。ハルキ様とおそろいの食事なんて、記念写真にでも撮っておきたいくらいだ。そう思っていると、

「買い物があるのだから、さっさと食べてしまいましょ」

 チエリさんが少し不機嫌そうな声で言ってきた。

「そうだな。おいしい内にいただこう」

 食べ始めるハルキ様を見て、わたしもフォークでスパゲティを巻いていく。

 カルボナーラは絶品だった。ソースは濃厚だけれどパンチェッタの塩加減と甘味が絶妙で、黒胡椒の辛さが味を引き締めて黄身とスパゲティの風味を引き立てていた。

「これは旨いな」

 そう言うハルキ様に目を向けると、頬に汗とは違うものが着いていた。

「あ、ハルキ兄様、ほっぺにソースがついてますよ」

 わたしは美味しそうな白いソースに引き寄せられて、ハルキ様の頬に唇を寄せていく。

「ん? どこ……」

 そして、そう言いながら振り向いたハルキ様の唇がわたしに触れた。

「!!!!!」

「なななな⁉…………はうぅぅ」

 ハルキ様は目を見開き、横からはチエリさんの声と倒れるような音が聞こえた。でも、わたしは気にせずハルキ様の感触を味わう。

「ちょっと、ヒガン! やめなよ! ここはやばいって!」

 キクノの声に周囲を見回すと、何人かがこちらを見て驚いていた。そして目の前の席では、のぼせたように顔を真っ赤にしてチエリさんが気を失っていた。

       ◆

「まったく、信じられませんわ!」

 肩を怒らせながらチエリさんは前を歩いて行く。そんな彼女に腕を引きずられて、わたしはハルキ様から引き離されていた。キクノもコンソールを睨みながら、わたしとハルキ様の間を邪魔するように浮いている。

「ハルキ兄様ぁ」

 わたしの呼びかけにも、ハルキ様はそっぽを向いて答えてくれない。

「まずは、身なりからその破廉恥な態度を矯正して差し上げますわ」

 そう言ってチエリさんはアパレルショップへ入っていく。

 店内は色とりどりのパステルカラーで統一されていて、まるでシャボン玉の中にいるような感じだった。

 でも、そんなメルヘンな雰囲気は、今のわたしをなぜか不安にさせる。

「とりあえず、こんな所かしら」

 チエリさんの声に目を向けると、彼女は何着かの服を手にとってわたしの体に当ててくる。彼女が選んだ服は、フリルのワンピースやシフォンブラウスとプリーツスカートの組み合わせといった清楚なものばかりだった。どれも可愛らしいけれど、布が揺れるたびに耳の奥でノイズがざわめき、わたしは服から離れて彼女に言った。

「そんな海月みたいな服は嫌」

 冷たくあしらうわたしに、チエリさんは眉を片方だけつり上げて不機嫌そうに言ってくる。

「海月って。失礼ですわね。わたくしのセンスを馬鹿にしますの?」

「別にバカにはしてないけど……」

 胸にわだかまる気持ち悪さに、わたしは服から目をそらした。

「それでは、あなたはどれがいいと言いますの?」

「そうね」

 わたしは目の前のお店に背を向けて、向かいにあったアウトドア系のお店に入っていった。そして、目についた小さめのTシャツとホットパンツを体に当ててハルキ様に見せながら尋ねる。

