2部ー10話:黒月

 上階まで響く断末魔。物陰に隠れながら少女の悲鳴に耳を澄ませて、ヒカゲは夢見心地に浸る。

 薄暗い中、足音を隠しながら動いているのにも関わらず、アゲハの居場所が手に取るようにわかる。動揺が、息遣いとなって表れている。

 那由多に捕らわれた少女は結末を迎えた。

 レースをこの場に招いたら面白いと思い、ヒカゲは彼女に地図と金銭を渡した。

 レースは警察には駆け込めない。兄が心配で、無謀にもこの場所に来る選択をする。


「まったく、馬鹿だよね。正解を逃すなんて。ふふ」


 レースの顔立ちは可愛い寄りだから、美人が好きなヒカゲの好みからは外れる。それでも濃厚な悲鳴は胸に染みてくる。

 さらなる愉悦の海に浸るためにも、イサナを殺す。


「僕を殺したくないくせに、拳銃を持ち出してくるのは反則では?」


 笑いながら物陰から物陰へ移動すると、足音に反応した銃声が響く。二階は遮蔽物が多いため、銃から逃げやすい。


「大丈夫ですよ。致命傷じゃなきゃ、銃弾浴びたって問題ありません。頑張って手当して生かしますから。安心してください。しぶとく生き延びる方法を知っているので」

「あはは、かなどめがいうと迫力が違う! 流石、僕から生き延びただけのことはあるな」


 楽しかった。面白かった。心が躍る。

 殺し合いに興味はない。

 ヒカゲが好きなのは、美人の悲鳴。

 だが、イサナといる軽口をたたき合う、かつての関係は嫌いじゃなかった。

 まるで、今でも探偵と事務員のような錯覚に陥るのだから、浮足立つのも仕方ない。


「随分と楽しそうですね」

「イサナも楽しそうに笑えば? 笑う門には福来るっていうよ」

「笑えるなら、ヒカゲに復讐を企まないよ」

「それもそうだ」


 ヒカゲの頭上を弾丸が通り抜けた。

 会話の難点は音で居所がバレることだ。アゲハは様子を伺っているのか、手を出してこない。

 拳銃を手にしていたが、アゲハは可能ならば近接に持ち込ませたいはずだ。そう考えるとイサナとアゲハの組み合わせはややアンバランスだ。

 イサナにはアゲハを避けて引き金を引く芸当はできないだろうし、アゲハは拳銃よりナイフの扱いの方が得意だ。

 けれど、その欠点を人数で補っている。まったく、アゲハは用意周到で厄介だと、嘆息する。


「二階まで、わたしたちを連れてきたのは、ナツと那由多の邪魔をしない以外に意味があったのね。わたしはナイフが得意だけれど、使わないと読んでいたのでしょう?」


 障害物が転がる音がした。金属と金属がぶつかる不快感に顔を顰めていると、アゲハの姿が迫っている。ヒカゲは慌てて回避する。薄暗い中で、黒は闇に紛れる。だが、赤いリボンは目印として揺れ動く。


「兄貴。わざと那由多とナツに一階を譲ったわね」

「そりゃもちろん。アゲハはイサナに合わせると思ったからな」


 イサナがアゲハに合わせることは経験的な意味で無理だ。イサナの身体はヒカゲに怪しまれないために鍛えていない。

 ならば武術に長けているアゲハがイサナに合わせる。そうなると必然、持ち出すのは拳銃だ。アゲハならばそれを入手する伝手もある。

 妹のことだから知っている。妹も兄のことを知っている。

 お互いの読み合いに、イサナという例外が割り込む。


「警戒するのは当然さ。まあ、障害物が多い分、跳弾は怖いけれど、その時は運が悪いと諦めるよ。どの道、そのリスクはお前らも一緒だ」

「そうね」


 元々あったインテリアが障害物となり、ヒカゲの隠れ場所を無数に作り出す。


「――兄貴」

「なんだい?」


 壁越しに会話をする。


「兄貴は本当なら、普通の社会人を送りたかったのでしょう。人を嬲りたい欲望を抑えて、常識の範疇にとどまろうとした。兄貴が那由多と会わなければ、良かったのに。そうすれば……」

「なんだい? 僕の心配かい? 憂い?」

「若干の後悔。それだけよ。わたしの友人を殺した犯人を捕まえるために、兄貴に女装を頼んだ結果、那由多が暗躍して、兄貴が人の道を踏み外すことになったからね。わたしが兄貴に頼まなければ、兄貴は普通に過ごしていたのかもしれない」

