番外編
そして僕らは友達になる1(高校時代:ヒカゲと那由多の話)
◆高校時代のヒカゲと那由多の話。
高校二年の春。頬杖をついて窓の外を眺めていたヒカゲに、人影が近づく。
「オレと一緒に人を殺さないか」
話しかけてきたのは、隣のクラスの少年だった。
人を殺したい。けれどそれは犯罪だ。
だから、黒月ヒカゲは人を殺さないで、安全で安寧で暇な――変な不良に付きまとわれていること以外は、いたって普通の高校二年生の日常を送っていた。
「黒月、今日は一緒に帰ろう」
窓際の席で頬杖をついてグランドを意味もなく眺めていたら、同級生が声をかけてきた。
視線を同級生へ向ける。優等生の言葉が似合う男だ。美形でも美人でもない平凡で、漫画ならモブとして大活躍しそうな顔だ。黒ぶち眼鏡に清潔感のある髪型。制服の第一ボタンまで締めた姿はやや堅苦しい。
「いいよ、帰ろう。駅前にパンケーキを取り扱うカフェが出来たんだけど寄って帰らない?」
今日は、この真面目な普通の男と一緒にいたいと思ったのでヒカゲは承諾する。
「そこでテスト前の勉強ができるならいいぞ」
「じゃ、そうしよう」
寄り道はせず真っすぐ帰ろうというほど、杓子定規ではない。真面目だが融通も聞き細かい気配りもできる男だ。
ヒカゲの思いはパンケーキに移る。
美味しいパンケーキならば通いたいし、まずいなら記憶から抹消したい。美味しくないパンケーキは罪だ。
「なんだよ、ヒカゲ。誰かと帰るのか? オレと一緒に帰ろうぜ」
帰りの支度をヒカゲが始めて、その隣で同級生が待っていると、隣のクラスの男が我が物顔でずかずかと教室に入ってきた。何人かは目を合わせないようにこそこそと逃げるようにして出て行った。黒髪なのが驚くくらい似合っていない不良の雰囲気と醸し出した那由多だ。同級生は目を白黒させていた。
ヒカゲは最近付きまとってくる那由多にため息をつく。早く消えてほしい。
「今日は彼と帰るから」
「なんか二股かけられている気分だなその台詞」
「お前とはそもそも恋人以前に友達ですらない。大体僕は男だ」
「なら、そっちの同級生さんは友達ってか?」
那由多の言葉にヒカゲは答えず、行こっと同級生を誘って那由多の横を通り過ぎる。那由多は何も言わない。
廊下を進んで階段を下りたところで、同級生がヒカゲに尋ねる。
「彼は名桐那由多(なぎりなゆた)君だよね?」
「隣のクラスなのによく名前覚えているね」
「同学年くらい覚えているよ」
「六クラスあるから単純計算二百四十人いるんだけど」
「その名桐君と、いつの間に仲良くなったんだ?」
不良の二文字が合う那由多と、成績優秀なヒカゲは仲良くなるタイプに同級生は思えなかった。
「仲良くなったつもりも、友達になったつもりもないよ。ただ勝手に話しかけてくるんだ」
――人を殺そう、と。
そこまでは言わない。
隣のクラスの名桐那由多は殺人鬼。人殺しだ。
実際の現場を目撃したわけではないが、自称ではなく本気で、真実だと那由多の瞳や態度が物語っていた。何より、那由多は見抜いたーーヒカゲが人を殺したい感情を持って、それを抱えて生きていることを。
何の利点があって、カラオケ感覚で人殺しに誘うのかはわからないが、その誘いに乗るつもりは微塵もない。
人殺しはいけないこと。犯罪。法は遵守するものであり犯すものではない。道を踏み外したくない。宿った好奇心を理性で押しとどめる。
下駄箱で靴に履き替えて、校門出る。駅前に向かう。
新しくできたカフェはオープンしたてだからか比較的ににぎわっていた。
二人席に案内され、メニューを眺める。パンケーキ一択だが、生クリームを追加でつけるかが悩ましい。結局、アイスクリームと生クリームをトッピングした。追加で三百円。
「今度のテストこそ、黒月よりいい点数取りたいな」
「無理でしょ」
「傷つくな」
「嘘じゃないし。僕だって勉強頑張るからね」
「志望校は決まった?」
「まだだけど、国立大学にしようと思っているよ」
パンケーキが届いた。同級生のはノーマルで、ヒカゲのは生クリームパンケーキにトッピングの生クリームとアイスが乗っていてもはや真っ白だ。パンナコッタと迷ったが白さではこちらの方が上だろう。