「どうですか? ハルキ兄様」

 ハルキ様は、わたしをじっと見て顎に指を当てながら考えてくれる。でも、それを横からチエリさんが邪魔をした。

「ハルキさん! あんな奥ゆかしさの欠片もない格好は駄目です!」

「え? あ、ああ。そうだな」

 チエリさんに耳元で大声で言われて、ハルキ様が彼女のほうを向いて思わず頷く。

「えー、こっちのほうがハルキ兄様を近くに感じられるのにー」

「そ・れ・が、駄目なんです!」

 わたしとチエリさんの視線の間で、ハルキ様がほうけたように上を向く。でも、そこには低い天井とコンソールを乱打するキクノの姿しかなかった。

「悪い、ヒガン。頼むから今はチエリの選んだ服を着てくれ」

 困ったような表情で、ハルキ様が手を合わせながら少し疲れた様子でわたしに言ってくる。

「ハルキ兄様が、そう言うのなら」

 肩を落としながらも同意するわたしに、ハルキ様は少し安心したように笑みを浮かべてくれた。ただ、その隣でチエリさんは腰に手を当てて、得意げに無い胸を張っていた。

       ◆

「次は、ここですわね」

 チエリさんはそう言って、下着姿のマネキンが立ち並ぶランジェリーショップの前で立ち止まった。

「じゃあ、俺はここで待ってるから」

 そう言って近くの休憩スペースに向かおうとするハルキ様を、わたしはアパレルショップの紙袋を持った彼の腕ごとつかんで引き留めた。

「どこに行くんですか?」

「いや、だって……」

 わたしの問い掛けに、ハルキ様はチエリさんの方へ視線を向ける。

「そうですわね。男性の方にはご遠慮いただいたほうが……」

 チエリさんは、ハルキ様から目をそらして言った。その顔は気のせいか少し赤い。

 そんな二人に、わたしは腰に手を当てて言い聞かせる。

「何を言ってるんですか! ハルキ兄様にちゃんと確認してもらわないと意味が無いじゃないですか!」

「え? なんで? チエリでいいだろ?」

「選ぶのは百歩譲ってチエリさんでいいとして、もしハルキ兄様の好みじゃなかったら、安心して見せられないじゃないですか!」

「見せる⁉」

 大きな声で驚いたハルキ様へ、周囲を歩いていた人たちの視線が集まる。

「ああ、もう。取り敢えず中に入りますわよ」

「え? おい、ちょっと……」

 視線に耐えかねて、チエリさんがハルキ様の手を引いてお店の中へと入っていく。わたしはお店の中を見回しながら、そんな二人のあとをゆっくりとついていった。

 チエリさんはお店の奥にある試着コーナーまでハルキ様を連れて来ると、ため息をついて彼に言った。

「ハルキさんは、ここで大人しく待っていてください。さあ、ヒガンさん。行きますわよ」

 そう言って彼女は、わたしの腕をつかんで引っ張ろうとする。でも、わたしは動かなかった。

「わたしは、ここでハルキ兄様と待ってます」

 わたしの言葉に、チエリさんが苛立たしげな表情で睨み返してくる。それを真っ向から受け止めて、わたしは話を続けた。

「ハルキ兄様がいいって言ってくれれば、わたしはあなたが選んだものでも全然構わないし、それに……」

「それに?」

 聞く耳を持たないような口調で彼女は聞き返す。

「ここにハルキ兄様一人を置いていったら、可哀想だと思います」

 お店の奥にある試着室の前で緊張気味に立ち尽くすハルキ様を見上げながら、わたしは彼女に言った。

 ハルキ様の様子を窺うチエリさんの前で、わたしはハルキ様に尋ねる。

「ハルキ兄様は、わたしもチエリさんと一緒に行ったほうがいいと思いますか?」

「え? いやぁ、チエリはしっかりしてるし、別に二人で行かなくても大丈夫なんじゃ、ない、かな?」

 そう言って懐から取り出したラムネをぎこちない手つきで口に入れるハルキ様を見て、チエリさんはため息をついた。そして、「わかりましたわ」と言って一人で下着を選びに歩いて行く。

 チエリさんが十分に離れたところで、わたしは緊張した面持ちで立ち尽くすハルキ様に話しかけた。

「あの、ハルキ兄様?」

「ん? なんだ?」

 周囲を少し気にしながら聞き返してくるハルキ様に、わたしは後ろ手から下着を取り出して見せながら言う。

「実はさっき、来る途中で選んできちゃいました。今、着替えますからちょっと待っててくださいね♡」

 驚いた顔で固まるハルキ様を置いて、わたしは試着室に入ると、カーテンを締め切る前に振り返って彼に尋ねた。

「よかったら、着替えも見ます?」

「!!!」

「しーーーーーですよ?」

 大きな口を開けて何か言おうとするハルキ様に、わたしはすかさず人差し指を口に当てて静かにしてもらうと、

「冗談です♡」

 そう言ってウィンクしながらカーテンを閉めた。

       ◆

 試着室の中で、わたしはデニムパンツを脱いで黒ネクタイをほどき、ワイシャツのボタンを外していく。ボタンを外し終わると、開いたワイシャツの隙間から体温とともにハルキ様の匂いが試着室に広がる。

