二部

2部ー第1話:春の訪れ

 出勤前の平日朝七時。

 前髪をクリップで留めた那由多は、慌ただしく朝食の準備をする。

 一人分の昼食をテーブルの上に並べ、ラップで包む。大きめの弁当箱をビニール袋で汁が零れないようにしてから風呂敷で包み、リュックサックの中に水筒とともに入れる。

 食事の準備が終わったので、次は車いすに座るヒカゲの三つ編みをほどいてブラシで梳かす。綺麗に絡まりがなくなると再び三つ編みに戻して、赤いリボンをつける。赤いリボンはいらないと思う。


「那由多も僕の髪を弄るのに慣れてきたね」

「出勤前の一番時間がねぇときに、てめぇの髪を弄れば嫌でも早くなるつーの。切るか下ろすかどっちかにしろよ」

「切ったらアゲハとお揃いになるし、下ろすと車椅子に絡まるから嫌だ」

「くそが。後半はともかく前半はいいだろ。ほら双子コーデとかいうやつやれよ」

「やだよ。双子じゃないし」


 那由多は、我儘ばかりを言うヒカゲの背中を押す。前のめりになったヒカゲの上半身が冷蔵庫に激突しそうになったのを笑って、ストレスを解消した。


「覚えていろよ、那由多……」

「ははっ! そのなりじゃ全然こわくねーよ。バーカ! じゃ、オレは仕事に行く。残業がなきゃ帰りは六時頃だ」

「ん。いってらっしゃーい」



 伊佐奈廻いさなめぐりこと京叶かなどめきょうに、ヒカゲが傷つけられた冬から春へ巡り、桜が散る頃合い季節になった。

 ヒカゲは傷が完治するまでの間、那由多の家に居候して、なるべく動かないように車椅子で日常生活を送っていた。

 那由多が暮らすマンションの部屋は3LDKで、キッチンが特に広い。那由多が拘って選んだ物件だ。

 キッチンは冷蔵庫が二つと、冷凍専用が一つ。計三つの冷やす機械が置かれていても、狭くない。他の三部屋は、那由多の自室、ヒカゲが居候に当てた部屋、そして――那由多が偏愛を向けるレースの部屋がある。

 風呂場は血抜き&解体と兼用だ。死体が使った後の風呂場は使いたくないが、今のヒカゲではどうしようもないので、仕方なく那由多に三回清掃をさせている。那由多はいちいち煩い、連れて行ってやるから銭湯へ行け、と怒っていたが銭湯も行きたくないので断った。そして殴られた。

 レースと出会う以前より、那由多は一人暮らしにしては部屋数の多い3LDKに住んでる。それはヒカゲも同じで、いざという時のためにお互い利用できるようにしている結果だ。