同級生は育つの良さを感じる滑らかな手つきでパンケーキを切り分けて、ハチミツをかけた。
ヒカゲも期待を込めて食べた。
好みの味ではなかった。生クリームがぱさぱさしていて美味しくない。
「にしても、周りは女子とか恋人同士が多いな」
同級生が埋まっている席を軽く見渡して言う。
「そうだね。彼女作ってここに来たら?」
パンケーキはいまいちだが、食事は美味しいかもしれない。味より見た目が可愛ければいい女子もいるだろ。
「受験があるから彼女はいいよ。黒月は好きな人はいないのか?」
「いないね」
「好みのタイプは?」
「美人」
「直球だなぁ」
「そりゃ、美人が好きだからね」
整った顔立ちはいい。その顔を眺めていたい。だから、別に眺めていても面白いと思わない同級生は有難い。
「早く大学にいって早く就職したいよ」
「真面目だな黒月は」
「別に真面目ってわけじゃないよ。ただ、早く自立がしたい。そのためにもいい大学に入らないとね。履歴書における学歴というブランドは大事だ」
「確かに、それには大いに同意だ」
早く、家族という庇護下の元から出られるようになりたかったが、下準備は必要だ。定番でありきたりだが、いい大学を出ていいところに就職をする。
それがヒカゲの目標だ。
名門大学を出ていれば履歴書の経歴に白を付けることもできる。選べる職業の幅が増える。選択できる可能性も、挑む可能性も多いに越したことはない。
そうして希望としては一流企業に就職して、そこで完全に父親の庇護下から抜ける。ヒカゲが考えている計画だ。
そのためには勉強は必要不可欠。問題行動を起こすわけにもいかない。
先立つものがなければ、野垂れ死ぬだけだ。
パンケーキを食べて終えてから砂糖とガムシロップをたっぷりいれたコーヒーをお代わりして、鞄から勉強道具を取り出す。
一時間ほど、勉強をしてからヒカゲは同級生と別れた。
通学時間を値段に換算すると家賃は少し高くても学校の近くがいいと判断して一人暮らし先として借りている部屋へ戻ろうと道を歩く。
マンションの階段を登ろうとしたところで、ヒカゲは足を止める。
目の前にはあまり会いたくない人がいた。
「よお」
「何? 待ち伏せ。悪趣味だね」
那由多だ。黒髪にピンクの髪留めを使っている。スクール鞄をリュックのように背負いながら、第二ボタンまでシャツはあけて、ブレザーを着ている。スラックスはやや腰パン寄り。黄色の運動靴が目立つ。
「あぁ。待ったよ。一時間も待たされた」
丁度勉強をしていた時間だ、とヒカゲは思った。
「だから、帰ってきたら殴ろうと思っていたんだ」
ニヤリ、とギザ歯が見える。那由多は宣言通り、拳を固めて殴りかかってきた。
ヒカゲは勢いのある拳を合気道のように受け流す。力の流れを利用して那由多を投げ飛ばす。綺麗な動作に那由多は驚きながらも、重みのある着地をする。豹が獲物と出会ったかのように瞳を爛爛と輝かせ、舌で唇を舐める。
「ひょろっこい癖に。オレが殴ろうとして交わすとは思わなかった」
「それはどうも。お前がトロイだけなんじゃないの」
「――あ?」
沸点が低いまま、衝動に任せて殴りかかってきた。那由多の拳は痛そうなので交わす。
何度かそんなやりとりをしていると那由多は飽きたのかやめた。
「いいや。殴るのはまた今度にしよう。大体マンション住民に目撃されても困る」
「その場合はお前が百%悪いから僕は困らないけどね」
それじゃ、といってエントランスに入ろうとしたのを、待てといって那由多が手首をつかんだ。意外だ、と瞳を丸くして振り返る。
「ちょっと。痛いんだけど。というかどうして僕の手首をつかむ?」
殴るは想定の範囲でも掴まれるは想像の範囲外で咄嗟の判断が遅れた。那由多は捕まえた獲物は逃がさないとばかりに凶悪な目をしている。
「痛くしているから当たり前だな」
「手首が折れる」
「骨が折れただけならくっつくから安心しろ」
「全く、お前は暴君か何かか? そもそも、どうして僕の家を待ち伏せしている」
「お前と話しをするためだ」
「そして何故僕の住所を知っている。教師の机でも漁ったか? 個人情報流出だね。告げ口をしたらお前は見事退学だ」