「ハルキ様……」

 吐息のように名前をつぶやいて、わたしはワイシャツごと体を抱きしめた。ハルキ様に包まれているようで鼓動が高鳴る。

「ど、どうかしたか?」

「はい⁉」

 思わずかけられた声に返事が裏返って自分でびっくりした。

「え? もしかして呼んでない?」

 ハルキ様の少し高い声が、カーテンの向こうから聞こえてくる。

 近づく気配にカーテンの下を見れば、隙間から彼の足が見えた。

「あ、はい。えっと……、ご、ごめんなさい!」

 飛び出そうになる心臓を押さえて、わたしはなんて言っていいかわからず、とりあえず謝った。

「え? いや、呼んでないならいいんだ。こっちこそ驚かせたみたいで悪かったな」

 そう言ってハルキ様の気配が離れていこうとする。「あ、待ってください」

 わたしはとっさに声をかけて彼を呼び止めると、服の下に来ていた水着のようなボディスーツを泡に変えて消し、自分で選んだショーツに足を通していく。そして、ブラの肩紐をかけたところでカーテン越しに声をかけた。

「あの、ハルキ兄様?」

「な、なんだ?」

「ホックを、留めてくれませんか?」

 そう言って、わたしは試着室のカーテンを開いた。

「え⁉ ホックって……。これ前、え⁉」

「早くしてください♡」

「いや、だけど……」

 無防備な胸の谷間に困惑するハルキ様を無視して、わたしはフロントホックのブラを揺らしながら胸を突き出すようにして催促する。すると、目の前にあるハルキ様の喉が大きく動いて、指がゆっくりと胸に引き寄せられるように動き出した。

 ハルキ様は無言で顔をそらしながら、それでもホックの位置を確認するためにチラチラとわたしの胸に視線を送る。

「ちゃんと、見ていいんですよ?」

 一瞬、強い視線がわたしの胸を貫いて声が出そうになる。でも、すぐに目をそらしたハルキ様が可愛らしくて、わたしは微笑みながらハルキ様の手をとって左右のホックを手渡した。

「はい。これを、しっかり留めてくださいね♡」

 ハルキ様は相変わらず顔を背けたまま、血走るような視線だけを胸の谷間に向けてくる。ホックを持った指先は震え、でも、しばらくすると意を決したように彼は大きく喉を鳴らして指先に力を込め始めた。ホックは徐々に近づいていき、一度すれ違ってからカチッという軽い音ともに互いの相手を見つけて噛み合った。

