第29話:I love you. So
◇
時は遡り、那由多とヒカゲが廃ビルへたどり着く前。
那由多を先に地下駐車場へ行かせたヒカゲは、待っていましたとばかりに口元を緩ませてレースへ話しかけた。
「……何?」
自室でベッド横たわっていたレースはけだるそうに身体を起こし、ヒカゲと向き合う。
ヒカゲはレースの今にも折れそうな細い指先の間を滑らせるように一万絵札を数枚挟んだ。
「え?」
驚くレースに、ヒカゲは悪魔のごとき笑みを浮かべ囁く。
「これから那由多は、お前の兄を殺しに行くよ」
それは悪魔の囁き。耳を傾けてはいけない言葉なのに、意識を逸らす言葉できない。
「お兄ちゃんを……? 嘘!」
「嘘じゃない。お前の兄は、那由多を殺すために生き、そして那由多はレースを奪われないためにお前の兄を殺す。そう――
息をのむ。ヒカゲはおろか、那由多にも兄の名前を告げていない。
ましてや那由多はレースの本名すら知らない。名前を名乗らせず奪い名付けた。
「どうして」
言葉が続かない問をヒカゲは明確に読み取る。
「僕は探偵だ、那由多に隠れて調べることくらい造作もない」
レースはそういうものなのだろうかと首を傾げる。レースの脳内にある探偵のイメージとヒカゲはかけ離れているし、そもそもこの間までは車いす生活で歩くことすらままならなかったはずだ。
「
久方ぶりに呼ばれた名前に、レースは心臓がとまりそうになる。
本名に果たして返事をしていいものか迷う。
那由多がこの場にいなくとも、いつ殴りに戻ってくるかわからない。
「そのお金を好きに使っていい。例えば――タクシーを使って那由多と奈津が殺し合いをする場面に赴く、とかね。その場合は此処で降りて廃ビルまで歩いておいで」
悪魔は、紙を追加で一枚渡す。タクシーで降りる場所が指定してあった。
「お前の体力じゃ、ここから歩いてくるのは無理だろうからね。来るなら来ればいい、そして那由多と奈津が殺しあう結末を見るのもありだ。それとも、そのお金をもってどこかへ逃げる? 那由多の手が届かない場所へ。警察に駆け込むのは、僕が困るからやめてほしいけどね」
楽しそうにヒカゲが笑う姿を見て、レースは気づいた。
目の前の男は、暇なのだと。
暇つぶしに、自分を使っているのだと。
けれど、気づいたところでどうしようもない。
「部屋に閉じこもって、奈津か那由多、どちらかが戻ってくるのを怯えて待つのだってありさ! 好きにすればいい。兄を見殺しにするのも全て含めてな」
好きにすればいいと言いながら、言葉運びが廃ビルへおいでと誘っていきている。
何も希望を抱かずにいれば期待を打ち砕かれて絶望の淵へ叩き落されることはない。そうとわかっているのに、ヒカゲの言葉が、兄の存在が、レースの視線が外へと向かう。
「さて、これ以上由乃と話していて那由多に怪しまれたら困る。共同戦線のはずがその前に僕と那由多が殺しあう羽目になる。それはごめんだ」
肩を竦めてヒカゲはレースから背を向けた。
「待って」
レースは背中を向けたヒカゲを呼び止める。
「なんだい?」
「お兄ちゃんは違う。お兄ちゃんは、人なんて殺せない」
「違うよ。由乃。由乃が誘拐されたから、兄はどんな手段を使っても由乃を取り戻したいんだ。監禁された生活から、救い出したいんだよ。そのためには練習するしか兄にはなかったんだ、そうじゃなきゃ、殺せないから。、奈津にとって殺人は楽しいことじゃないんだよ」
「……お兄ちゃんは……」
「全ては由乃を、救いたい兄の心さ。だから、奈津は人を殺す」
言葉が絡まって蜘蛛にとらえられた気分だった。
「兄を選ぶか那由多を選ぶか、何も選ばないか。さて由乃はどれを選ぶかな」
ヒカゲがその言葉を最後にレースの自室から出て行った、
はたと気づく。
ヒカゲはいつもレースにとって理解できないカタカナを用いた言葉を発するのが好きだった。
意味が分からないから適当に流すか話の流れから大体の意味を察していたが、今の会話では一度も登場しなかった。
悪魔だ、と再確認する――全てはレースが理解できるようにわざと口癖をやめたのだと理解したから。
ヒカゲはリビングに戻り、ソファーでくつろいでいたアルカを撫でる。
喉を鳴らして嬉しそうなアルカに、ヒカゲの表情がほころぶ。
「じゃ、待っていてね、アルカ」
レースはヒカゲからもらった地図と金銭を握りしめてどうしようか思案する。このまま何もしなければ日常は変わらない。
外に飛び出したところで那由多から逃げられるとは思ってない。
何より――兄と那由多が殺しあう場面なんて見たくなかった。見たくないからこそ、兄に会いたかった。
兄が殺人を犯しているとは信じられない。
自分のことなのに、自分は蚊帳の外で話が進められている。
那由多は――様々な思考がレースを侵食して黒く染めていく。
兄が殺されるのは嫌だ。
那由多は最近優しい。
最近、普通の食事もくれるし、暴力を振るわなくなった。
だが、那由多に逆らったらどうなる?
