第27話:Go to kill you from now

 ◇

 レースはアルカに恐る恐る手を伸ばす。

 心臓の音が外に響いている気がして緊張しながらも、触れたい思いが上回った。

 アルカは、ソファーで寛いだまま警戒していない。

 元々野良猫だったとは思えないほど警戒心が薄く、人懐っこい虹彩異色症の猫。紫色の首輪が、真っ黒に埋もれた毛から輝く。

 ゆっくり触れると、柔らかい毛が手に心地よかった。何度も撫でると嬉しいのか、ごろんとアルカは寝転がって無防備な姿を見せる。


「可愛いだろ」


 ヒカゲが嬉しそうに車いすを動かしてソファーの元までやってきたので、レースは頷くと同時に安堵した。

 撫でる前は、ヒカゲが大切にしている猫のアルカに触れたら彼に殴られるのではないかと思ったのだ。

 けれどヒカゲはアルカの可愛さがレースにも伝わって嬉しいのかニコニコしているだけ。

 そこでレースは気付く。ヒカゲがそもそも怒りを見せたことはない。だからこそアルカに触れてみようと行動することができたのだと。


「そうだ、レースは甘いものが好き?」


 妙案が浮かんだと、光のない黒い瞳を不気味に輝かせながらヒカゲが訪ねる。


「……うん」


 那由多と出会う前は、友達と一緒に喫茶店でケーキを食べていた。

 ただの日常。けれど、手を伸ばしても届かない日々は、懐かしくて胸が苦しくなる。


「それは良かった。ケーキを頼もうと思っていたんだ、レースも一緒に食べよう。パンケーキも食べたいが、それは回復祝いに山のように埋もれて食べるから今回は我慢するとして、絶品の洋菓子店があるんだよ」

「えっ……いらない!」


 レースは慌てて首を横に振る。那由多に知られたら殴られる。

 寿司をヒカゲに食べさせられたときは大丈夫だったが、それは例外中の例外。

 最近の那由多は殴らなくなったが、しかし食べ物は別格だ。

 食に対する那由多の拘りは異常なほどあり、泥のように眠る程疲れていても手料理を欠かしたことはない。

 身体が自然と震えて、両肩を掴む姿に、ヒカゲは笑った。


「安心しなよ。この間のように無理やり食べさせたりはしないさ。次そんなことをしたら僕が那由多に殺されてしまう。まだ、回復リカバリーしていないから死ぬ。それはゴメンだ」


 那由多とは唯一の友達同士ではあるが、お互い大切なものを奪おうというのならば容赦なく殺せる相手でもある。


「じゃあ……どうして? ぼくに……?」

「那由多も一緒に甘いものを食べればいいのさ。勿論那由多の手料理じゃないよ、あんなもの絶対口にするつもりはないからね。泥水を啜るほうがまだましというものさ」


 レースは返答に詰まって無言のまま伏せた。

 ヒカゲは名案だと張り切っているが、那由多が同意する可能性は零でしかない。無謀な行いの結末は暴力を振るわれるだけ。

 なのに、何故無駄な足掻きを企むのか理解できなかった。

 ヒカゲが那由多はまだかーと無意味にリビングの周りを車いすでくるくる回っていると、睡眠をたっぷりとった那由多が、自室の扉を開けてパジャマ姿のまま出てくる。変な寝方をしたのか、寝癖が四方八方にはねていた。


「はよ」

「おはよーう。那由多、ケーキを食べよう。美味しい店があるんだ!」

「は? 好きにしろよ」


 いつも勝手に食べたいものを出前で取るヒカゲが何を言っているのだと奇妙な目で那由多は見る。


「僕と那由多とレース、皆で美味しい店のケーキを食べるんだよ」

「は? レースに食べさせるなら、オレが作る。ホールケーキだろうがウェディングケーキだろうが作ってやる」

「洋菓子は専門分野じゃないだろ?」

「それくらい簡単に作れる」

「僕が食べたいのは、絶品のケーキだ。専門職人と比べたら那由多といえども勝てない」

「……そりゃな、その道のやつと比べられたら」

「だろ。だから絶品のケーキを僕は食べたいんだ。折角だし皆で食べようってことだよ」

「お前が食べたいだけだろ」

「レースだって食べたいよ。ね」


 視線を向けられて、話を振らないでくれと困惑する気持ちと、平穏に進む会話に零だと思っていたがもしかしたらケーキに――普通の食事に――ありつけるかもしれない希望が見えてしまった。

