2部ー第9話:悪意はなく、善意がない

 時は遡り、那由多とヒカゲが廃ビルへたどり着く前。

 那由多を先に地下駐車場へ行かせたヒカゲが、待っていましたとばかりに口元を緩ませてレースへ話しかけてきた。

 ヒカゲの行動は読めない。不気味さを覚えながらレースがどうしたの? と尋ねると、ヒカゲはレースの手を握った。

 細い指先の間を滑らせるように、一万円札を数枚挟んできた。


「……何?」


 聞いてはいけない。けれど聞かなければならない。不穏さが合唱している。


「これから那由多はお前の兄を殺しに行くよ」


 それは悪魔の囁き。

 耳を傾けてはいけない言葉なのに、意識を逸らすことができない。


「お兄ちゃんを……? 嘘! 嘘だ!」

「嘘じゃない。お前の兄は、那由多を殺すために生き、そして那由多はレースを奪われないためにお前の兄を殺す。そう――篠原奈津しのはらなつを」


 息をのむ。ヒカゲはおろか、那由多にも兄の名前を告げていない。

 ましてや那由多はレースの本名すら知らない。名前を名乗らせず奪い、名付けた。


「どうして」

「僕は探偵だ、那由多に隠れて調べることくらい造作もない」


 レースはそういうものなのだろうかと首を傾げる。

 レースの脳内にある探偵のイメージとヒカゲはかけ離れているし、そもそもこの間までは車いす生活で歩くことすらままならなかったはずだ。


「由乃」


 久方ぶりに呼ばれた名前に、レースは心臓がとまりそうになる。

 本名に果たして返事をしていいものか迷う。

 那由多がこの場にいなくとも、いつ殴りに戻ってくるかわからない。

 けれど、本名で呼ばれるのは嬉しかった。

 過去を思い出すだけ、今が辛くなるから忘れようとした。だが、どれだけ忘れようと思ったところで、記憶がなくなるわけではない。


「篠原由乃。それがお前の名前だろ? レースじゃなくて。お前の兄は――篠原奈津は、お前のことを愛している。大切な妹を、大事に思っている。だから、妹を奪った那由多が許せなくて、殺人に手を染めた。手毬をおいて、お前の目にとまるようにした」


 わかっていた。

 テレビのニュースを見たときから、あれは兄なのだと。けれど認めたくなくて否定して、見ないふりをした。耳を塞いで目を閉じた。

 ヒカゲはそれを無理やり開けてくる。


「あ…………」

「篠原奈津は、那由多を殺す。そして那由多はお前を奪われないために奈津を殺す。僕らはこれから人を殺しに行く」


 那由多が不自然だった部分を、ヒカゲはレースが望んでもいないのに明かしていく。

 不都合な真実を、教えないでほしかった。何もしらないまま地獄に浸っていた方が楽だった。

 手に握られたお札が、別の意味を持ち始める。


「そのお金を好きに使っていい。例えばタクシーを使って那由多と奈津が殺し合いをする場面に赴く、とかね。その場合は此処で降りて廃ビルまで歩いておいで」


 悪魔は、紙を追加で一枚渡す。タクシーで降りる場所が指定してあった。


「お前の体力じゃ、ここから歩いてくるのは無理だろうからね。来るなら来ればいい。那由多と奈津が殺しあう結末を見るのもありだ。それとも、そのお金をもってどこかへ逃げる? 那由多の手が届かない場所へ。警察に駆け込むのは、僕が困るからやめてほしいけどね」