「ありがとうございます♡」

 ハルキ様の成果をしっかり見せようと、わたしは胸を張ってお礼を言う。

「……ヒガン……」

 ハルキ様は、どこか虚ろな瞳でわたしを見つめて言った。そのまま彼の体が倒れるように近づいてくる。

「あん♡」

 一歩を下がってハルキ様を試着室の中に迎え入れながら、わたしは彼を抱きとめた。耳元で聞こえる荒い息遣いにわたしの意識は縛りつけられ、身動きできない状態で彼は言う。

「もうダメだ。我慢できない」

 全身を駆け抜ける鳥肌のような快感をこらえて、わたしは優しくハルキ様に答えた。

「ハルキ兄様。わたしの体はあなたのものですから、自由にしていいんですよ?」

 腕を回して求めてくる彼に身を委ねながら、わたしも抱きしめ返そうとして腕を持ち上げていく。でも、それはあと一歩というところで止まった。

「な・に・を・し・て・い・ま・す・の⁉」

 ハルキ様の肩越しに見えるのは、黒いオーラを身にまとったチエリさんの姿だった。

「さっさと離れなさいッ!」

 強引にハルキ様をわたしから引きはがしたチエリさんは、わたしの格好を見て顔を真っ赤にしながら言ってくる。

「そんな、スケスケの下着でハルキさんを誘惑して……」

「もう、せっかくハルキ兄様が求めてくれたのに……」

 肩を落として言うわたしに、チエリさんは持ってきた下着を投げつけて言った。

「ふて腐れてないで、さっさとわたくしが選んだ下着に着替えなさい!」

 わたしは渋々カーテンを閉めると、仕方なくチエリさんの持ってきた色気のない可愛い下着に着替えることにした。

「ふう、ようやくたまってた仕事が片付いたわ」

 その声に天井付近を見上げれば、キクノが首を回しながら肩を叩いていた。そして、カーテンの下からは、

「ハッ、俺は一体、何を……」

 そうつぶやくハルキ様の声が聞こえてきた。

       ◆

 闇の中に青い光が浮かび上がる。

 光に照らされた黒いワークテーブルの上には白い乳鉢があり、その中では乳棒が円を描くように動いて白い粉をすりつぶしていた。

「何をやってるのよ?」

「キクノか」

 手を止めることなく、ハルキはそれだけを言って作業を続ける。キュッキュッという鳴き砂のような音と磁器の硬い音が時折室内に響いた。

「だから、何やってるのか訊いてるんだけど?」

 キクノの問いに、ハルキは手の動きを止めるとテーブル上から顔をそらして大きくため息をつく。そして、テーブルの引き出しから十センチ四方の薄い紙を取り出しながら答えた。

「ラムネをつくってるだけだが?」

「手動式の打錠機まで使って?」

「よくわかったな」

 感心したような声音で言いながら、ハルキはテーブルに置いてあった小さな油圧ポンプに繋がれた、万力を複雑にしたような装置を手前に引き寄せる。

「あたいは薬学部の学生だったこともあってね」

「それは、人生経験豊富なことで」

 ハルキはすりつぶした粉を薬さじで薬包紙の上に載せ、それを装置中央にある金型のくぼみへと流し入れていく。そして、油圧ポンプのハンドルを上下に動かして加圧を始めた。

「で、結局それは何なのよ?」

「だからラムネだよ。毒入りだけど」

 ハンドルを動かしながらハルキは答える。

「毒⁉ まさかヒガンを殺す気?」

「まさか。他人の生き死になんて知ったこっちゃない」

 驚くキクノにハルキは呆れたように言って、薄く自嘲の笑みを浮かべながらさらに続けた。

「これは、俺用だよ」

「俺用って……。じゃあ、自分のエロさに絶望して自殺する気なの⁉」

 キクノの言葉に、ハルキは鬱陶しそうに目を向けた。すると、そこには翡翠色の四角いコンソールの光に下から照らされた、白髪黄眼の女幽霊の姿があった。

「うおっ⁉ て、おまえなぁ、さっきからうるさいぞ。これは護身用だ。勘違いするな。すぐに使うわけじゃない」

「護身用?」

 顔を近づけて訊いてくるキクノから顔をそらして、ハルキは自分の手が止まっていたことに気づくとポンプについている圧力メーターを見た。そして圧力が足りないことを確認すると、ハンドルを再び動かしながら話し始める。

「俺は他人に人生を左右されるのが嫌なんだ。だから、死ぬときも自分の意思で死ぬことに決めてる。事件や事故で死ぬ気はない」

「だからって、そこまでしなくたっていいじゃない」

「いや、俺はあの両親の子供だからな。そこまでしないと安心できない」

「それって、どういうこと?」

 俯いて深刻そうに言うハルキにキクノは尋ねた。

「あの二人はついてないんだよ」

「不幸体質とか?」

「不幸とは違うな。まあ、既に俺が生まれる頃には億単位の借金は抱えていたし、しょっちゅう道路に飛び出した犬や猫を助けたりして交通事故に遭ってて、小学二年のときなんかは、学校から帰ってきたらリビングで二人が身ぐるみはがされてロープで縛られてて驚いたりはしたが」