 今、役立っている。

 那由多に屈折した愛情を向けられているレースはまだ寝ている。


「アルカ、おいで」


 ヒカゲがソファーの上で寝転んでいた猫のアルカに声をかける。

 アルカは起き上がりヒカゲの膝まで飛び乗る。傷口に痛みがはしったが、アルカを見ていると心から和み、傷のことなど忘れられる。撫でると喉を鳴らしてくれる。


「アルカ。お前の綺麗な瞳をもっと僕へ見せて」


 黒猫の、闇に埋もれる毛の合間から見える黄色と青の虹彩異色症は愛らしく、紫色の首輪は、ヒカゲのものだという証明に心が落ち着く。


「ふふ。可愛い。アルカ、大好き。どこにも行かないでね。ずっと僕と一緒にいて」


 にゃー、とアルカが返事をしてくれたのがこの上ない幸せだ。

 小腹がすいたので、朝食をとることにした。

 膝にアルカをのせたまま車椅子を器用に動かして食器棚にしまってあるカップ麺を取り出す。

 お湯を注ぎ三分が経過したのでヒカゲのために椅子をずらしてあるテーブルで食べ始める。

 熱かったので、水で喉を潤す。少し冷ましてから食べよう。

 カップ麺は宅配でまとめて買い置きをしていろいろな味が食べられるようにしてあるが、流石に飽きてきた。生クリームがふんだんに使われたショートケーキが食べたい。


「那由多が普通の料理人だったら良かったのになー」


 身体の自由が利かないため、イサナの同行をあの日以降掴んでいないが、妹のアゲハと行動をしているだろう。

 生死の望みを別とすれば、アゲハとイサナの利害は一致している。

 ならば、冷淡なイサナは感情を利用する。

 アゲハも協力者が手を伸ばしてきたならば、つかみ取る。

 厳密に目的が異なっていても、二人は協力者として手を取り合う。

 向こうから那由多の自宅に襲撃してこないのは、那由多の住処を突き止められていないからだ。

 那由多とヒカゲの自宅を知っているのは、お互いだけである。

 那由多に誘拐されたレースだけは、特例だが、彼女は外に出ない。鎖という物理的な枷はないが、心が監禁されている。

 那由多の仕事が創作料理店の料理人であることはアゲハもイサナも知っているが、職場までは知られていない。正式な店名を知らなければ、見つけ出すのは用意ではない。創作料理店など、沢山ある。那由多の通勤手段はバイクだ。移動距離を考えれば容易に突き止められない。せめて支配人が銀髪メッシュとかで顔出しをしているのならば話は別だっただろうが、そのような事実はない。

