2部ー第5話:回想Ⅰ

 那由多は、レースと名付けた少女がかつて何と呼ばれていたか覚えていない。

 元の名前は自分の物ではないとつきつけられるようで不快だったからだ。

 ヒカゲが名前も覚えていないなんて酷い男だな、と茶々を入れてきた。

 殺した人間の顔も名前も忘れるやつにだけは言われたくない。

 那由多は新しく開けた缶ビールを一気に喉へ流し込む。程よい苦みとアルコールが心地よく記憶を掘り起こしてくれる。


 レースと初めて出会ったのは、一年ほど前だ。正確な日付は忘れたが、一般的な世間の休日と、那由多の休日が珍しく被っていたことは憶えている。

 酒と生鮮食品の買い出しを兼ねて車でショッピングモールに足を運んだ。

 通勤や移動はもっぱらバイクだが、荷物があるときや死体の運搬は車を使うことも多い。死体を運ぶときはバイクより車が便利なので、ヒカゲと折半して購入したものだ。

 死体が乗った車を日常で使うなんて信じられないと、ヒカゲがおぞましいものを見る目つきで言ってきたのを覚えている。

 死体のためだけの車の方が勿体ない。税金も車検も高いことを知らないのだろうか。


「思い出したら腹が立ってきたな。ヒカゲ、一発殴っていいか」

「なんで!? 嫌だけど。そもそも話の流れがわからないんだが」

「過去を回想すると、てめぇを殴りたくなるエピソードが多いんだよ」

「回想しなくても大体殴りたくなっているくせに何を言う」

「自覚があるようで何よりだ。殴るぞ」


 ショッピングモールで那由多は目当てのものを一通り購入した後、せっかくの休日だから服も新調することにした。給料日のあとだから財布の紐が緩んだ。

 両手に抱えた荷物は邪魔になるので、一度トランクにしまおうと思い駐車場へ向けて歩いていると、少女とすれ違った。

 一目見て、目が奪われた。

 通り過ぎて行った少女を思わず振り返る。艶やかな黒髪、丸みのある柔らかな背筋に、学生服を着ている。恐らくは高校生。やや小柄で短くしていないスカートの下に見える足は細く、まっすぐだ。小刻みに揺れている後ろ姿は、友達との会話を楽しんでいる。

 しかし、それだけだ。なのに、目が離せない。少女の背中を目線で追ってしまう。

 すれ違いざまに見えた顔立ちは、可愛らしくはあったが年下の少女で、那由多好みのタイプではない。それにも関わらず、少女はただ美味しそうだった。

 自然と駐車場とは反対側を歩き始めていた。両手の荷物が邪魔だが、捨ておくのは不審に思われる。

 人目を気にして距離を取りながら、少女の跡をつける。友達と一緒に喋り、花を咲かせているようだが、那由多はその時の友達がどんな髪色をしていたのかすら覚えていない。

 空腹を身体が訴えてくる。

 少女を食材に料理したら、さぞ美味なものが作れるだろう。

 何がそこまで那由多を引き付けるのかわからなかったが、衝動に理解など不要だった。

 直感は、期待を大抵、裏切らない。

 殺す場所は、ヒカゲが普段から殺しに使っている廃ビルに決めた。見た目に反して中は清潔が保たれている。

 助けの来ない孤島の地に連れて行って、早く殺したいが、その欲求を腹に力をいれて我慢する。人目は誤魔化せても、監視カメラは誤魔化せない。

 今日は殺せない。

 少女の両親が捜索願を出した場合、警察は直近の少女の足取りを追うだろう。ショッピングモールでの行動を監視カメラを調べられれば、痕跡を残している可能性は否定できない。

 何せ、当初の目的は普通のショッピングだったのだ。殺す予定はなかった。

 残念だが、日を改める必要がある。その代わり、名前か自宅を突き止めておこう。友達との会話から少女が名前を何度か呼ばれているが、あだ名だ。本名ではない。制服から学校名がわかればいいのだが、詳しくないのでわからない。

 ネットで検索する方法もあるが、正しい記憶で間違えずに判断できる自信がない。高校の制服など、セーラー服かブレザー服か学ランかくらいしか違いがわからない。

 他はどれも同じに見える。

 ストライプの柄が違うとか、ストライプの色が赤と青で違うとか、校章の形とか、ボタンが二つか三つかなんて覚えられるわけがない。

 少女らは、フードコートでアイスを食べてから、ショッピングモールを出た。普段なら長時間の買い物など待っていられないが、少女の様子を伺える今だけは嫌いじゃなかった。

 夕暮れを背景に、少女は友達と別れた。手を振ってバイバイと微笑んでいる。少女は耳にイヤホンをさして音楽を聴きながら歩いた。

 少女が家に到着する。住宅街にある一軒家だが、どこの家も似たりよったりの作りで場所を忘れてしまいそうだ。それは困るので、周囲に目印を探し、他の家と間違えないようにしてから、距離を取り写真を撮った。