「よく、それで今まで生活できたわね」

 呆れるキクノに苦笑を浮かべながら、ハルキは話を続ける。

「あの二人は、ひたすらポジティブだからな。そのせいか、運にはとことん恵まれないが縁には恵まれててな。すっかり常連になった病院の人とか助けた犬猫の飼い主とか、とにかく助けてくれる人が大勢いるのさ」

「ある意味ついてるけど、酷く疲れる話ね」

 苦笑を浮かべるキクノに、ハルキも「そうだろ?」という顔をする。

「海洋調査を始めたのも格安海外旅行の途中で船が海賊に襲われて、そこを海洋調査船に助けられたのがきっかけだったとか言ってたからな。まあ、よくも悪くも人に振り回される二人なのさ。でも、俺はそんな人生はごめんだ」

「だからって、死ぬときだけ自分の意思で決めたって……」

 キクノの言葉に、ハルキは圧力メーターを再び確認すると、ハンドルから手を離して答えた。

「当然、生き方だって自分で決めるさ。だから既に親名義だけど資産運用で年間数十億は儲けるようにしてるし、今もこうして一人暮らしを実践してるんだ」

「それはすごいわね。親のこと、恨んだりしてないの?」

 キクノの問いに、ハルキは手にした薬瓶のラベルを見ながら答える。

「前にも言ったろ? 二人には感謝してるって。運命とそれを生きる人間は別だ。運命という酷い道でも二人は楽しんでる。だから、俺も運命でどんなに酷いことが起きたとしても、それを嘆いたり、ましてや恨むことなんてするつもりはないね」

 不敵な笑みを浮かべながらハルキは自殺の準備を進めていく。それをキクノは感心するように、ただ何も言わずに見下ろしていた。

       ◆

「カブト様」

 腕に寄り添う柔らかな温もりが、薄い布越しに伝わってくる。

 血のように流れ落ちる絹のような髪を撫でながら、僕はそれに応えて彼女の名を呼んだ。

「ヒガン」

 顔を上げる彼女の首には同じく赤いチョーカーが巻かれている。僕はそれに指を触れて、そのまま彼女の喉をなで上げる。薄く開かれた彼女の口から漏れる息を逃がさないように、僕は顔を近づけて、その可愛らしい果実にかぶりついた。

 十分に互いを味わって、僕らは唇を離すと見つめ合った。

 ヒガンの紅い瞳が僕を映している。

 彼女が僕を殺してから、どれだけの時が流れたのだろう。そんなことを考えても意味は無いというのに、僕は鎖の環を数えるように彼女の髪を手のひらから滑らせていく。

「舞を見せてくれるかい?」

 僕の言葉にヒガンは「はい」とだけ小さく応えて立ち上がる。そして、クリフォトの影から出ると、彼女は光の下で鎮魂の舞を始めた。花びらのような白い布と雨のような紅い紐が柔らかに揺れては、その隙間から彼女の肢体を覗かせる。

 緑の丘に咲いた彼女の無邪気な笑顔に、僕は胸を締め付けられつつも笑顔を返した。

 本当にきれいだよ。痛いほどに。

 心から伸びた鎖が軋んで音をたて、その先に繋ぎ止めたヒガンから僕は目が離せない。彼女のすべてを僕は受け入れなければいけない。それは僕が望んだこと。僕が彼女に押しつけた身勝手な呪いなのだから。

 永い眠りを思わせる重たい枷のような意識から逃れようと、僕はヒガンを求めて手を伸ばす。でも、届かない僕の手に彼女は手を振り返すだけで、光を全身に浴びて楽しそうに舞い続ける。見えない鎖を体中に巻き付けながら、自分を傷つけるそれを自ら求めるように。

