第19話:復讐はかくして
――アゲハを憎いと思ったことはないのか。YESとは答えられない。けれど、アゲハと接するうちに、彼女は大切な妹みたいな存在になった。そう伝えれば、アゲハは不満な顔をするだろう。
重力を感じさせない軽やかな動きで接近するヒカゲを、出利葉は迎え撃つ。滑に、距離が掴みにくい居合いは、流れ星のように美しい。アゲハは見惚れながら、移動する。ヒカゲの胴体から血は流れなかったばかりか、憎たらしく口笛を吹いた。
飛びのき着地すると同時にヒカゲは深く一歩を踏み出し、俊敏にナイフを振るう。出利葉は刀を手首で位置を回転させるように向きを変え、ナイフを受け止める。そのまま力で押す。
身軽さならばヒカゲに軍配が上がるが、腕力は出利葉には及ばない。
刀の重みでヒカゲのナイフを持つ左手が後方へ下がるのを見逃さずアゲハは切り込む。ヒカゲは地面へ身体を逃した。アゲハのナイフは、ヒカゲの髪の毛を数本短くしただけで終わる。舌打ちをする暇もなく、ヒカゲが足払いをかけてくる。バランスを崩したアゲハは、ナイフを一旦捨て、両手を地面へつけて流れの勢いのまま身体を空中で回転させて着地する。出利葉の背後へ回る。
ヒカゲのナイフを振るうタイミングをアゲハは知っている。身体捌きも知っている。だが、それはヒカゲにとっても同じ事が言える。
「アゲハ、大丈夫か?」
「大丈夫よ。何も怪我はしていない、ちゃんと前を見て」
出利葉の心配の声が、アゲハは嬉しい。けれど、他人の心配をして足元を掬われそうな弱さがあることも知っている。
「わかっている」
出利葉が起き上がったヒカゲめがけて刀を振るう。ヒカゲの防御のタイミングを読んでいるように、出利葉が軌跡をずらした。読み違えた代償に、ヒカゲは肩から血を流した。
「浅いか――」
「上出来よ」
ヒカゲは顔に苦悶を宿した。ヒカゲの歪んだ顔を見るのはいつ以来だろうと、アゲハは嬉しくなった。このまま、ヒカゲを追い詰めればいい。出利葉に幸せをあげたい。
「あーあ。怪我しちゃったじゃないか。痛いな」
ヒカゲが左手でナイフをバトンのように回転させながら、出利葉の顔を堪能している。クソ兄貴、とアゲハは心で罵倒する。
「なんで兄貴は左利きなのかしら。右ならナイフが握れなかったかもしれないのに」
「あはは。残念だったな。というか利き腕やられてもナイフは握れるし」
痛みが、気分を高揚させているのか、傷つけられたはずのヒカゲは上機嫌だった。
「理解できないな……」
出利葉がぼそりと呟いたのを聞き取ったヒカゲは、面白そうに口に弧を描いた。
「お前の顔がいいからな。顔がいいやつに傷つけられるのは、それはそれで興奮するだろ?」
「最悪」
「まじ最悪よ、クソ兄貴。性癖歪みまくりだわ」
「アゲハだって僕と似たり寄ったりだろ」
「わたしは兄貴ほど変な方向にいっていないわよ! 同じにしないでくれる!?」
出利葉のコートが翻る。アゲハにとって頼もしい背中。黒と灰色の境界。
激しく動くたびに、丈の短い上着から無駄な脂肪のない引き締まった腹が覗く。面食いなヒカゲが、出利葉の洗練された身体に時折目を奪われているのが、アゲハにはよく理解できる。そのタイミングを狙って、ナイフを投擲する。真っすぐに飛んだナイフは、ヒカゲの右腕をかすめる。アゲハは高揚した。
「邪魔だな」
ヒカゲの低音が、アゲハの耳に入った。視線が重なる。出利葉の邪魔にならないよう、ヒカゲに妨害行為を行っていたアゲハの動きが邪魔になったのだ。
アゲハはすぐさま理解して、迎え撃つように新たなナイフをケースから抜き取る。
「アゲハ!」
出利葉が、ヒカゲの素早き方向転換に気づき、声を発する。その動きはよくない、とアゲハは思った。