 土曜日に授業がある高校も探せば、さらに正確性が上がるかとも思ったが、面倒なのでやめた。土曜日に授業を行うところはさほど多くはないだろうが、数がないわけではない。

 少女を殺すのは那由多にとって二週間後の休日の平日だ。本当は三日後の休日にしたかったが、我慢した。

 通学時間帯の朝を狙う。

 電車通学か、徒歩かはわからないが、流石に片道二時間はかけないだろうから待ち伏せする時間は目安がつけられる。帰りだと、部活や塾などを考慮しなければならない。

 那由多は一旦、ショッピングモールに戻り、車で帰宅してから再度変装をして少女の自宅付近まで足を運ぶ。

 監視カメラの有無、人通り、連れ去る際の効率的なルートを選別していった。

 周囲が住宅街なのはマイナスだが、ここから最寄りの駅までの通路は、人気が少ない場所も存在する。手早くやれば問題ないだろう。


 決行日。

 那由多は事前調査のかいもあり、手早く少女を連れ去ることに成功した。気絶させた少女を、あのビルまで車で運ぶ。

 少女はとても美味しそうだ。和食もよいが、洋食もいい。まだ人の形を保っているのに、今からなくなったことを考えると勿体なく思ってしまう。

 普段は食べられない部位も多いとは言え、人間一人を使い切るのにはある程度の時間がかかる。

 新鮮さが失われるのも好きではない。だから職場でひそかにおすそ分けをしているが、この少女は一から百まで全て自分で味わいたいと那由多は心の底から思った。

 早く殺して食べたい衝動を必死に抑えながら安全運転を続ける。目的地が遠いと感じるのは仕事で疲れたときくらいなのに、今回はそれよりも長く感じられる。


「あぁ、美味しそうだ」


 到着した廃ビルへ少女を抱えて連れ込み横へ寝かせたタイミングで少女が目を覚ました。

 見知らぬ男へ連れ去られた事実に恐怖で身体が震えている。怯える瞳は、トリュフのようだ。


「おはよう」

「……あ。あの、あの」


 言葉が恐怖で紡げていない。歯を震わせて、瞳からは涙があふれている。その頬を指で撫でて濡れた指先を舌で舐める。


「うん。いいね」


 黒くて円らな瞳から零れる涙の味はたぶん、美味しい。

 瞳を食べれば更なる至福が待っている、欲望に従い、眼球をえぐり取るように指先を侵入させていく。

 強烈な痛みと恐怖が少女を支配し、悲鳴があがった。

 絶叫する声は、別に心地よくは感じない。

 やはり、ヒカゲとは趣味が合うことはないなと思いながら、もう片方の手で零れた血を舐める。

 感覚が麻痺した気分になる。ちゃんと調理をする必要があるのに、このままでもいい気がした。自然の味。細かいことは無視して、このままで味わいたい。


「あははっ」


 眼球を口に含もうと思ったとき、ふと那由多は少女にこの味を堪能してもらい、感情を共有したいと思った。

 食べさせやすいように少女の身体を押し倒し、左手で少女の口をこじ開け、眼球をころり、と落とす。

 途端に、どこに力が残っていたのか不思議なほど少女は暴れだした。口の中の眼球を吐き出そうとしている。


「おい。駄目だろ。勿体ないことをするな」


 那由多は少女の口を塞いだ。少女の舌が眼球を撫でたのか、苦しそうにもがいている。少女はそれでもなお吐き出そうと暴れる。

 那由多は面倒になり少女の鼻を塞いだ。呼吸ができなくなった少女は、やがて力尽きたように飲み込んだ。

 自分の好きなものを食べてくれた、友達ができた気分だった。今なら踊ってもいい。

 残った片方の瞳を抉って食べようと思っていた気持ちが、不思議と薄れていった。

 少女を殺すのは――食べてしまうのは――勿体ない。

 いずれ食べるにしても、今、この時ではない。

 那由多は感情のまま判断を下した。


「美味しいよな。美味しいだろ? なぁ」


 少女は返事をしなかったが、一向に構わなかった。那由多の気分を害するものは、何もない。


「一緒にオレと暮らそう。毎日、美味しい食事を用意してやる」


 那由多には少女の感情など一ミリも興味がなかった。少女が絶望を体現したような表情をしていても一切気にならない。

 ただ、美味しそうな少女が手のひらの中にいるのは最高に気分が良かった。


「ああ、そうだ。闇医者を呼ばないとな。死なれたら困る」


 少女を無視して、那由多は血で汚れた手をウェットティッシュで軽く拭いてから携帯を手にして、たまに世話になる腕だけは誰も文句をつけることができない医者の男を呼び出した。死んでしまっては、期限のある食材になってしまうだけだ。勿体ない。