「退学する前にお前をコンクリートの中に埋めてやるよ」
「コンクリートに埋めたくて人を殺しているの?」
「っと、ストップだ。ヒカゲ、てめぇの家に入れろ」
「え、嫌だけど」
手首を捻られたので、仕方なくヒカゲは那由多を家に入れることにした。
じんじんと手首が腫れていたい。赤くなっている。
「馬鹿力過ぎるでしょ、何なの」
変な奴に絡まれた、とリビングにある箪笥の引き出しから湿布を取り出してはる。痛みが長引かないといいな、と思った。
「ヒカゲの腕が細すぎるんだ。肉食ってるか? 料理は得意だし食わせてやろうか」
「遠慮しておくよ。お前の料理とか得体が知れなくて食べたくない」
何を入れられるかわかったものではない。
「そういや、潔癖症か?」
那由多はヒカゲがしている黒い手袋を指さす。
「違うよ。人の体温が嫌いなだけ」
「へぇ」
「で、お前はどうして人を殺しているわけ?」
「別にオレは殺したいから殺しているわけじゃねぇからな。勘違いがあったら困るから、そこは訂正しておく」
「なら、何が目的で人を殺す。殺す人間に何を求めている?」
「なんか探偵っぽい口調だなぁ。探偵とか天職かもよ?」
「興味ないね。僕は企業に就職してサラリーマンになって、靴底を減らすんだから」
「似合わねぇ。超似合わねぇ」
那由多はサラリーマンヒカゲを想像してあまりの似合わなさに腹を抱えて笑う。
「酷い。僕の夢を心から笑わないでよ」
「だってお前がサラリーマンとかありえない冗談にしか見えねぇよ」
「案外そんなものでしょ。で、お前が殺す必要がある理由は?」
「オレは人を食べたいんだ」
「――は?」
理解できない虫を見るような目でヒカゲが尋ねる。
嫌悪感のある感情は、望むところで沸点の低い那由多だが、怒りのゲージは上昇しない。
「人を食べたい。腹が減ったら人を食いたい。人を食うためには人に死んでもらう必要がある、だから殺す」
両手を広げて演説するかのように那由多は理由を語る。
「なるほど明快だ」
人の肉はスーパーで安売りしていない。タイムセールにも広告掲載もされない。
人の肉がどこの市場からも除外されているとは断言しきれないが、それでも通常ルートでは手に入らない。
「まぁ仮に人の肉が子供から大人までバリエーション豊富に売っていたとしても、オレとしては自分で手に入れて調理したいな。新鮮な目玉はうまいぞ。今度食わせてやる」
「絶対断固拒否する」
「ただ、人間はうまいとはいえ、オレ一人じゃ中々食べきれないから、泣く泣く処分することも結構あるよ。そのうち何とかする予定だけどな。食べ物は粗末にしたくない」
「材料が人間じゃなきゃ褒められそうな発言だね。つまりお前は、人を殺したいわけじゃないけど、人を殺さないと食材が手に入らない。ならば人を殺すという過程を省きたいと思ったわけだ。なるほど、効率的だね」
人を殺したいわけじゃないのだから、人を殺してくれる人間がいたほうが、労力を割かなくて済む。だから人を一緒に殺そうと誘いかけてきたのだ。
「そういうことだ。そして人を殺したいやつは殺した死体の処分に困るだろ? オレはそれを引き受けることができる。ビジネスにしたって双方の利点が大きい」
「どうだろう。殺人と死体損壊じゃ、罪の重さが違うね」
「道徳的な問題とかどうかは置いといて、確かに死体を処理するだけなら殺していないって話になるかもしれないが、そこは問題がない。オレは既に人を殺して食べているのだから捕まったときのリスクは恐らくオレの方が上だな。現状、天秤にかけるならの話だけれども」
「で、そのために僕に声をかけてきたのは何故だ。僕は猟奇的殺人犯じゃない」
「でも将来そうなる」
「未来が見えるなんて最悪だね。探偵にでもなれば」
「探偵は未来を見るもんじゃないだろ」
那由多が口を開けると見える、チャーミングポイントのようなギザ歯で人を食べているのだろうか、とヒカゲは思った。
「オレはそういうわけで相棒を探していた。その時、見つけたんだよ、人を殺したい目をしているお前を」
「将来に期待なんてしないで、手ごろそうな猟奇趣味の倒錯変態でも捕まえて仲間にすればいいじゃないか」
