2部ー第2話:水面の変化
「いったあ!?」
ヒカゲの身体は床に落とされた。那由多が両脇に入れていた腕を抜いたからだ。そのまま重力に従って、床と身体が衝突した。ダイレクトに響く痛みにヒカゲは顔を歪める。那由多に殴られ那由多に落とされる散々な日だ。
「てめぇ、人様の家で悠々自適の居候しているくせに、依頼を断るとは何様だ?」
「断るに決まっているだろ。証拠隠滅とか、今の僕じゃ面倒なんだから」
「誰も殺人の依頼なんて一言もいってねぇだろ! 猫探しだよボケ!」
「は? 猫がいなくなったのか!? それは一大事だ。早く見つけてあげないと可哀そう。那由多も何故、最初に言わないんだ」
「オレは今、オレの忍耐力を褒めることに忙しいんだ。少し黙ってろ」
額に青筋を浮かべた那由多が、暴力を我慢していることにヒカゲは目を見開いた。
那由多は我慢を知らない。怒ったら殴る。短気を極めたような存在だ。
――レースのためか。
レースに振るう暴力でなくとも、レースは暴力を過剰に怖がる。ここでまたヒカゲを殴れば過呼吸を起こしかねないと思ったのだろう。ならば、いきなり持ち上げた態勢から落とさないでほしかった。身体の節々はまだ痛い。
それとも上から落とすのは暴力にカウントされないのか。那由多ならあり得る。
「マネージャーの飼い猫が家出したらしくてな。憔悴していたからさ、力になれたらと思ったんだよ」
「そのくせ安楽椅子探偵を思い出すまで忘れていたのか、非道だ。悪魔かお前は? 早く外に行こう。外は危険が沢山だ、いつ猫の命が奪われるとも限らない。那由多、早く僕をおんぶして」
ヒカゲが両手を伸ばすと振り払われた。
「なんで、おんぶなんだよ。車椅子があるだろ」
「馬鹿か? これは室内用だ。外用のは、持っていない」
「外に出たあと車輪を拭けばいいだろ」
「いいわけないだろ。外の汚れを室内に持ち込むとか理解ができない」
「だー! てめぇまじ注文が多い! ここはオレん家だ! 家主がいいっていっているからいーんだよ!」
「ほら、早く。那由多が猫を探すより、僕が猫を探した方が早い。那由多が文句を言っている間に、猫が風邪でもひいたらどうするつもりだ」
その時、那由多の携帯が鳴った。
那由多は相手によって着信音を分けている。この音は職場の人用だ。那由多が電話に出ると、良かったです、と職場以外では聞くことのないような敬語が出てくる。短時間の通話で終わった。
「マネージャーの猫、見つかったってさ」
「ほんとか! 良かった」
ヒカゲは自分のことのように安堵した。もしもアルカがどこかへ迷子になってしまったら――そう思うと耐えられない。
「にしても本当にてめぇ……いつの間にか猫派になったな……昔なら別に放っておいただろ……」
「そんなことはない。可愛いだろ猫」
「ヒカゲが猫に偏愛するのはアルカがいるからだろうがよ……はぁ、まあいい」
「そうだ那由多。髪が乱れた。直して」
「我儘お嬢様をやめろ。ヒカゲのせいでオレの家の風呂場が、いつの間にか一本二千円のシャンプーとコンディショナーに占領されたの忘れてねぇからな」
「いいだろ。大体、リンスインシャンプーを使っている方が信じられない。だからレースの髪もぱさぱさだったんだぞ、今のレースの髪はちゃんと潤っていて綺麗だろ?」
「はいはい。そこは感謝してやるよ」
ヒカゲが那由多の家にきた当初は信じられないのオンパレードだった。
ブラシはプラスチック製だし、リンスインシャンプーかつ安物を使っている。
トリートメントもなければ、ドライヤーも質が悪い。洗顔は流石にあったが、化粧水は一つもない。爪切りしかなく、爪やすりはない。