走り出したヒカゲを出利葉が追うが、速度では敵わない。出利葉は、刀を投擲した。背後から迫る気配に気づいたヒカゲが身体を横にずらす。ナイフがヒカゲの真横を通り過ぎる。僅かな、停止の間に出利葉はヒカゲを追い抜いた。
その、他人を守るような愚かしい出利葉の行為に、アゲハは一瞬、思考の整理が遅れた。
――馬鹿じゃない、の。
ヒカゲとアゲハの間に、僅差で出利葉は割り込んだ。ヒカゲのナイフからアゲハの身を守るように。その無防備な身体を晒した。アゲハの身体を、守るために、アゲハの身体を後方へ突き飛ばした。
ざくり、と肉をつく柔らかい音が鮮明に耳に聞こえてアゲハは無性に悲しくなった。視界が、スローモーションになったかのように遅くなる。
――本当に、大馬鹿。
受け身をとれなかったアゲハは、壁に激突した。背中から痛みがはしり呻く。
「出利葉。お前は馬鹿な男だな。最大の好機を逃すとは
その通りだ。アゲハは同意する。
出利葉はアゲハを助けようと割り込む必要はなかった。アゲハが殺された瞬間に、出利葉がヒカゲを殺せばいい。ヒカゲは同時に二人を殺せない。片方を殺している隙をつくのが、正解だ。
それができない出利葉は愚かだ。でもだからアゲハは出利葉が好きなのだ。
「アゲハを見捨てるわけないだろ、死なせも――しないよ」
「本当に愚かだな。出利葉、お前は顔がいい。だからアゲハは、僕に対する道具としてお前を選んだだけだろう? 利害の一致だ。それなのにお前は僕を殺す機会を逃した」
「例え、アゲハが俺のことを利用しているだけでも、助けるよ。俺がアゲハに死んでほしくないから、アゲハを見捨てる真似はしない」
「甘い。砂糖菓子より甘い風変わりだ」
「甘くていいだろ。仲間を見捨てて得た結果にどれほどの高価な価値があるというんだ? そんなものは道端の石ころ以下の価値しかない」
ヒカゲがきょとんと顔を幼くした。その姿は、どこまでも鏡写しのようでアゲハは憎たらしく思う。
「珍しい男を殺せるなんて、楽しみが増えるよ」
「楽しみは増えないさ。ヒカゲは俺が殺すから」
「無理だろ。僕に脇腹を刺されたお前が、刀を持たないお前が、どうやって僕を殺すというのさ」
ヒカゲが猫のように素早く距離を詰めた。ナイフを振るう動作に緩急をつけて反応を捕らえにくく振るう。出利葉はナイフを正面から手のひらで受け止めた。
「――!」
ヒカゲが目を見開く。ナイフを抜き取ろうとするヒカゲに対して、貫かれた手のひらで出利葉はナイフを握った。
アゲハは悲鳴が出そうになる声を抑えた。ヒカゲはナイフに執着することなく、手を離した。そして、アゲハが投擲したナイフを地面から拾い上げる。
出利葉は手のひらを貫通させることで奪い取ったナイフを抜き取る。血しぶきが上がる。
アゲハは、しゃがみこんだまま見守るしかなくなっていた。守られてしまった段階で、手を出せなくなった。足手まといにも人質にもなりたくない。
「出利葉。お前、そんなに僕を殺したいんだ」
ナイフがヒカゲの太ももをかすめる。赤が、いくつも飛び散る。
「ああ。お前だけは絶対に殺す。よくも俺の――大切な妹を殺しやがって!」
「妹?」
はて、とヒカゲは首を傾げた。ヒカゲは殺した人間の顔と名前を忘れる。
だから、ヒカゲは出利葉の大切な妹を殺した事実を覚えていない。
アゲハは過去に見せてもらった写真が脳裏によぎる。出利葉の面影がある、美人で可愛らしい女性だった。
――兄貴が好きそうなタイプの顔だった。
――でも、どれだけ兄貴が好きな顔をしていても。兄貴は忘れる。
出利葉が復讐のために、あらゆる手段を使って落ちていったことを、ヒカゲは知らない。
「やっぱ覚えていないのか。結構、俺と妹は顔が似ていたんだが」
「殺したら興味がないからな」
