最終話:空白

 心が飛び出してしまいそうなほどの楽しさが欲しい。

 愉悦が、快楽が、極楽が、満足が、欲求が、渇望が、足りない。

 心を満たすために、ヒカゲは階段を踏み外しそうになりながら降りる。

 真っ先に目に入ったのは、柔らかな薄茶色の髪が汚れて、地面に伏した死体だ。

 血だまりを踏まないように歩いていく。少女の無残な死体と、その額を幸せそうに撫でている那由多がいた。


「よお、ヒカゲ」


 口元に食べ粕がついたまま那由多が手をあげた。


「やあ、那由多」


 陽気な声で応じると、那由多が舌で美味しそうに食べ粕を舐めて、にやりと赤いギザ歯を見せた。

 あぁ、これぞ唯一の友人だ、とヒカゲは温かくなった。


「助けて那由多。物足りなくて、満たされない。殺したい相手を殺したら楽しいと心待ちにしていたのにも関わらず違った。虚しさが足を掴んでいる」


 一歩、一歩と距離を詰めていく。那由多は応じるように立ち上がった。


「那由多を――『友達』を殺させて」


 これが、正解だ。切実な願い。友達は殺したことがない。

 最初に殺した人間は親友だった。

 けれど、親友と相手が言っていただけだ。ヒカゲは相手がそういうからそうなのだろうと思っていたにすぎない。

 那由多は違う。

 那由多は、ヒカゲも友達だと断言できる。

 美人を殺しても快楽を得られないのならば、友達を殺して快楽に浸るしかない。


「あぁ……丁度良かった。オレもお前を食べたかった」


 那由多はかがんで赤く染まった鉈を手にした。


「オレも足りないんだ。レースはどんな人間よりも最高に美味しかった。筆舌に尽くしがたい味が目玉からした。その舌は何度歯で噛んでも味が染み出てきた――けど、足りないんだ。腹は満たされたはずなのに腹がすくんだ……空っぽになるんだよ」


 空を眺めようとすると一面に広がるのは薄暗い灰色の天井で心を変えてはくれない。

 求めれば、求めるほど欠落していく。求めても、終わらない。

 求めるほどに、消えていく。ヒカゲも那由多も同じだ。


「お前と同じで、オレも足りねぇなら、『友達』を食べたら満腹になれるかなってそう思ったんだよ」


 足りない飢えを満たすために『友達』を選んだ。

 血に染まった刃を向けあって笑う。殺意はない。


「友達は、まだ殺したことがないから」

「友達は、まだ食べたことがないから」


 言葉は重なる。

 友達ならば満たしてくれると可能性を期待して。


「あぁ……そうだ、ヒカゲ一つ言っとく」

「なぁーに?」

「お前がレースをけしかけたことはオレだって気づいている。でも、そんなことはどうでもいいよ。余計なお前の暇つぶしのお蔭で、オレはレースを愛していると気づけたんだからな」

「それは良かった」

「あぁ。てめぇのくだらないサプライズに感謝してやるよ。くたばれ」


 那由多が踏み込み、頭上から重たい一撃を振るってきた。受け止めてはまずいとヒカゲは横によける。床を鉈が抉る音。失敗すれば苦痛を伴い死ぬ。

 高揚感に互い笑う。

 薄暗い室内を無数の閃光のように銀色がはしり、示し合わせたように飛びのき距離を取る。

 一呼吸ついてまた殺し合いが再開される。互いの実力を把握したうえで、如何に相手を殺すかを導き出し刃を振るう。

 手数の多いヒカゲの一撃は、那由多に無数の傷を作るが、軽いため那由多の猛攻はやまない。

 那由多の一撃は遅いが、振るわれるたびに命を削り取られるかのような恐怖を覚える。

 那由多を抑えようとヒカゲが一歩踏み出す。鉈が振るわれ受け止めようとするがヒカゲの力では押し殺すことが出来ず猛烈な痛みが襲ってくる。

 吹き飛ばされながら空中で体制を整えて、右手を庇うようにナイフを構えて踏み込む。

 繰り返される刹那の攻防は、永遠のようで短い。

 ヒカゲが那由多の右手首を切り付け、右足で傷口を抉るように蹴ると鉈が地面へ落下する。勢いのまま、那由多を押し倒す。先刻、同じような状況だった記憶がノイズのようにはしる。