 結果として、ヒカゲはゆったり療養をしている。

 アルカの背中を撫でる。柔らかな毛が指の隙間を流れる。アルカが動き出したので、手を離すと車椅子を伝ってヒカゲの頭にちょこん、と乗った。幸せだった。

 愛猫と戯れているとレースが寝室から起きて姿を見せた。


「おはようレース」

「ん……おはよう。アルカも、おはよう」


 レースはこびりついた隈と死んだような瞳をこすった。アルカはレースの言葉に反応してにゃーと鳴いた。


「まだ眠いなら寝ていたら?」

「ううん……どうせ、寝れないし」


 一日の大半をレースは自室のベッドで過ごしている。無気力で生命を感じられない。

 真っ白な髪はもみあげだけが長く後は短い。

 元々は黒髪だったが、那由多と生活するようになってから白髪が増えたので、ならばいっそのこと白く染めようと無理やり染められたと、ヒカゲはレースから聞いた。


「そ。那由多が例のごとく君の食事を置いていったよ」

「……うん」


 身体のラインが隠れるハイネックとズボンは、手を触れると皮と骨しか残っていないのでないかと思えるほどに痩せこけている。

 レースは右目に医療用眼帯をしている。片目での距離感にいまだに慣れていないようで、椅子に足をぶつけた。痛がる素振りもなく、億劫な動作でレースは椅子に座った。

 ヒカゲは暇なのでその様子を眺める。

 明日台風で学校が休みになればいいのに、と思っている顔でレースは朝食が置かれたタッパのラップを取り、顔を歪めてから箸を持って一口食べる。

 泣きそうな顔をしながら、水で流し込んでいく。そして、ご馳走様と手を合わせた。


「もう少し食べたらどうだ? 流石に栄養失調で倒れるぞ」


 神経性無食欲症を疑うほどに食事をとらないレースに、ヒカゲは声をかけるが、首をフルフルと力なく横に振られる。


「お腹空いていない」

「ま、そんなもの食べたいとは思わないから仕方ないけど」


 そんなもの、と指さしたのは那由多がレースのために作った料理だ。

 レースは返答しないので、ヒカゲは笑う。


「人間を使った料理なんて、食べたくないよな」


 ヒカゲが怪我の療養中のため、食材は那由多が自前で調達している。


「まーでも、どうなんだろ。事実を知りながら食べているお前と、何も知らない店の従業員や店の客ではどちらが不幸せなんだろうな。どう思う?」


 レースから返答はない。ヒカゲはお喋りをやめない。


「知らぬが仏かな? でも、知っていて逃れる方法がなければ地獄か。ねぇレース」

「……もう、慣れたよ」

「諦めた、が正しいだろ。僕にはどっちでもいいことだが、洗脳(ブレーンウォッシング)はされないように気をつけろよ」

「……?」

「あ、そうだ」


 ヒカゲは妙案が浮かんだ。両手を叩いて笑うヒカゲの笑顔にもレースは興味を示さず、力なくソファーへ横たわった。

 生きる気力もなければ、死ぬ希望も失った人形のような成れの果て。一日を無為に過ごすレースが、時折反応を見せるのがヒカゲは楽しかった。

 端的に言えば、ヒカゲは暇だった。


「レースいつでもいいからな」

「……まだ、いらない」


 か細い声で、震えるようにレースは返答をした。

 車椅子を動かしてヒカゲはレースの顔がよく見える位置に移動する。


「レースが死にたいなら、僕が殺してあげるからな」


 ――イサナを殺したあとだけれども。

 レースが瞼を伏せた。

 ヒカゲはレースと出会った初日、まだ傷が痛むのも構わずに生きてもいなければ死んでもないようなレースに対して、「死にたいなら殺してあげるよ」と声をかけた。

 その瞬間、那由多の拳がヒカゲを殴り飛ばした。

 車椅子もまだ未購入だったヒカゲはそのまま壁に激突して呻いた。那由多は馬乗りになって暴力を振るってきた。

 抵抗しようにも身体の傷が痛む。沸点が低い分、冷めるのも早い那由多は、大人しく殴られているヒカゲに満足して立ち上がった。

 那由多の手に捕まって身体を起こしてもらい、ソファーに座ると、うわごとのようにレースがごめんなさいと謝っていた。

 レースは自分のせいで誰かが殺されるのを好んでいない。

 那由多の暴力を過度に恐れている。そんなレースをヒカゲは馬鹿な子だなと思った。


「死にたいくせに」

「…………」

「こんな地獄みたいな生活、終わらせたいと思っているくせに」

「でも、それは……誰かの、代償の上になりたつのは嫌だから」

「あはは。愚かでいい子だな。レース。闇医者を目の前で殺されたのがトラウマか」


 ヒカゲはレースの髪を掬う。那由多が綺麗に染めた白髪。失われた黒髪を勿体ないと思う。


「あいつ、恋人は年上のお姉さまがいいといいながら、実際は年下の少女を選ぶんだから面白いよな。理想と現実は別か?」

「恋人、じゃないけど……」

「似たようなものだろ。むしろ恋人より上だな。誘拐されているんだから」

「……恋で、あっても困る、よ」

「ま、誘拐されて暴力振るわれて外界と隔絶されて、それで愛している好きだと言われても困るよな」

「……そもそも、それは恋なの? 愛なの?」

「さあ。那由多に聞こうか」

「いらない」


 インターホンが鳴った。音に反応してレースが身体を震わせた。


「あは。僕が頼んだんだよ。いつも通りの出前だ。レースはアレルギーある?」

「……? ないけど」


 ヒカゲは上機嫌に移動して電話の横にある財布を手に取ってから玄関まで向かう。代金を払い受け取ったそれを膝にのせてリビングへと戻った。


「レース、寿司だ」


 寿司桶をテーブルに置く。


「そう」

「ちょっとせっかく僕が頼んだんだから見てよ」


 レースが億劫に身体を起こして、目を丸くしたのを見て、ヒカゲは満足する。二人前の寿司桶に驚いている。

 レースほど極端な小食ではないが、好物のパンケーキを食べるとき以外は、ヒカゲも量はあまり食べない。那由多は結構食べる。

 那由多の料理を食べたくないヒカゲはいつも出前を取っていたから、レースも食べる量は大体把握している。なのに、ヒカゲは明らかに二人前を注文した。レースが僅かに身を捩った。