「あぁ。だから絶対に許さない。お前の愉悦のために妹は殺された。そして、あろうことかお前は妹のことを何ひとつ覚えていない。許せるわけないだろ」
出利葉は執念でヒカゲにたどり着いた。アゲハが賞賛したくなる情熱だ。
那由多と手を組んでいるヒカゲが、殺人鬼である事実に気づくことは並大抵の努力では成し遂げられない。
「――そうか、僕の勘違いか」
ヒカゲがやや残念そうに呟いたのが、アゲハの耳に残った。
「? なんの話だ」
「いや、何でもないさ。てっきり僕が逃がした人間が復讐しに来たのかと思ったんだ。あの怪我じゃ助からなくても当然か。死んだのはつまらないが仕方ない。まあ、出利葉に出会えたのだから、この勘違いも上々だ。しかし一つ頂けないことがあるな」
「なんだよ」
「お前が動くたびに、腹がチラチラと見えて気になるんだけど! 集中できない! 痛めつけたい誘惑がヤバイ!」
「知るか!」
「お前なんでそんないい腹しているの。程よい筋肉とか、無駄がなくてさ惹かれる」
「嬉しくねぇよ」
アゲハがもくろんだ通り、ヒカゲは出利葉の腹が好みだった。今となっては、丈が短めの服をヒカゲ対策の一環として出利葉に着せたことは有効だが後悔している。
出利葉がナイフでヒカゲに切りかかる。
「っあ――」
出利葉の苦悶があがる。ヒカゲのナイフが出利葉の右腕に横から刺さっていた。ヒカゲが抜き去ると鮮血が流れる。夜に埋もれるように、出利葉のコートと混ざる。
痛みで動きが鈍った隙をついてヒカゲが出利葉の腹部を強打した。
出利葉の腹から空気が漏れる。ヒカゲの足払いに出利葉はなすすべなくバランスを崩した。
「ふふ、貰った!」
ヒカゲが喜々とした表情でナイフを出利葉へ突き出す。
殺意はない。痛めつけて堪能してから殺すつもりが満々だからだ。致命傷を狙っていない。この状況でヒカゲからの一撃を食らえば反撃が不可能になる。
なのに、出利葉は落ち着いていた。アゲハはその瞬間、叫んだ。
「――! 駄目、出利葉!」
アゲハは出利葉との付き合いが長い。だから、出利葉が何をしようとしたのか、理解してしまった。
「は――?」
ヒカゲの驚愕した声。アゲハが立ち上がり走る。アゲハの瞳に映った出利葉は、不敵に微笑んでいた。
ヒカゲが振るおうとしたナイフを持つ、左手の手首を掴んで、出利葉は自らの致命傷をナイフで突き刺させた。
「なんでも、お前の思い通りになると思うな」
笑いながら出利葉は告げる。
ヒカゲの思惑通りに事が運ぶくらいならば、運ばない絶望を与えればいい。間違っていない。でもアゲハはそれを選ばないでほしかった。
「出利葉」
「――――」
何か、アゲハに向けて出利葉は言葉を告げてくれた気がする。だが、アゲハの耳はそれを拾えなかった。
「あぁあ! ちょっとお前! ――嘘だろ」
ヒカゲの声と、重なったからだ。
出利葉が自害をした。勝てないならばそうするのは正しい。理屈ではわかっていてもアゲハの感情は嫌だと拒絶する。出利葉に死んでほしくなかった。
どこから間違っていたのか、アゲハはわかりたくもない。
出利葉に自害されて呆然としているヒカゲから、アゲハは距離を取りそのまま逃走した。
「クソ兄貴。絶対に殺してやる」
今までは、血のつながった兄のことを死ねばいいと思っていた。死んでくれたら嬉しいし、誰か殺してくれたらなお嬉しい。その程度の感情だった。
嫌っている。憎んでいる。理解している。けど、そこにあった感情に本物の殺意はなかった――今までは。
*
満たされない心を満たしてくれるかもしれないと歓喜した結果は、普段以上に満たされることがなかった。
つまらなかった。気分が落ち込んだ。ヒカゲは死んでいる男の死体を回収してもらうために、那由多を呼びよせた。
「てめぇが怪我しているなんて珍しいな」
「うん」
「で、てめぇが自殺を許すのもめず……まあ珍しいな」
