第一章
体中がだるい。全身の皮膚はピリピリと静電気に覆われているかのように痺れ、まどろむ意識は重い闇に捕らわれていた。
わたしは横になったまま、微かな頭痛から離れようと静かに目を開けた。
白い天井には正方形のシンプルなパネル照明があり、無機質な光で室内を照らしている。
「ヒガン! 大丈夫⁉」
自分を呼ぶ聞き覚えのある声に、わたしは照明の横へと視線を向けた。
そこには天井付近に浮かびながら、心配そうな顔でこちらを見下ろすキクノの顔があった。
「キクノ?」
わたしの声に彼女は両腕を広げ、短く切りそろえた白髪をさらさらとなびかせながらすーっと音もなく下りてくる。そして、抱きしめるようにわたしに覆い被さると、
「もう! ずっとうなされてるから心配したんだよ?」
その少しうるさい声に顔をしかめながらも、わたしは彼女の目尻に光るものを見つけ、縁なしメガネをかけたボーイッシュな彼女の顔へと右手を伸ばした。しかし、それは彼女に触れることなく頬をすり抜けていく。
わたしは無意味に伸ばした腕から力を抜いて、ポフッとベッドを軽く叩く間抜けな音を聞きながら思い出していた。
そういえば、キクノはオブジェクト――こっちでいう幽体のままだったっけ。
頭がぼんやりしている。わたしは鉄の塊のように重い右手を再び持ち上げた。そして、それを見つめながら握り開いてみる。
すると、手のひらにぬめるような感触が蘇った。それは所々に太い管のようなものがあって、
「……いやっ!」
わたしはとっさに手を振り払った。
「どうしたの⁉」
驚いた顔を向けるキクノに、わたしはハッとなってとっさに笑みをつくった。額には冷や汗も浮かんでいるし、うまく笑えていないことはわかりきってる。でも、あのことは誰にも知られたくなかった。
わたしは話題を変えようとキクノに話しかけた。
「えーと、キクノ? ここはどこ?」
「ここはって……。あんた大丈夫?」
そう言って向けられる視線は、顔ではなくわたしの右手を見ていた。つられて視線を向けると、右手は震えていた。わたしは震える手を押さえ込むように左手で包み込むと、冷え切った自分の右手に驚きながらも平静を装ってキクノとの話を続ける。
「大丈夫、大丈夫。ちょっと久しぶりのインスタンス化で慣れてないだけだから」
「そう? それならいいんだけど。自力で肉体構築するとか、あんた、結構無茶してんだから、おかしいと思ったら言うんだよ。そのために、あたいはいるんだから。わかった?」
「うん。ありがと」
キクノの優しさに感謝しながら、わたしは大分はっきりしてきた意識を総動員して部屋の中を見回してみた。
白い壁紙で覆われた室内は床や天井も白く、そこに黒のスチールラックでできたテレビ台やワークテーブル、黒で統一されたテレビやパソコンが置かれていた。そして、わたしが寝ているベッドとスチールラックの間には、小さな白いテーブルが一つある。モノクロの部屋の中で彩りと言えば、様々な機器の表面で光る赤や青のLEDくらいだった。
自分の寝ているベッドを見てみれば、フレームもマットレスも真っ黒で、自分に掛けられていたタオルケットも真っ黒だった。
なんだか不気味なおとぎ話に出てくる医者の部屋みたい。
ほとんど装飾のない部屋の持ち主を想像しながら、わたしはキクノに聞いてみた。
「それで、ここは?」
「ハルキって奴の寝室だよ」
「ハルキ?」
知らない名前に聞き返すと、キクノはなぜか顔をそらして頬を赤らめながら小声で言った。
「カブトのインスタンスの名前だよ」
「カブト様の……」
そうだ、カブト様。わたしはカブト様を追って落ちてきたんだ。そして、ついに見つけた。わたしの大好きなカブト様。わたしのすべてを捧げた愛しい人を。
◆
「ねえ、ヒガン。ちょっと休もうよ~」
キクノが後ろで気の抜けた声を上げるけど、わたしは気にせず周囲を見回していた。