レースの髪は艶がなければ、肌も乾燥している。レースが着ている服すら那由多もので、小柄なレースには当たり前だがサイズが全くあっていなかった。ズボンなどいっそ履かないほうがましなのではというありさまだ。
こんなんでよく、高校生の少女を誘拐しようと思ったものだとヒカゲは呆れた。
那由多に持ち上げてもらい、車椅子に座ったヒカゲはふうとため息をつく。やはり外用の車椅子を買う必要があるかもしれない。とはいえ、流石にもう少しで使わなくなることを考えれば、外用の足は那由多にするほうが楽である。
「はぁ……疲れた。さて、夕飯作るか」
ヒカゲの髪を結び終えた那由多が言った。
「今日の夕飯は何にするんだ?」
「カレーだな。なんだ? ヒカゲもついに食べる気になったか?」
「いや、冷蔵庫の中に那由多用に残った寿司があるからそれ食べてほしいなって」
「…………そーいや、残していたな。ヒカゲとレースで食うなら、一人前で良かっただろ」
「うん。僕もそう思った。だから、今回はちゃんと一人前注文してレースと分けるよ。何にしようかなー」
「は? レースの飯はオレが作る」
「那由多は昼の寿司を食べるわけだし、そのまま出前の方が手っ取り早いだろ。全員寿司にするか。昼と被るけど」
「おい。オレだけ昼飯の残りか?」
「うん」
「まーいや、めんどくせー。オレも疲れたしたまには料理サボるか。ヒカゲの奢りな」
「もちろん」
「つーか何残したんだよ……」
那由多が冷蔵庫を見てから、ヒカゲに向けて笑顔を向けてきた。冷蔵庫が哀れにもメキメキと音を立てている。
「お前、高級なもんばっか食ったな」
「せっかくだしね」
「オレにも食わせろよ! あまりにも見え見えのあまりものすぎるだろ! 二人前注文して寄越せ。ウニがあるやつな」
「はいはい。わかったよ、その代わり冷蔵庫の中のもちゃんと食べてね」
ヒカゲは昼に出前を頼んだのと同じ店で寿司を二人前注文した。
「にしても、今の悠々な生活を見ていると、昔ワーカホリックかよってくらい働いていたのが懐かしく感じるな」
那由多は寿司の到着まで我慢できないのか、缶ビールを飲み始めた。椅子に座り足を組んでいる様は金髪なのも重なって相当に柄が悪い。
「別に好きで仕事引き受けまくってたわけじゃないからな。さっさと自立したかったわけだし」
「ま、昔は大学進学して、大企業に就職するーっつてたもんな。はは、今思い出しても笑えるわ。結果的に選んだ職業探偵だしな」
「別に謎が好きなわけじゃないけど、僕には向いている職業だよ。それに、ある程度、軌道にのれば融通が利くという意味でも満足している」
「ま、そりゃそうだ。ヒカゲが所長で探偵で、助手にイサナがいるだけだから、休みたいときはいつだって休めるもんな、今みたいに」
「そ、今みたいにね」
「オレはそうはいかねぇからな」
「僕は僕の理想を作り上げたよ。過去のお陰さ。必要なのは人脈、そして実績」
「グレーというか真っ黒な奴らに売り込みもしていたしな。そーいうやつらなら、依頼料も高い。普通のやつらからの依頼でも、ヒカゲとしては特に困らないしな」
ヒカゲの将来設計図では、国立大学に進学して、大企業へ就職して平穏な毎日を暮らす予定だった。
高校時代、那由多に目を付けられて結果として、小学生の頃から決めていた計画は水泡に帰した。
方向を修正したヒカゲは高校卒業後、すぐに黒月探偵事務所を開業して、裏社会の人間へ売り込みをかけ、相手の希望をかなえて事件を解決して信頼と報酬を得るのを繰り返した。
非合法な存在は、公的機関を頼ることはない。結果、ある程度の金銭がたまり、探偵事業も軌道に乗り始めたところで、自ら駆け回ることはせず探偵事務所で依頼を待つ日々を得た。
その際、不必要になった人間は、那由多の腹に収まった。