「僕の勝ちだな」


 那由多は無駄な抵抗をしなかった。

 殺しあった末の勝者がヒカゲだった、それだけのこととだと顔が伝えている。友達であるがゆえに、強がりではないことはわかる。


「那由多。冥途の土産にお前が何故、僕を求めたのか教えてあげる」


 理解できていない相手に教えてあげたい気持ちが芽生えた。返事は待たない。


「レースを愛しているからだよ。那由多にとっての最高を失った。だから、空しくなって心が空っぽになった。二度と、味わうことができないから」

「あはは、そうか。そりゃそうだな!」


 那由多はすっきりしたとばかりに大笑いした。心の底から楽しそうで、ヒカゲは少し羨ましかった。


「なら、オレも死ぬ前に教えてやるよ。感謝して親愛を示せ」

「なにそれ。上から目線?」

「お前が、美人を殺しても、イサナを殺しても満足できなかったのはな」

「――さっきの女、イサナって名前か?」

「それだよ、それ!」


 那由多の言葉の意味が理解できずにヒカゲは首を傾げる。


「手遅れなんだよ。全て」

「な、にが?」


 亀裂が、入った気がした。その答えは聞くべきではないと、心が訴えているが、那由多の口は、閉じない。


「ヒカゲが満たされないのは――天喰が死んだからだ」


 駄目だった。

 那由多が確信をついてきたのはヒカゲにも理解できるが、何であるかがわからない。


「どう、して」


 声が震えるのは果たして結末を知りたくないからか。

 ――もう、知ってしまったのに?


「殺した人間の顔も名前も覚えていないお前が! 天喰だけは覚えている。それは天喰という人間が、ヒカゲにとって最高に好みの顔をしていたからだろ? オレと同じだ。最高がいなくなってしまったから、お前は天喰以下の美人をいくら殺したって、つまらないんだよ。快楽を得られないんだ」

「――僕は」

「天喰は二度と現れない」

「やめて」

「しかもお前はオレよりも可哀そうだな。てめぇは、天喰をその手で殺すことすらできなかった。あははは。オレを殺した程度じゃ、ヒカゲの慰めにもならない!」


 ヒカゲが手を伸ばした天喰は、屋上から零れ落ち、那由多はレースを愛していると気づき食べた。

 同じ満たされないでも、結末は違うと、強制的に理解させられる。


「いや、だ」

「天喰が最高だからこそ、それ以上の最上に出会わない限り、快楽は訪れねぇよ! そしてそんなものは――存在しない。天喰遥は、この世にただ一人だ」


 ナイフを握る力を失いそうになって慌てる。

 天喰遥は稀有な虹彩異色症。しかも紫色の珍しい瞳を持っていた。整った中性的な顔立ちに、強気な性格は、ヒカゲがいくら痛めつけても悲嘆することなく抵抗してきた。

 そして、天喰は絶望ではなく勝利のために、自ら命を絶った。

 ヒカゲは、天喰に死んでほしくなかったのに。


「なら『友達』を殺したって満たされねぇよ。オレは天喰じゃないからな。オレは、那由多だ。名桐那由多だ」

「違う……僕は、那由多で遊ぶから。友達を殺すってきっと凄く楽しいことに違いない。友達は特別だ。もう。友達しかいないんだ。僕に、特別なのはお前だけしかもう……いない」


 那由多はくだらない、と笑っていた。



***

 何かの手近いで進学校に合格してしまった那由多は、毎日の授業に頭を痛くしながら教室移動を始める。手に持った教科書が重たくて仕方がない。両親の喜びを思うと留年はできない。ため息をつきながら、何気なく隣のクラスをみた。