 楽しそうにヒカゲが笑う姿を見て、レースは気づいた。

 目の前の男は、なのだと。

 暇つぶしに、自分を使っているのだと。

 けれど、気づいたところでどうしようもない。

 レースではヒカゲに対抗する手段は何ももたない。


「部屋に閉じこもって、奈津か那由多、どちらかが戻ってくるのを怯えて待つのだってありさ。好きにすればいい。兄を見殺しにするのも全て含めてな」


 好きにすればいいと言いながら、言葉運びが廃ビルへおいでと誘ってきている。

 何も希望を抱かずにいれば、期待を打ち砕かれて絶望の淵へ叩き落されることはない。

 そうとわかっているのに、ヒカゲの言葉が、兄の存在が、レースの視線を外へと向かわせる。


「選びな。由乃。お前がどう転んでも構わないよ。だって――どうなるにしろ」


 ヒカゲは言葉を区切った。続く言葉はどうせ最悪だ。


「面白いからな」

「…………最低」

「あはは。さて、これ以上、由乃と話していて那由多に怪しまれたら困る。共同戦線のはずがその前に、僕と那由多が殺しあう羽目になるのはごめんだしね。じゃあね、由乃」


 レースと呼んでほしかった。

 本名で呼ばれるのが嬉しいと思った先刻を後悔した。

 過去の名前で呼ばれると、なんの変哲もなく最高に幸せだった篠原由乃の時を思い出してしまう。

 兄は優しかった。いつだって由乃のことを気にかけてくれていた。

 内緒だよ、といってバニラアイスを分けてくれたこともある。そんな些細な思い出すら、今は胸を苦しめる。

 ヒカゲは背を向けた。猫のアルカを優しく撫でてから、監獄のような部屋からでていった。

 独りぼっちになった。

 静かな空間だ。今なら死ねる。自殺だってし放題だ。今なら、誰かに迷惑をかけることもない。

 レースの人生を終わらせられる。

 けれど手に握らされたお札が、夢想に浸らせてくれない。現実の重みを実感してしまう。

 ヒカゲは誘っている。自らの意思で、那由多と兄が殺し合う場面までこいと。

 断るべきだ。けれど――ここで震えて待つのも嫌だ。


「どうして、どうして」


 温もりがあった。涙を零した瞳で温もりをみると、アルカがレースに寄りそっていた。


「あはは。アルカはやさしいね。ありがとうアルカ」


 にゃー? と疑問符がついてそうな鳴き声が返ってきた。

 逃げるのが正解か。果たして那由多から逃げられるのか。警察に駆け込むのが正解だ。正解――のはずだ。

 だが、ヒカゲがそれは困るといっていた。殺人鬼だ。那由多と同じ人殺しだ。困るのは明確だ。

 だからこそ警察に行くの決心がつかない。一番困るけれど一番正解な選択肢を目の前でちらつかせておきながら、それに対する対処をヒカゲがとっていないはずがない。

 那由多が知らないレースの本名を、ヒカゲは知っていたのだ。頭の回転は間違いなく早く、悪だくみをするのにも長けている。

 けれど、レースでも理解できるほど悪意に満ちた誘導されている那由多と兄の元へ向かうべきではないのもわかる。

 息が苦しい。

 間違いだとわかっている。なのに、そこへ行こうと身体は動いている。

 兄と那由多が殺しあう場面なんて見たくなかった。見たくないからこそ、兄に会いたかった。

 兄が殺人を犯しているとは信じられない。理解と心が認めるのは別だ。

 自分のことなのに、自分は蚊帳の外で話が進められている。

 那由多は――様々な思考がレースを侵食して黒く染めていく。

 兄が殺されるのは嫌だ。

 那由多は最近優しい。

 最近、普通の食事もくれるし、暴力を振るわなくなった。

 だが、那由多に逆らったらどうなる?