「うん」
気分が晴れなかったので、那由多を待たずに簡単な怪我の手当を済ませて事務所に戻ることにした。那由多のダウンジャケットを奪う。
「おいてめぇ、オレが寒いだろ。つーか手伝え」
「僕の怪我、一目についたら怪しまれるだろ。あと身体痛いからヤダ」
「ふざけんな!」
抗議と罵声を無視して、ゆったり歩きながら事務所へ戻る。身体の痛みはもう高揚感などなくただ痛いだけだ。
「そういや、いつの間にかアゲハがいなかったな……まあいいか。同じ顔殺したって仕方ないし」
イサナが待つ事務所へ戻り、パンケーキを堪能しよう。
ヒカゲが事務所へ戻ったのを、イサナが出迎えてくれた。
肩で切りそろえられた茶髪に、端正な顔立ち。滑かな肌。くっきりとした瞼。暖かさのない瞳。美女の言葉を網羅するような、目を引く長身の女性。見慣れた美女にヒカゲは安らぐ。
「おかえりなさい。早かったですね、遊ばなかったのですか?」
「遊びたかった。久々に満喫できると思ったんだけど、自害された」
ヒカゲがダウンジャケットを脱ぐと、スーツの一部が破けている。それを見たイサナがまた珍しそうにした。
「強かったのですね、出利葉さん」
「えっと、あいつの名前は出利葉だっけ?」
「出利葉さんですね」
「そう。強かった。ここまで傷つけられるとは想定外だ。痛いの嫌いなんだけどなー」
「今まで散々人を甚振って楽しんでいる人が何を言っているのですか」
「……最近の、満たされない気持ちを、満たしてくれると思ったのに、自害されるとは思わなかった。ああ、そうだイサナ」
「なんですか? 帰りが早かったからまだパンケーキできていないのですが」
「出利葉は僕がかつて殺し損ねた男? じゃなかった」
「……そうだったのですか。まああの推理雑でしたもんね」
「雑というな。あのビルで手当一応したけどもう一度鏡で傷見ながら手当してくる。終わったらパンケーキ食べられる?」
「ええ。ちょうどよく完成すると思います」
ヒカゲは洗面所で、服を脱ぐ。思った以上に切り傷が酷い。これは身体も痛いはずだと納得しながら、包帯を取り換える。血を少し流しすぎたようでくらくらとするが、倒れるほどではない。
パンケーキを食べたら元気になる。
籠から着替えのスーツを取り出す。アルカがいなければ事務所で寝たいところだが、自宅ではアルカが帰りを待っていてくれる。帰らない選択肢はない。アルカを思うと胸が暖かくなった。
シャツを羽織る。腕が痛い。ネクタイは省略した。お団子の髪は解いて三つ編みにする。
リビングへ戻るとイサナのお手製スペシャルパンケーキがテーブルを支配していた。
「やった!」
イチゴと生クリームがたっぷりの柔らかでふわふわのパンケーキは、色鮮やかで可愛らしくデコレーションがされている。とびっきり美味しそうだ。
「どうです? 私の無償の優しさ。まあ残業手当はいただきますけど」
「有償じゃん。えへへ、楽しみだ」
「そうでしょう。自慢の一品です。イチゴ牛乳と一緒にどうぞ」
仕上げだ、とばかりにパンケーキと同じ色合いのイチゴ牛乳が透明なグラスに入って出された。
「うん。いただきます」
まずは乾いた喉を潤そうと、ガラスコップを持ち口に運ぶ。苺の香りが芳醇に漂ってきて幸せな気持ちになりながら口に含む。
苺牛乳の味わいが舌に伝わり――そして、ヒカゲはグラスを落とした。
猛烈な睡魔が、身体を支配し動きを取らせない。麻痺したかのように身体も脳も動かない。
驚愕の瞳がかろうじて、冷淡な表情を向けるイサナを捉えた。
「イサナ……お前……」
最後まで言葉を発することなく倒れた。
「おやすみなさい。ヒカゲ」
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