「意味のないもしもだな」

「そうよ。ただの、わたしの後悔。だから、とりあえず謝っておくわ。ごめんなさい。そして、出利葉を殺したことを、わたしは許さない」


 明確な殺意は、身が引き締まる。冷淡な言葉からは愛情が零れ落ちる。


「でも、僕に死ねばいいと思っているから出利葉をたきつけた。それはアゲハの責任じゃないのか?」

「わかっているわよ。だから、ちゃんとわたしが兄貴を殺すのよ。人を死なせてしまった、その代価は払うわ」

「なるほど」


 アゲハが発砲した。跳弾した弾丸は、どこかへ消えていった。

 アゲハが生き生きとしている。心残りを捨てたという声だ。


「というか僕は殺さないんじゃなかったのか?」

「さあ。どうだったかしら。覚えていないわね」


 高校時代、那由多と出会ったことで、ヒカゲが思い描いていた未来は変わった。けれど、ヒカゲはそれでよかったと思っている。

 死体は全て那由多が食べてくれるから、ヒカゲは楽しく殺人ができる。

 那由多は殺さなくてもヒカゲが死体を用意してくれるから、楽しく食べることができる。

 一人でも殺して死体の始末はできるし、食べるために殺害して死体をつくることもできる。

 だが、二人でいたほうが効率よく己の欲求を満たすことができる。

 一緒に行動を共にできる、気兼ねない唯一無二の友人。それが那由多だ。

 下で目的を達成した那由多が加勢に来てくれないのが不満だが、レースを手引きした手前、もしかしたらアゲハたちに加勢するかもしれない。なら、いいかと思った。

 本棚の後ろに隠れながら、イサナとアゲハの足音に耳を澄ませる。現在位置のおおよそを脳内で建物の地図に当てはめてから飛び出す。

 視界には双子のように瓜二つの顔立ちをしているアゲハがいた。

 そこだったか――と、飛び出してきたヒカゲに焦ったアゲハが、映る。アゲハは拳銃を向け引き金を引こうとするが、それより早く迫ったヒカゲのナイフが拳銃を横払いする。誤射と共に拳銃が転がる。


「運悪く当たったら危なかった」

「運悪く当たって死ねばいいのに」

「それじゃ僕を生け捕りにはできないね」

「わたしは兄貴に死んでほしいもの」

「イサナの気持ちを汲んであげないと駄目じゃないか」

「イサナをボロボロにした人が何をいうのかしら」


 ナイフを振るうと、アゲハは床に身体を倒して転がった。埃がまって、ヒカゲは顔を顰める。やはり那由多に掃除をさせておくべきだった。

 アゲハは勢いを殺さず立ち上がって拳銃を正面に見据えて発砲してきた。

 ヒカゲの想定内だ。弾丸は窓を割った。ナイフだったら頬にかすり傷くらいはおっていただろう。視線をアゲハに向けると露骨な舌打ちをしていた。足癖悪く椅子をアゲハは蹴飛ばした。