真夏の強い日差しも弱まり、元気に走り回っていた子供達も疲れて家に帰り始めた頃。夕焼けに染まった空の下を、わたしはキクノを連れていつものように歩き回っていた。とは言っても足は宙に浮いてるから、歩いているとは言えないけど。
「今日こそは見つかりそうな気がするのよ。なんか、こう、初恋の予感みたいな?」
「はいはい。一体何回目の初恋ですかね」
冷たい視線を背中に感じるけど、わたしは気にしない。だって、この予感めいた胸の高鳴りは本物だから。
「大体、気がする気がするって言って二十年近くになるのに、今までそれらしい人を見たこともないんだよ? それなのに、どこからその自信が出てくるんだか……」
「う、うるさいわね!」
「もしかして避けられてるんじゃないの?」
「そんなこと! あるわけ……」
そう言いながら胸をよぎった寂しさに、わたしは肩を落として俯いた。
わたしに黙って行ってしまったカブト様。暗闇の中で光を求めるように、わたしは彼の名を口にする。
「……カブト様……」
それだけで、わたしの心は少し温かくなる。いつだってわたしを見ていてくれた彼の顔が、今も鮮明に蘇る。太陽みたいに明るい笑みで。月のように優しい眼差しで。彼が、わたしを避けるなんてありえない。今だって、きっとあの夕日みたいに……。
「あ……」
顔を上げた視線の先にいた存在に、わたしは一瞬で心を奪われていた。
夕日を背に近づいてくる見知らぬ人影は、どこまでも懐かしく、わたしの心を激しく震わせる。
「ヒガン、どうしたの?」
後ろからキクノが尋ねてくるけど、わたしの視線は彼に釘付けで動かない。
「いた」
声が震えて、わたしはそれしか答えられなかった。
頬を伝う涙が止まらない。
「え? 何が?」
そういうキクノも、彼を見て驚いたように息を呑んでいた。
目の前の光景を現実に繋ぎ止めるように、わたしは彼の名を呼んだ。
「カブト様」
やっと会えた。
どうして今まで……。
なんで急に……。
嬉しさとともにいろいろな疑問が浮かぶけど、そうじゃない。自分の中の気持ちが先走りすぎて、心が溢れて言葉が追いつかない。
わたしが今一番したいのは何?
自分にそう強く問い掛けて、わたしは自分の想いを一つの言葉で表した。
『触れたい』
その言葉が引き金となって、わたしの力を呼び起こす。
それは周囲に泡となって現れ、わたしの体にまとわりついてオブジェクトをインスタンスへ、幽体を彼と同じ肉体へと変えていく。
泡が消え、両足で地面の感触を確かめながら、わたしは自分の体を軽く動かした。
揺れる大気と腰まで伸びた艶やかな紅のツインテールが生まれたばかりの柔肌を撫で、痺れるような官能に肉体は喜び身震いする。
わたしは抑えきれない昂ぶりを目の前の愛しい人へ届けたくて、彼の名前を呼びながら駆けだした。
「カブト様ーーー♡」
わたしの声に彼は鋭い視線を向ける。それだけでわたしの体は震え、鼓動は高鳴り、足の動きを加速させる。
カブト様♡ カブト様♡ カブト様♡
わたしの気持ちは彼を捕らえているというのに、まだ体は追いつかなくて、そのもどかしさにわたしは地面を蹴って彼へと跳躍した。
「カ・ブ・ト・さ・まーーー♡」
両腕を広げて彼の胸へとダイブする。
彼との距離が縮まり、その温もりを感じられると思ったそのとき、
「誰だ? おまえ?」
見下すような視線を向けながら、彼はそう言ってわたしを避けた。
目標を失ったわたしの体は、そのまま彼の横を通り過ぎて地面へと落ちていく。
「ヒガン!」
キクノの声が後ろで聞こえる。
急接近する地面になんとか態勢を立て直そうとするけど、久しぶりの肉体に腕と足のどちらを動かせばいいのかわからず、わたしの手足は空中でおぼれる鳥のようにばたつくだけだった。
「きゃっ!」
結局、自分の意識どおりにできたのは短い悲鳴を上げることだけで、体を地面に打ちつけるところを想像して、わたしはぎゅっと目を閉じた。
でも、わたしの体が地面に触れることはなかった。
「そんな格好で危なっかしい奴だな」
