第20話:望み。捧げた、過去と未来

「おはよう、イサナ。僕の気分は最悪だ」

「おはようございます。ヒカゲ。私の気分は最高です」


 ヒカゲが目を覚ますと、見慣れた探偵事務所の景色が映った。

 身体は重いし、思考がぼやける。身体を動かそうにも、縄で椅子に締め付けられた状態では身動きが取れない。幸か不幸か、椅子はデスクワークように十万円するものを購入したので、座り心地はいつも通り快適だった。


「無駄ですよ。貴方に脱出を許すほど緩く締めていませんから」


 ヒカゲが何度か床を叩くように靴を蹴るのを見かねたイサナが苦言を呈する。


「どれくらい時間が経った?」

「ヒカゲが倒れてから、一時間はまだ経っていませんね」

「そう……ところで、僕のパンケーキの皿が空なんだけど?」


 ガラステーブルへ視線を向けると、パンケーキの食べ終わりの皿だけが残されていた。ふわふわでイチゴで生クリームがたっぷりのパンケーキはどこにもない。イチゴ牛乳を零した絨毯の床は綺麗に掃除がされている。


「甘かったです。よくこんなもの好みますね、とは思いましたが、ヒカゲに好物を与えられないと思うと、美味しかったです」

「倒錯しているなぁ」

「ヒカゲほどではありませんよ」

「で、イサナは僕の性格を知っているうえで、こんなことをしているんだよな?」


 ヒカゲの問いかけに、向い合せで椅子に座っているイサナは、足を組み替えてから無表情のまま答えた。


「ちゃんと命をベットしていますよ」

「そう。なら良かったよ。で、どういう目的だ? まさか僕からパンケーキを奪うためだけではないだろ」

「それが、俺の目的だからさ。パンケーキはただの嫌がらせだ」


 イサナの皮を脱ぎ捨てて、その人物が答えた。

 冷笑も、勝ち誇るような、けれど油断していない真剣な顔は、ヒカゲの知るイサナではない。

 目的の意味を、ヒカゲは思考する。やがて一つの結論が導き出された。

 おかしくて笑いがこみあげてくる。手が後ろに回されて縛られていなければ拍手をしていた。


「僕が

京叶かなどめきょう。お前が殺し損ねた男の名前だよ」


 全てをイサナへと変容させた者が答えた。


「四文字はあっていた」

「嬉しくない」

「男なのもあっていただろ」

「確率ほぼ二分の一が当たっても嬉しいわけないだろ! しかも出利葉が逃げた相手だと勘違い付きで!」


 嘗て、ヒカゲが殺し損ねて逃げられた人物。

 それが――目の前にいるイサナこと、京叶かなどめきょうだった。

 虎視眈々と、ひたすらにヒカゲへの復讐を望みながら傍に助手としてい続けた。殺意を見せずに。感嘆する執念に、ヒカゲは気分が高揚した。


「復讐のために京叶を捨てたわけか」

「そうだ。京叶が歩むはずだった未来も、歩んできた過去も、全て捨てた。俺という存在は、すでに墓場だ。今の俺は残り粕だな」

「イサナメグリという女は実在するのか?」

「実在する。偽名でヒカゲに怪しまれたら元も子もない。万全を期す必要があった。イサナメグリの戸籍を手に入れて、その女そっくりに整形した。本物のイサナメグリも別人に整形をして別の人生をどこかで歩んでいるだろうな。もっとも、整形手術も性別を変える必要もなかったわけだが――そんなこと、お前に会うまで知る由もないからな」