 イサナがヒカゲの背後を取ろうと動いているのがわかったので、アゲハと直線状に並ぶように調整してから、アゲハとの距離を詰めてナイフを振るう。

 アゲハも拳銃を手から離してナイフで受け止めた。足払いをするが、アゲハによけられる。

 背後から発砲音はしない。

 イサナは利口だ。アゲハに当ててはいけないことは、イサナが一番理解している。

 アゲハを怪我させるのは最善ではない。

 だから――温いとヒカゲは笑う。

 アゲハはイサナからの援護射撃を望んでいる。それで自分が撃たれたら運が悪いと割り切るつもりだ。だが、イサナはできない。

 優しさでも友情でもなく、単に戦況の傾きへの危惧だ。

 ナイフの応戦で、素早くアゲハとヒカゲは動き回る。

 距離を取ろうとはせずにアゲハも攻めてくる。銃に切り替えるための時間と距離をとるのは愚策だと理解している。鋭い一線は容赦なくヒカゲの命を切り取ろうとする死神だ。

 舞うように、黒と黒でぶつかりあう。


「まったく、お互いの癖を知っているのは不便だな」

「無駄口をたたく暇なんてないんじゃないのかしら」

「応じるアゲハも同類だろう」

「それもそうね。失敗したわ」


 軽やかに、地面を飛ぶように跳ねる。

 アゲハが引き出しへとび乗ると、ヒカゲが蹴りをかまし引き出しが崩れる勢いで、アゲハは事務机の上に飛び乗る。

 事務机の上から流れる動作でアゲハがナイフを投擲する。

 緊張した空気さえ、ヒカゲは久々で楽しい。一から百まで今日は全てが楽しい。

 交わすと、アゲハがさらに投擲してくる。

 アゲハはヒカゲが交わした明確な隙を利用して距離をとった。


「おっと」


 ヒカゲは事務机の上に立ちながら笑って、本棚を乱暴に倒した。ヒカゲの隙を利用するということは、アゲハも隙ができるということだ。


「は――!? しまっ」


 アゲハが慌てて回避した。重たい音とともに埃が宙を舞う。


「けほけほ」


 ヒカゲは咽ながらも、事務机から飛び降りて身をかがめる。銃弾が通りぬけていった。

 ヒカゲは物陰から顔を出しイサナの位置を確認してから飛ぶように移動して、倒れた本棚の奥のアゲハのところへ向かう。

 アゲハは完璧にはよけきれなかったのか、片腕を抑えていた。


「兄貴!」

「ちょっと寝てて。アゲハ」


 アゲハを蹴りつける。重みのないアゲハはそのまま壁に激突したが、気絶はしていない。


「んー。失敗したな」


 首を絞めて意識を落とすのもありだが、失敗する恐れがある。ヒカゲは仕方ない、と判断してナイフを構えアゲハの太ももに突き刺した。足をやられてしまえばもうアゲハは動けない。拳銃だけ抜き取り、廊下の方へ投げ捨てた。


「あに……き」

「妹を殺す趣味はない。わかっているだろ?」


 アゲハの呻きを無視して、ヒカゲはゆったりとナイフを指先で回転させながらイサナの前に出る。

 イサナは素早く銃を構えた。


「駄目だよ、イサナ」


 イサナは舌打ちしながら拳銃の引き金を引いてきた。

 弾丸が横をかすめていくのを気にも留めずヒカゲは距離を詰めイサナをとらえる。

 イサナが距離を取ろうとするがヒカゲはそれを許さない。右肩を切りつけてから、足払いする。痛みで足元に警戒が向かなかったイサナは床に勢いよく倒れ、立ち上がろうとするのをヒカゲが抑え込む。イサナの熱が、伝わってくる。


「――イサナ」


 過去の人生を全て捨てて復讐のためにだけに捨て、イサナメグリの人生を歩んだ、かつての助手を甘い声色で呼ぶ。


「馬鹿だな、お前は。アゲハが負けた時点で勝ち目はない。僕がお前の様子を伺ったタイミングで窓から飛び降りればよかった」

「は、窓から飛び降りたら死ぬでしょう」

「階段から逃げるよりは少なくとも、以前のように生き延びれたかもしれない。お前はしぶといのだろう?」

「くだらない。甘言か? それとも命乞いでも期待しているのか?」

「どうだろう。お前を殺す日をずーっと楽しみにしていた。……暇だったし」

「でしょうね。私はヒカゲにそれを与えたかった」


 死ぬまで檻に閉じ込める。願望に選んだプランは確かにヒカゲを絶望させるうえでは最適だった。


「ねぇイサナ。天喰が自殺してから、僕は誰を殺しても楽しくなかった。楽しかったのに楽しくなくなる。けど、イサナなら楽しく遊べるよね!」


 幼子が嬉しい出来事を親に報告するような無邪気さでヒカゲが語った。夢にまで見た、この日。失われた興奮が戻ってくる日だ。期待と希望に胸を弾ませる。


「それこそ無理なことですよ。ヒカゲ。お前はもう二度と心から楽しいは訪れない」

「――なんでさ」

「私はヒカゲを知っているからです」

「そんなことはない。待ちに待ったこの日が訪れたのだから、楽しいハッピーに決まっている」



***

 アゲハは全身の痛みを感じながら、荒い呼吸を抑えよう努力する。ヒカゲはすでにこちらの動向には注意を払っていない。ヒカゲにとっての快楽を、相手にとっての悲劇を満喫している。