わたしのお腹に腕を回しながら彼はそう言うと、「よっ」という掛け声とともにわたしの体を仰向けにして放り投げた。そして、落ちるわたしをお姫様だっこで受け止める。
「大丈夫か?」
めんどくさそうな目でわたしを見下ろす彼に、わたしはすかさず抱きついた。
「おい! やめろ。抱きつくな!」
そんな彼を無視して、わたしは首に回した腕に力を込める。密着する胸に彼の鼓動を感じながら、わたしは彼の匂いを思いっきり吸い込んだ。それだけで体は熱くなり、心臓は早鐘のように鳴り響く。
もう離れたくない。
その想いをなんとか抑えて、わたしは腕の力を抜くと彼の顔を見上げた。
「なんなんだ一体、いきなり跳びかかってきやがって……。ん? 顔が赤いぞ? 息も荒いし、もしかして熱でもあるのか?」
少しほっとした表情を浮かべながらも怪訝そうに彼が言う。
彼が、わたしを見て話しかけてくれてる。そのことだけで涙が勝手に溢れた。でも、まだ足りない。温もりを、気持ちを、漏れ出るわたしの息でさえも、すべてあなたにあげるから、もっとあなたをわたしに……。
そして、わたしは彼の唇に自分を重ねた。
「んん⁉」
驚く彼を新鮮に思いながら、わたしは彼の唇をしゃぶりつくように味わう。そして、舌をその中へと入れていく。でも、彼は歯を食いしばってわたしを受け入れてくれない。胸の奥が締め付けられて泣きそうになりながらも、わたしは彼にお願いするように歯を舌で撫で、ようやく開いた微かな隙間から舌を先へと進ませた。そして、舌を絡ませ唾液を交換し、十分に互いを高め合ってから最期にわたしは彼の唇に噛みついた。
彼の血が口の中に流れて、鉄の味が口内に広がる。
「いっ痛! おまえ! いきなり何を……」
そう言って彼は、わたしを突き放そうとする。でも、それを拒むように彼の心臓が大きな鼓動を響かせた。
「ぐっ!」
彼は、わたしごと自分の体を抱きしめて苦しそうに呻く。それは少しの間だけ続き、次第に彼の体から力が抜けていく。腕はだらしなく下がり、膝が地面に落ちていく。
わたしは彼の首に腕を回したまま、その膝の上に自分のおしりを乗せると、荒い息をあげ始めた彼を見つめる。その息は、わたしと同じテンポを刻んでいた。
そのことに安心したわたしは火照り始めた彼の体に自分を預け、久しぶりの添い寝を味わうことにした。
◆
体中が燃えるように熱い。
俺は空を見上げて、口を開けたまま荒く息を吐き出していた。目はかすんで焦点が定まらず、夕焼けの空が炎のように揺らめいている。
膝の上にある柔らかな肉感と、時折腕を撫でる流れるような髪の感触、そして鼻腔をくすぐる女の甘い香りが頭の中を煮えたぎらせ、心臓は獣のような鼓動を刻んでいる。
俺に何が起きた?
暴れる思考を一つずつ引き寄せながら、俺は自分に起きた状況を組み立てていく。
いきなり水着姿の女が走り寄ってきたかと思ったら飛びついてきて、とっさに避けたらそのまま倒れそうになったから支えてやって、その軽い体を抱き上げてやったら、いきなりキスされた。しかもディープで暴力的な……。
「くっ!」
やばい、思い出したら余計に心臓が暴れ出した。俺は大丈夫なのか?
半袖のワイシャツは夕立に遭ったかのようにびしょ濡れで、喉が酷く渇いている。体もだるいし、脱水症状を起こしているのかもしれない。ただ、それにしては何か違和感があった。
俺は、重い腕をなんとか動かしてズボンのポケットに手を突っ込むと、そこからピルケースを取り出した。ふたをスライドさせて、そこから中身を直接口の中に放り込む。そして、舌の上に落ちたそれを奥歯で思い切り噛み砕いた。すると口の中にラムネの爽やかな甘味が広がって、ブドウ糖が速やかに脳へと供給されていく。
少し落ち着いた俺は、違和感の正体を突き止めようと考察を再開した。
問題はキスの後だ。女は俺の唇に噛みついて、その傷口に何かを流し込んだ。何かはわからないが、唾液とは違う、冷たいような熱いような心を揺さぶるような何か。それが流れ込んだ途端、体中の細胞が震えだしたような気がした。
この女、何を流し込んだ?