「はは。無駄骨だったね。僕はお前の顔も、名前も覚えていない。名前を聞いた今だって、新たに思い出す特徴はない」

「本当に最低だな。俺と同じくらいの身長で、ヒカゲが心躍る美人で、そして人生を捨てたがっている女性を探すのは大変だったんだぞ」


 執念とはかくあるべきだ。京叶は、ヒカゲに復讐するために過去と未来の全てを捨てて別人になった。

 丁寧で冷静で無常で、淡々としている料理上手なイサナを作り上げた。

 甘いものが苦手で、肉が好物。美味しいお肉を食べるときはテンションが高い。コーヒーは無糖にミルクを一つ。

 掃除上手だが大雑把で細かいところは気にしない。読書は紙派。右利き。他人に感情移入をしない。

 自己完結している女性という設定を、今日まで演技し続けた。

 内に秘めた熾烈なる感情に蓋をして、冷淡な女性として振る舞い続けたその演技にヒカゲは脱帽する。


「ヒカゲが何一つ覚えていなかったとしても、顔も性別も変えたことに未練はないよ。記憶の隅に引っかかって思い出す可能性だってゼロじゃない。逃がした相手が四文字だったことや、男を覚えていたという意味では――万全を期す意味では、今の状況が正解だ」

「万全? 今この状況で復讐を果たすのは万全なのか?」


 ヒカゲの言葉に、イサナは露骨に眉を顰めた。不愉快そうに、唾棄すべきように。


「まあ、それでもお前は完璧だ。僕に違和感を抱かせなかった。伏線を張らなかった。僕に興味津々なくせに、興味ないバランスの采配は見事だ。とはいえ、なるほど。思い返せば、イサナの演技が乱れたときもあったな。あれを伏線と呼ぶにはお前が可哀そうか」

「…………」

「天喰が死んだ日のイサナは、イサナらしくなかった。ああ、今ならわかるよその意味が。お前は、僕が天喰を覚えていることに嫉妬して、感情が高ぶったんだ」


 天喰遥が自殺した日。イサナは感情を露わにした。

 死体の後始末すら放置して、ただソファーで横になっていたヒカゲに対して、らしくもなくイサナは怒鳴った。


「お前のことは憶えていないのに! 僕は天喰を忘れなかった!」

「……そうだ。ヒカゲは殺した人間を忘れる。殺していなくても、殺したようなものであれば忘れる。俺を忘れたように。だから、実際手を下していなくとも天喰が死んだらヒカゲは忘れるはずだ。忘れなければならない。なのに忘れなかった。腸が煮えくり返ったよ。あまつさえ……ヒカゲは、人殺しに興奮しなくなった。お前は、他者を嬲ることに興奮していないといけないのに」

「興奮していないといけない? なるほど。お前の目的は僕を殺すことじゃないな」

「俺は人殺しには興味ない。イサナの時も言っただろ? あれは嘘じゃない、本当のことだ」


 京叶かなどめきょうは、イサナを演じているとき、過去の自分と同じように快楽殺人鬼に甚振られている美男美女を見ても、眉一つ動かさなかった。

 天喰の惨状を見ても、同情一つ起こさない。自らの目的のために、他者は全て素知らぬ顔で無視し続けた。

 その目的はヒカゲを殺すことではない。


「俺以外の誰かが悲鳴を上げても、感情一つ揺れ動かない。そんな誰かに同情する心は捨ててきた。だから俺が他人を殺しても、罪悪感など抱かないだろう。けど、俺がやりたいことは――ヒカゲの前に現れるための準備期間を含めて五年の歳月をかけたのは、お前を監禁するためだ。そのためには、ヒカゲは殺人に、他者を害することに興奮してもらわないと困る」

「だから僕に献身してくれたわけか。僕がお前の望む快楽殺人鬼であり続けるために」

「そうだ。ヒカゲを殺したところで一度限りだ。二度と蘇らない。そんな刹那の復讐はいらない。俺はヒカゲから――快楽殺人鬼から快楽を奪いたい。なのに! 俺が復讐を果たす前に、天喰に全て奪われそうになって困った。ヒカゲには快楽を得てもらわないと困る。失ったときの絶望を与えられない」


 檻に閉じ込めて、快楽を得ることなくただ虚無の日々を送る。なるほど、非効率的だが、復讐としては優れている。

 何よりイサナの顔をした京叶は美人だ。檻を隔てて殺して興奮したい相手がいるのに、繋がれた鎖は届かない。


「パンケーキもあげない。ブラックコーヒーを飲んでもらう。辛いのと苦いので食事を作る。ヒカゲの楽しみは何一つなく、空虚を過ごしてもらう。そのために頑張った」


 イサナが立ち上がる。手にしている黒いナイフはヒカゲが愛用しているものだ。スーツのポケットから抜き取ったのだろう。

 歪なまでに喜びと狂気が複雑に絡み合い形容しがたい表情を作りながらヒカゲに近づく。イサナの柔らかな手が、ヒカゲの口を覆い、右手に持ったナイフで、ヒカゲの太ももへ向けて勢いよく振り下ろした。