 視線を外して、手を伸ばしてナイフを拾う。ナイフの重さすら身体に痛かった。

 イサナの苦悶が耳に聞こえながら思う。

 また失敗した、と。

 兄を殺したいほど憎んでいるから、兄を殺したい相手を探して出利葉と手を組んだ。

 その出利葉はヒカゲを殺せず自害した。

 出利葉を失いたくなかったのに、出会いの理由がヒカゲだったから後には引けなかった。

 出利葉がいなくなって、寂しかった。

 ヒカゲを許せなかったから、今度はイサナと手を組んだ。

 まさかヒカゲと一緒にいる助手の目的が、ヒカゲを檻に閉じ込めることだとは夢にも思わなかった。

 ヒカゲを殺したいアゲハとは目的不一致だったが、ヒカゲが快楽を得ないのならばそれも良かった。

 けれど、それも失敗に終わった。

 二人かかりでも、拳銃を持ち出してもヒカゲは意気揚々と殺人をするだけ。

 敗北感が胸に宿る。

 ヒカゲがアゲハを先に殺さなかった理由など明白だったから笑う。


「妹を殺す趣味はない? 違うでしょう。ばか兄貴」


 ヒカゲは快楽殺人鬼で美人を甚振って殺すのが大好き。

 だから、自分と同じ顔立ちを殺す趣味がないだけだ。


「ああでも……兄貴は興味がない相手はさくっと殺せるんだったわね」


 つまり逃げても構わない、ということだ。

 一階には那由多がいる。あの時、聞こえた見知らぬ少女の悲鳴を考えればナツが負けたことは明白だ。だが、那由多もアゲハを殺さないだろう。ヒカゲの妹だから。

 妹である特権が、ひどく悲しかった。

 無事に外へ脱出できたら、またヒカゲを殺したい人間を探せばいい。

 数を打てば、いずれヒカゲを殺せるだろう。ヒカゲも那由多も人間だ。勝ち続けることはできない。アゲハが負け続けることもないように。


「けど……でも……それは」


 アゲハの脳裏には笑う出利葉の姿がよぎった。

 利用するはずだったのに、出利葉が親切で、自分を大切にしてくれて、笑う顔は優しくて、復讐を望まなければ幸せであった日常が何よりも楽しくて、感情移入をしてしまった。その感情がアゲハの胸の内にこみあげてくる。

 復讐する人を探してヒカゲに挑ませれば、いつかはその刃が届くかもしれない。

 けれど、その刃が届いたときには、数多の死体がアゲハの前に築き上げられている。


「それじゃ、そんなんじゃ……兄貴と、一緒じゃない」


 一緒にはなりたくない。

 一緒になってしまえば、出利葉との思い出が汚れる気がした。それは嫌だ。

 でも、逃走して兄のことを考えないで生きるのは無理だった。

 ――出利葉……おまえを、利用して、ごめんなさい。

 こんなことになるくらいなら、兄を殺したいと思わなければ良かった。

 アゲハは兄が嫌いだった。兄もアゲハが嫌いだった。

 けれど、決定的な亀裂があったわけでも、事件があったわけでもない。ただ、兄妹のすれ違い。

 家族へ向ける好悪の矢印が異なっていたのがお互いに気に入らなかった。昔は仲良しだったから、なおさらすれ違いが気に入らなかった。

 些細な発端がいつしかこじれて、絡まった。

 兄が殺人鬼なら、殺しても構わないのだと思って、兄を恨む相手を探した。

 ――出利葉が……おまえが、殺される未来を生み出して、ごめんなさい。

 アゲハは手にしたナイフを自分へ向けた。



***

 ナイフが身体へ沈んでいく感覚が、真っ赤な色合いが、悲鳴を我慢しようと唇をかみしめる姿が、快楽を我慢してきた反動で、どうしようもなくヒカゲは楽しかった。


「あはははっ!」


 人を甚振るの久々の快感に酔いしれる。


「っ――どうしようもなく殺人鬼だな!」


 苦悶で顔を歪めながら精一杯声をイサナが振り絞っている。憎悪の瞳がヒカゲを射抜くのでますます血沸き肉躍る。ひたすらに、幸せなだった。久々に味わう明確な歓喜。


「知っている。僕が一番知ってるさ! だって僕は」


 ヒカゲの手がとまる。


「あれ……?」


 ヒカゲは首を傾げる。

 今まで楽しくて楽しくてたまらなかったのに、突然楽しさが薄れた。

 何を言うつもりだったのかも、思い出せない。

 首を傾げながらナイフを振るうと、手が狂ってとどめを刺してしまった。

 悲鳴が途切れた。揺さぶっても動かない。

 立ち上がって、見下ろす。自分好みの美人だ。


「……楽しく……ない、なんで?」


 思考は途中で快楽を快楽と認識しなくなった。

 先ほどまで、楽しかったはずなのに。その余韻すら、今はない。失われた。

 不快ですらあった。

 快楽を我慢した殺人は最高の夜になるはずだった。

 それなのに――そうならなかった。

 物足りない。満たされない。足りない。楽しくない。殺したい。

 ヒカゲはナイフを眺める。真っ赤に染まって元の色すら判別できない血濡れた色。


「なんで? なんでなんだ?」


 何かがおかしい。何がおかしいかがわからない。


「ころし、たりないのか?」


 幽霊のようにおぼつかない足取りでアゲハを目指す。殺したいわけではない。妹を殺す趣味はない。でも、誰かを殺したい。逃げていればいい。逃げていなければ殺せる。

 誰かを殺さなければ、空白を埋められない。きっと次は愉悦に浸れる。

 たどり着いた先では――アゲハは、ナイフで白い首元を切り裂いて死んでいた。

 力を失ったかのように、座り込む。


「……どうして?」


 首を傾げる。答えが見つからない。答えが欲しい。

 殺しても物足りなくて満たされない。

 何故だ。何故だ。

 ――殺したい。

 ――けどいない。誰もいない。


「あ、まだいた」

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