「僕は……」

 奪うことしかできないのかと、互いを縛る鎖を握りしめる。でも、僕にできるのはそこまでで、断ち切れない想いに僕は苦笑を浮かべるしかなかった。

       ◆

 僕は手を引かれて通りを走っていた。

 ヒガンの服が風に揺れて、彼女の足が地面の上でリズムよく跳ねていく。

「どこに行くんだい?」

 僕の問い掛けに彼女は走りながら振り向いて、その拍子に足をもつれさせて転びそうになる。

「おっと!」

 とっさに腕を引き寄せて、僕はヒガンを抱きかかえる。近づく彼女の顔が目を見開いて、そして桜色に染まった顔に笑みが浮かぶ。

「!」

 思わず強く抱きしめた僕に、ヒガンは一瞬だけ体をこわばらせ、それでも離さない僕に身を委ねてくれる。伝わってくる彼女の鼓動が僕を安心させる。

 いつまでもこうしていたい。

 そう思うほどに、僕と彼女の間にある微かな隙間がもどかしかった。

「カブト様」

 ため息のような呼びかけに、僕は慌てて腕の力を抜いた。すぐに謝ろうと開きかけた口を、ヒガンが人差し指で優しく押さえる。

「ありがとうございます」

 耳元で囁くように言って、彼女は再び手を引いて笑顔とともに歩き出した。

 僕を誘うように左右に揺れる紅い髪を追って、僕は彼女の後ろを行く。

「ここです」

 しばらく行くと、彼女はお好み焼き屋の前で楽しそうに振り返って言った。

 店内を見ると鉄板の上でソースが跳ねる音とともに、香ばしくてほのかに甘い匂いが漂ってくる。

「おいしそうだね」

「おいしそうじゃなくて、おいしいんですから。期待しててくださいね」

 得意そうに胸を張るヒガンの頭を僕は撫でて、「ああ」と期待を込めて言葉を返す。

 顔なじみなのか、ヒガンは店主に声をかけると奥の席へと入っていく。畳敷きの席に向かい合って座ると、ヒガンはメニューを取ろうとする僕の手に触れてきた。

「もう注文はしてありますから、ここはわたしにまかせてください」

 そう言って店主に目配せをすると、まずはヘミングウェイ・カクテルと小さなグラスに入ったビールが運ばれてきた。

「僕を酔わせて、どうしようっていうんだい?」

 僕へカクテルを勧める彼女は何も言わず、無邪気な笑顔とともに自分はビールのグラスを手にして向けてくる。僕は苦笑を浮かべながらもカクテルを手に取ると、お互いにグラスを傾けて喉を潤した。

「はい、お待ち。爆発スタミナ焼き、大盛りね」

 テーブルの上に店主がタネの入った大きめのボールを置いて言う。そして彼は、僕を見ると力強く親指を立てて「頑張れよ」という言葉を残して去っていった。

「……随分と、山芋が多いんだね」

 僕は、なぜか急に出てきた冷や汗を拭いながら感想を口にした。でも、ヒガンは嬉しそうに頬を染めて、どこか遠くを見ながらほとんど真っ白なタネをかき混ぜていた。

       ◆

「おやすみ。ヒガン」

 あんなに食べたからか、それともお酒のせいか、ベッドに横になった途端にヒガンは可愛らしい寝息をたて始めた。その傍らで、僕は少し苦しくなったお腹を気にしつつ静かにため息をついた。

