第24話:君は奪わせない
ヒカゲが喜々として断言した言葉を一瞥して那由多は硬直しているレースと向き合う。
「……お前の兄なのか?」
尋ねられたレースは、瞳が落ち着きなく動き返答に迷う。
「ゆっくり、お前が思ったことを伝えてくれればいい」
レースの骨と皮しかないような肩に手を伸ばすと、彼女が震えたので恐怖だと受け取った那由多は手を自分の膝に乗せ、辛抱強く待つ。
辛抱するのも、待つのも嫌いだがレースに恐怖を与えたいわけではないのは本心だから、気に入らないからすぐに手を出すのではなく、ヒカゲに指摘されたように怖がられないよう答えを待つべきだと思ったのだ。
静寂な時間が流れ、やがてレースがおずおずと口を開く。
「違う」
「いいや違わない」
はっきりとした否定を打ち砕くかのようにヒカゲが手を叩きながら上塗り重ねる。
撫でてくれないと拗ねたのか、アルカはヒカゲの膝から飛び降りて上品な足取りで移動した。
「違うっ! お兄ちゃんは、人殺しなんて、残酷なことできない!」
レースは悲鳴のように叫ぶ。
柔和で優しかった兄の面影が脳内で色鮮やかに蘇る。
部屋で虫が現れたら殺さないで外に逃がすような兄が、人を殺して快楽を得るような存在ではないことだけは力強く否定できた。
「違うさ。那由多を殺すためにお前の兄は
「違う違う違う」
相手が那由多じゃないからか、何度も強く否定できた。
之が那由多であったならば殴られる恐怖から兄であることを肯定していただろう。
「違わない」
「違う、違うよ……違う。お兄ちゃんは、違う」
テレビを見た瞬間、ただ向日葵の手毬が置かれていた程度で何故兄だと思ってしまったのか、と呪いたくなる。手毬を見て、懐かしい過去の幻影に囚われてしまった。
レースはヒカゲの否定が聴きたくないと、手を覆い隠す長い袖口で耳を塞ぐ。
「それはレースの勘違いだ」
けれどヒカゲの透き通る言葉は、布を通り越して届く。
「違うよ……」
兄が殺人鬼だとヒカゲがいうたびに心に亀裂が入る。
蹲りながら違うと連呼していると涙がこぼれてきた。収まったはずの涙は何度流そうが枯れてくれない。目を瞑ってレースは視界すら閉ざす。
「違わないよ――だって――って!? げほっ」
突然、金属がひっくり返ったような盛大な音に、レースは驚き目を見開くとヒカゲが車いすから投げ出されて床に転がっていた。
自分の前にいたはずの那由多の姿がなく、彼は立ち上がって拳をグーに固めていたことから、ヒカゲを殴ったことは明白だ。殴った姿にレースは震える。殴られたのがヒカゲでも暴力は怖くてたまらない。
「ちょっと盛大に吹っ飛ばしすぎ、痛い」
頬をさすりながらヒカゲが那由多を睨みつける。
「お前がうるせぇからだ」
「酷い。黙ってほしいなら言葉でいってよ」
「はぁ? 言葉でいうより殴ったほうが手早いだろ」
「そんなことばっかしているからレースに怖がられるんだよ」
「ぐ……」
怖がられるという言葉に、那由多は咄嗟に何も言い返せなくなる。
散々殴ったが、レースを怖がらせたいとは微塵も思っていない。
「いや、だが、お前は殴っても問題ない!」
「どうしてそうなる」
「ヒカゲならいくら殴っても心はこれっぽっちも痛まないからだ」
「酷いなー」
「それに、お前はレースを虐めた」
「虐めたわけじゃない事実を言ったまでだ」
「証拠のない憶測だ」
「まぁ
那由多はレースの元へ戻り、しゃがんで視線を合わせる。
ゆっくりと指先を頬へ伸ばし、零れたレースの涙を掬う。一瞬震えられたが、殴られないとわかったレースは呼吸をとめるように固まりながら涙が消えるのを待った。
「殴らねぇよ……。レース、少し休め」
「うん……」
レースはソファーから降り、おぼつかない足取りで那由多から与えられた部屋と戻る。
那由多は夕飯の支度をしようと台所へ近づく途中、ヒカゲに耳打ちをする。
「話は後だ」
「わかった。ところで、僕を
「ちっ」
倒れた車いすを起こし、手を伸ばすヒカゲの両脇を持ち上げて乱暴に車いすへ座らせる。
「少しは優しくできないのか」
「お前相手に優しくしてなんの得があるんだよ、邪魔しかしないくせに」
那由多が料理を作り始めたので暇だ、とヒカゲはアルカを探すが傍にいなかったので仕方なくテレビのチャンネルを回し偶々やっていたバラエティー番組を眺める。
料理が出来上がった那由多は満足そうに頷いて、小さな皿にレースが食べられる分だけ盛り付けをして部屋へと運ぶ。
戻ってくると、ヒカゲはバラエティーに飽きたのかテーブルに伏して寝ていた。その姿を横目に、料理を並べて一人で食べる。
食べ終わってから那由多がシャワーに入ると、眠りから覚めたヒカゲがカップ麺を完食していた。カップ麺のゴミと、レースの部屋へ入り食べ終わった食事を後片付けする。
片づけを済ませた後、レースの部屋を覗くと、彼女はベッドで丸くなりすやすやと寝息を立てて眠っていた。静かに扉を閉める。
那由多は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、手に持ったまま椅子へと座りヒカゲと向き合う。