 闇医者の手によって命を繋いだ少女。抉った片目は白の眼帯で隠された。

 那由多は少女に部屋を与えた。元々、ヒカゲとの共犯関係上で一人暮らしにしては広い部屋を借りているお陰で、部屋は余っていた。

 一緒に自分が好きなご飯を食べてくれる人ができたのが、那由多は嬉しかった。普段より料理を作るのが楽しい。けれど、少女は料理を拒絶して食べないので、殴って無理やり食べさせた。殴ると少女は泣く。泣くのが気に入らなくてまた殴った。


「そうだ、お前の名前は今日からレースな」


 思い立ったように那由多は少女に告げた。ソファーで横たわっている死んだように生きている少女はかすかな反応を示したが、返事はしてこなかった。

 せっかく名前を決めたのに、喜んでもらえないのは腹が立った。




 少女は名を与えられた。

 レースと。元の名前を無理やりゴミに投げられたような事実は心を痛めたが、その程度のことに少女は意識を向ける余裕などなかった。

 まるで元の名前を忘れるかのように、那由多から「レース」と呼ばれるたびに、レースが浸透していく。

 けれど、それも別にどうでもよかった。

 レースは鏡を見るたびに、白い眼帯で覆われた片目を見るたびに、何故生きているのか不思議だった。

 瞳を失った痛みで、死ねたらどれほどよかったのか。那由多が逃げようとしたレースを捕らえておくためだけに足を折った痛みで、死ねたらどれほど嬉しかったか。


「どうして……生きているんだろ……」


 普通の食事は、悪魔に囚われた日を最後にしていない。人を食材にした料理を拒絶すれば殴られる。

 口にすれば吐き気がして、とても食べられるものじゃない。

 人を食べたくなんてない。例えどれほど巧妙に料理されて、知らなければただの普通の料理だったとしても。その原材料を知って食べたいなどと思えるはずもなかった。

 必然、日に日にやつれて細くなる。

 餓死して死のうかと思っても、那由多はそれを許してはくれなかった。

 最低限の食事は無理やりとらせて来る。あらゆる方法を用いて。

 瀕死の状態で放置されたままであれば死ねるのに、と天井を眺めてみても、闇医者がレースの身体を修復して、命を繫ぐ。

 那由多が闇医者と呼ぶ、彼のことをレースは何も知らない。

 ただ、彼が呼ばれるから、自分は死ねないのだとは理解していた。淡々と彼はレースを治療して、淡々と帰っていく。

 精神は既に摩耗し、死だけを望む。望んでも、許されない。その事実で、感情がすり減っていく。

 幾たび自殺に失敗したのだろうか。

 そのたびに、那由多が殴ってくる。怖い。痛いのは嫌だ。怖い。恐ろしい。嫌だ。でも――那由多が加減を間違えて殺してくれないかなと期待してしまう。

 そうして今日も自殺に失敗したレースは、那由多に殴られ、いつものように傷を治すために闇医者が呼ばれる。

 もはやただ繰り返すだけの日常だ。


「またお前は……」


 白衣を着た闇医者がため息をついたのに気付いた。


「レースが自殺しようとするのが悪い」

「…………」

「睨むな」

「治療するからでていけ。どうせ手伝えないんだから邪魔だ」

「はいはい」


 闇医者が手を払うと、那由多が渋々といった表情でレースに自室として与えた部屋から出て行った。

 虚ろな瞳でその様子を見ていたレースに、闇医者は優しい。紫色の長髪がさらりと、レースの頬を撫でた。


「……悪い」


 闇医者が長い髪をポニーテールに纏めている姿をみて、なぜか人間味を感じた。

 手袋をした闇医者にレースは身体を持ち上げられ、ベッドの上に寝かされた。傷を治さないで、と抵抗する力はないので、されるがままだ。

 淡々とした手つきで闇医者はレースの怪我した場所に薬を塗り、包帯を巻いていく。

 彼がいる限り、死ぬことはできないのだろう。

 彼がいる限り、この地獄は終わらない。

 ――誰か、終わらせて。お願いだから、ぼくを助けて。

 レースは闇医者を見る。


「ねぇ……」

「……なんだ?」

「ぼくを、殺して」

「――いいよ」


 白衣の内側から、闇医者は真っ黒な拳銃を取り出した。レースは、欠落した感情で微笑んだ。

 終わりを目前にしても、生きることへの執着は、欠片も浮かび上がることはなかった。

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