「レース」


 ヒカゲが声をかける。レースが何かを言う前に器用に、ヒカゲはレースの口を指で開いてその隙間に、いくらの寿司をねじ込んだ。


「――――!?」


 レースが慌てて吐き出そうとするのを、手のひらで抑える。パニックに陥ったレースはそのまま嚥下した。

 レースの瞳から涙が零れた。


「泣くほど嬉しかったか、美味しいでしょ」


 無邪気な笑顔でヒカゲはレースの涙を指先で拭った。


「な、な、なんで!」


 恐怖に震えたレースの悲鳴にも似た言葉に、ヒカゲはウニを選ぶ。

 那由多がレースを誘拐してきたときから、那由多はレースに普通の食事をとることを許していない。自分と同じ食事を好んでほしいと心から思っているのだ。


「ほら、ウニだよ。レース。食べな」

「い、いらない! やだ、いやだ!」

「マグロもアワビもサーモンも、好きなものを食べろ。どれがいい?」

「どれも、いらない!」

「那由多が怖いのか? 大丈夫だ。ちゃんと僕が証拠を隠滅してやる。バレなきゃ那由多も何もしてこない」

「いや、いや。やだ……やめて……」

「だーめ」


 嫌がるレースにウニを食べさせた。レースの瞳から涙が伝う。苦しそうにする姿。那由多に恐怖して震える身体。ヒカゲは知らず知らず舌を舐める。


「ふふ。次は何がいい? 何が食べたい。なんでもいいぞ。僕一人じゃ二人前は無理だからな」

「もう、嫌。何もいらない、やだ」

「大丈夫だ。お前を監視するための盗聴器は全部外してある」


 レースが黒目を丸くして驚愕していた。


「部屋に盗聴器が仕掛けられていること知らなかったのか? あの嫉妬深い那由多だぞ? 当然だろ」


 壊した後、那由多が何度か新調していたが、そのたびにヒカゲが壊したので、那由多は諦めている。

 ヒカゲとて那由多に無駄に殴られるのは好きではない。

 今の身体では対等に那由多と渡り合えないのも理解している。対策を練ったうえので暇つぶしだ。


「ほら、いくらとウニときたらやっぱ次はアワビかな。高級路線でいこう」

「へ、変なところ気遣わなくていいよ……」

「よし。はいアワビ」

「もっ、いらない!」


 嫌がるレースに無理やりヒカゲは食べさせる。無理やり食事をさせるのには慣れていた。慣れている事実が空虚になり胸が少し苦しい。


「僕もおなかすいたし食べよう」


 誤魔化すように、ヒカゲはサーモンを口に運ぶ。寿司は美味しかった。

 悪魔の微笑みを浮かべたヒカゲが、嫌がるレースに大トロを食べさせた。

 だが、流石に二人で二人前は食べきれなかったので皿に移して冷蔵庫へ入れた。残りは那由多に食べてもらう。二人前の証拠である寿司桶は廊下に置いたので後で回収される。皿を洗って食器棚にしまえば食べた痕跡はない。

 久々に普通の食事をしたレースは力尽きたように横たわっている。

 那由多が帰宅するまでヒカゲは膝にアルカをのせて、読書をした。

 那由多が仕事から終わって帰ってくると扉が勢いよくしめられた。その音に驚いたアルカがくつろいでいたヒカゲの膝から逃げる。


「おい。那由多、物に八つ当たりをするな。嫌なクレーマーでも来たのか? アルカが驚いて可哀そうだ……ろ?」


 ヒカゲが呑気に訪ねた瞬間、鬼のような形相をした那由多の顔が映り、瞬時に間違いだと気付いたときには顔面を力任せに殴られ、車いすと共に床へ倒れ放りだされた。車椅子の派手な音が響く。