 肉が抉られる鮮明な感触に、悲鳴を押し殺そうとしても殺しきれずかすかに零れるが、イサナの手が鮮明な音にするのを拒む。苦痛を逃そうと身体が自然と揺れるが、縄で拘束された身体は逃げられない。


「ご近所迷惑は避けないとな。ここはあの廃ビルじゃない」

「……はは、僕を殺さないんじゃなかったの? 空虚を与えたいなら身動きのできない僕を痛めつけてどうするの? 趣味に目覚めた?」

「怖いから。少しは衰弱してもらわないと、ヒカゲを檻に入れるのが怖い。武力じゃかなわない」


 淡々とイサナは椅子に座っていて狙いやすい太ももにナイフを突き刺しては抜いていく。


「んっ――っ!」


 激痛に声を上げるが、イサナの左手が掠れさせる。それに加え、閉め切られた防音の室内は、悲鳴を外に漏らさない。ナイフがザクザク、と音を立てるのが耳に入り不快だ。

 真っ赤に染まり、血だまりが出来たところでイサナはナイフを床に投げ捨てる。


「イサナ」

「……その名前で呼ぶのか」

「ああ。だって、僕は京のことは何も覚えていないからね。まだ殺していないイサナの名で呼ぶさ」

「そうか。好きにすればいい」


 額に無数の汗を浮かべながら、ヒカゲは笑う。


「ねぇイサナ。時期尚早だよ。万全を期していない状態で、イサナが僕に一度きりの策を仕掛けてきた。その答え合わせが終わっていないのに、ナイフで抉るなんて酷い。ちゃんと解決編をやらないと駄目だろ」

「探偵気どりか?」

「探偵だ。謎解きは別に興味がないが、この際だ、ちゃんと綺麗に終わらせよう」

「…………」

「お前の予想外は三つだ」


 イサナの顔色が変わった。驚いて、続きを促している。ヒカゲは微笑む。


「天喰遥。あと出利葉? そして――闇医者」

「出利葉であっているから疑問符をつけるな。ろくでなし」

「天喰によって僕が自滅する危機にイサナは焦り、出利葉に僕が傷つけられたのを見て、焦った。イサナは僕を恨んでいるが、僕に殺されてほしくないし警察にも捕まってほしくない。だが今後、もしも出利葉のように僕を傷つける輩が現れたら――と、心配になった。誰かに僕が殺される前に、イサナは僕を確保する必要があった」

「……最後の闇医者は」

「闇医者が殺されたことでお前が焦ったんだ。イサナは闇医者を知っていた。有名だからだと思ったが、京がイサナになったのならば答えは簡単だ。闇医者先生に京は性別も外見も全て変えてもらったのだろう?」

「正解。あの人が、一番腕のいい医者だったから。イサナを見て、男だと思う人間はいないだろ? あの人は完璧に俺をイサナという女性にしてくれた」


 イサナがダンスでも踊るように一回転した。全てが完璧に整形された姿を生み出せるのは、闇医者しかいない。


「けれど、闇医者先生は那由多に殺された。何かあっても闇医者先生はこの世にはいない。不測の事態が起きたときにイサナは困る。新しい闇医者を探すわけにもいかなかった。僕に万が一、不審に思われたら困るから」

「全て正解だ」

「そして、それがお前の敗因だ」


 血が、滴る。痛みが脳内で悲鳴を上げすぎて、泣きたくなる衝動を抑えながらヒカゲは勝ち誇った笑みを浮かべる。


「……何が、だ……この状況で、どうやってヒカゲが逆転するというんだ」

「はは。本来、イサナの予定ではもっと僕との信頼関係を築いてから実行するはずだった。それを、いくつも重なった不安要素によって計画を前倒しにした。僕はイサナのことを大分信用も信頼もしていたし気に入っていたけど、那由多のように僕の自宅を教えるほどには信頼していなかった。ならば、裏切りに対して、何か対策をとっているとは思わないのか?」