俺は重い頭を持ち上げて、自分にもたれかかる女を見下ろす。
すると、女のあらわになった肌が思考を直撃した。
この女は、なんでこんなに面積の小さいビキニを着ているんだ?
「はぁはぁはぁはぁ」
自分の息の荒さにやばいものを感じながら、それでも女から目が離せない。
水着より面積の広い肌は汗ばんで赤味を帯び、そこにまとわりつく艶やかな紅の髪がやけに愛しく目に映る。そして、流れ落ちる汗が彼女の胸の谷間に吸い込まれるように流れて……。
「ちょっと! あんた!」
「⁉」
いきなり頭上から降ってきた女の怒鳴り声に、俺は息を呑んで慌てて視線を胸の谷間からそらす。そして、ゆっくりと頭上に目を向ければ、そこには黄色い瞳で俺を睨みつける白髪の女が浮いていた。虹彩の中心に開いた真っ黒な瞳孔が、射るように鋭い視線を向けてくる。
なんなんだ? まったくわけがわからない。
夏休みの初日で、ようやく煩わしい高校生活から暫く解放されると思った矢先に、この状況はなんなんだ?
「あんた、名前は?」
呆然と女を見上げる俺に、黒いワイシャツに黒いパンツスタイルのその女は、白髪を揺らしながら聞いてきた。よく見ると、その瞳は口調と違って、なぜか懐かしさを感じさせる。
「ハルキ」
俺は、かすれた声で彼女に答えていた。
「ハルキね」
そう言って彼女は、黒い革手袋をした手で空中を軽く撫でた。すると小さな光の枠が浮かび上がり、そこに指先で何かを書き込むと、彼女は光の枠を先ほどと同じように撫でた。光の枠は粒子となって薄くなり、そして見えなくなる。
その様子をただ呆然と見ていた俺に、彼女は呆れたようにため息をついて言った。
「あんた、いつまで、そうしてるつもりなの?」
なんか急激にむかついてきたが、その一方で俺は冷静な思考を取り戻しつつあることに気がついた。彼女に話しかけられたことで、この紅い髪の女から意識をそらしたせいかもしれない。
確かに、この状況はよろしくない。路上で裸に近い水着姿の女を膝に乗せて、お互いに汗まみれで荒い息をついてるなんて、一体どんな路上プレイだ。
「くそっ」
俺は、うまく力の入らない体に意識を向けた。気怠さはまだ少しあるが、体の熱は大分引いてきて、めまいも今はほとんどしない。幸いにも自宅は目と鼻の先だし、この女を担いで行けそうではある。あとは、その間に人目につかないことを祈るだけだ。
俺は早速考えを行動に移した。女の体は軽かったが、さすがに力の入らない腕だけで抱えることはできず、背負って運ぶことにした。
「はうっ⁉」
背中にふにゃっとした感触が当たって、自分のものとは思えない腑抜けた声が出てしまった。再び心臓の鼓動が暴れそうになる。やばい、やばい。平常心、平常心だ、俺。
苦行のような十数歩を耐え抜き、俺は玄関の扉をなんとか開け、靴を脱ぐことにさえ手間取る自分に苛立ちながらも、彼女を背に抱えたまま二階の寝室へとたどり着いた。
その間ずっと、背中に当たる彼女の胸の柔らかさと、時折わかるその先端の感触に俺の頭は噴火しそうだった。こめかみはじんじんと痺れたようにうずき、同じように大変なことになっていた下半身のことは、もう諦めて無視するよりほかはなかった。むしろ二階への階段を上る途中くらいには、自分が男であることをまざまざと思い知らされて、いっそ清々しいくらいだった。