 諦めて、断念して、絶望していたはずの気持ちに誘惑と希望が生まれる。

 那由多はレースを殴ることをしなくなった。ヒカゲが居候するようになって生まれた変化。

 ヒカゲが無理やり食べさせた寿司はとても美味しかった。また食べたい。


「た、食べたいっ!」


 主張することは怖くて涙が出そうな行為だけれど、レースは勇気を振り絞った。

 声が上擦る主張に那由多は目を見開きながら腕を組む。


「わかった、じゃあケーキ食べるか」

「あ、ありがとう」


 可能性は零ではなかった。暴力を振ることなく那由多は、レースに普通の食事を許可した。

 その事実がレースに嬉しさを胸に宿す。


「偶にはいいさ。大体、ヒカゲが煩い」

「酷いなー。まぁいいや、というわけで! 那由多! かってきて!」


 スーツの内ポケットからヒカゲは光沢がない黒の財布を取り出し、一万円札を一枚那由多の手に握らせる。


「お前はオレをパシリに使いたかっただけだろ」

「そうとしかいわない!」


 てへっと舌を出したので無性に腹立たしくなり一発殴ろうと思ったが、ヒカゲが車いすに乗っているとは思えない速度で距離をとったのでため息をついて諦めた。


「わかったよ」

「あ! ちょっと待って。那由多、服を脱げ」

「なんでだよ!」

「お前が余計なものを持っていないか確認する。帰り道で変なものを入れられたら困る」

「んなことしねぇよ……」

「ダメだ。那由多の言葉を僕は信用していない」

「友達に対する失礼極まりない暴言だな」

「というわけでネイキッドになれ。僕が服に何も仕込んでいないかを確認したら返す」

「何もいれねぇっての! わかったか!」


 すたすたと那由多は玄関へ向かったがその背後から幽霊の如くヒカゲが付きまとってきた。



 ◇

 ヒカゲを振り切り買い物へ行った那由多は一時間後、手提げ袋を掲げて帰宅した。


「おら、買ってきたぞ」


 テーブルに置こうと思うとすでに紅茶と皿が三人分用意されていた。

 帰宅時間を見計らったタイミングに、那由多はため息をつく。


「お前、オレには何も触らせないつもりだな」

「当たり前だ。折角のケーキがまずくなる」


 那由多とヒカゲのやり取りが面白かったのか、レースがくすりと笑った。


「笑った!?」


 那由多が声を上げ驚愕する。

 レースの笑いなど、初めて出会ったとき友達に向けていたものしか知らない。

 しかし視線を向けると、すぐに笑いが閉じごめんなさいとばかりに顔を伏すので那由多は落胆する。


「ちょっと、ケーキが冷める」

「温まってたらダメだろ」


 ケーキを皿に載せてから着席する。


「いただきますー!」


 待ちきれないとヒカゲが苺と生クリームを口に含むと、濃厚なる味わい、甘美に酔いしれる。


「最高! 幸せ。甘いものは最高だよ。早くパンケーキ食べ歩きに出かけたい!」

「ケーキ買わせてパンケーキ求めてんじゃねぇよ」

「パンケーキは別格だ!」


 那由多もチョコレートケーキを食べると、ヒカゲが指定した店なだけあって程よい甘さのチョコ加減が幸せを運んでくる。

 ただ、甘党には物足りないのではないかと思ったが、ヒカゲが購入したのはスペシャルなんとかかんとかという長い名前の見るからに甘さ百二十%盛りだったことを思い出す。

 思い出している間にヒカゲは二個目に手をつけていたのと対照的に、レースは手を付けていなかった。


「レース、食べないのか?」

「頂きます」


 那由多の言葉に恐れたわけではない。

 夢のような現実に浸っていたと同時に、食べてしまえばケーキが無くなる事実にもったいなくて食べられなかった。


「美味しいぞ、レース」


 ヒカゲが笑いかけてきたので、意を決して骨と皮だけのやせ細った手でフォークを掴み、瑞々しい苺がちょこんと載ったショートケーキに差すと柔らかなスポンジが生クリームと共に沈んでいった。