 彼女はこんなにも穏やかな顔をしているのに、僕の心はざわついて落ち着かない。

 いや、べつに興奮しているわけではないけれど。多分……。

 僕は深呼吸して心を落ち着けると、再び彼女の寝顔を見つめる。

 これで、次に彼女が僕を目にするのは数日後になるだろう。そして、それは徐々に長くなって、彼女が世界と完全に溶け合うまで続く。

 僕らは死なない。けれど、そう何度自分に言い聞かせても拭いきれない可能性が脳裏をよぎる。

 悠久の終わり。存在の消滅。カイホウシンドローム。

 必要のないはずの睡眠が、彼女を僕から遠ざけていく。

 なんとかしないと。

 そう思っても、ためらいが僕をあざ笑うかのようにちらついて落ち着かない。

 中途半端なことでは意味がないんだ。騙してでも、彼女の心に深い傷を刻まなければいけない。僕と彼女の関係を壊すほどに。契約を上書きするほどに。

 これは自分が招いたこと。だから、また君を利用してしまうけれど、先延ばしにしてきた決着を今こそ果たさないと。

 そう僕は、彼女の鮮やかな紅い髪に触れながら改めて決意する。

 でも最後に一言だけ、

「……ヒガン、ごめんね」

 彼女に届かない言葉を免罪符にして、僕は部屋をあとにした。

       ◆

「別荘?」

 ハルキ様が怪訝そうな視線を向けながら、前に座るチエリさんに聞き返す。

「そうですわ。せっかくの夏休みですし、プライベートビーチで海水浴でもいかがかと思いまして」

 リビングのソファーでハルキ様の隣に座りながら、わたしはまぶたを閉じて思い浮かべる。

「ハルキ兄様と海水浴……」

 青い空の下に広がる白い砂浜。そこで楽しそうに追いかけっこをするハルキ様とわたしの様子が、まぶたの裏に鮮明に映し出される。

「素敵です! でも、わたし水着が……」

 ちらりとハルキ様を見れば、

「海水浴に興味はない」

 彼はそっぽを向いてそうつぶやいた。

「ひと夏の思い出はどうするんですか⁉」

「そうですわ!」

 二人の声に、ハルキ様は体を引いて距離をとると、

「なんだよ、急に二人して。思い出なんて、どこででもつくれるだろ? それに……」

「それに、なんですの?」

 チエリさんの問い掛けにハルキ様は少し目をさ迷わせると、目を閉じて腕を組みながら堂々と言った。

「俺は泳げん」

「「ええーーーー!」」

 わたしとチエリさんの声が揃って部屋に響く。それをハルキ様は少し顔を歪めながら黙って聞いていた。

「そういうわけだから……」

「では、ハルキさんは夏休み中、ずっとヒガンさんと二人きりでいたいと?」

 ハルキ様の言葉を遮ってチエリさんが問い掛ける。

「二人?」

 そう言ってハルキ様は上に視線を向ける。そこには空中で背泳ぎをするキクノの姿があった。

「??? どうかしましたの?」

 チエリさんもつられてハルキ様の視線を追うが、当然チエリさんには何も見えず首をかしげた。

「いや、なんでも。そうだな、それは……」

 何やら考えながら困った顔をするハルキ様に、わたしは眉をへの字に曲げて抗議の視線を向けた。

「嫌なんですか?」

「嫌というか……」

「嫌、なんですか?」

 詰め寄るわたしに、ハルキ様は目をそらしながら独り言のように答える。

「嫌ということはないが……」

「よかったぁ!」

 わたしはハルキ様に抱きついて喜んだ。

「また、あなたは! 離れなさい! まったく暑苦しい」

 そう言って、チエリさんはわざわざ立ち上がって引き離しにくる。そして見下ろしながら、わたしの手を引いて言った。

「さっさと用意しますわよ?」

「え、今からか?」

 そう聞き返したのは、ソファーで胸を撫で下ろしていたハルキ様だった。それにチエリさんはため息をつきつつも、どこか楽しげに答える。

「女性は準備に時間がかかるものなんです。明日の朝には車で迎えに来ますから、ハルキさんもそのつもりでいてください。ああ、水着はこちらで用意しますし、それ以外も大抵のものはこちらで用意できますから、どうしても必要なものだけで構いませんよ」

「じゃあ、わたしはこれでいい」

 チエリさんの言葉に、わたしは彼女の手を振り解いてハルキ様の腕を抱きしめた。

「ちょっと、ヒガンさん⁉」

 再びわたしを捕まえようとしたチエリさんから逃げるように、わたしはハルキ様の腕を引いて彼の部屋へと走り出す。後ろからはチエリさんの声が聞こえ、わたしの横では水着姿のキクノが平泳ぎをしていた。

「楽しみましょうね?」

 賑やかな雰囲気に、わたしは階段を上りながらハルキ様のほうを向いて言う。

「そう、だな」

 ぎこちなく言うハルキ様にわたしは笑顔を返して、彼の温かな手を握り直すと彼の部屋のドアを開けた。また一つ大切な思い出ができることに、わたしの胸は夏の日差しのように高鳴っていた。