そんな悟りを開きそうな状態で俺は彼女を自分のベッドに横たえ、その裸同然の体に理性という名の薄いタオルケットを掛けてやった。
そして俺は自分の忍耐を褒め称えながら、渇ききった喉を潤そうと重い体を引きずって一階へと下りていった。
◆
「カブト様が運んできてくれたんだ」
キクノの説明に自分の状況を理解したわたしは、取り敢えず一息ついた。
鼻腔をくすぐる彼の匂いに、わたしの体が微かに震える。まだ体の火照りは引かないけれど、それが彼とのリンクの証だと思うと、それさえも心地好く感じられて自然と笑みがこぼれそうになる。
「カブトじゃなくて、ハルキだってば。オブジェクトは確かにカブトのものだけど、イグノアの記憶は封印されてるんだから、変なこと言ってせっかくのリンクが切れないように気をつけなさいよ?」
そう言うキクノは、空中であぐらをかいたままコンソールを展開していた。多分、わたしとカブト様の状態をモニタリングしているんだろう。
「ハルキ様、か……」
違う名前に違う顔。そして封印された記憶。今はどこにもカブト様はいないけど、でも彼の魂はここにあるんだ。
「ようやく第一歩ってところか……」
「そうだよヒガン。ここからが大変なんだから」
そう言って釘を刺しながらも、その瞳はどこか優しい眼差しをしていた。そんな彼女に、わたしも笑みを返して応えた。
まずは彼――ハルキ様のことを知らないと。
そう思った矢先、足音が聞こえてきた。それはトットットットッと、ゆっくりとしたテンポを刻みながら近づいてくる。それが階段を上ってくるハルキ様の足音だと意識した途端、わたしは思わず目を閉じて扉に背を向けると、タオルケットを握りしめて寝たふりをしてしまった。
足音は段々と大きくなってくる。それに合わせるように鼓動は高鳴り、わたしは乱れそうになる息をぐっと飲み込んだ。
扉のノブがカチャッと小さな金属音を響かせる。
ゆっくりと扉が開き、停滞していた部屋の空気が扉へと流れていく。
わたしに気を遣ってか、彼はゆっくりとした足取りで近づいてくると、テーブルに何かを置いた。陶器とガラスが軽くぶつかる音が聞こえ、ほのかに甘い香りが漂ってくる。
「寝てるのか?」
彼の声が天井へ質問を投げかける。
「自分で確かめてみれば?」
質問に質問で返され。彼は少し黙り込むと、ため息をついて近づいてきた。
「変なことしたら、ただじゃおかないわよ」
「はあ? そんなことするかよ」
「どうだか……」
「何か言ったか?」
「いいえ。別に……」
とげのあるキクノの言葉に苛立つ彼の様子が、背中越しに伝わってくる。
「なんだよ。まったく……」
でも、彼はそれ以上続ける気はないのか、キクノを無視してベッドの横に来ると、しゃがんでわたしに体を近づけてきた。彼の息遣いが頬に当たり、それを意識した途端に顔全体が熱くなる。彼の息は気のせいか少し速く、わたしの鼓動を追い立てた。
彼の気配が、さらにわたしの顔に近づいてくる。
え? 何? もしかしてキス?
とっさに浮かんだイメージに、わたしは息を呑んでじっと彼の行動を待った。
わたしの前髪をかき上げて、彼の手が額に触れる。
来る!