 窓際に女みたいな男がいた。

 男子の制服を着ているから男だとわかっただけで、顔立ちは少女のようだ。お団子と三つ編みを組み合わせた黒髪には赤いリボン揺れている。白い肌は、日焼けからほど遠いい。

 頬杖をついて暇そうに窓の外を眺めている姿に既視感があった。

 その正体はすぐに理解した。

 ――それは俺だった。

 快楽を理解する前の那由多の姿と重なり、この少年は同類だと確信した那由多は近づく。

 突然近づいた那由多に、少年は驚きながらも光の灯らない黒目で言葉を促してきた。


「オレと一緒に人を殺さないか」

「え。ヤダよ」

「じゃあまた来る」


 単刀直入のアピールは失敗したが那由多は手を振って、教室移動を再開した。

 口元には笑みが抑えきれない。笑いがこらえ切れない。

 その拒絶は、人殺しに誘った言葉を嘘や冗談だととらえていない。

 事実として受け入れたうえでの拒絶だった。

 何より、少年の顔が殺しの欲望を隠しきれないほどに歪んだのを那由多は見逃さなかった。

 名も知らぬ少年はまだ誰も殺していない。けれど殺したくて、理性と欲望の狭間で戦っている。

 以降、度々那由多は――ヒカゲの元を訪れて、殺人を誘った。

 ヒカゲは断り続けた。


「殺人は法を犯すことだ。それはやってはいけないことだよ」


 既に人を殺して食事していた那由多にとってつまらない正論をヒカゲは繰り返した。

 だが、その言葉は那由多に向けているのではなく、自身に道を踏み外さないよう言い聞かせている呪文だ。

 滑稽で笑い転げそうになりながらも那由多は誘い続けた。

 背中を押し続ければいずれ崖から転落するとわかっていた。

 そしてヒカゲは崖から盛大に落下し、快楽殺人鬼の道を歩んだ。那由多が望んだ通り、ヒカゲは素晴らしい共犯者だった。


「これから僕らは仲間で友達で共犯者だ。よろしくね、那由多」


 差し出された右手を握った瞬間から、那由多とヒカゲはお互い認める唯一の『友達』だった。



***

 息が苦しかった。

 ヒカゲは今までどうやって呼吸をしていたのか忘れたかのように、息がうまくできなかった。

 当たり前がわからない。


「楽しく、ない」


 絶望に顔を染める。美人も平凡も、今まで様々な人間を殺してきた。好みの人間は甚振って殺した。好みじゃない人間はただ殺した。

 でも友達だけは殺したことがなかった。

 だから、殺せば楽しいと思った。

 なのに――楽しくなかった。

 目の前に金髪の死体が見える。原型をとどめない程顔にナイフを突き立てたが、楽しくもなかった。

 白い塊が転がった、と思ったら歯だった。赤い。


「――なんで、なんで……どうして、楽しくない」


 快楽を我慢した殺人は楽しいはずだったのに、楽しくない。

 友達を殺す殺人は未知の経験で面白いはずだったのに、楽しくない。

 血塗られた手が震える。

 快楽を求めるのに、快楽は浸れない。訪れても刹那に消える。

 血痕が付着するのも構わず両手で瞳を覆う。

 友達を殺した以上、満たされないことを認めてしまった。


「なんでだ! 友達を殺したら……楽しいはずだったのに……どうして? どうしてなの。お前は、僕の友達だろ。助けてよ」


 叫んでも、現実は変わらない。

 友達の死体に縋ったところで答えは返ってくるはずもない。

 もう殺すべき相手はいない。

 先天性色素欠乏症を見つけ出したところで、楽しくないとわかってしまっている。

 失ったものは何も戻らない。

 天喰遥も、助手も友達も妹も、もう誰もいない。

 全ては手遅れだと、理解してしまった。理解する前には二度と戻れない。


「あ……そうだ、帰らないと」


 虹彩異色症の黒猫が脳裏に過る。触れたい。抱きしめたい。その温もりに、癒されたい。

 ――可愛い可愛い僕の猫。

 戻らなければ、と足に力を入れて立ち上がる。

 今にも倒れそうな程に身体は動かなかったが、それよりも痛む箇所があった。手を伸ばしたが触れられない。

 早く戻って、大切なアルカに、ただいまと言いたい。


「アルカ、待ってて。今、帰るから」


 一歩、踏み出した。

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