       ◆

「こんな夜中になんなんだよ。明日は早いんだから寝かせてくれるか?」

 ベッドの上であぐらをかきながら、黒いナイトウェアに身を包んだハルキ様が顔をしかめて見下ろしてくる。わたしは少し大きめのピンクのナイトウェアを着て、カーペットの上から疑うような眼差しを向けて言った。

「あの、一つ訊いておきたいんですけど、その、チエリさんとは、どういう関係なんですか?」

「はあ?」

 驚くような呆れるような声を上げるハルキ様に、わたしはベッドに上がって正座をすると、詰め寄ってもう一度聞いた。

「だから、その……、ハルキ様とチエリさんの関係です。知り合ったきっかけとか、どれくらい、つき合っているのか、とか……」

「つき合ってるって……。チエリは、ただの友達だし、知り合ったのも高校に入ってからだぞ」

「本当に?」

「こんなことで、なんで嘘つくんだよ」

 面倒臭そうに言ってハルキ様は目をそらす。

「だってハルキ様、チエリさんとすごく仲が良さそうだから……」

「そうか? まあ、チエリはいい奴だし、資産運用でチエリのところの関連会社には結構世話になってるからな。仲が悪いってことはないが……」

「じゃあ、チエリさんが彼女、とかは……」

「ないない!」

 手を振って全力で否定するハルキ様に、わたしは胸を撫で下ろす。

「よかったぁ」

「何がよかったんだよ?」

「だって、もしそうだったら彼女としてのわたしの立場が……」

 その言葉にほっとしていると、ハルキ様はわたしを見下ろしながら半眼でこう言った。

「いや、彼女じゃないし。その前に、おまえ幽霊だし……」

「え?」

 彼女じゃない。彼女じゃない。彼女じゃない。彼女じゃない。

 音楽が音飛びするように同じ言葉が繰り返され、動悸とともにわたしの世界が回り出す。そして、何かが切れたように急に目の前が暗くなった。

「おい! どうした⁉ 大丈夫か⁉」

 倒れ込むわたしを抱きとめながら、ハルキ様が心配そうに声をかけてくる。それに答えられないわたしは、ただ彼の胸の温かさを感じることしかできなかった。

「ハルキ。急な話で悪いけど、今日はヒガンと一緒に寝てあげてくれない?」

「おい、こんなときに……」

 ハルキ様の言葉がそこで止まる。そして、キクノが静かに話し始めた。

「彼女の体は、この現世にとって本来は存在しないもの、つまり異物なの。人間の体と同じで、現世にも異物を排除するための機構があって、ヒガンの体は常にその機構からの攻撃にさらされてる」

 体中が熱くなって肌がピリピリと痺れ始める。

「それを抑制するためには、現世生まれの体に備わった抗体を摂取する必要があるの」

「もしかして、俺の体にやたらと触れてくるのは……」

 ハルキ様の視線を首筋に感じる。

「まあ、触れなくてもある程度は取り込めるんだけど、さすがにそれも限界みたいね」

「ほかに、方法はないのか?」

「接触摂取が一番効率がいいのよ。まあ、やらなくてもヒガンの肉体が失われるだけだから無理にとは言わないけど」

 キクノの言葉にハルキ様は何も言ってくれない。

 彼女は言わなかったけど、一度肉体が失われれば、わたしの完全な情報がダウンシステムに登録されて、二度とわたしは自分の力で実体化できなくなる。そうなれば彼の中のわたしも消されて、ハルキ様とわたしは……。

 そこまで考えて、わたしは溢れだした不安に呑み込まれた。

「嫌……。嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌……」

 思うように力の入らない腕で彼の体にしがみつきながら、わたしはもっと距離を縮めようと、その胸に顔をうずめる。

「お願い。このまま……、もう、どこにも、行か、ない、で」

 薄れていく意識の中で、頭を撫でられた感触だけがくすぐったくて、わたしは少し安心する。そしてハルキ様は、ため息をついて言った。

「ああ。わかったよ」

 それは諦めを含んだ言葉だったけれど優しくて、わたしを包み込むように背中へと回される彼の腕は、酷く心地好かった。

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