「熱もあるし、大分、汗もかいてるな」
そう言って手を離した彼にがっかりしながら、わたしは細く息を吐き出した。
「あ、汗は拭かないと、いけない、よな?」
誰に言うでもなく、ぎこちなく彼が口にした言葉にわたしの鼓動が再び跳ね上がる。そして、何か柔らかい感触が肌に触れた。
彼はタオルを軽く押さえつけるようにして、わたしの肌に浮かんだ汗を拭っていった。額を拭い、頬や首筋を優しく拭いていく。そして彼の手がタオルケットにかかり、わたしは自然と手の力を緩めた。
「ちょっとあんた、やっぱり変なことするんじゃないでしょうね?」
あと少しのところで飛んできたキクノの余計な声に、わたしのこめかみが少しひくついた。それを代弁するように、彼がキクノに言い返す。
「するか! ただ体の汗を拭いてやるだけだ。文句があるなら、おまえがやればいいだろ?」
「残念なことに、実体がないあたいには無理なんだよねー。ああ、本当に残念残念」
キクノの言葉に一瞬乱れかけた息を整えるように、彼は大きく息を吐くと静かな声で言った。
「さっきからおまえは……。俺に何か恨みでもあるのか?」「さあね。ただ、あたいの目の前でヒガンにいやらしいことしたら、末代まで祟ってやるから」
「勝手に言ってろ」
そう言いながら彼はタオルケットをめくり、涼しい風がわたしの汗ばんだ体を撫でた。そして横たわる無防備なわたしの肢体に、彼はタオルを当てていく。
「そうか、ヒガンって言うのか」
肩を拭きながら、小さな声で彼がわたしの名前を口にする。その声は耳朶に触れて、わたしの心をつかんで離さない。
思わず感情が溢れそうになって、気持ちを抑えようとわたしがお腹に意識を集中した直後、タオルがおへその内側を撫でた。
「ひゃぅっ!」
くすぐったさに声が漏れ、彼の手が瞬間的に止まる。
「え⁉ 今、俺なんか変なとこ触ったか?」
「いいから続けなさいよ。この、スケベ」
慌てる彼にキクノは冷たい声で先を促し、わたしは恥ずかしさに耐えながら寝たふりを続けた。
気まずい沈黙が三人の間に流れる。
その沈黙に耐えかねたのか、彼はおずおずと再びわたしの体を拭き始めた。そして全身を拭き終わったところで、わたしは彼に自分を見せつけるように、
「うーん」
寝返りを打つ振りをして仰向けになった。
その直後、床に柔らかい布のようなものが落ちる音がした。
わたしの左右に微かに揺れる胸には強い視線が注がれ、喉を鳴らす音も聞こえる。
もっと触れていいんですよ?
わたしの想いがリンクを通して彼に伝わったのか、それに応えるように彼の気配が近づいて大きくなってくる。それは覆い被さるように、わたしの胸へと近づいて、
「ちょっと、あんた!」
キクノがやかましく何かを言っているけど、もう彼には聞こえていないようだった。
期待に高鳴るわたしの胸へと、同じ速さを持った息遣いが近づいてくる。愛しい人にもう少しで直接触れてもらえる。そう思った直後、部屋の中に突風が巻き起こった。
「おやおや。お取り込み中でしたか?」
「⁉」
含み笑いとともに聞こえた知らない男の声に、わたしは素早く自分の体ごと彼をタオルケットで包むと、部屋の隅へと飛び退いた。そして声のほうへと目を向ける。
そこには全開に開いた窓と、窓枠に優雅に腰掛ける白いスーツ姿の優男がいた。
◆
「あん♡ ちょっと今は動かないで!」
私の胸に顔をうずめてもがく彼を抱きしめながら、わたしは白いスーツの男を睨みつけた。
「あなた、誰?」
男は、少し長めの前髪から細い瞳を覗かせて、天井隅に浮かぶキクノへ視線を向けた。そして、それから私を見て口を開く。
「どうも。通りすがりの死神です」
白い中折れ帽に手をかけて軽く会釈をしながら、男は爽やかな笑顔を浮かべてそう言った。
窓からは夜の生温かい風が流れ込み、汗ばんだ胸の間から漏れる彼の荒い息遣いだけが、沈黙の中で存在を主張していた。
私は彼の温もりを胸に感じながら、目の前の男に話しかける。
「もしかして、死創機関の……」
「死神です!」
笑顔のまま、男がこめかみをひくつかせて、そう主張する。
「いや……」
「死神DEATH!」
窓枠から身を乗り出して、右手の中指だけを真っ直ぐ天井へ向けながら叫ぶ男に、わたしは呆れつつもキクノに視線を向けた。彼女は苦笑いを浮かべながら「少しはつき合ってあげれば?」と目で言っている。
「わかったわ。その死神がなんの用?」
仕方なく話を進めると、男は窓枠に座り直して不敵な笑みを向けながら答えた。
「なんの用とは愚問ですね。死神の仕事と言えば、死者の魂を幽世へと導くことに決まっています」
「……彼は、渡さないわよ?」