 床に倒れたヒカゲに馬乗りして、那由多はヒカゲを殴りつける。視界が暗転するように痛い。


「てめぇだよ! ヒカゲ! レースに寿司を食わせたな!」


 那由多の怒鳴り声に、レースの悲鳴が聞こえたが、それよりヒカゲは殴られた頬が痛かった。


「どうして、わかったんだ? 盗聴器は僕が全部外しただろ」

「そうだな。つけてもつけてもヒカゲが外す。だから、お前が絶対に調べない場所に隠したんだよ」


 勝ち誇った笑みを那由多が浮かべた瞬間、ヒカゲは己の失態を自覚する。


「馬鹿じゃないのか!? 料理の中に隠すなんて!」

「ご名答だ!」


 勢いをつけた那由多の拳に、ヒカゲは呻く。骨ばった那由多の手が、首にでも触れたらそのまま折られそうだ。


「ば、馬鹿だろ……」

「バカはてめぇだバーカ。探偵失格なんじゃねぇのか?」


 那由多が立ち上がった。ヒカゲは溜飲が下がったのだなと判断した瞬間腹部を蹴られた。


「またミスったな。探偵やめちまえ」

「くそ……」


 せき込みながら悪態をつくと、那由多が笑って太ももを足で踏みつけてきた。ヒカゲが悶絶する。


「いっ――痛い! それは反則だ! ねえちょっとやめろ痛い! 一番痛い!」

「あはは」

「那由多! 痛い!」

「こうしてみると死体みたいでいいな、気分があがるわ」

「勝手に殺すな」

「髪の毛解いたらもっと死体っぽくなるかな」


 那由多が笑いながら、三つ編みを掬って髪ゴムと赤いリボンを外した。はらり、と那由多の手から髪の毛が零れる。


「あぁ、似合うな。このまま死体になったらどうだ? 愛でてもいいぞ」

「いいわけないだろ。早く那由多どけろ」


 機嫌を直した那由多はぐりぐりと足を回してから外した。

 ヒカゲは痛みに顔を歪める。那由多の料理を視界にすら入れたくなかったから、作り置きしている豚汁の中を確認しようとまでは思わなかった。失態だ。

 それ以前に、防水加工を施してまで盗聴器を仕込むとは予想外だ。


「そこまでしてレースを監禁しておきたいか屈折しているなぁ」

「天喰を監禁していたやつには何も言われたくない台詞だ」

「天喰はもう僕の手にはいないよ……」

「やべ、めんどくせーの踏んだ。つーかオレはレースを盗聴しておきたいというよりも」


 那由多がレースを一瞥したので、ヒカゲは身体を起こす。

 テーブルが間に挟まっていて仔細までは見えないが、レースが頭を抱えて震えているのはわかった。


「ヒカゲがレースに対して何かしでかさないかのほうを危惧してんだよ」

「レースは僕好みの顔じゃないけど」

「お前の好みじゃねーのは知っている。そっちじゃなくてレースに無理やり寿司を食べさせたりとかのほうだよ」

「だって暇だったし」

「暇だからってレースと遊ぶな、こんなに震えて可哀そうだろ」

「いやそれは那由多が怖いからであって、僕のせいじゃないんだが……」


 ヒカゲの言葉を無視して、那由多はレースの頭を優しく撫でた。ひっと掠れた悲鳴がレースから上がった。


「ほら。レースが怯えている」

「安心しろ。無理やり食わされたやつを殴ったりしねぇって」

「本当か怪しいものだけどね」


 ヒカゲが茶々を入れる。うるせぇと那由多が怒鳴り返すとレースはまた身体を震わせた。だからレースが怯えるのを那由多は理解していない。

 そのくせ、レースが泣き止むまで那由多は優しく頭を撫でるのだから、ヒカゲには理解できない。

 やがて緊張が途切れたのか、レースは落ち着きを取り戻す。


「……ストックホルム症候群になりそうだな」


 床に座ったまま様子を眺めていたヒカゲが、那由多とレースの耳には届かない声量で呟く。

 那由多は思い出したように、レースから離れ、倒れた車椅子を立て直し壊れていない部分がないかを確認をした。


「ん。那由多」


 ヒカゲが両手を伸ばす。那由多が舌打ちしてから、ヒカゲの両脇に腕を入れて、身体を持ち上げた。


「いい加減てめぇ、自力で一応動けるだろ。オレを待つ必要あるか?」

「今は普通にお前のせいで身体中痛い」

「あ。そうだ忘れてた。お前の仕事を持ってきてやったぞ、感謝しろ」

「今の流れでどうやって思い出すんだよ」

「車椅子で安楽椅子探偵の流れだよ」

「えーヤダ」

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