 一口サイズに切ったショートケーキを零さないようゆっくり口に含む。

 口の中でとろける柔らかなスポンジと生クリーム。甘くて美味しい絶品にレースは思わず微笑んだ。


「美味しい」


 笑いなど昔に忘れておいてきたはずなのに、思い出したかのように笑みが溢れてくる。

 甘くて、美味しい。

 レースが幸せそうに食べている姿に、那由多はフォークを落としそうになって慌てて指を握る。

 音にレースの喜びを邪魔してほしくない。


「どうだ、美味しいか?」

「うん」

「そっか、じゃあまた買ってくるからみんなで食べるか」

「食べたい」


 正直な想いを告げるレースに、那由多も微笑んだ。

 自分の料理を食べて微笑んでくれたわけではないが、ケーキでレースが笑ってくれるのは胸が暖かくなるように嬉しかった。

 ヒカゲが自分の手柄のように胸を張っていたので、普段ならば殴りたくなるところなのにこの日ばかりは感謝したくなかった。

 その日以降、那由多はレースの笑顔が見たくて仕事帰りに洋菓子店によっては三人分ケーキを購入して帰ることが多くなった。

 顔色も悪く頬が痩せこけていたレースはケーキなら食べ終わるのが名残惜しいとばかりに平らげるので、以前と比べて少しだけだが骨と皮だけの身体に肉が戻ってきた。


「行列のできる林檎ケーキの店に寄ってみたんだ。美味しいか?」

「うん。美味しい」


 以前より柔らかな表情を浮かべるレースを見て、アルカの傍でヒカゲは林檎ケーキを嚥下してから呟く。


「あーあ。那由多はただの誘拐犯なのにね」


 面白そうに、おかしそうに。

 けれど、かすかな呟きが那由多とレースに聞こえることはなかった。

 アルカが不思議そうに視線を合わせてきたので皿をソファーに置き、ぎゅっとヒカゲは抱きしめる。



 柔らかな日々の経過とともに、ヒカゲの怪我は快方に向かっていた。

 リハビリは必要だが、車いすから離れて歩けるようになったのでヒカゲは嬉しそうに飛び跳ねようとして失敗した。


「さて、僕のリハビリが終わったら――イサナたちを殺しに行こうか」


 夜、レースが就寝して那由多が缶ビールを開けている間、ヒカゲはリハビリをしながら口を歪める。

 ようやく、イサナを殺せる日が近づいてきたのだと思えば心が躍る。

 早く、人を殺したい。

 イサナを殺すまでお預けしていた快楽を堪能したくてたまらない。

 人の悲鳴は、人の苦痛は、人の嘆きは、たまらなく甘美で、快感を満たしてくれる。

 舌なめずりする。


「そうだな。けど、どうやって居所を知らせるんだ?」

「僕らの居場所を探るのに僕の行動範囲には目を光らせている。つまり僕の探偵事務所に恋文ラブレター贈り物プレゼントすればいい」

「なるほど、な」

「イサナとアゲハ、レースの兄はあらゆる手段を使って、僕らを殺しに来る。そして僕らも同じようにあいつらを殺す」


 ヒカゲのリハビリが順調に進んだ頃、手紙を綴り那由多と共に探偵事務所へ赴く。

 人のいなくなった探偵事務所は空しい状況を残していた。

 待ち合わせの日時と場所を指定した手紙を、事務机のところへ赤いリボンつきで置いた。

 数日後、事務所へ那由多が様子を見に行くと手紙は消えていた。



 約束の当日。

 那由多は車のキーを壁掛けフックからとり指でくるくると回してから、ソファーに座るレースへ話しかける。


「レース。ヒカゲとちょっと出かけてくるから大人しく家にいるんだ」

「うん、わかったよ」


 何処へ行くか、何をしに行くかレースには伝えていない。

 レースの兄が殺人者で、これから殺しに行くことなど伝えたくはなかった。

 普段ならば“大人しく家にいるんだ”なんて言わない那由多の行動を疑問に感じながらも、言われなくとも家の外に出る気はレースにない。


「じゃあ、ちょっと行ってくる」

「行ってらっしゃい」


 レースから予想外の言葉に那由多は嬉しくなって破顔する。


「あぁ」

「那由多、先にいってバイクを用意していてー」


 嬉しさを堪能させまいとばかりに、洗面所からヒカゲの場違いな声が聞こえてきた。

 舌打ちしそうになるのを那由多は抑える。


「わかったよ」

「僕はもう少し準備をしてから行く」

「あんまり遅いとおいてくからな」

「酷い。免許はあってもバイク持ってないのにー」


 ヒカゲの抗議を無視して那由多は地下駐車場へ向かい、バイクへ跨る。

 十五分後、待ち草臥れてヒカゲを置いていこうと決心した矢先、闇より深い黒髪を赤いリボンで纏め、黒のスーツをまとったヒカゲが現れた。


「お待たせ、那由多。さぁ――殺しに行こうか」

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