 レースは身体が震えるのを感じて両肩を抱きしめる。

 このまま時が過ぎればいいのにと思いながらも時が過ぎ去るのも怖い。

 次、ここに戻るのは誰か。


 玄関の前に立つ。那由多に連れられた日から出ることがなかった扉。

 ドアノブにそっと指を伸ばし、ひねる。扉が開いた。外と、繋がった。

 廊下に出ると、空気に胸が苦しくなった。

 那由多が支配していた領域の外は、どうしてだか息苦しいほどに怖い。

 それでも一歩進み、外に出たところでタクシーを拾って、那由多の元へと向かった。

 幸いなことか不幸なことかレースのことを不審がられることはなかった。最近は那由多が普通の食事を食べさせてくれるお陰で、体重が少し戻って、誰が見ても不健康な身体ではなくなっていた。眼帯は普通に怪我だと思われるだろうし、染められた白髪も珍しいかもしれないが、不審に思われるものではない。

 どうせなら、怪しまれて通報されたかった。誰かに自分の運命を決めてほしかった。

 外の景色が移り変わっていく。

 兄と殺しあっていることが嘘であることを願って、廃ビルの近くまでたどり着いた。お金を渡してお釣りを受け取る。

 外を歩く。息が苦しい。このまま地面に倒れてしまいたい。

 だが、身体はそれでも勝手に、廃ビルへとたどり着いた。

 これはヒカゲの性質の悪いいたずらなのだと思いたかった。

 けれど現実は無情にも、那由多と兄のナツは刃を交えて血を散らし、殺しあっていた。

 レースの元にまで伝わってくるピリピリとした殺意と同時に、悲しみまで伝わってくる。

 兄の表情を見ると、自分を助けるために何を犠牲にしてきたのかが漂う。ヒカゲの言葉が真実だったことを伝えてくる。

 兄が那由多と互角に戦えるほど、現実をつきつけられる。

 文学風の外見を裏切るように運動神経がよかったことは知っているが、これはレースの知らない兄の技術だ。


「お兄ちゃん――!」


 我を忘れて叫んだ。




 那由多とナツが同時にレースの方を見て、驚愕した。

 この場にはいてはいけない存在が、姿を見せた。

 動きは固まる。

 ナツにとっては久方ぶりに見る変わり果てたレースの姿に絶望しながらも、生きていた姿を見ることができた安堵が心を支配する。

 やせ細った姿に、かつては黒髪だった髪が今は全て白へと塗り替えられている。何より痛々しいのは、左目にした治療用眼帯だった。

 けれど、それでも生きている。一時的に止まっていた涙が栓を破壊して溢れる。


「由乃、良かった」


 笑顔を見せようとしてうまく笑えなかった。

 喜びの笑顔を作るのはどうすればいいんだっけ? とナツは思案したが、わからなかった。

 何度も柔和な笑みを作ってきたのに、楽しいと無理やり自分の心を誤魔化してきた代償で、本当に笑顔を見せたいときに見せる笑顔が作れなかった。




「……レースどうしてこの場に」


 那由多は舌打ちする。兄であるナツを殺す場面は見せたくなかった。レースが悲しませたくない。けれど殺さない選択はない。殺さなければ殺されるだけだし、この場で見逃したとしても、レースを奪おうとするものがいるのは許せない。


「あ、あのその……」


 レースはうつむいた。激高する気持ちで声を荒げる前に、ナツがナイフを振りかざしてきた。咄嗟に鉈で受け止める。レースの悲鳴が聞こえた。


「由乃。待っていて下さい。今、この男を殺しますから、そうしたら一緒に帰りましょう。家で、暖かいスープを飲みましょう」

「はっ! 誰がレースをてめぇに渡すかよ」

「ボクたち家族から由乃を奪っておいて何をふざけたことを言うのですか」

「もうオレのものなんだよ」

「……あなたは、人のことを、なんだと思っているのですか」


 ナツの軽蔑しきった冷ややかな視線が那由多に刺さる。

 予想以上のナツの動きに那由多は苦戦する。

 頬をナイフが霞めた。血が流れる。

 那由多が仕返しとばかりにナツのみぞおちに蹴りを入れる。ナツが痛みで表情を歪めるが、ナイフだけは手放さない。

 那由多が振るった攻撃を、ナツは交わさなかった。ざくり、と肉を切る音がする。

 ナツが笑った。

 その笑顔は、後戻りを諦めた人の顔だ。

 左腕から滴る血。肉を切らせて骨を断つ、とばかりに。ナツは那由多に抉られることを覚悟して、激痛に涙を流しながらも、那由多が武器を振るまでのタイムロスとして、自身の身体を犠牲にした。