レースは身体が震えるのを感じて両肩を抱きしめる。
このまま時が過ぎればいいのにと思いながらも時が過ぎ去るのも怖い。
次、ここに戻るのは誰か。
意を決してレースは立ち上がり、金銭を握りしめて部屋から出る。
リビングを通り過ぎるとき猫のアルカがあくびをしていた。
玄関の前に立つ。那由多に連れられた日から出ることがなかった扉。
ドアノブにそっと折れそうに細い指を伸ばし、ひねる。
廊下に出ると、空気に胸が苦しくなった。那由多が支配していた領域の外は、どうしてだか息苦しいほどに怖い。
それでも一歩進み、外に出たところでタクシーを拾って、那由多の元へと向かった。
兄と殺しあっていることが嘘であることを願って。
けれど現実は無情にも、那由多と兄のナツは刃を交えて血を散らし、殺しあっていた。
レースの元にまで伝わってくるピリピリとした殺意と同時に、悲しみまで伝わってくる。
兄の表情を見ると、自分を助けるために何を犠牲にしてきたのかが漂ってきてヒカゲの言葉が真実だったことを伝えてくる。
兄が那由多と互角に戦えるほど、戦いに慣れている動きをする姿なんてしらない。
文学風の外見を裏切るように運動神経がよかったことは知っているが、これはレースの知らない兄の技術。
「お兄ちゃん――!」
我を忘れて叫んだ。
◇
那由多とナツが同時にレースの方を見て、驚愕した。
この場にはいてはいけない存在が、姿を見せた。
動きは固まる。
ナツにとっては久方ぶりに見る変わり果てたレースの姿に絶望しながらも、生きていた姿を見ることができた安堵が心を支配する。
やせ細った姿に、かつては黒髪だった髪が今は全て白へと塗り替えられている。何より痛々しいのは、左目にした治療用眼帯だった。
けれど、それでも生きている。一時的に止まっていた涙が栓を破壊して溢れる。
「由乃、良かった」
笑顔を見せようとしてうまく笑えなかった。
喜びの笑顔を作るのはどうすればいいんだっけ? とナツは思案して、結果引きつった笑いになった。
何度も柔和な笑みを作ってきたのに、楽しいと無理やり自分の心を誤魔化してきた代償で、本当に笑顔を見せたいときに見せる笑顔が作れなかった。
「……レースどうしてこの場に」
那由多は舌打ちする。兄であるナツを殺す場面は見せたくなかった。そうすればレースが悲しむから、けれど殺さない選択はない。
「……」
レースは答えられなくてうつむく。那由多が激高するのを瞬時に把握したナツが那ナイフを振りかざす。鉈で那由多は受け止める。
恐怖の金属音にレースは耳をふさぐ。それでも目を閉じることは出来なかった。
過程を見るのは怖いが、結末だけを知るのも怖い。
「由乃。待っていて下さい。今、この男を殺しますから、そうしたら一緒に帰りましょう暖かいスープを飲みましょう」
「はっ! 誰がレースをお前に渡すかよ」
「ボクから由乃を奪ったのはそっちです。返してもらうだけですよ」
那由多とナツの攻防が続く。予想以上のナツの動きに那由多は苦戦する。
頬をナイフが霞める。
「ちっ。この外見詐欺が!」
那由多が仕返しとばかりにナツのみぞおちに蹴りを入れる。ナツが痛みで表情を歪めるが、ナイフだけは手放さない。
命の奪い合いが続く中、最初に好機を見つけたのはナツだった。
ナツがナイフを那由多へ向かって振るう。那由多は顔を歪める。
「お兄ちゃん――!」
けれどレースの悲痛な叫びに、ナツのナイフが一瞬止まる。
この場に大切な人がいる事実は双方認識している。
認識したうえで殺しあっていたのに、兄が那由多を殺そうとする場面に、兄が人殺しをする場面に耐え切れなくなったレースの叫びに、ナツは感情が動かされ殺すことを躊躇した。
那由多はそれを見逃さずレースの声を引き金として鉈を横なぎに振る。
ナツの悲鳴にレースは現実を直視したくなくて、視界を、聴覚を、閉じた。
悲鳴がやんだ後レースが恐る恐る目を開くと兄が死んでいた。
殺されている。
那由多が赤く返り血に染まりながら、荒い呼吸を整えていて笑っていた。
レースは愕然とする。
兄に人殺しをしてほしくなくて、とっさに名前を叫んでしまった結果、那由多を助けてしまった。
那由多を助けたかったわけではない。兄に人殺しをしてほしくなかっただけ。
けれど、それは即ち那由多を助けてしまうということ。
あぁっとレースは歯が音を鳴らす。
「レース」
那由多が近づいてきた。レースは地面に座り込む。動けない。
鉈を那由多は地面に捨てる。
「お前がここにきて、わかったよ」
そういって那由多はレースを抱きしめた。ぬくもりが伝わってきてレースの頬から涙がこぼれる。
「絶対、あいつにレースは渡したくないって思ったんだ触れさせることすらしたくないって。お前はオレのものだって」
レースを悲しませたくなかったから、兄を殺したくない思いはあったが、自分の邪魔をするものは誰だって生かしておかない気持ちが上回った。
初めて見たときからレースは美味しそうで、誰よりも美味だと確信した。
何故そう思ったのか、那由多は今確信することができた。
「レース。オレはお前のことが好きなんだ、愛しているんだ」
「……那由多」
「初めてオレの名前呼んでくれたな」
那由多は破顔する。初めて、レースが名前を呼んでくれた事実が益々いとおしく感じる。
だから、那由多は血に塗れた指先を伸ばした。
「愛しているんだ。最高に、レースは、オレを満たしてくれる――好きだから」
レースの残っている眼球へ、近づける。レースは身体を捩じったが、叶わない。
あぁ、間違えたんだとレースの瞳から涙があふれる。
「だから、オレはレースを食べる」
――いただきます
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