「飲むか?」
「いらない。ザルと勝負する気はない」
「で、本当にお前は、巷を騒がせている連続殺人犯が、レースの兄だと思っているのか?」
レースがいる前では話せなかった疑問を那由多は訪ねてから缶ビールを一気に飲み干す。
「思っているよ」
ヒカゲは手が寂しくなってアルカの姿を探すが、ソファーの上で心地よさそうに眠っていたので諦めた。
「どうしてだ、証拠はないだろ」
疑問を呈しながら、那由多は立ち上がり冷蔵庫から缶ビールの追加を取り出す。
「あぁ
「……それは」
「向日葵の手毬なんて特徴すぎるものだからね。わざと現場へ残すってことは、誰かへのメッセージだ。その矛先はレースであり、誘拐した那由多だと考えるのは普通のことだ」
「オレのレースを奪うやつは誰だって許さねぇよ」
那由多の瞳に殺気が宿る。
「だろうな」
「レースは、オレのだ」
「兄は、お前を殺す瞬間躊躇しないため、関係ない人間を練習台としての
「けど……向日葵柄の手毬を置いているだけじゃ、いつまでたってもオレにはたどり着けない。なら放置しても構わない」
那由多の珍しすぎる発言にヒカゲは目を丸くする。
レースを奪うやつは誰だって許さねぇよと宣言した通り、レースを奪う驚異として殺しに行くと思っていた。鉈を担いで、今すぐ飛び出したって不思議だとは思わない。
なのに、予想外の答えを那由多はみせた。それは、レースを溺愛しているからこその発言。
兄を殺せばレースは悲しむ。
だが無意識の言葉にしろ、気づいているにしろ那由多が抱いている思いは叶わない。
那由多はレースの兄を殺す、とヒカゲは確信している。
「無理だな。放置していても向こうからこっちへやってくるよ」
「何故だ。向こうがオレのことを知っているはずがない」
「そうだな。レースの兄は知らないから向日葵の手毬を残していたんだ。けど、お前とレースのことを知っているやつはいるだろ」
「――まさか」
いや、その可能性はないと那由多は缶ビールを口に含むが、あいにく空だった。
苛立たしく冷蔵庫へビールを取りに行く。今度は最初から四缶取り出した。
「そう。イサナとアゲハがレースの兄に目をつけて勧誘したのさ」
「俺が、お前と一緒にいるからか」
「そう。あいつらじゃ、僕を相手にするので手一杯。となると一緒にいる那由多が目の上のたん瘤で邪魔だ。なら那由多へ対抗馬を用意すればいいと考えたんだ。そして、その存在がレースの兄。元々那由多に恨みを持っている人物を探していたのだろう、そして見つけ出した。レースの兄で、那由多を殺害するために人殺しの練習をしていた殺人鬼をな」
那由多は何とも言えない面持ちになる。
「……なら、オレたちの居場所がまだ見つけられていないのは先に仲間を探していたからってわけか」
「正解。二人が
「……けど、そう都合よくオレおあつらえ向きな犯罪者を見つけられるのかよ。警察だって、見つけられていないんだぞ」
「アゲハやイサナだって馬鹿じゃないんだ、蛇の道は蛇さ。悪魔は悪魔を知る、馬は馬方、弓矢の道は武士が知る、でもいいけど。どんな手段を行使しても見つけ出したんだよ。それに、別にレースの兄じゃなくてもよかった。お前が今まで殺して食べた人間の知り合いで、お前を殺したいほど憎み、それを実行できそうなほど実力があるやつでも良かったわけだ。対抗馬が手に入ればな。だからレースの兄であったのは単なる偶然だろう。そして二人は最高の対抗馬を手に入れた。これが
「……色々言いたいことはあるが」
那由多は目を瞑る。
この男の怜悧な頭脳は十分承知の上だ。
ならば、ヒカゲがそうだと断言したのならば仔細が違ったとしても向日葵の手毬を置く殺人犯はレースの兄で、アゲハとイサナは彼と手を組んだ事実に相違はないだろう。
「信じる」
「レースの兄はこれからも人を殺し続けるよ。腕が鈍らないために、決意が消えないためにね」
「……兄が、殺人鬼だってことはレースには黙っていろよ」
殺意を含んだ瞳で那由多はヒカゲを見据える。
「黙っているよ。今の僕じゃ、那由多が本気で殺そうと襲い掛かってきたら殺されてしまう」
ヒカゲは肩をすくめ同意する。
本当のことを言えば、レースにこのことを告げて遊びたかったが、足が不自由な状況では同意するしかなかった。
殺されるのは、勘弁だ。
「那由多」
「なんだ?」
「ちまちまとお前とレースの話は聞いているけど、折角だ。二人の昔話でも聞かせてくれ」
「聞いて何になるんだよ」
「ただの、暇つぶしだ」
「わかったよ」
那由多はレースに初めて出会ったときのことを思い出す。
彼女が何と呼ばれていたかは覚えていない。元の名前は自分の元ではないと示している気がして気に入らなかったからレースと名付けた。
――レースはオレのものだ、誰にも渡さない。例え、それが実の兄だろうとも。
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