 ナツのナイフが、那由多の目に向かって伸ばされる。

 那由多は舌打ちしながら身を引こうとするが、ナツは許さない。笑って、泣いて、鋭い。


「お兄ちゃん――!」


 けれど、レースの悲痛な叫びに、ナツのナイフが一瞬止まった。

 この場に大切な人がいる事実は双方認識している。

 認識したうえで殺しあっていたのに、兄が那由多を殺そうとする場面に、兄が人殺しをする場面に耐え切れなくなったレースの叫びに、ナツは感情が動かされ殺すことを躊躇した。

 那由多は見逃さず、レースの声を引き金としてナツの左腕を割いた鉈を横薙ぎに振るう。力任せの一撃は、ナツの腹部に衝撃を与える。

 ナツが甲高い悲鳴を上げた。勝敗は決した。ナツはナイフを落とした。


「誰にも、レースは、奪わせない」


 レースの悲鳴が耳から遠くきこえる。

 レースの絶望が伝わってくる。少しだけ、那由多は胸が痛んだ。

 針をさされたような、小さな傷。




 ナツの悲鳴にレースは現実を直視したくなくて、視界を、聴覚を、閉じた。

 悲鳴がやんだ後レースが恐る恐る目を開くと兄が死んでいた。

 殺されている。

 那由多が赤く返り血に染まりながら、荒い呼吸を整えていて笑っていた。

 兄に人殺しをしてほしくなくて、とっさに名前を叫んでしまった結果、那由多を助けてしまった。

 那由多を助けたかったわけではない。兄に人殺しをしてほしくなかっただけ。

 けれど、それは即ち那由多を助けてしまうということ。

 あぁっとレースは歯が音を鳴らす。

 失敗した。何もかもが裏目に出た。大切な兄を、殺したのは自分だ。

 那由多が近づいてきた。レースは地面に座り込む。動けない。

 鉈を那由多は地面に捨てた。レースは殺してほしかった。


「レース」


 優しい声で、那由多はレースを抱きしめた。血濡れたぬくもり。

 悲鳴が声に出せない。どうして、ここにきてしまったのか。全てに目を瞑れば良かった。

 自分が死にたくて闇医者は殺されてしまった。兄に人を殺してほしくなくて、兄は殺されてしまった。

 部屋の片隅で震えていれば良かった。甘言に誘惑されたのは、愚かな自分だ。


「お前の兄を殺した。オレは絶対、あいつにレースは渡したくなかった。お前はオレのものだって」


 那由多が何を言っているのか、どうでもよかった。

 何を望んでも、願っても、神に祈りを捧げても、欲しいものは叶わない。

 レースの望みは、その手をすり抜けていく。手を伸ばしたって、何も掴めない。

 全て、目の前の男が、レースから奪い取っていく。


「お前と初めて会ったとき。すごく美味しそうに見えた。誰よりも美味だと確信できた。何故だろうって思ったんだけど、わかったわ。オレはお前のことが好きなんだ、愛しているんだ」

「……那由多」

「初めてオレの名前呼んでくれたな」


 那由多は破顔した。初めて名前を呼んだからか、とレースは漠然と思った。

 力尽きて座り込んでいるレースを抱きしめていた那由多の手の力が緩んだ。那由多の指先が、レースの瞳に近づいてくる。


「愛しているんだ。最高に、レースは、オレを満たしてくれる――好きだから」


 レースの瞳から涙があふれた。抉られる痛みは鮮烈で、全てが消えていく。


「だから、オレはレースを食べるよ。いただきます」

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