彼を男から遠ざけるように身をよじりながら、わたしは静かな声で威嚇するように言った。
「いや。彼は、まだ死ぬべきときではありません。ですから、その……」
男の視線が、わたしの胸へと向けられる。
わたしはとっさに胸を隠すようにさらに体をよじり、ぎゅっと腕に力を込めると男を睨みつけて叫んだ。
「このエロ神!」
「エロ神⁉」
驚く男に間髪入れず、わたしは言葉を投げつける。
「勝手に人の胸を視姦して、この変態! この胸はカブト様の……、今は彼のものなんだから!」
自分で言って体が熱くなるのを感じながら、それでもわたしは胸を張って宣言する。
そんなわたしに、男は驚きの表情を困惑へと変えながら言ってくる。
「いや。だから、その彼が今まさに君の胸の中で死にそうなんだが……」
「え?」
男の言葉に、わたしは自分の胸を見下ろした。そこには胸の谷間でうなだれ、力なく手足を垂らした彼の姿がある。
「……ハルキ様!」
慌てて腕から力を抜くと彼の体は胸からずり落ち、頭が床へと落ちていく。
「うぐっ!」
その言葉を最後に、彼は動かなくなった。
◆
「ハルキ君。君はサキュバスを知っていますか?」
床にあぐらをかいて座り込むハルキ様に、男が問い掛ける。
わたしはベッドの上でタオルケットを抱き寄せながら、ハルキ様に視線を送った。でも、視線に気づいた彼は鋭い目つきでわたしを睨み返すと、すぐに視線を外してしまう。そして、ズボンから取り出したピルケースから何かを口に放り込むと、それをバリボリと噛み砕いてチッと舌打ちをした。
嫌われちゃった……。
涙目でキクノに助けを求めると、彼女は少し困ったような笑みを浮かべながらも、ビシッと左手の親指を立てて「大丈夫」と言ってくれる。
倒れたハルキ様を抱き起こして介抱したものの、なぜか目を覚ました彼から「離れろ」と言われてしまい、私はベッドの上で大人しく正座をしていた。
「サキュバス? それって淫魔のことか?」
わたしではなく死神を名乗る男に視線を向けて、ハルキ様が不機嫌そうに答える。その顔は、なぜか少し紅潮しているように見えた。
「そう。淫魔。淫らな魔性の者」
わたしからハルキ様を奪った男が、そう言って見下すような視線を向けてくる。
男の代わりにタオルケットに噛みつきながら、私は男を睨み返した。でも、男はさらに楽しそうに含み笑いを浮かべると、わたしを指さしてハルキ様に言った。
「彼女が、その淫魔ですよ」
「ちょっと! 彼に変なこと吹き込まないでよ!」
「そうよ! あたいの親友は淫乱じゃなくて純粋なドMよ!」
「は?」
「え?」
キクノの言葉に、ハルキ様と自称死神の目が点になる。そして、そのままゆっくりとわたしを見た。
「そ、そんなわけないでしょ⁉」
わたしは視線を避けるように俯いた。顔だけでなく、体全体が燃えるように熱い。
ちらりとキクノを見れば、彼女は腕を組んで胸を張り、鼻息荒く男二人を見下ろしていた。
タオルケット越しでも感じられるハルキ様の視線が、レーザーのようにわたしの肌をじりじりと熱くする。
見ないでという羞恥心と、もっとわたしを見て欲しいという独占欲がない交ぜになって、頭は痺れ、思考が白く溶けそうだった。
そんな、ぼんやりとした思考の片隅で、咳払いをして話を続ける死神の声が聞こえてくる。
「えーと、まあ、その性癖もサキュバスとしての、なんというか……、そう、本能ですよ。獲物に魅了(チャーム)という呪いをかけるための」
「呪い?」
その言葉に、彼の視線がわたしから死神へと向けられる。
熱い視線から解放されて、わたしの思考は徐々に冷静さを取り戻していく。そして、ハルキ様の関心を取り戻した死神は、安堵とともに再び楽しげに話し始めた。
「そうです。彼女はあなたを欲情させ、その魂を自分のものにしようとしているのです」
「それはつまり、俺を殺すってことか?」
ハルキ様が死神に問い掛けた言葉は、私の心を一瞬で凍りつかせた。
コロス。カレヲ、コロス。
勝手に浮かび上がろうとする過去を黙らせようと、わたしは震え始めた自分の体を強く抱きしめる。でも、そんな過去に怯えることしかできないわたしを無視して、死神は淡々とした声でハルキ様に告げる。
「そう。彼女は、あなたを殺しにきたのです」
「そんなこと、絶対にしない! 勝手なことを言わないで!」
わたしはベッドに仁王立ちになると、体の震えを叫びに変えて目の前の死神を睨みつけた。
そんなわたしを、死神は楽しそうに見返す。でも今のわたしには、もう一つの視線のほうが気になっていた。それは、前の熱い視線とは違う、拒絶を感じさせる冷たい突き刺すような視線。
いや! そんな目でわたしを見ないで!