「それは駄目だ」
「なんでさ。チームを組めばアリバイ工作の面では優位かもしれないけど、共犯の可能性を疑われれば崩れ落ちる。ならば、縁もゆかりもない人材の方がちょうどいいんじゃないの?」
隣のクラスとはいえ、同じ学校でしかも最近やたら声をかけて仲良くなった人間なんて、共犯者としては合格にはならない。
「オレは無差別に相棒にしたいわけじゃない。オレはおじいちゃんになって死ぬ前まで人を食いたいわけだ。ならば、捕まるようなやつは駄目なんだよ」
何処か一瞬会話がかみ合わないと思ったが、ヒカゲは疑問を無視して会話を進める。お茶が飲みたかったが、那由多にお茶を提供したくないので帰るまで待つ。
「ならそれこそ僕に何を期待しているの。僕は素人だ」
「大丈夫だ。そうオレの直感が告げている。オレの直感は結構いいんだぞ、そもそもオレが一緒に人を殺そうといった時点で、お前の反応は最高だった。だから、だよ」
「僕は、人を殺さない。人は殺してはいけないものなんだよ」
はっきりと、拒絶を示す。本来ならば那由多を自宅へ上げたくもなかった。脅されて仕方なくだ。那由多みたいな人種とは関わりたくない。防波堤を崩されてしまいそうで、怖い。
「そうか」
那由多は諦めたように起き上がる。ヒカゲは一瞬ほっとして那由多から視線を外してしまった。それが失敗。那由多が襲いかかってきた。座っていた体制から動くには遅すぎた。遠慮のなく手を伸ばしてきて後手に回る。肩を掴まれ絨毯の上に押し倒された。フローリングじゃなくて良かったとはあまり思えない背中の痛みに顔を顰める。那由多が馬乗りになって、ヒカゲとは違う健康的な手で首を絞めた。
「かっは――」
空気が零れる。足掻こうとするが、腕力の差は歴然で抵抗らしい抵抗が出来ない。那由多を蹴ろうと思うがうまくいかない。両手で那由多の手を外そうと爪を立てるが微動だにしない。抵抗すれば強く締められる。酸素が足りない。苦しい。意識が思考が身体から手放しそうになってようやく那由多は首を絞めるのをやめた。
ヒカゲはほぼ無意識に呼吸を繰り返して酸素を貪る。那由多はまだ上に乗ったままなので重たかった。
ふらふらとする。那由多の力は強くて、首が解放された後もまだ絞められたような気分だ。
「死んだらどうするの」
「大丈夫だ、加減はしてやった」
手加減をしたら人の首を絞めていいというわけではない。
「僕にキレて戯れに首を絞めたってわけじゃないでしょ、一体どういうことさ」
那由多の行動を見ていれば、衝動のままにきれたのならば首を絞めるなんて手順は踏まない。花瓶で頭をぶん殴って終わりだ。
「ここに灰皿がなかったからって理由じゃダメか」
「灰皿がないならテーブルを持ち上げたでしょ」
「流石にそこまでゴリラじゃねぇよ」
といいながらテーブルを持とうとしたのでヒカゲは止める。部屋の部品を無意味に壊されたくはない。
節約をして生活しているのである。パンケーキは偶に食べたくなるから、その時は贅沢をしているが。パンケーキは必要経費だ。
「ただ首を絞めただけだ」
「理由がない方が性質悪いね」
「殺されそうになったら殺す快楽に目覚めるかと思って」
「馬鹿?」
「それにしても、マンションの下で殴りかかったときに思ったが、ヒカゲは合気道の達人か? それとも柔道の黒帯か?」
「違うけど」
「ならなんでだ」
「……別に、変な、理由はないけど」
言いよどんだヒカゲに、言わないと首を絞めるぞとばかりに那由多が笑ったので、嘆息してから答える。
「父親が、護身術の一つでも使えないと危ないぞって、教えてくれたんだよ」
「顔が可愛いからナンパ防止か?」
「お前は僕の性別を何だと思っている」
那由多はいつの間にか立ち上がってクローゼットの中を勝手に漁りだした。人のものを勝手に探られたくないが、重たい身体がどけてくれたのは有難い。まだ起き上がる力はなかったので横たわる。
「男物の服しかねぇ。お前やっぱ男か」
「制服見ればわかるでしょ」
「教師たぶらかして偽装工作したかもしれないだろ」
「教師たぶらかした程度じゃ無理でしょ。馬鹿?」