「まさか――那由多が、ここにくる!? 何か、合図を送ったのか!?」

「僕を裸にしなかったのが、お前のミスさ。ナイフを奪っただけで満足したか? 僕と那由多が携帯でしか連絡を取り合えないと思ったか? いざという時の何かがあるとは思わなかったか? 甘い」


 ヒカゲは一気に畳みかける。イサナが唇を噛みしめているのが愉快だった。計画を計画通りに遂行しなかったがゆえの、穴。イサナの敗因。


「まさか……靴に、仕込んであるのか!? 拘束を外そうとあがいたわけではなく、那由多に連絡を取るためだったのか!?」

「ご明察。だから僕は必要外靴を脱ぎたくない。ま、それ以外にも方法は用意してあるけど。あいつと僕は一蓮托生、何か問題が起きれば、駆けつけられるようになっている。お前の落ち度フォールトだよ。縄で縛り付けた程度で安心しちゃ折角の復讐が台無しだ。僕を捕まえて優越感に浸ったか。愚かだな」


 イサナが窓に駆け寄りブラインドを上げて周囲を見渡しているようだ。街灯はあっても時刻は夜。金髪は目立つが、那由多は発見できないだろう。


「那由多の移動手段はバイクだ、そして那由多は出利葉の死体を始末するのにあのビルにいる。さあ、どうする? イサナが今とれる手段は逃げるか、僕を殺すかだ」


 どちらにしろ――イサナの目的は達成できない。するには時間が短い。


「は、あははは……探偵気どりはただの時間稼ぎだったってわけか。俺がどちらかの選択しか取れないように」

「イサナも助手が身についているようで何よりだ」


 イサナにヒカゲを連れ去る時間はない。目が覚めてから、ヒカゲはすぐに那由多へ信号を送った。後はイサナとお喋りをして那由多の到着を待てばいい。

 イサナは短絡的にヒカゲを殺すことはせず、逃げると確信している。

 だからヒカゲはイサナを逃がすことにした。


「イサナ。僕は那由多の到着までお喋りをしてもよかった。何故しなかったのかは、お前ならわかるよな」

「ヒカゲが俺を殺すため。那由多に殺させないため」

「うん、満点。イサナだってまだ僕を監禁するのを諦めていないだろう? だから、逃げな。今回は見逃してやる」


 苦虫を潰した顔をしながらイサナは逃走を選択した。

 数十秒後、ヒカゲがもくろんだタイミング通りに、那由多がやってきた。


「今、イサナとすれ違ったけど何が……」


 那由多がヒカゲの姿を見て、硬直してから盛大な舌打ちをした。


「イサナがやったのかこれ!」

「そうだよ。どうやらイサナは僕を恨んでいたようだ。覚えていないけどね」

「殺しておけば良かったな」


 ヒカゲの助手として、那由多もイサナを一定値信頼している。いくらヒカゲに緊急事態だと呼ばれたとしても、すれ違ったイサナが裏切ったと判断して殺す思考に至れないのは仕方ない。それも加味したうえだ。


「殺さなくていいんだよ。イサナは僕が殺す。だから縄解いて止血して。死にそうだし痛くて泣きたい」


 頑丈な縄は、素手では解けない。床に転がっているナイフを那由多は拾って、縄を切っていく。ヒカゲは自由になった身体が、縄という固定を外れて倒れたのを、那由多に支えてもらう。


「痛い。本当に痛い。泣きたい……」

「だろーな。傷口触っていい?」

「いいわけあるか。涙を我慢できたの奇跡に近いんだけど……応急手当したらどっか医者連れてって」

「ああ。しかし、これじゃしばらくは人殺せねーな」


 ヒカゲは医者ではないので適切な診断は下せないが、太ももを重点的に痛めつけられたので、当分は歩くこともままならないだろう。


「いいよ。当分、殺す気はない」


 けれど、構わなかった。


「は?」

「イサナを殺すまでは、な。その時まで、快楽は――お預けだ」

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