ハルキ様の顔を見ることができない自分が悲しくて、わたしは唇を噛んだ。彼とは違う鉄の味。わたしに流れる罪の味が、彼を求めて囁きかける。
「わたしの邪魔をするなら……」
「するなら?」
わたしの心の底を見透かすような、嘲るような視線で死神は言う。
気持ち悪い冷や汗を無視して、わたしは無理矢理口の端をつり上げて言葉を吐き出した。
「排除、するだけよ」
言葉とともにわたしは両手を前に突き出し、何者も一瞬で切り裂く鋭い力をイメージした。それは無数の気泡となって空間から湧き上がり、手の中へ細身の長剣を具現化させる。
威圧の剣線を向けるわたしに、死神は困ったような表情を浮かべた。
「争いごとは苦手なんで、できれば話し合いで済ませたかったのですが」
そう言って死神は、ハルキ様のほうへと視線を向ける。
「罪もない人を巻き込んで死なせてしまっては死神の名折れですし、今日のところは帰るとしましょう」
そして、わたしのほうへ視線を戻すと、死神は口の前に人差し指を立てて低い声で言った。
「最期に一つ、くれぐれも幽世の秘め事には触れないように」
次の瞬間、死神の研ぎ澄まされた視線が、刃のようにわたしの首筋を皮一枚の正確さで触れて消えた。そして、首筋から一気に燃え上がるような、無数の小魚が一斉に肌をついばむような感覚が体中に広がり、同時に子宮を直接揺さぶるような快感がわたしを襲う。
「⁉ ひゃうっ、何⁉ あんた、はうっ♡ 一体、ひっ、くぅう。これ、は。あ、はぁあん♡」
「アルラウネの歌声です。と言っても囁き程度ですが。おしゃべりが過ぎるようなら、そのときは……」
死神は窓の外に浮かぶ月を見ながらそう言うと、泡のように闇夜へ溶けて消えていく。
それを見届けるまでが限界だった。体の奥から広がる強烈な快感に思考と緊張は崩壊し、剣は泡と消えて体はベッドへ倒れ込む。
「ヒガン⁉ 耐えて! イッちゃだめ!」
耳元で聞こえるキクノの声も霞んでよく理解できない。
わたし、彼の前でイッちゃう?
困惑しながらも凝視する彼の視線を感じながら、わたしの意識は急速に光へ飲み込まれていった。
◆
「カオル様。すぐに強制送還しなくてよろしいのですか?」
サングラスをかけた黒服が死神に話しかける。
月を背に死神は、一軒家の屋根の上からハルキの部屋の方向を見ていた。
「彼らには借りがあってね。まあ、機密事項を漏らすようなら遠慮なく送り返すさ」
カオルと呼ばれた死神は、隣の黒服と背後にいたもう一人に指示を出すと、自分は懐からガムを取り出して口に放り込んだ。
黒服達はカオルに一礼すると、風に吹き散る泡のごとく姿を消す。そして残された死神は、ガムを噛みながらため息交じりにつぶやいた。
「本当に、あなたたちには困ったものです」
つまらなそうにカオルはガムを膨らませる。しかし、その瞳にはシャボン玉の表面を彩る光のように、憂いと優しさが揺らめいていた。
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