「じゃ校長」
「かるいなぁ……」
嘆息しながら、ようやく意識が明瞭になってきたと、ヒカゲは起き上がる。首回りに手を触れようとしてやめた。
「このまま警察に行けば、那由多を殺人未遂で逮捕できるか。指紋もばっちりだし」
「警察に駆け込むならその前に絞殺するぞ」
「その時は全力で抵抗するね。いつも僕の首を絞められるとは思うな」
「まぁ。運だろうな。で、だ。ヒカゲは武術もできて、それで頭もよくて人を殺したい。益々、オレと一緒に相棒になるべき人材だ、どうだ」
「勧誘の仕方が嫌すぎる」
ヒカゲは自然と口元が綻んで笑った。
「なんだ、ヒカゲ、笑えるんだな」
「どういうことさ」
「つまんない顔していたから。別に笑わせたいわけじゃねぇけど」
「つまんないねぇ……そりゃ、つまんないよ」
思わず本心を露としてしまう。つまらないはつまらない。心が沸き上がることはやってはいけないことだと分別がある。だから――つまらない。
「なら、オレと人を殺そうぜ」
「嫌。法律違反をするつもりはないから」
「どうしてそんなことに拘るんだよ」
「そんなことってものじゃないでしょ。万引きをして人生が滅茶苦茶になるというのならば、人を殺したら人生は破滅だよ。人は法律の中で生きていくべきだ」
「はっ。つまんねぇな。そんな正論の上で生きていけるやつじゃないだろてめぇは」
「そうだね、そうかもしれないけれど、それでいいんだよ」
「大体よ」
「何?」
「いや、やっぱいいわ」
那由多は言いかけてやめた。ヒカゲは推測がつくから尋ねない。
大方、犯罪者を見逃すなんて、それこそ法律の上で生きるのに対する犯罪ではないか、と。言いたいのだ。それを言われればその通りでしかないが、首を絞められた程度では冗談のネタにはしても本気で警察に駆け込むつもりはなかった。
本来ならば、善良なる一般市民としてこの殺人鬼を通報するべきなのだろう。通報しようとしたら全力で那由多は阻止しに襲ってくるのは目に見えているが、それが怖くてできないわけではない。感覚が摩耗しているな、とヒカゲは自嘲する。
「つべこべ理由を付けてないで、オレととりあえず殺そうぜ。さくっと。何なら初回はオレがやってもいいから」
「殺さない。帰って」
「あ、あと忘れてた。オレは名桐那由多。那由多でいい」
「名前、知っているけど」
「知ってるならいい加減呼べよ。お前、としかお前いってねぇだろ」
「お前だって僕のことお前と連呼しているでしょ」
「オレはヒカゲって呼んでいる時もある」
「なんでいきなり親しげなの。黒月って呼べばいいのに」
「黒月ってよばれたいのか?」
「苗字は好きじゃないけど、お前と親しくなるつもりはないからヒカゲって呼ばれる筋合いもないかなって」
文句を言ったら那由多が眉間にしわを寄せ――たと思った瞬間拳を固めて殴りかかってきた。予想は出来たのでヒカゲが交わすと那由多は地団駄を踏んだ。
「殴らせろ」
「マゾじゃないから断る」
「まぁいい、合鍵よこせ」
「話の筋道を立てて。それと合鍵なんて渡すわけないでしょ。冷蔵庫に人肉が入っていたらどうするの」
「うまいぞ」
「まずいに決まっている」
「食わず嫌いはいけないな」
「食わなくて分かるものを食べる程僕は好奇心旺盛のゲテモノ食いじゃないからね」
「まぁいい、今日は帰る」
那由多は鞄を取って、部屋を開けなきゃ扉を壊すから覚悟しとけと冗談にならない捨て台詞をはいていった。
ヒカゲは絨毯の上に足を広げて座る。
「はぁ。何なのさ、あいつ」
無機質な天井を見る。それから部屋を見渡す。先ほどまでの喧噪とは真逆の、白と黒でコーディネートされた部屋は何の感情も抱かないような冷たさに満ちている。
感情が荒ぶっている。
落ち着こうと、流しへ移動する。お茶を飲むのと一緒に宿った心の感情を一緒の胃に流してしまいたい。
「楽しいなぁもう」
楽しいと、道を踏み外してしまうのに。つまらない日常をつまらないまま送ろうと思っているのに――嫌悪と同時に宿った愉快は、お茶では流してくれなかった。
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