出前の寿司が届いたので、那由多がテーブルに並べる。その間、那由多が余計なことをしないかどうか、監視をしていたら舌打ちをされた。
「レース。飯だ。ヒカゲの奢りで寿司だ」
「昼と一緒になっちゃったね。まあ、食べよう食べよう」
那由多とヒカゲの会話には一切加わらず、ソファーで横になっていたレースは、重たそうに身体を起こした。不健康な生活の影響が色濃くでている。だからといって別に、ビタミン剤を上げた方がいいとまで世話をやく気もない。見返りは特にないのだから。
寿司を食べるレースの箸使いは恐る恐るといった様子だ。那由多の一挙一動に怯えている。一口食べてからレースは横目で那由多を見た。那由多は約二人前の寿司を美味しそうに次々と食べてレースを見ていない。
レースは安心したように顔を綻ばせて、ホタテを食べた。
時折、明日からは那由多の食事である絶望を思い出し顔を曇らせている。百面相のようで、面白い。ヒカゲは寿司を選んだかいがあったと満足する。
那由多は二本目の缶ビールをあけた。
寿司も食べ終わったので、那由多が惰性でニュースをつけると、連続殺人事件の報道が流れていた。ニュースキャスターが何やら興奮した様子で喋っている。ヒカゲは興味がなかった。
『犯人は、現場に手製の向日葵柄の手毬を置いており、なんらかの』
紅茶でも飲もうかと思って車椅子を動かすと、レースの驚愕した顔が映る。レースの視線はテレビへ釘付けだった。瞳の揺れ動き。震える身体。それは、那由多への恐怖とは別種の感情だ。
「――お兄ちゃん?」
レースは、呟いた。その言葉の真意を探って、ヒカゲの視線はテレビへ移す。
向日葵の手毬が、映っていた。
*
「楽しいですね、人殺しは、楽しいですよね?」
問いかけなければならない。臓器を傷つける行為は楽しいものでなければならない。
愚直な暗示をかけるかのように、ナイフが死体に振るわれている。
笑顔を浮かべる彼の瞳には涙がたまり、零れ落ちていく。血にまみれた死体に透明な雫が零れ落ちるが、懺悔の涙など認めないとばかりに、埋もれていく。
彼は、何度も何度も、死者が蘇ることを恐怖するかのように、切りつけていく。
笑いながら、涙を零しながら。言動と表情が矛盾する彼を、無表情でイサナは椅子に座って頬杖をついて眺めていた。
隣に座るアゲハも死んだばかりの被害者に感情を揺れ動かしていない。
他人への情は復讐のために捨てたイサナとは違い、アゲハはもとより赤の他人には興味を持たないようだ。その姿はヒカゲに酷似している。
「彼もバカよね。一度死ねば、死者が蘇ることなんてないのに」
「そうだな」
丁寧な口調を取り払ったイサナはぶっきらぼうに応じる。以前のような女性らしい恰好をする必要もないので、動きやすさを重視している。靴はスニーカーで、ズボンはジーパン。革ジャンにTシャツの組み合わせは素晴らしかった。
肩まである髪も邪魔なので後ろで一つに纏めてある。
「仮に幽霊が存在するなら、殺し続けたところですでに呪われているのにね」
アゲハは哀れみのこもった感情を向けている。イサナは少し不思議だった。死体には感情を持ち合わせていないのに、彼には情を持つのかと。
「案外、同情的なんだな」
「さぁ。どうかしらね」
「俺にとって、必要なのはアゲハやナツであり、アゲハにとって必要なのも俺やナツ。ナツにとって必要なのが俺とアゲハ。ただの利害の一致だろ」
「そうね。仲間意識も愛情もないけれど、でも――彼はわたしやおまえとは違うじゃない」
「……アゲハのことを俺はたいして知らないからなんとも言えないが、ナツは俺と同類なだけだろ」
イサナは肩を竦める。ナツは殺した相手を死体だとようやく認識できたのか、鞄から向日葵柄の手毬を傍においた。それは嘗てナツの妹と遊んだ思い出の品だという。
殺人現場に、証拠を残すなど本来であれば言語道断だ。
いずれ、警察はナツを突き止めるだろう。けれど、彼にとってそれは別に構わないことだった。
特徴的なものを置いておけば――いずれ、妹の目に、妹を誘拐した犯人の目に知らせることができる。ナツにとって必要な証なのだ。警察にナツは一切怯えていない。
実際にナツが捕まっていないのは向日葵柄の手毬以外の証拠が残らないように、アゲハとイサナが最終チェックをしてから現場を離れているからだが。まだナツが警察に捕まっては困る。
快楽殺人鬼と一緒にいたせいでついた知識が、まさか役に立つとはイサナも思いもしなかった。正確に言えば、天喰が死んだときにも役立ったのだが、あれは例外だ。
「あ、そうそ、イサナ。手に入れといたわよ」
「助かる」
アゲハが手渡してきた紙袋を受け取る。中を確かめる必要はない。アゲハに頼んでいた拳銃だ。
「そして、これはわたしのよ」
アゲハが自分の拳銃を取り出し愛おしそうに撫でた。
「おい。見つかったらまずいだろ」
いくら山奥の工場跡地とはいえ、人が通らないわけではない。
「は? 目の前に惨殺死体があるのよ。拳銃が見られたって困るわけないじゃない」
「……それもそうだった」
どうみても拳銃より死体の方がアウトだ。しかも無残で猟奇的な惨殺死体。
「だから別に平気よ」
「アゲハはナイフが得意だろ、逆に足手まといにならないのか、それは」
「練習をするわよ。兄貴も拳銃は使えるけど、ナイフが得意だから、わざわざ得意分野を捨ててくるとも思えないわ。なら、同じナイフでぶつかるよりも遠距離で殺せる武器のほうがいいわ。兄貴の実力は妹であるわたしが知っている。いくら、わたしと双子みたいにそっくりな顔と体形だとしても、力は向こうが上よ。真っ向勝負になったら勝てない。それはイサナも同じでしょ。おまえ、もとは男だといっても、今の身体は女なのだから」
「……それもそうか。いくらヒカゲが貧弱だっていっても、以前男を抱きかかえていたし……」
「兄貴が男を? どういう状況よ」
アゲハが怪訝な視線を向けてくる。
「ヒカゲの好みドンピシャど真ん中の男を監禁するときに」
「ああまって、もういいわ。ドン引きしたから」
それもそうだ。イサナとしても天喰の話題を続けたくはなかった。
天喰は嫌いだ。イサナの執念に組み立てた計画の歯車をめちゃくちゃにされた。
「まあ、俺やアゲハが拳銃を使うのは仕方ないとして、うっかり殺さないように気を付けないとな」
果たして、殺さないようになど甘い考えをもって挑める相手なのかは懸念が残る。
元々体術に長け、ナイフも扱えるアゲハはともかく、イサナは武力に長けていない。拳銃でどれだけの溝を埋められるか。
拳銃を手に入れるまでにも時間がかかった。イサナはそのあたり詳しくないし、ナツは論外。頼るべきはアゲハだったが、アゲハも詳しくはなかった。足がつかないように安全を考慮した結果、時間がかかったが仕方ないことだ。
「うっかり殺しても、わたしは問題ないけれど。まあ、快楽殺人鬼から快楽を奪うなんて残酷で滑稽なおまえの目標を気に入ったから、注意は払ってあげるわ」
「頼んだ」
「で、もう大丈夫かしら? ナツ」
アゲハがナツへ声をかける。
「えぇ、とても楽しかったですよ」
涙声で、大粒の涙を流しながらナツは答える。
言葉と裏腹、言動と感情が一致しない。矛盾溢れるちぐはぐに壊れた男。アゲハとイサナが見つけ出した。
ヒカゲと一緒にいる唯一の友人にして共犯者である那由多にあてがうための協力者。それが、ナツ――
「早く、ボクの
ナツは笑った。
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